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<今週の説教要旨>

9/18 「傍らに立つ」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録4章5~22節 

<権力者たちは思いもよらず…>

ペトロとヨハネは最高法院で尋問されます。生まれつき足の不自由な男性を癒されたということは、尋常ではない力が働いたとみなさざるを得ませんでした。一体この癒しを、ペトロとヨハネが「なんの権威」で、「誰の名」によって行ったのか、ということが問題にされたのです。

この尋問から続く今日の場面には、多くの支配者たちが、たった二人に圧力をかけ、二人をあなどり、数に任せて小さな声を黙らせ、ひねりつぶそうと権力を振りかざす意図を感じます。被告をぐるりと囲んで二人が文字も知らない、無学な者とあなどります。「お前たちは」(7)という使い方には、「え?あんたたちみたいな者が?」というニュアンスも感じます。さらには彼らを罪に定めることが出来なくて釈放する時、イエスの名によって話したり教えたりすることを禁じ、脅しをかけます。世の権力者は、つとにそうやって地から湧き上がる小さな声をかき消し、踏みつけ、なかったことにして自分たちのやり方を押し通し、自分たちの支配を安泰に導こうとしてきました。

ところが、彼らはあてがはずれます。文字も知らない無教養な者とみなしたペトロとヨハネは、最高法院の場で大胆に堂々とイエスさまは救い主であることを証しし始めます。この病人が癒されて今立っているのは、イエス・キリストの名、イエス・キリストの力によるのであり、そのイエスはあなたがたが十字架につけて殺し、神が復活させられたのだ。この名以外に救いはない。このようにペトロたちは大胆にイエスさまを証しし、イエスさまの元に立ち帰って救われるようにと語ります。

 

<聖霊により>

このペトロたちの大胆なメッセージは、「ペトロは聖霊に満たされて」(8)とあるように、イエスさまはかつて弟子たちに聖霊の助けを約束したことに依ります(ルカ12:11~12)。ペトロたち自身の力ではなく、聖霊なる神が助けて下さることにより、ペトロたちは権力に負けず、堂々とイエスさまを宣べ伝え、議会の脅しに対しては、それをはねのけることが出来ました(19)。生きて働いておられる神さまが、守って下さり、二人を働き人へと召してくださるのです。

 

<傍らに立つ>

さて、ペトロとヨハネのそばには、足を癒された男性本人も糾弾され、押しつぶされる側として、傍らに立っていました。足が癒されたことに大喜びし、躍り上がって歩き回り、神を賛美し、二人に付きまとって離れようとしなかったこの男性は、今は黙って二人の傍らに立っています。

彼が「立っている」こと自体が、驚くべき癒しの業が働いた証拠でした。沈黙し、ただ二人のそばに立っているひとりの男性は、その姿により主を証ししていました。その無言の証しによって、最高法院の権力者たちは黙らざるを得ませんでした。無力化された権力者たちの姿が描かれます。

19節「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」というペトロとヨハネの言葉には、神さまの正しさに従う、という決意が現れています。その傍らには、イエス・キリストの名によって癒された40歳を超える男性が立っていました。物のように日々運ばれ、神殿の門のそばに置かれて物乞いをしていた男性が、これでもう一生を終えてしまうのかと思うようなときに至って癒され、社会生活を獲得し、人格的な人生を送ろうとしているのです。この癒しのできごとは、1人の人物の、人間性の回復の出来事でした。神から、一人の人間として扱われ、目を注がれ、その愛を受けたこの男性は、どんな権力にも屈さず、多勢に無勢に見えるペトロとヨハネの傍らに立ちました。

そして、逆に言えば、またペトロとヨハネも、神の力の働いたこの男性の傍らに立ち続けたのです。たとえ自分たちをかき消してしまうような力を前にしても、自分たちは「一人の命を大切にし、慈しみ、回復させてくださる神の側に立つ」という意思表示でした。

私は、あなたは、誰の傍らに立っているでしょうか。そして私やあなたの傍らに、誰が立ってくれているでしょうか。新たな一週、命の源である神の前に正しく歩むことが出来ますように。

 

 

 

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