3/28 「 その手の内 」 ヨブ記42章1~17節 川内裕子 牧師

<神は嵐の中から>

受難節ずっと読んできたヨブ記、38章から沈黙していた神が語り始める場面は、押し寄せる音楽の様に圧倒的です。主は「嵐の中から」(38:1)ヨブに応えました。神が語ったのは、ヨブや3人の友人が語ったのとは違う神のイメージです。

ヨブは、裕福な人望ある主人として人々を庇護する、というこれまでの自分の正しい生き方に対して神は正当に自分を評価して下さるはずだし、そうではなく災いが自分の身に降りかかるということは、神が自分に不当な仕打ちをしているのだ、と考えます。3人の友人は、ヨブが災いを受けたならば、ヨブが不正を行い、神から裁きを受けているのだと判断するのです。両者の神のイメージは、優れた人間のリーダーの延長のイメージです。人々が正義を行うように監視し、不正には裁きをもって行うというイメージです

一方38章から神様がご自身を語ったのは、おつくりになった世界の躍動感あふれる命のほとばしりでした。なにも人間だけが神の創造の業ではないのです。神様の壮大な被造世界の中の一部として人間も生かされているのです。人中心に神様をとらえていたヨブ達は、神からの視点でとらえなおすことを迫られます。

 

<ヨブの思い返し>

神の声に迫られヨブは「悔い改めます」と告白します。ここは自分の罪を悔い改める、という意味ではなくて、思い返す、とか考えなおすとかいう意味になると思います。これまで、自分の思いに固執していた殻を突き崩され、神様の大きな創造の業の枠内で自分と神様の関係をとらえなおそうとしているのです。

今まで自分だけが理不尽な苦難の中にはじき出されていると考えていましたが、神から問われるという体験を通して、その苦難の状態もまた主のみ手の中にあることを知ります。耳で聞き、頭で知識として知っていたことを体験したことは、ヨブに変容をもたらします。神の支配のもとにあるという安心感の中で、ヨブは自分の苦難をとらえ直すことができるのです。

3人の友人は神の代弁者のように振る舞い、ヨブを責め立ててきました。しかし神は、その3人の言葉が的外れであり、むしろヨブの方が正しく語ったと3人に怒ります。そしてヨブをとりなし手として用いられるのです。ヨブがとりなし祈った時に神は祝福を与えてくださいました。友人とヨブ、友人のために神へとりなしていくという関係性の回復があってはじめて、ヨブは新しくスタートすることができるのです。

 

<その手の内>

神はヨブの境遇を元に戻し、財産を2倍にしました。1章に記されていた家畜の数がそれぞれ2倍になっています。

それだけでなく、最初の失われた息子7人と娘3人と同じ人数の、7人の息子と3人の娘も与えられます。新たに与えられた子どもたちは2倍ではありません。私は先の子どもたちの地上の命は死んで取り去られても、その存在の命は続いていることを示しているのではないかと思います。

私たちの目に見える生も、わたしたちが今見ることのできない死の世界も、神の支配のもとにあることを示しているのではないでしょうか。最初に与えられていた10人ともう10人と、あわせて2倍の祝福を神は与えたのではと思います。

今日の招詞はマタイ2754節、イエスさまが十字架にかけられ、息を引き取られた時、百人隊長たちはその出来事を見て「本当にこの人は神の子だった」と言います。生も死も支配し、ご自身の御手の内に置かれているという神の業を見たのです。

ヨブにもまた、生も死も司っておられる神が、死んでしまった愛する10人の子どもたちも、主の御手の内にあることを示されたのではないでしょうか。

神との和解を得た時に、ヨブは苦しみの意味を問う生き方ではなく、苦しみの中で神に問われながら新たに神を理解し、その理解の中で苦しみを受け止める生き方に導かれてゆきます。私たち一人一人を主の贖いにつなぎとめてくださったイエス様の十字架を覚え、この一週間を過ごしましょう。

 

 

 

3/21 「 その一歩 」 ヨブ記32章1~14節 川内裕子 牧師

<神が人に与える知恵>

ヨブは思いのたけを語りつくし、3人の友もヨブにかける言葉もなく、膠着状態に陥った時、突然エリフが登場します。若輩者だからと言葉を控えていたエリフは、怒りを発します。ヨブに対しては、神より自分が正しいと主張していることを、3人の友に対しては、ヨブに罪があることを適切に論証できなかったことを。

エリフは彼らに、あなたがたには神様からの霊が与えられているはずで、その聖霊があなたたちに悟りを与えるはずだというのです。彼の言葉は、人が神から霊を受けていることそのものについて目を向けさせます。人は、神の霊を頂いている存在なのだと言います。

神の霊を頂くとは、神からの信頼を頂くことです。人が行うことは神にとっては未熟なことかもしれませんが、神は人にご自身の息を吹き込み、霊を与え、人の自由な選択や思いによって世の中が紡がれていることを許しておられます。ですから人も神の霊に信頼し、エリフのように関わり続け、言葉にしていくことをあきらめないことが求められているといえるでしょう。

 

<共に神に向き合う>

ヨブと3人の友の間には、2章でも沈黙がありました。その沈黙は、ヨブのあまりにもみじめな有様に、慰める言葉も見つからない3人の友が、77晩ヨブと共に地面に座って苦しみを共にした沈黙です。

しかし、その時の沈黙と今回の沈黙とは違います。3人の友に対してエリフが「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』(32:13)」と言うな」と言います。この意味するところは、ヨブを説得するのは人間には無理だから、後は神様に任せようと自分の手に負えないことを神の介入の言い訳として関わりをやめてしまうことであり、そのことをエリフはいさめています。

人間同士の関わりの関係を切ってしまう事は、人に信頼して霊を与えて下さった神との関係を切ることにもなります。正しさの基準を自分においてしまえば、ヨブが正しいか、3人の友人が正しいかという二者択一になってしまいます。けれどもエリフは正しさを自分にではなく神に置きます。エリフの言葉によって、ヨブと友人たちがお互いに向かい合って対立していた視線が、同じ神の方を向いて並ぶこととなりました。

 

<その一歩>

今日の招詞は、マタイによる福音書26章からイエス様がゲッセマネの園で祈りの時を持った時の場面から読んでいただきました。ご自身の迫りくる十字架の時を前にして苦しみ、神に訴え、それでも神の御心を優先し、何回も何回も必死に祈ったイエスさまは、弟子たちに一緒に目を覚まして祈っていて欲しいを願われました。しかし彼らは眠くて一緒に起きていることができません。

神の御心が行われ、神が苦しんでおられるときに、弟子たちの様に私たちもまた共に目を覚ましていることが求められています。祈ることはおろか、目を覚ましていることもできない弟子たちと同じように、私たちは弱いものです。けれどイエス様は御自身と共にいることを願い求めておられます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

 

神任せにせず、私と共にあなたのできることをせよ、と「その一歩」を歩むことを呼び掛けられています。

 

3/14 「 風に押し出されて 」 ヨブ記26章1~14節 川内裕子 牧師

<神の道の一端>

受難節第5主日を迎えました。イエス・キリストの受難の時、十字架の時を覚えながら、私達自身とこの世が、罪の暗闇に覆われていることを覚え、悔い改めの時を過ごしています。

今日の聖書の箇所は25章のビルダドにヨブが答えてゆく箇所です。5節から14節には、神による世界の創造の業が壮大な描写で語られます。しかしこれは神の働きの一部でしかないし、それでさえ私たちには捉えがたい大きさがあるとヨブは言います。

先週の11日には、東日本大震災が起こって10年の時を迎えました。回復と復興へのたゆみない歩みを振り返ると共に、人間の力ではいかんともしがたい自然の脅威を思い知ります。そしてその自然を司っておられる神様の慮りがいかにあるのか、やはり私たちには知りえないという、私たちの無力さを思い知ります。

 

<あなたは誰によって立っているのか>

25章でビルダドは、神の力強い支配を語り、それに対しての人間の卑小さを語りました。ヨブはそれをその通りと受けて神の創造の業を語り、ビルダドに「では、あなたはどうなの?」と問うのです(24節)。

ヨブの不幸は、ヨブ自身の罪による、神の裁きだとビルダド達3人の友人たちは語りました。それと同時に、神が正しいのだから、と神の絶対性をも語ります。ヨブはそれを受けて、ではあなたは、神の正しさを認めながら、どこに立って誰に何を語り、行っているのか、と問います。あなたのしていることは、神の正しさを声高に語りながら、力のない者を断罪し、切り捨てているだけではないかと問うています。

 

<彼女はイエスを王として>

今日の招詞はマタイ261213節、食事の席についていたイエス様の頭に、ある女性が香油を注ぎかけた場面です。弟子たちは「貧しい人々に施すことができたのに」と彼女の行為を無駄遣いだと怒ります。しかしイエス様は「この人は私に香油を注いで葬りの準備をしてくれた。」と彼女の行為を肯定します。葬りの準備、とイエス様は語りますが、一方で頭に油を注ぐという行為は、注がれた人を王として認める、という行為でもあります。この女性は、イエス様を王として認め、油を注いだのです。イエスさまは弟子たちの言葉をとらえ「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」と語ります。あなたがたはいつでも貧しい人々と共におり、それらの人々に必要なことができるということです。

この女性は、イエス様を貧しさと共に生きてくださる王として認め、自分たちの働きを示していったのです。イエス様が貧しく、弱い者と共に生き、ただしさと公平を回復して下さるためにおいでになったこと、そのための王としておいでになったことが公に宣言されているのです。

口だけで「貧しい人にほどこせば…」といっていた弟子たちも、それらの人々と共に歩んで下さった王なるイエス様と歩むという生き方に導かれていきます。

 

<風に押し出されて>

ヨブはビルダドに誰のことばを取り次いでいるのか、だれの息吹があなたを動かすのかと問います。「息吹」は「風」。神様の聖霊の息吹です。

私たちは神様の聖霊の風に押し出されて、イエス様を王とする弟子として連なるべきではないでしょうか。世のただ中においでくださった主の御言葉を受け、主の息吹に押し出されて委ねられた働きに立ちましょう。

 

 

 

3/7 「 うねり とぎれず 」 ヨブ記16章9~22節 川内裕子 牧師

<ヨブの訴え>

今日は受難節第3主日。イエス様の十字架の受難を覚えて歩む日々を過ごしています。聖書日課はヨブ記を読み進め、一人の人の受難の道のりをたどっています。神から「無垢な正しい人」と評されたヨブが、神の許可の元にサタンによって撃たれ、愛する者を失い、財産をなくし、体に病を抱え、親しい友からなじられる…、そのようなヨブ記を読み進めています。

 今日は友人エリファズの、ヨブに非があったため、神からの裁きを受けたのではないか、という言葉に対してヨブが答える場面です。友人の言葉にヨブが答えるという形をとっていますが、ヨブの言葉は、直接友人に向けられたり、自分に苦難を与えられた神に向けられたり、その彼の言葉の行き先は行ったり来たりします。ヨブの嘆きと憤りと、悲しみのやりどころのなさを表しているかのようです。

 神がヨブを撃つさまが語られます。そしてその様子を見て、人々がヨブを神から見放され、罰を受けた者としてあざける様子が語られます(914節)。ヨブはそれによって身も心も打ち破られ、人としての尊厳ももぎ取られてしまいます(1516節)。

 17節~22節は、そのような状態の中にあって、ヨブの訴えがなされます。自分の内に神に対する不法はなく(17)、私の抗議が永遠にとどまるようにと訴え(18)、それにも関わらず、私をとりなしてくださる主なる神がおられると主に対する信頼を語り(1921)、もはや私の死は近い(22)といいます。

ヨブの訴えは変わりません。自分は神に正しく従ってきた、私は主の前に後ろ暗いことはない。しかし自分を裁くのは主であり、自分を撃たれるのも主、そして自分の正しさを認めてくださり、弁護して下さるのも主であると語るのです。

 

<義(ただ)しさの実現を求める>

私はこの間、ヨブ記を読みながらずっとミャンマーのことを思い浮かべています。21日に軍がクーデターを起こし、多くの人々を拘束し、選挙で正当に選ばれた政権が違法であるとしました。国民はそれに対して非暴力の抵抗を続けています。デモを行い、不服従抵抗運動(CDM)をし、軍の命令には従わない、という意思を表しています。それに対する軍や警察の弾圧は日に日に過激になり、無抵抗の人々が鉄の棒で激しく殴られ、武器を持たない人々に実弾や催涙弾を打ち込み、亡くなる方やけがをする方々が出ています。不服従抵抗運動に加わった人々の家には、夜間、警察によって家に投石されたり、逮捕されたりすることも行われています。それでも人々は、もう決して暴力と恐怖で支配される世界には戻らないと決意をし、声を上げ、世界に助けを求めています。

 

<うねり とぎれず>

  イザヤ書には「苦難のしもべの歌」とも言われる部分があります。その中でイザヤ書534節では、私たちの罪を負った彼のことを、人々は彼自身の罪によってうたれたのであり、自分とは何の関係もないと見なしています。

 

 イエス様の受難と十字架の贖いの似姿がここに現れています。世界の、ミャンマーでの出来事は、私たちにとっては遠い出来事なのでしょうか。そこに共に苦しんでくださっている主がおられるのではないでしょうか。主の助けを決してあきらめず、祈りつつ非暴力で抵抗する彼らの姿に、ヨブの姿が重なります。そのうねりはとぎれることはありません。共に心を合わせて歩みましょう。

 

2/28 「 審判 」 ヨブ記13章1~19節 川内活也 牧師

ヨブ記のテーマ

ヨブ記のメインテーマは「審判者は誰か?」という1点に尽きます。もちろん「可哀想なヨブ」であったり「告発者サタン」であったり「友人たち」であったりと、それぞれの言葉から知り得る真理もありますが、メインテーマは「真の審判者は誰か?」について伝える書物です。

告発者から審判員へ

先週は神の御前での告発者サタンの姿から、私たち自身も「告発者・断罪と懲罰を訴え出る者」となる罪の性質を学びました。ヨブ記は3章のヨブの嘆きを経て、4章から様相が変わります。ここからヨブ記のメインテーマ「審判者は誰か?」という展開になっていきます。

友人たち

ヨブの友人たちはヨブに対し語りかけますが、その内容は「あなたは罪によって神の裁きを受けているのだ」という忠告です。的外れな断罪と悔い改めの勧めが続くことで、ヨブは苛立ちを覚えます。

ヨブ

13章の冒頭部で、ヨブはその苛立ちを爆発させます。友人たちが語る判定の言葉に対し「そんなことは知っている!」と声を荒げました。そして、自分がいかに「正しい者」であるかの主張を続けます。ヨブ自身も審判者となり、18節にあるように「わたしが正しいのだ!」という審判を下します。

因果応報

友人たちもヨブも、罪を犯した者だけが苦しみを受け、正しい人は苦しみを受けるはずが無いという「因果応報論」を裁定基準にして審判を下し合っているのです。因果応報のルール上には御利益論が生じます。人間の損得勘定中心のルールの中で激論が続いているのです。

罪の支配の中で

「罪の支配の中」に在って、人間の損得勘定中心のルールというものは、正しいルール・基準とは成り得ません。罪の支配の中で死と滅びに向かう世の基準、自己正義のルールブックで人を裁き、自分を裁き、世界を裁き、「わたしは知っている、わたしが正しいのだ!」と歩んでいる人間の姿がここで示されているのです。

正しい審判者

しかし、審判は主なる神さまの主権に在ります(詩編50:6)。罪の世の、罪の性質に満ちた、罪人のルールブックではなく、主権者なる神のルールに聞き従うことが福音を受けた信仰者の歩みです。

従うべきルール

 

従うべきルールブックはイエスさまにより明らかに示されました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)このルールに従って、私達は与えられている日々を歩むようにと勧められているのです。このルールに従う時、私達は互いの告発者となることはありません。また「わたしが正しいのだ」という審判者にもなりません。審判を仰ぐべきは自らの義でも、罪の世が生む価値基準でも無く、正しく裁かれる主なる神ご自身なのです。日々、共に歩まれる正しい審判者である方に祈り尋ねつつ、与えられている人生という競技に取り組みましょう。走るべき道のりを走り終える時、まことの正しい審判者である神が、義の栄冠を備えて下さっているのです。

 

2/21 「 訴える者 」 ヨブ記2章1~10節 川内活也 牧師

受難節第一主日

今年のイースターは4月4日となっています。主の復活を記念するその日を迎える46日前から、教会歴では「受難節(レント)」を覚えて歩みます。先週2月17日がレント開始となる「灰の水曜日」でした。昨年は丁度このレント開始週に北海道独自の緊急事態宣言が発令されましたが、1年が経ってもまだ新型コロナウイルスによる社会混乱が続いています。一日も早い収束を願い祈る日々です。

ヨブの試練

ヨブはアブラハムと同時期の「族長時代」の人物、またはモーセの義父イテロと同時代の人物などと言われていますが定かではありません。ただ言えることは、「正しい人」であったにもかかわらず、2章までの間、彼の身に起こった様々な不幸は、あまりにも悲惨な出来事であったということです。「最悪だ」と呟く直後にさらに悪い事が、そしてもっと辛い事が次々とヨブの身には起こります。

訴える者

ヨブの身に起こった数々の不幸は、サタンによりもたらされたと書かれています。サタンの訴えを受け入れ、ヨブへの試練を神様が認められた様子が描かれていますが、霊的世界の出来事ですので実際はどのようなやり取りだったかは分かりません。今日はサタン・悪魔の性質が「訴える者」であるという点に注目したいと思います。

滅ぼすための訴え

黙示録12章10節で、サタンは『昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者』であることを知ります。この事から2つの事が分かります。1つは「神の許し(許可)」が無ければサタンは何も出来ないこと。もう1つは「常にサタンは人の不義を告発し続けている」ことです。告発する者・サタンは、人を滅ぼすために神に訴える者です。しかし、神は、人を死と滅びに明け渡すためではなく、贖いのいのちへと招くためにその訴えを取り扱われるのです。

罪の性質

神との交わりから断たれた存在である人間は、罪の誘惑者であるサタンの訴えに晒されているだけでなく、自らもサタンと同じ「訴える者」となる罪の性質を持ちます。誰かに対する死と滅び、刑罰を求める訴えは罪の性質の中から滲み出して来るものです。その罪から、私達は離れるべきでしょう。

訴えるべき方

では、法治社会における裁判に限らず、私達は何も、誰にも訴えてはならないのでしょうか?そうではありません。「サタンのような告発者」とならないこと、すなわち、死と滅びと刑罰を求める告発者ではなく、神の義の中でいのちと平安を求める告発者となることが大事です。いのちを得させるために招かれる神さまに、私達もまたいのちを得るために訴える者、執り成しの祈り人として、新たな一週へと歩み出しましょう!

 

 

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。 しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。 (詩編130:3~4)

 

2/14 「 この地で御心を尋ね求め 」 哀歌3章19~33節 川内活也 牧師

哀歌

大預言書の間に挟まれるように置かれている『哀歌』ですので、見逃しがちな書ですね。タイトルも「哀しみの歌」ですから、どこかネガティブなイメージを抱いてしまいます。そしてその内容も、実に大部分が嘆きの歌となっています。

エレミヤの哀歌

『哀歌』は「エレミヤの哀歌」とも呼ばれるように、著者は預言者エレミヤに帰せられています。エルサレムの滅亡を預言したことで人々から虐げられた「哀しみの預言者エレミヤ」が、預言通りにエルサレムの都市と神殿が滅亡する様子、バビロン捕囚の出来事を嘆いた歌とされています。そのため、エレミヤ書に続く形で聖書に収められています。これでもう『哀歌』の場所は覚えられましたね。

ああ、なにゆえ……

哀歌は日本風に言えば「あいうえお作文」のような書式の詩です。1,2,4章は各節初めの一文字にヘブライ語のアルファベットが充てられています。3章だけは3節毎の初めの一文字がアルファベット順です。1,2,4章は全て冒頭が同じ言葉で始められています。それは「ハーラー」という言葉で、「ああ……」「なにゆえ……」という嘆きの言葉に訳されています。『哀歌』とは、エレミヤが自分の人生の全てをかけて主の預言を民に伝えたのに、聞き従わなかった王や民の罪により招いてしまった、見るも無残なエルサレム滅亡の現状を目の当たりにして、嘆き哀しむ言葉が大部分を占める詩なのです。

希望の預言

嘆きと悲しみ、後悔と絶望が大部分を占める『哀歌』ですが、しかしこの哀しみの闇の中にも希望の約束、救いの光が当てられています。それが、他の章とは構成の違う3章、今日共にお読みした箇所です。それはまるで、重くのしかかる鉛色の雨雲の隙間から射し込む一筋の陽の光のような希望です。全地を覆うような黒雲であっても、天には輝く陽がある事を告げる一筋の光のように、この絶望的なバビロン捕囚の闇の中に在っても、主なる神さまの救いの希望が、変わらずに約束されていることを知らせる一文の預言です。

主に望みを抱く

苦汁と欠乏の中に歩んだ時にも神の助けが与えられたこと。死と滅びへと引き立てる罪の縄目からさえ、主が救い出して下さったこと。主の良くして下さった事を思い出し、忘れることなく心に刻みつける時『わたしの魂は沈みこんでいても、再び心を励まし、なお待ち望む』という信仰の告白へと導かれていくのです。『主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる』(25節)のです。

この地で御心を尋ね求め

今、自分が歩んでいるこの地において、時に荒野の試練のような、捕囚の苦しみのような悩み悲しみに襲われる日があるかも知れません。しかし、神さまの御心は人が苦しみ悩む事ではなく、キリストの十字架に現わされた神の愛の内に、罪を悔い改めて立ち上がり、御旨の内に幸いへと歩み出すことです。主の御心を日々尋ね求めつつ、新しい一週へと歩み出しましょう!

 

『わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』エゼキエル18:32

 

2/7 「 主と交われば 」 詩編144編1-9節 川内活也 牧師

勝利と賛美の詩

詩編144編はダビデによる『勝利と賛美の詩』です。前の143編を見ると、この『勝利』がいかに大きな喜びであるかが分かります(143:3,4)。

神を知る信仰

ダビデの信仰は幼少の頃から一貫して「主こそ神」の信仰です。天地万物の創り主である神、奴隷の地エジプトから導かれた主、圧倒的な勝利者であり、絶対的な主権者である神を畏れる信仰に立って歩みました。

神に知られている信仰

そのような神御自身との関係をダビデはどのように受け止めていたでしょうか?大いなる方を遠くに思わず、傍らにおられる方であるとの確信に立って歩みました。消え去る影のような息にも似た存在でしかない人間……弱く・小さく・塵にも等しい人間を、しかし神は親しく知って下さる方であると信じる信仰が、ダビデの信仰者としての告白です。

高ぶる事無く

ダビデは自らを強者だとは考えませんでした。それは当然です。敵と向き合う時には恐怖を覚え、追われれば恐れ隠れ、様々な問題の中で打ちひしがれて倒れる日々も度々経験したからです。魂が絶望し、うなだれ、思い乱れる悩みの日を経験したダビデは、自らの弱さ・もろさを自覚していました。

第一歩

自らの弱さを、罪を、愚かさ・儚さを知る者は絶望の闇に包まれます。だから人は高ぶるかのように弱さを、罪を、愚かさ・儚さを認めようとせず、誤魔化し、言い訳し、隠そうとするのです。これがアダムとエバ以来の人間の姿です。でもそこには勝利も平安も無く、ただ、死と滅びへの道しか無いのです。自らの罪を、弱さを、愚かさ・儚さを認めることが救いへの第一歩なのです。

主と交われば

自らを知る事、そして主を知る事、そして、主に知られている事を知る事。この3つが合わさる時、主との交わりに結ばれる祈りの信仰が生じます。その時、143編の絶望的な悩みは、144編の勝利と賛美の詩へと変えられていくのです。

私は何者でしょうか?

自らを顧みる時、私達は自分がどれほどの存在なのかを直視しないわけにはいきません。

そう。神の前に「私は救われて当然の、最良・最高の人間です」と胸を張って立つ事など誰も出来ないのです。にもかかわらず、消えゆく息、消え去る影のような私に、神は親しく御手を差し伸べ、思いやって下さっているのです。

祈りの交わり

親しく臨んで下さる主との交わりとは、祈りの交わりです。求める所を神に訴える声を、主は聞き留めて下さいます。新しく歩み出すこの一週、主との交わりに固く結ばれる祈りの日々の内を、共に歩みましょう。

 

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

ピリピ4章6~7節

 

1/31 「 まなざし深く 」 詩編139編1-24節 川内裕子 牧師

<あなたは「知っている」>

詩編139編の1~6節では、主が「知る」という言葉が多用され、更に「究める」「悟る」「見分ける」「通じる」の語を用いて、神が「わたし」(人間)について、行動のみならず、心の中の思いも、すべてを知っておられることが歌われます。また7節以降では、神はいかなる場所にもおられ、人がどこにいようとも、その存在が神に知られていることが歌われます。

 

<「わたし」は今>

 そのような主の全能性を歌いつつ、712節を読むときに、それは翻って、主への告発のように読むことができます。7~10節には、世界の果てに行っても主の御手から逃れることはできないと歌われます。それはすなわち「わたし」が世界の果て、周辺に追いやられたところにいる、ということです。1112節には闇にも打ち勝つ光である主がたたえられます。それはすなわち、「わたし」は闇の中にいる、ということです。

 「主よ、私は今世界の果てに追いやられている、闇の中を歩んでいる。そのことを、その苦しさを、主よ、あなたは知っていますよね!」という主の叫びが聞こえます。

 1922節には、「わたし」を取り巻く敵意と困難が伺えます。わたしたちの今の状態を映しているようです。病が蔓延し、苦しむ人々、経済的に困窮している人々、差別にさらされている人々…、様々な困難が世界中に広がっています。

 

<まなざし深く>

 打ちひしがれる現状の中にあってなお、1318節には、「わたし」は神に創られ、その人生が神の計画の元にあること、神に尊く扱われているという確信が歌われます。その確信に基づき、1922節には神へ窮状を訴える声があげられます。「わたし」は神に信頼して怒りの声を上げます。復讐は主に委ね、報復と裁きも主に委ねます。

 

 「主よ、あなたは知っているよね、私の現状を知っているよね。どうぞ救って下さい。」とまなざし深く見つめる主に信頼し、救いを求めて歩む日々でありますように。

 

1/24 「 恵みの座に 」 詩編133編1-3節 川内裕子 牧師

<兄弟が共に座る>

 詩編133編は、120編から続いてきた「都に上る歌」の一つです。この題詞に基づいて読むと、133編は人々が共に神殿で礼拝をささげる喜びに満ちた歌と読むことができます。今日はさらにこの詩編が私達にどのように響いているのか、読んでいきましょう。

 「兄弟」(1節)は文字通りの兄と弟、だけでなく、家族、同じイスラエルの民、共通の同じくするものを持っている者同士などとよむことができます。また、「共に座っている」(1節)の「座る」は、座る意だけでなく、住む、とどまるといった意味も持ちます。そうすると、「兄弟が共に座っている」状況とは、私たちがこのように礼拝に集まっていることだけでなく、家庭で、職場で、学校で、私たちの生の全領域において、つながる人々と共に住み、共に集まり、共に働いているという状況を示していると考えることができます。

 

<なんという恵み、なんという喜び>

そのように兄弟たちが共に座っている様子を、ここでは「なんという恵み」「なんという喜び」と歌います。「恵み」(トーブ)も 「喜び」(ナイーム)も、美しく、麗しい様子を表します。トーブは、創世記1章の神の創造の業で、神が創造されるたびに「神はそれを見てよしとされた」と一つ一つ言われたことを思い起こします。「よしとされた」は「トーブ」を使っています。神の目から見て、麗しい状態とされるというのです。

その恵みと喜びは、神からの祝福です。大祭司の任職の油が長く滴るような、イスラエルの北方ヘルモンの山に天から降りた露が大地を広く潤すように祝福が広がる様子が歌われます。

 

<恵みの座に>

 私たちにとって誰が「兄弟」であるか、という問いを私たちは頂きます。私たちの連盟から国際ミッションボランティアとして派遣されルワンダで働いておられる佐々木和之さんのお連れ合い、恵さんが主としてかかわっておられるウムチョ・ニャンザの働きがあります。虐殺被害者の女性たちと、加害者家族の女性たちが共にブックカバーなどの作品を作り働いておられます。「共に座る」ということすら困難に思えるような関係の中から、和解と癒しが起こされ、今は共に座り、共に生み出していくきょうだいへとかえられていっています。

 また「共に」の内実を問われます。オンラインでの礼拝をささげておられる方々も会堂に集われている方々も「共に」礼拝をささげている、ということを思います。

 招詞で「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)とイエス様が言われました。私たちの遣わされるところどこにでも、主は共におられ、私たちの隣人との共なる歩みを祝福してくださいます。主の恵みの座に、今週も招かれて歩みましょう。

 

 

1/17 「 夜も昼も ぐるり 」 詩編127編19-5節 川内裕子 牧師

<真ん中に主の働き>

詩編127編の12節には、家を建て、町を守り、パンを食べるという人々の行いが登場します。家を建てるとは、家庭を管理し、切り回すということ、町を守るとは、自分の置かれている共同体において自分の働きを担っていくこと、パンを食べるとは、文字通り日ごとの食べ物を手に入れるということです。いうなれば、ここには、人々の日常の生活が描かれています。

ところがこの日常が「むなしい」と3度繰り返されています。「むなしい(シャーウ)」とは、空虚なとか、無意味なとかいった意味になります。主ご自身がなさるのでなければ、それらの働きはむなしい、と語られます。

家を建てるのも、町を守るのも、日々の糧を得るのも、人間自身がする働きです。けれどもそこに主ご自身の関わりがなければ、それらの働きは無意味であるというのです。

主の働きがあると何が違うのでしょうか。ヒントは2節最後の「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」です。私たちは心の中に物思いがいっぱいの時には、安心して眠ることができません。眠りとは、休息であり、委ねです。自分の物思いを手放し、神に委ねる眠りの時を頂くことによって、私たちは回復を頂くのです。

 私たちが生きていくうえで必要な様々な働き、その働きも、主にまず委ね、その行動の真ん中に主の働きがなければ意味をなさない、とうたわれているのです。

 

<私たちは神に覚えられている>

 招詞に読んでいただいたマタイによる福音書6章25節は、飲み食いや着るものについて思い悩むなというイエス様の言葉です。これは飲み食い、着るものに苦労していない人々に語ったのではなく、その日の暮らしに事欠く人々に語られた言葉です。この一連のまとまりの最後34節は「その日の苦労は、その日だけで十分である」と結ばれます。苦労がなくなる、ということではないのです。今日も、明日も苦労がある。けれど一日ごとに苦労し、その一日を乗り越える歩みを、神が知っておられ、一緒に歩んで下さるという励ましたが語られるのです。あなたは、神に覚えられている、ということ、神に愛されているということをイエス様は語ります。

その神への信頼によって、私たちは生きる者とされていくのです。

 

夜も昼も ぐるり

 詩編127編に戻りましょう。35節は文字通りには祝福のあかしとして男子が与えられることを歌っています。けれども、それは神からの祝福の象徴です。私たちが、紡ぎ、つながり、生み出していくもの全てが、主から頂いた嗣業なのです。

 私たちから生み出されるどんな業も、主ご自身への委ねによって主がまず働いてくださっているのだ、という主の愛を信じ、委ねることによって、祝福へと変えられてゆきます。

 

何もかもを主に手放して眠る夜も、働きに立つ昼間も、私たちは、夜も昼も、ぐるりと神に囲まれ、守られているのです。

1/10 「 願い、届く 」 詩編119編169-176節 川内裕子 牧師

<律法賛歌>

 詩編119編は、ヘブライ文字アルファベットによる詩です。22文字のアルファベットから始まる節がそれぞれ8節ずつ、22×8176節の長い詩編となっています。この長い詩編は、一つのテーマによって歌われています。それは119編の1節が「いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。」と主の律法に生きることの喜びを告げて始まるように、「律法」をテーマとしています。176節の各節には、それぞれ「律法」を表す言葉が詠まれます。今日は119編の結びの部分、全てタウの文字から節が始まる169176節を皆さんと分かち合いますから、「律法」を表す言葉のバリエーションを見ますと、「御言葉」、「仰せ」、「掟」、「戒め」、「命令」、「律法」、「裁き」等が使われています。さて、この律法について、この詩編の詠み手「わたし」はどのように向かい合っているのでしょうか。

 

<律法に実現する主なる神>

順にみていきますと、自身の嘆きの叫びを、主の前にもっていきます(169)。「嘆願」(170)は、助けてほしい、という縋り付くような願いです。悲痛なうめきと叫びが漏れていた唇には、代わりに賛美とみ言葉が溢れます(171172)。救い出された喜びを歌うからです。主の助けは、主が手ずから私たちの手を引いてくださることによって実現しました(173)。主の助けの手を信じ選び取った私たちは、救われることをこい願い、切望します(174)。主の「裁き」は不公正をただし、打ちひしがれている者を回復させてくださるものでした。それによって「わたしの魂は命を得」、「主を賛美する」のです。

このように見てくると、119編は「律法」についてというより、律法を通してあらわされる主なる神の存在そのものをあらわしているようです。

 

<願い、届く>

詩編119編は小羊のように迷うわたしを探して下さいとの求めが最後に歌われます。ルカによる福音書には(マタイにも)100匹の羊を飼っている人が失われた1匹を探し求めるという、イエスの語るたとえ話が記されます。羊飼いはたった1匹がいなくなっても、血眼で探しにゆきます。羊たちを責任をもって預かっているからです。そして見つかったならば、大喜びで連れて帰り、近所の人々にその喜びを分かち合います。

神様の目から見て、私たち一人一人はその羊のように大切な存在なのです。ですから、主は私たちの手を引き、助け、必要な助言を与え、愛してくださいます。私たちもまた、小羊が羊飼いに従うように、主の手を選んで従います。

 

私たちの願いは、主に届きます。今、その時の私たちにふさわしいみ言葉によって私たちを養い導いてくださる主に従い、新たな一週を歩みましょう。

1/3 「 そこにいるのか 」 詩編113編1-9節 川内裕子 牧師

<この目であなたの救いを見た>

 今日の招詞は、ルカ福音書2章よりシメオンの賛美でした。エルサレム神殿で初子イエスを腕に抱き、シメオンは神を賛美しました。彼は信仰の篤い、正しい人で、イスラエルの慰められることを待ち望み、救い主に会うまでは死なない、と聖霊のお告げを受けていた人でした。

 まだ何の働きをすることもない、赤子を見て、シメオンは救いを確信します。先のみえない現状にあって、すでに救いを見た、と宣言する1年を歩みたいと思います。

 

<神が近づいてくださる>

詩編113編は114編と共に伝統的に過ぎ越しの食事の前に読まれる詩編です。114編にあるように、イスラエルの民が出エジプトして主に救われたことを主題としていることによります。113編はそんな主への賛美から始められます。45節には、主ご自身が高く超越された方であると、主の栄光の大きさがたたえられます。しかし113編において注目すべきは69節です。この世界を創られた方でありながら、低く降ってこられた、ということは、イエス様が人の子として受肉されたことを現します。そのことこそが、救いです。シメオンはこのように来られた幼子こそが救いであると確信したのだと思います。

この世に低く降ってこられた救い主は何をされたか。弱い者、乏しいものを塵芥の中から引き揚げてくださることでした。無力で、貧弱で、不十分な人々、圧迫され、虐げられ、困窮している人々を自由な人々の列において下さり、ここにあなたの場所はない、と言われている人々に場所を与えられ、人としての尊厳を回復する、そのように助けることが主のなさる業でした。

ここを読むときに、神こそが私たちに近づき、降りてきて、不足を補い、救ってくださるということを知ります。だから私たちは神に信頼するのです。

 

<そこにいるのか>

昨年11月に路上生活に追いやられ、バス停のベンチに座り夜を過ごしていた女性が、近所の男性から邪魔だからという理由で石を入れた袋で殴られ、殺されるという事件がおこりました。自分と他者の断絶を生む罪が顕在化していると思わされました。

そのような断絶を生む世界の中にありながら、つながって行こうとする出来事も起こります。ある教会では元旦に「大人食堂」として300食ほどのお弁当を準備して配布し、生活相談などを行ったということです。

低く降りてきて下さり、困窮し、虐げられている人々と共におられ、引き上げてくださる主に従う時、わたしたちはどう歩むでしょうか。わたしたちはどこに立つのでしょうか。私たちはいつも主にあなたはそこにいるのか、と問われ続けられています。主の深い愛に触れていただきながら、一年を歩んでいきましょう。

 

 

 

12/27 「 主に感謝をささげ 」 詩編107編1-16節 川内活也 牧師

年の終わりに

2020年最終の主日礼拝です。今年は新型コロナによる社会混乱に満ちた一年でした。しかし、この年の終わりに、もう一度私達は主の恵みに目を向けましょう。

 

詩編107編

今日与えられている詩編107編は神の救いを経験した者の感謝の詩です。大きく6つのブロックに分かれています。1~3節の「全般的賛美」に続き、4~9節の「導きに対する感謝」、10~16節の「解放に対する感謝」、17~22節の「癒しに対する感謝」、23~32節の「守りに対する感謝」の4つの感謝の詩があり、33~43節の「大いなる回復の御業への賛美」となっています。

 

感謝に結ばれ

前の中4つの「感謝の詩」には「苦難→叫び→助け→感謝」という共通の流れを見ることが出来ます。人は神の御前に傲慢な生きものです。それは罪の性質によるものです。神との断絶という「罪」により、人は簡単に神に背を向けて自分勝手な道へと向かってしまいます。しかし、その向かう先は「死と滅び」なのです。それゆえ、神は時に試練を通し、また、苦難を用いて、人を御自身へと向き直させ、いのちへの道へと引き戻されます。主への感謝により、主と結ばれるのです。

 

恵みを心に納め

107編の中心聖句は43節です。人は、主の恵み・主への感謝をすぐに忘れ、新たな悩み・新たな欲に目を向けてしまいがちです。だからこそ主の恵みを「心に納め、主の慈しみに目を注げ」と随所で勧められています(詩編103:2)。

 

喜びの存在

主は人を御自身の喜びの存在として生み出されました。人は神の愛を受ける器なのです。愛する者であるからこそ、主は御自身の身を割いてでも人を助けられるのです。その真理を信じる信仰の目が開かれる時、呟きは感謝に、絶望は希望に変えられていきます。信仰の目が開かれる時、神の恵みと慈しみへの感謝が溢れ出します。主に喜ばれ、主を喜ぶ者として歩み出すのです。

 

感謝と喜びの内に

この一年の終わりに、私達は、過ぎこし方をじっくりと振り返り、その出来事の一つ一つに心を納めましょう。主の良くして下さったことを何一つ忘れることなく日々数えるなら、そこに感謝は尽きないのです。新たな年を向ける今週、主への感謝の祈りの内に導かれ、新たなる希望への喜びに満たされ備えて歩み出しましょう。

 

 

12/20 「 受けた恵み・分かつ喜び 」 第一ヨハネ 4章7-21節 川内活也 牧師

クリスマス

クリスチャン人口1%未満と言われる日本ですが、クリスマスが「何の日か?」を全く知らない方もまた1%未満だそうです。多くの方が「イエス・キリスト誕生の祝日」と認識されています。ただ、語源的な意味では「クリスマス」はイエス様の誕生日という意味ではなく、ラテン語の「クリストゥス・ミサ(キリスト記念礼拝)」ですから「キリスト降誕を記念する礼拝」となります。「お誕生日おめでとう!」というお祝いでは無いのですね。

祝福を受けた者

誕生日のお祝いは「誕生者」が受けるものです。しかし、クリスマスのお祝いは誕生者であるイエス様ではなく「キリストを贈られた者達=全ての人々」が受ける祝福です。

どんな祝福なのか?

招詞のヨハネ3章16節を、マルチン・ルターは「聖書の中の聖書」と呼びましたが、この1節に神様の祝福が凝縮されていると言えます。「御子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るため」に、神様は、まさに三位一体である御自身を割き、御子キリストを世に贈られました。ヨハネは今日の箇所、4章9節において、これによって神の愛が私たちに示されたと語ります。私達に与えられた祝福とは、すなわち『神御自身の愛』なのです。

灯台下暗し

私は牧師家庭で生まれ育ちましたが、小学高学年で無神論・唯物主義に傾倒し、中学・高校時代には信仰生活から離れていました。やがて人生に失望し、自分という存在を空しく感じるようになりました。人は『愛である神』に似せて創造された存在です。なので愛に満たされて初めて潤いを得る存在です。当時の私は、魂がその愛に飢え渇いているのに、肉の欲の満たしばかりを追い求めていました。その結果、満たされない空しさに苦しんだのです。生まれる前から、神様の真の愛の傍に在りながら、その祝福の恵みを受け取らずに歩んでいたのです。

受けた恵み・分かつ喜び

空の器が神様の愛に一気に満たされる恵みを体験し、まず悔い改めが与えられ、喜びと感謝が湧き上がりました。愛を求めていた心の大地が潤された時、この喜びを宣べ伝える者とされたいと願う献身の召命が与えられました。それまでの人生は「自分が満たされる事」「自分が得ること」が喜びだと信じ歩んでいました。しかし、神の愛、その祝福に満たされた時、愛されることを求める渇望ではなく、愛することによる喜びを知る者とされたのです。

幸いなる者

受ける者より与える者のほうが幸いである(使徒20:35)。クリスマスの祝福は私達に与えられた神様の愛の注ぎです。その注がれた愛の喜びを分かち合う時、まことの幸いを味わう日々へと歩み出す者とされるのです。先ず、神様が与えて下さった『愛』を受け取り、満たされた時、そこから、受けた愛を注ぎ出す幸いなる喜びを味わう日々が始まるのです。

 

 

12/13 「 思い悩まず 」 マタイ 6章25-34節 川内活也 牧師

アドベント第三週

今年はコロナ対策の影響で、教会においても「集会」を広く呼び掛けることが難しい状況にあります。幸いなことにインターネットなどの普及により「情報」としての共有は出来ますが、やはり顔と顔を合わせて同じ空間で結ぶ交わりが早く再開される事を願います。

交わりの存在

創世記において、天地万物の創り主なる神さまは人を「御自身に似せて創造された」とあります。これは姿形のことではなく「三位一体の完全なる交わりに結ばれた存在=愛である神」の御本質を指します。つまり人の本質は愛であり、交わりの存在なのです。ですから神さまは「人が一人でいるのは良くない」と宣言され、アダムとエバという「交わりの存在」を生み出されたのです。

断絶

しかし、神さまの御本質に似る存在として生み出された人間は、罪の性質を負う存在となってしまいました。ここに神との断絶・人との断絶が生じてしまったのです。アダムとエバ以来、交わりの存在で在りながら断絶の存在として歩む「罪の人類史」が始まりました。

羊飼い

さて、旧約聖書において羊飼いは一般的な職業の一つでした。しかし新約聖書時代には「特殊な職業」と見られるようになっていました。律法学者やパリサイ人などが当時のユダヤ社会の「基準」を作っていましたので、1頭で10kg前後の草を毎日必要とする羊を牧するのですから、必然的に家畜の世話を日々欠かさず行わなければならない羊飼いらは「安息日を守れない者・汚れた者」と蔑まれていました。人口調査にも加わる必要の無い「人として数えられない人々」となっていたのです。

救いの告知

交わりを断ち切る、罪の性質に満ちた世にあって、価値無き者として社会から排除され、蔑まれた人々……そんな彼らのもとに、世界で初めの「福音」が宣べ伝えられました。ここに、神さまの救いの基準・交わりの基準を知ることが出来ます。人が作り出して来た断絶・分断・優劣・貧富などの基準を廃し、誰一人洩れることの無いように、もっとも低いとされていた人々に御手が差し入れられたのです。全てを引き寄せる底引き網のような救いの御手が差し出されたのです。

神の交わり

神さまはどのような基準で「交わりを結ぶ相手」を選ばれるのでしょうか?そこに性別や貧富や優劣は無いのです。罪の性質による断絶を生む存在となった人間の価値基準は全て、神さまの基準には含まれていません。神さまの愛する基準は「全ての者」です。全ての存在を神さまは愛おしく見ておられるのです。その差し出されている御手に、誰であっても自分自身の手を差し出すなら、神さまとの交わりに結ばれて生きる者とされるのです。

交わりに生きる

招きの言葉(ルカ2:20)で見たように、羊飼いたちは神を賛美し喜びの内に歩み出す者となりました。律法学者やパリサイ人、人々が作り出した判断基準・価値基準ではなく、主なる神さまの愛の御手と、その約束の交わりの内に歩み出したのです。神の国とその義を第一に求めよ。明日の事を思い悩むな。神御自身が共におられ、慮って下さる交わりに結ばれているという福音の事実に根差し、新たなる賛美の内に、与えられている日々へと歩み続けましょう!

 

12/6 「 解放の系図 」 マタイ 1章1-17節 川内活也 牧師

静まって原点に立つ

今年はコロナ混乱下社会でのアドベントとなりました。今までと違って何も出来ない、先行きが見えないと立ち尽くすのではなく、むしろ「立ち止まり、静まって、信仰の原点を見つめ直す」クリスマスを迎えましょう。

イエス・キリストの系図

マタイは福音書の冒頭に「イエス・キリストの系図」を書き記しました。家系図というのは自分のルーツを証明する履歴書のようなものです。しかし、このキリストの系図は「素晴らしい履歴」どころか死と滅びを示す「呪いの系図・罪の系図」と言えます。

忌み嫌われる人物名

この系図には、当時のユダヤ社会において、頭数にも数えられていなかった女性が4名も含まれています。この系図はユダヤ人達にとって「恥ずべき行為」を行ったユダとタマル、受け入れ難い「異邦人」のルツ、「遊女であり異邦人」であるラハブ、姦淫と殺人の罪を犯したダビデとバテシェバだけでなく、イスラエル王国を滅亡させた神への背信者マナセを初めとする悪王達の名も連ねられています。

呪いの系図

この系図は当時のユダヤ人達にとって罪を想起させる人物名に満ちています。まさに「罪の系図・黒歴史の系図」です。そればかりか、聖なる救い主メシヤの家系図として絶対に受け入れられない人物の名まで連なっていました。南ユダ王国第19代王のエホヤキン(エコンヤ/コンヤ)の名です。エレミヤ書22章24節以下で、神さまはこの人物の子孫から「ダビデの王座に座り、治める者は出ない」と宣言されています。まさに神の祝福から切り離された「呪いの系図」なのです。

解放の系図へ

この「呪いの系図」、死と滅びの宣言書は、しかし、キリストの誕生により「解放の系図」へといのちを得ます。マタイはイスラエルの「絶望的な死と滅びの系図」を冒頭に掲げ、しかしその囚われにあるイスラエルがキリストの誕生という「神の言葉」を受けることによって、いのちと祝福に結ばれたことを伝えています。

キリストの誕生により

コロナ問題が渦巻く今の社会状況の中に限らず、先行きに全く何の希望も見出せないような『呪いの系図』に囚われ、もう駄目だ、死と滅びに飲み込まれていくだけだと打ちひしがれ、倒れてしまっている者に、神さまは御言葉を通して解放の約束を与えて下さっています。キリストの降誕を記念するクリスマス。その救いの御業を喜び待ち望むアドベント第二週を、将来と希望の光の内に共に歩み出しましょう!

 

11/29 「 さきがけ 」 エゼキエル書 33章7-11節 川内裕子 牧師

<預言者の働き~「見張り」として~>

 今日の聖書の箇所では、エゼキエルの預言者としての働きが語られています。主はそれはイスラエルの民にとっての「見張り」だと言います。「見張り」は敵襲を砦から見張り、民に危機を知らせる役割です。民が生きるか死ぬかの、大切な役割を担います。

ここでは、神の声を見張り、民に伝えるのがその役割だとされています。神の言葉を聞き取り、それを伝えるか伝えないか、神の言葉を聞いた民がその言葉に従うか従わないかは、民の生きるか死ぬかという、命に関わることです。

預言者は、民が生きるか死ぬかについて、大きな責任を負っています。預言者の働きは「先駆け」です。神の言葉をまずキャッチし、他の人々に先駆けてそのみ言葉を語り、実践し、民を命へと導くのです。

 

<赦しと癒し>

今年度は、世界祈祷月間として働き人を覚え、祈りささげています。今日はルワンダのことを覚え、先ほど代表の方にお祈りをしていただきました。26年前にルワンダ国内で起こったジェノサイド(大虐殺)により、人々は大きな傷や痛みを負いつつ生きておられます。100日間で80~100万人もの方が殺されたといわれています。同じ村の中で、隣人同士が殺し、殺され、傷つけ、傷つけられるという出来事、ジェノサイド後も、共に同じ場所に生活せざるを得ないということ、そんな中で、佐々木和之さん、恵さんは和解と癒しのプロジェクト、平和を創り出す人々の教育、など多くの働きを担っています。

そんな中で、ご夫妻が関わっておられるウムチョ・ニャンザでの出来事を先日伺いました。メンバーの一人ベラジアさんのお連れ合いが、13年の服役を終えて自宅に帰られたというニュースです。私がとても心動かされたのは、ご夫妻が工房に顔を見せたとき、皆がそろって歓声を上げ、喜び迎えた、という出来事です。ウムチョ・ニャンザは虐殺被害者7名と加害者の妻7名が一緒に働いている工房です。加害者家族と被害者が共に生きる共同体において、共に喜ぶその光景は、赦しと癒しそのものを表していると思います。

罪を認め、告白し、謝罪をする者へと変えられてゆく加害者、そしてその謝罪を受け入れ、赦す者へと変えられてゆく被害者、両者が癒され、変えられてゆくところに赦し合う世界があります。

彼女たち/彼の姿は、私たちにとっての希望であり、光(ウムチョ)です。彼女たちの姿は、私たちにとってのさきがけです。

 

<立ち帰り~さきがけ>

 主は、立ち帰れ、と民に呼び掛けます。悪人が死ぬのを喜ばず、悪人が立ち帰って生きることを喜ばれます。生きよ!と私たちに呼び掛けてくださり、私たちを愛して下さる主なる神です。

 そのために独り子イエス様を遣わしてくださいました。アドベントのこの時、私たちもこの世にあって、見張りとして召され、歩み、赦しと回復の先駆けとして生きてゆきましょう。

 

 

11/22 「 なぜと問いたいときに 」 エゼキエル書 24章15-27節 川内裕子 牧師

<禁じられた嘆き>

 24章は、エルサレムが滅ぼされるに至る裁きの言葉が語られています。そんな中、エゼキエルは主から妻の死について、言葉を受けます。これはエルサレムの崩壊に重ねた主の預言ですが、エゼキエルにとっては個人的な苦しみの言葉でした。

「あなたの目の喜び」とはここでは彼の妻を表し、最もその人が大切にしている者のことを示す表現です。その妻が、一突然死ぬことを告げられ、主は続いて彼にその死を悼むことを禁じます。「泣く、嘆く」という類語が3度繰り返されます。3度の繰り返しは、主からの徹底的な、厳しい命令で、「決して泣くな」という戒めです。主からの言葉はさらに続きます。近しい者がなくなった時の当然の弔いの行動も行うことを禁じられます。

詳細にわたって妻の死を悼むことを禁じた主の言葉に比べ、エゼキエルの行動は簡潔に記されます。その言葉数はヘブライ語でたった10語です。そっけないほどに淡々と事実を時間軸に応じて並べられています。言葉にならないかみしめるようなエゼキエルの悲しみと嘆きがしみだしてくるようです。

 

<それは、しるし>

エゼキエルの行動は、人々の注目を集めます。預言者がこのように、普通ではありえない行動を行っていることは、何か意味があることに違いないと人々は考えます。この意味は我々にとって何の意味があるのか、と問われたとき、エゼキエルは口を開きます。

エゼキエルの行ったことは、人々にとってのしるしである、と。エゼキエルの目の喜びが取り去られたように、人々の目の喜びであったエルサレムは、そしてエルサレムに残してきた家族は滅ぼされてしまう。いつか帰ることができると信じているエルサレムの崩壊、主がおられると信じ、礼拝をささげてきた神殿が崩される、いつか会うことができると信じていた愛する家族たち、それらが根こそぎ取り去られ、将来にわたっての希望も無くなる、そのような絶望と悲嘆が預言されています。

 

<なぜと問いたいときに>

人々の、このことが我々にとってどんな意味があるか、という問いは、私には、他者への関わりを求める人々の問い、他者の悲嘆に心を傾け近寄っていく寄り添いに聞こえます。

エゼキエルは自分の妻の死に対して嘆き語ることを許されませんでしたが、人々にこれからの苦しみを語ることを通して、妻の死の悼みを重ねることができたのではないでしょうか。

エルサレム崩壊という希望のないように思える事態の中において、「わたしが主なる神であることをいるようになる」という主の言葉が語られます。これは、どんな苦しみ中にあっても、全てが主の御手の中にあるという宣言です。

 私たちには理不尽に思えるような状況の中にたとえあるとしても、それらも含め全て主の御手の中に置かれ、主は全てご存じであることを信じ、世において共に生きる人々にあなたの苦しみと悲しみは私にどうかかわりがあるかという問いを忘れずに、伴い歩んでいきましょう。

 

 

11/15 「 どこまでも、どこまでも 」 エゼキエル書 18章21-32節 川内裕子 牧師

<正しさも 罪も、その人自身のもの>

「先祖が酢いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く」。バビロン捕囚の時代、人々は、国が失われ、国民が他の国に捕囚となっていく困難の中で、自分たちがこんなひどい目にあっているのは、先祖が罪を犯したため、我々子孫がそのつけを払っているのだと言い合って辛い時期を過ごしていました。

そのような民に対し、主はそれは違う、と告げます。ある人の罪はその人のもの、あなた自身の状況は、あなた自身が招いていることだ、先祖のせいにしてはいけないと語ります。先祖のせいにする、とは、現状を自分のこととしてとらえず、人のせいにしてゆくこと。主は、自分のことは自分のこととして受け止めよ、と語ります。

さらに人々は「主の道は正しくない」と自分たちの行いは省みず、主が悪い、と言います。先祖が酢いぶどうを食べると…と同じ状況です。悪いのは自分たちではない、主の導きが、主の道が悪いのだ…と人々は主に責任転嫁をしようとします。主は民に、いろんな困難や不遇なことを、周りのせいにせず、自分の選びとして責任を持ちなさい、と呼び掛けます。

私たちはそのようにして、自分の人生を取り戻してゆくのです。

 

<周りの状況に左右されず、知恵を頂いて歩む>

先日役員会で、次年度の計画について話し合いを始めました。次年度のテーマは、10年計画の7年目「伝道する教会」。新型コロナウイルス感染拡大の状況の中、「伝道」することの困難さを覚えましたが、このような状況の中で、「伝道する」ということの本質を問いを頂いている、と考え、むしろ積極的にこのテーマを受け入れて考えていこうと話し合いました。

伝道、主の福音を証しし、伝えていくことは、世界がどんな状況であっても、自分たちがどのような状況に置かれていても変わらないものです。主の福音に出会い、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と招かれた私たちは、状況が整わない、とか、あれが都合が悪いとか自分以外の人や、物事にうまくいかない原因を求めるのではなく、主に知恵を求めつつ、あきらめないで今の自分に示された働きを担っていきましょう。

神学校献金のアピールとして、今日は壮年会が工夫を凝らしてバザーをしてくださいました。献身者を覚えて祈ろう、神学校献金をおささげしよう、という思いが、現状の困難の中で、いつもの方法が駄目だからやめとこうか、ではなく、いつもの方法が難しいならどうすればいいかな、と自分にできる働きを求めていくことから道が開かれていきます。

大切なのは、私たちが神学生や神学校で教えておられる先生方の学びと働きを覚えて祈り、諸教会から献身者が起こされるように祈り、神学生を支える神学校献金をおささげしていくということです。今までやって来たことがその通り続けられるかどうかではないのです。

先週、西南学院大学神学部学生会より、年1回発行される機関紙「道」が届きました。今回の副題は「コロナの中でコトバを紡ぐ」。神学部の先生方や神学生の皆さんが、コロナの状況の中でどのように過ごし、何を考えているのか、思い思いの言葉が注ぎ出されています。

私たちは今学んでおられる神学生の皆さんの学びと生活が充実するようお祈りすると共に、諸教会から献身者が起こされてく、諸教会が、帯広教会が献身者を起こしていくんだという教会形成を一人一人が担っていくという、教会への投げかけも頂いています。

 

<どこまでも、どこまでも>

30節には、主が一人一人を裁く、と記されます。主は、私たち一人一人を見てくださいます。そして、過去がどうであったから、ではなく、私たちが悔い改め、立ち帰ることを望んでおられます。主が語られることは、「立ち帰って、生きよ!」という招きです。主は誰が滅びることも望んでおられません。むしろ一人残らず主の元に立ち帰り、生きることを切望されています。

私たち一人一人につぶさに目を注ぎ、どこまでも、どこまでも手を伸ばして、新しい心を新しい霊に作り変えてくださいます。その御手から私たちはもれることはありません。

 

今の置かれている状況を、自分のこととして受け止め、見つめ、新しくされて生きてゆきましょう。

 

11/8 「 手の中でふるえる 」 エゼキエル書 11章14-25節 川内裕子 牧師

<エルサレムの残された民は…>

引き続き、エゼキエル書を読んでいます。エゼキエルは主から示された幻の中で、エルサレムに残された人々が、他の偶像に心を向け、主から離れている状態であることを見ます。エルサレムの中心にいながら、神殿のただ中にいながら主から離れている民に、主は厳しい言葉を向けます。

それにも関わらず、エルサレムの民は、自分たちは主のもとで安泰だと考え、捕囚の民こそは、主から離れ、見放されていると見下げた様子が見て取れます。

 

<主の救いの言葉は>

それに対し、主は捕囚の民をこそ救うといわれました。捕囚の地に、主ご自身が赴かれ、散らされた民を集め、エルサレムに戻すと言います。

けれどもかつて、主は捕囚の民をも、かたくなな民、言うことを聞かない民と言っていました。その中に遣わされるエゼキエルは、難儀するだろうと語っておられたのです。

捕囚の民だから優れている、主から救われる資格があるというわけではないことがわかります。

 

<手の中でふるえる>

ここで、主が新しく民をつくりかえるといわれているのです(19)。主は、「石の心」、かたくなで冷たく、他を受け入れることができないような堅い心を民から取り出し、「肉の心」、やわらかで、主からの霊を受け入れ味付けされ、変えられていく従順な心を民に与えると約束されます。主は「心」、実際の人の体と「霊」、聖霊の働き、人を活かす力そのものを民に与え、主の愛の掟と法に生きる民へと作り変える、と言われます。

今日の応答賛美歌(新生504「まごころもて」)の2節にもあるように、自分自身を振り返った時、自分の心はせまく、硬く冷たく、自分ではなかなか変えることができないものです。私たちの冷たい心は、主の深い愛で満たされ、温かく、やわらかく変えて行かれるのです。主は、陶器師にたとえられるように、私たちを手づからこねて形作り、愛を刻み私たちを作り変えてくださいます。こうして私たちは主の民となり、主は私たちの神となってくださいます。

 変えられることを恐れず、主の深い愛を体験しましょう。私たちに触れ、練りきよめ、手づから愛情をこめて形作ってくださる主の御手の中で、私たちは喜びと感動で、心も体もふるえます。主が私たちをこねて、練って、主の器へと変えて下さることに期待し、新しい一週も歩んでゆきましょう。

 

 

 

 

 

11/1 「 糧をいただく 」 エゼキエル書 2章1-3章3節 川内裕子 牧師

<エゼキエルの召命~聖霊を頂いて立つ>

 第一回のバビロン捕囚により異郷の地に連れてこられたエゼキエルは、捕囚から5年目、主から預言者の召命を受けます。混沌とした時代の中で、エゼキエルがどのように主の召命に立ち、預言者として働いていったか、そのことは、今日の私たちの生き方にも通じてきます。

「人の子よ。自分の足で立て。」とエゼキエルに命じた主は、同時に聖霊を彼の中に送り、立たせてくださいます。主は私たちに、さあ、自分の足で立て!と呼びかけ、同時に聖霊を私たちの中に吹き入れてくださり、その力を頂いて私たちは働きに立つことができます。「勝手にやれよ、」というのではなく、「さあ、一緒に行こう、だからしっかり自分の場所に立ち、共に歩む心構えをしなさい」と神は私たちに伴ってくださいます。それが主からの召命です。

 

<遣わされる場~かたくなな民の中へ>

主はエゼキエルを捕囚のイスラエルの民に遣わします。そのイスラエルの民を、主は「わたしに逆らった反逆の民」「恥知らずで強情な人々」「反逆の家」と呼びます。これまで遣わされた多くの預言者の言葉に従わず、周辺の国々の力により頼み、主に従ってこなかった民です。

さらに民は、エゼキエルの預言を受け入れないだろう、それでも語れと命じます。預言者の働きは、遣わされる世の状況に左右されるものではないということです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。(テモテへの手紙 二 4:2~)」を思い起こします。

私たちが遣わされる場は、必ずしも語りやすい場、受け入れられやすい場ではないということです。むしろ、語っても、行っても、受け入れられず、拒絶され、冷ややかにあしらわれることが多いということです。にも関わらず、エゼキエルも私たちもそのような場に遣わされていきます。

 

<何を語るのか~糧を頂く>

・反逆の民の中に遣わされるエゼキエルは何を語るのでしょうか。「私の言葉を語れ」と主が言われる「私のことば」とはどんなことばでしょうか。主が差し出した巻物には表にも裏にも文字が記されていました。普通は表のみ記されるものです。それだけ届けたい言葉があったのということです。

表にも裏にも、びっしりと書かれていた文字は、「哀歌」と「うめき」と「嘆き」の言葉。「哀歌」は挽歌。死者を悼む歌のこと、「うめき」は苦しんでごろごろとうなるような、言葉にならない心の痛みを表します。「嘆き」はみじめさにうちひしがれ、悲しんで挙げる声です。

 それは、失った民への主の嘆きでした。「反逆の民」と言いつつ、主は民を愛し、いとおしみ、その滅ぶことをあきらめることができず取り戻そうとしているのです。痛みを伴った深く、激しい主の愛でした。

その言葉を食べたエゼキエルは、蜜のように口に甘い主の愛を実感します。

主の激しい愛はイエス・キリストをこの世に遣わしてくださったことで体現されました。私たちは反逆の民イスラエルの民と同様、主から離れていたものであり、贖い取られた民でした。弱さも限界もある土くれの「人の子よ」と、その私たちを召してくださる主の招きに応えて歩みましょう。

私たちは一人で遣わされているようでいて、聖霊が私たちの内から力を与えて共に歩んで下さいます。語るべき言葉は、主ご自身が私たちの口に入れて下さいます。主の深い愛の糧を頂き、私たちが体験する、深い嘆き、うめき、悲しみを練られつつ、主の恵みと憐れみ、祝福を体現する者として歩みましょう。

 

 

 

10/25 「 信仰によって 」 ヘブライ 11章1-3節 川内活也 牧師

実を結ぶために

種を蒔く者は実りと収穫を期待して蒔くものです。イエス様は十字架の死という『一粒の麦』として地に死なれました。それは、そのいのちを受けた私たちが豊かな実りを結ぶためです。神様ご自身が私たち一人一人の内に蒔かれたいのちの種が豊かな実りを結ぶために与えられた福音の御言葉に耳を傾けましょう。

先人の信仰

今日は3節までお読みいただきましたが4節以降では旧約聖書に記録されている先人の信仰についての証しが語られています。ノアやアブラハムとサラ、エノクやモーセ等が『信仰によって』その生涯を歩んだという証しです。しかし信仰によって歩んだ彼らでしたが望み見ていたものを全て自分自身の目で見、手に入れたわけではないとも語られています。

パウロの信仰

ヘブライ人への手紙は著者不明ですが一説ではパウロによるとも言われます。パウロは、自分自身の足で世界中に福音をのべ伝え歩きたいと願い求めていました。ローマ書15章23節ではスペインへの伝道旅行を切望している姿をみますが、彼はスペインへは一度も行くこともなく迫害の中で殉教の死を遂げました。しかし彼のビジョンであった世界宣教は今、豊かな実りを結んでいます。

キング牧師の信仰

アメリカ公民権運動の指導者の一人として有名なルーサー・キング牧師はロマ書15章23節から『私には夢がある』という有名なメッセージを語りました。しかし彼もそのビジョンが完成した姿を見ずに凶弾に倒れました。でも彼のビジョンは立ち枯れたのではない、今まさに結実の実りへと向かい成長しているのです。

信仰はキリストによって

昔、北大で教鞭をとったクラーク博士は職を離れる際に「ボーイズビーアンビシャス(少年よ大志を抱け)」と学生らに語られました。そしてこの言葉には「インジーザスクライスト」という続きの一文もあったと言われます。パウロの宣教ビジョンもキング牧師の平和のビジョンもガンバリズムやヒューマニズムや積極的プラス思考の教えに基づくものではなく、まさに「キリストによって」という信仰によるビジョンであり、人生の歩みだったのです。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです』

(ヘブライ11章1節)

実りを結ぶ者として

神様は私たちに実りを結ぶための日々を与えて下さっています。目の前に見えている壁ではなく、その先にある将来と希望を信仰をもって受け取るなら、在るべき本来の人間の輝きを、力を、味わいを、圧倒的な勝利の実を結ぶのです。ガンバリズムでもヒューマニズムでも自己暗示としてのプラス思考でもなく『信仰によって』私たちは神様の約束に希望を置き、信仰によって全ての日々の業を成して歩んでいきましょう。

 

10/18 「 召された者の歩み 」 テトス 3章1-11節 川内活也 牧師

牧会書簡

テトスへの手紙もテモテへの手紙と同じく『個人宛』の手紙ですが、その内容はキリストの御肢体なる教会を建て上げる在り方についてのメッセージとして与えられていますので『牧会書簡』と呼ばれています。『神の宮』はクリスチャン個々人であると同時に『呼び出された会衆(エクレシア)』としての信仰共同体を指します。私たち一人一人が、そして、今日主に呼び集められている帯広バプテスト・キリスト教会という交わりがキリストの御肢体として建て上げられるための在り方への勧めに耳を傾けましょう。

権威に従う

1節でパウロは権威への服従を勧めます。ペテロの手紙第一2章13節~17節でも同じように語られていますが、これは理解を間違えると思考停止で権威に盲従する勧めに受け取られてしまいます。実際、教会がこの聖句を用いて人々に大きな過ちを導くことも歴史上度々起こりました。イエスさまは『わたしに味方しない者は敵対者であり、わたしとともに集めない者は散らす者』だと言われています(マタイ12:30)。ですからイエスさまが示された神の国の福音に反しない限り、私たちは世に在って立てられた権威に従うべきです。それは私たちが世の光・地の塩とされるためであり、それによって神の福音が証しされていくためです。しかし同時に罪の中に在る世の権威は神の福音に反する『敵対者』として私たちに服従を求める時があります。その時、キリストの御肢体として結ばれる教会はどのように在るべきでしょうか?

『抵抗』

服従に反するのは『抵抗』です。ある宗教では抵抗そのものを否定する教えもあります。ある宗教では実力行使による抵抗を聖戦として推奨するものもあります。聖書は『無抵抗(諦め)』や『徹底抗戦(争い)』ではなく『愛に根差した罪への抵抗』を勧めています。

神への服従

『人間の立てた制度に従え』(Ⅰペテロ2章13節)とは神の権威・キリストの福音に反してまで世の支配者や権威者に服することを勧めているのではありません。人の立てた制度の多くは共に生きる人間社会が形成されるために必要なルールです。交わりの神はそれゆえに『カイザルのものはカイザルに』と教えられます。しかし、それは『神のものは神にお返しするように』という主への完全な服従があってこその勧めなのです。

愛に根差す抵抗

人が立てた制度において『神に逆らう制度』があれば、それに抵抗することも教会の使命です。しかしその時に『思い起こさなければならない』のは、争いや憎しみ・自己正義による裁きの剣をもってではなく『神の愛に根差しての抵抗』でなければならないことを3節以下から知らされます。神の愛と憐れみによるキリストの十字架の贖いによって『義』とされた罪人の頭である私たちが、一体、何の『義』をもって人を裁くことが出来るかということです。『義人はいない・ひとりもいない』と御言葉は宣言しています。他者を傷つけ屈服させることを目的とした武力や暴力、言葉や態度、そのような力を行使する『義』など誰も有していないのだということをキリストの十字架により『思い起こしなさい』と勧められているのです。

召された者の歩み

罪の世に在って抵抗しなければならない悪に対し、キリストから受けた『愛』によって立ち向かうことが信仰者、そして教会に与えられている使命です。これは支配者・権威者に対してだけでなく、全ての隣人から受ける悪に対しての『抵抗』の姿勢でもあります。成すべき業とその福音の務めに歩む時、罪の権威に愛をもって抵抗する中で疲れ・渇きを覚える時もあるでしょう。しかし主の御招きに従い歩む時、主御自身がその疲れを癒し、潤して下さるという御約束を思い起こしましょう。いつでも何が神に喜ばれるかを思い起こし、諦めや争いではなく神の愛に根差して罪に抵抗しつつ、まことの義なる神と共に歩み続けましょう。

 

『あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません』 ローマ12章14節

 

 

10/11 「 かの日を見つめて 」 Ⅱテモテ 4章1-8節 川内活也 牧師

愛する者への手紙

パウロは信仰によるまことの子と呼ぶテモテにこの手紙を書き送りました。それは愛する者がキリストの福音によるまことの命の内を生き生きと歩むことを切に願い書き記した『新約聖書の箴言』とも呼ぶべき勧めの書です。

土台・原点

先週はこの手紙の第一の冒頭でパウロの『信仰の原点』を共に聞きました。パウロは自分という存在が何者であるのかということを先ず証しします(Ⅰテモテ1:12~17)。神から離れた罪人の頭である自分に与えられた神の恵み、キリストの十字架による贖いの福音の中で悔い改めと感謝をもって歩む姿の証しです。

完成・ゴール

今日、この手紙の結びおいてパウロは『完成への信仰』を語ります。神との和解の交わりに結ばれたのは何のためであるのか?それはこの『かの日』という完成の時・ゴールへ入るためなのだと証ししています。

信仰の継承

パウロはこの手紙を『愛する子テモテ』へ信仰のバトン、自分に与えられた福音の信仰を継承する道標として書き送りました。聖書信仰とは何よりもまず第一に主なる神が確かにおられることを認めることから始まります。そして、その主なる神の御前に人は誰もが罪人の頭であることを認めるのです。しかし神は人をその罪ゆえに死と滅びに引き渡すことをよしとせず、御子キリストの十字架の贖いにより悔い改めと回復への道を開かれたのです。これが『神・罪・救い』という福音の中心メッセージです。では『救い』に与かった者はどこへ向かうのでしょうか?

死の先に

人は必ず地上での命を終える日が来ます。その日がいつかは分かりませんが必ずその日は来ます。その『死』の扉の先に何があるのかを私たちは誰も知りません。人の知恵・知識から生み出された諸説はあっても実際にそこがどのようなものかは誰も知らないのです。しかし『人が知りえない死の先』についても神は救いの恵みによって与えられる信仰の目を開かせて待望させて下さいます。世を去る時、死の扉を開いた先には『正しい審判者である主なる神』が義の栄冠を備えて迎え入れて下さるのです。かの日には永遠の神のいのちの御国に住まいを備え、まるで子どもが両親の待つ家の扉を開いて帰り着くように、永遠の平安へと招き入れて下さるのです。

かの日を見つめて

パウロはテモテに『信仰の土台・原点』を先ず証しし、結びとしてかの日への信仰を証ししました。十字架の救いからスタートする信仰の歩みはかの日というゴールに向かう道として続いているのです。新しいいのちに生まれた信仰者としてかの日を見つめ、走るべき道のりを走り終える時、開かれる『死』の扉の先に主キリストは両手を広げて待っておられます。

信仰走者

スタートとゴールを信仰によって知る者とされた私たちには『決められた道』という人生が続いています。信仰生活は主に信頼し・委ね歩むものですが、しかしそれは『思考停止による妄信』ではなく、常に日々主との交わりの内に尋ね求めて建て上げる働きです。委ねられている日々をかの日を見つめつつ、時が良くても悪くても成すべき主の業に励み歩むことが信仰走者に与えられている使命です。

新たに歩み出すこの一週、かの日を見つめ待望しつつ、世の光・地の塩として与えられている福音を証しし続けていきましょう!

 

10/4 「 信仰によって 」 Ⅰテモテ 1章12-17節 川内活也 牧師

牧会書簡

新約聖書後半には『手紙』と呼ばれる書簡が21文書あります。パウロの名による14の書簡を『パウロ書簡』・その他を『公同書簡』と分類したり、教会や集会に宛てられたものを『教会書簡』・個人に宛てられたものを『牧会書簡』と分類したりします。テモテの手紙はパウロがテモテに個人的に書き送った手紙が信仰者の間で共有された『牧会書簡』と呼ばれるものです。

パウロとテモテ

パウロとテモテは親子ほどの年齢差があったと言われている信仰の子弟関係で結ばれています。実際、パウロはテモテの事を『信仰によるまことの子』と呼びかけるほどに(1章2節)親しみを込めてこの手紙を書き記しました。

愛する者への手紙

パウロが『信仰に結ばれた愛する子テモテ』へ書き送ったこの手紙は、聖霊の導きにより愛する我が子である全ての者へ神が与えられたメッセージとして今日、牧会書簡として私たちに書き送られてきました。パウロの信仰の証しを『神に愛された者』として読み受け取りましょう。

パウロの信仰の証し

パウロはこの書簡を書き送るにあたり、まず、自分が『何者であるのか』という原点を記します。使徒26:1218等で証しされているようにパウロは教会の迫害者・反キリスト者でしたが、復活のキリストに出会い変えられました。ここにパウロの信仰の原点があります。

信仰の原点に立ち返る

信仰生活において重要なのは『日々信仰の原点に立ち返る』ことです。神の恵みの福音は個々人の信仰生活・教会生活の変わるものではありません。『霊的成長』を『知的・経験的成長』と履き違えると、自分がどれだけ学んだか、どれだけ献げ、どれだけ奉仕し、どれだけ忠実に神と教会に仕えて来たかという『新しい肉の基準』を生み出してしまいます。そこから自分自身や他の兄弟姉妹との比較や隣人批判が生じて来るのです。『霊的成長』はただ信仰の原点からのみ生じます。それは神からの憐れみを受けた者、罪人の頭であるという自覚です。この罪人の中で最たる者のために神がどのような愛を示されたかという十字架の愛への感謝へと日々立ち返る時に『霊的な成長』へと歩むのです。

信仰によって

神の子を信じる人の内にはこの『信仰の原点』としての悔い改めと感謝が在るのです。十字架に現わされた神の福音には『悔い改めと感謝』が必ず伴います。この信仰によって私たちは神の愛を知る者とされ、神との交わりに結ばれた者であると確信し、み言葉の約束を全て『アーメン!』と受け取る神の子とされているのです。信仰の原点であるキリストの十字架。ここに現わされた神の愛を信じ受け取る信仰によってのみ、罪赦された者として主への悔い改めと感謝が生み出され、救いの喜びの内に霊的成長へと導かれていくのです。

新たなこの一週、主の約束の力に満ち溢れて歩み出す基点として、日々、十字架に現わされた神の愛を見上げ、罪人の頭として悔い改め、主に感謝をささげつつ歩み出しましょう。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です』Ⅰコリント1章18節

 

9/27 「 信頼に応える 」 ダニエル書 6章11-24節 川内裕子 牧師

<知っていたけど…>

 バビロニアから次の時代へと移り、支配者が代わっても、大変優れた仕事ぶりゆえ、ダニエルは重く用いられています。しかしこのことは、他の家臣のねたみを買いました。彼らはダニエルを陥れるために、彼の忠実な信仰心を悪用します。しかしダニエルは冷静です。「知っていたが」、「いつもの通り」主なる神に礼拝をささげるのです。自分が依って立つところを見極め、ぶれない姿です。

私たちが行い、語り、考えることのよりどころ、発しどころは、主なる神からになっているか、という問いかけを、ダニエルの「いつも通り」から受け取ります。

 

<獅子の洞窟に投げ入れられても>

朝になり、獅子の穴にいながら無傷だったダニエルは、神に対する信頼と王に対する忠実を語ります。ダニエルの働きは、王の不利益にならないようにすることでした。ダニエルは王国での地位も、権力も求めていません。主なる神にのみよりどころを置き、主に従うことを第一としているのです。ですから、王が求める王国の管理に私利私欲をもって行うことがありません。

私たちは主なる神に仕えるか、世の力に仕えるかの二者択一ではありません。私たちが信頼し、仕え、信じるのは主なる神のみです。そうすると、世にあって、どのように自分の役割を果たすべきかが、明らかになってきます。

人の世の常識では、滅亡に向かう穴に投げ込まれているように見えても、主への信頼によって立つときに、それはかえって主に生かされる命を証ししてゆくこととなります。

 

<信頼に応える>

さて、ダニエルは最初から神を信頼していました。神はその信頼に応えてくださいました。私たちも神様を信頼します。それは必ず私たちの祈りに応えてくださる方だと信じているからです。

しかし、今日はもう少し考えたいのです。私たちは神を信頼しますが、実は神様がまず私たちを信頼してくださったということをです。それは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります(1ヨハネの手紙4:10)とある通りです。

私たちが罪のない者だから愛して下さったのではなく、罪の内におり、神から離れたものであるにも関わらず、まず、頼りない私たちを愛し、信頼して下さったのは神様です。

昨年度までとは全く違う生活に私たちは置かれています。ためらいに支配されることもあります。けれど、今、私は神様に信頼されている、あなたの働きを、あなたに任せているよ、という神様からの信頼と愛を私たちは十分に受け、励まされましょう。

 

私たちこそ、神様の信頼に応えていきたいと思います。

9/20 「 ここにいる 」 ダニエル書 1章3-16節 川内裕子 牧師

<はぎとられる>

バビロンのネブカドネツァル王は、捕囚として連れて来たイスラエル人の中から優れた少年たちを再教育して自分に仕えさせることにします。その中にダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤという4人がおり、ダニエル書を読むときに、これら優れた才能と篤い信仰をもつ少年たちが、異国の地で用いられたことに目が向きがちです。けれども、今日の箇所では自分の国を征服した巨大な国家権力に、無力に自分をはぎ取られていく少年たちの姿が描かれます。

彼らがはぎ取られたものは、自分たちが住む国、自分たちの国の言葉、自分たちの食生活でした。それが3年。すっかりバビロンに同化するようにと強いられる期間でした。さらに彼らは、名前をはぎ取られました。それぞれバビロンの名をつけられます。名前はその人のアイデンティティー、その人自身を表すものです。彼らの名はそれぞれ、主なる神の守りと祝福を願う名でしたが、それをはぎ取られ別の名を与えられた時、彼らは神の守りも奪われ、むき出しにされたように感じたかもしれません。

このように少年個人の力によっては対抗できない大きな国家権力によって自分自身をはぎ取られていった少年たちを見るとき、支配するものはこのように「その人らしさ」をはぎ取ることによって人を支配してゆくのだと知らされます。

 

<大島青島園での出会い>

このはぎ取られた少年たちを読むときに、私は国立療養所「大島青島園」での出会いを思い起こします。7年前に、少年少女と共に香川県にある「大島青島園」にいきました。瀬戸内海に浮かぶ島で、ハンセン病の隔離政策のために国が作った施設です。今も回復者の方々が住んでおられます。感染力の弱いハンセン病でしたが、国の誤った隔離政策により罹患者は厳しく隔離され、差別を受け、苦しみを受けました。住む場所も、仕事も、これまでの全てをはぎ取られ、名前すらはぎ取られて違う名とされたのでした。

ここでお会いしたクリスチャンの男性は、病気の後遺症によって不自由な体にカメラを持ち、園内の美しい自然の写真を撮り、深い信仰から生まれる黙想を文章に著す方でした。自分自身がこの場所に置かれている意味を問い、神を賛美しておられました。この世のどこにいても神の主権はあるということを体現する方との出会いでした。

 

<はぎとられることへの抗い~ここにいる>

今日の聖書には、はぎ取られた少年たちの抗いが描かれます。彼らは律法に定められていない食べ物を口にする危険を避けるため、野菜と水のみを口にすることを願い出、成功します。これは彼らにとって、信仰を貫くための抗いでもありました。

 

私たちも現在のこの状態において、多くのはぎ取りを体験します。しかしその中にありながら、神からの知恵を求め、大きなはぎとりの力に抗いつつ、ここにいる、と神に従う道を求めていきましょう。

9/13 「 星とかがやく 」 エステル記 4章7-17節 川内裕子 牧師

<異邦の地での窮地>

キュロス王の解放宣言の後もエルサレムに帰ることなく、そのまま捕囚の地に残っていた離散のユダヤ人の身に降りかかった絶滅の危機が、エステル記の出来事です。当時のペルシア王、クセルクセスに、最も高い地位を与えられたハマンは、モルデカイ一人が自分にひざまずかないことに腹を立てます。ハマンはモルデカイがユダヤ人であることを知り、モルデカイのみならず、国中のユダヤ人を殺そうとします。ハマンはユダヤ人の宿敵「アガク人」(アマレク人)であり、モルデカイを口実として、目の上のたんこぶであったユダヤ人を排除しようとしたのかもしれません。

モルデカイにとっては、自分がきっかけで、自分たちの民族が絶滅の危機にさらされることとなりました。彼は衣服を裂き、荒布をかぶり、灰をかぶって神に嘆きと悲しみを表します。このことが、モルデカイが後見人となっていた王妃エステルの耳に届きます。

 

<自分のこととして引き受ける>

悲嘆に暮れるモルデカイに連絡を取ったエステルに、モルデカイは事の次第を話し、王にユダヤ人迫害の救済を嘆願して欲しいと頼みます。しかし王が絶対的な権力を持っていたこの国で、王妃であろうともそれは簡単なことではありませんでした。それを行おうとしたら、死をも覚悟しなくてはならないことでした。王の許可なく王に近づく者は死刑に定められていること、自分は30日このかた王からの召し出しはないことを通してエステルはためらいを告げます。自分一人に民族全体の運命が握られている、という重圧はどれほどであったか、と思います。

モルデカイはエステルに、王宮にいる自分一人難を逃れられると思ってはならないと語ります。エステルが王妃の候補として集められることになった時、モルデカイはエステルがユダヤ人であることを明かさないように命じていました。ユダヤ人に対する迫害の危険、偏見などを考え、エステルが困った立場に置かれないようにと考えたのかもしれません。このまま黙っていれば、もしユダヤ人が絶滅させられることになっても、エステルの命は助かるかもしれません。けれどもモルデカイは、自分だけ無事だと考えてはいけない、ユダヤ人全員に降りかかったこのことは、あなたにも降りかかっている、と語ります。あなたはこの時のためにこそ、王妃になったのではないか。自分のこととして事柄を引き受けるようにと語ります。

 

<星とかがやく>

モルデカイの言葉を受けて、エステルは王に嘆願することを決心します。「断食」をもって、スサに住むユダヤ人との連帯を求めます。「断食」は主への祈りを伴います。「定めに反することですが…(16節)」は、エステルの王のさだめ、世の中のさだめに従わず、神に従う決心を示します。

主に従おうとするとき、様々な障害があるでしょう。それらをふるい落とし、何が御心であるか、自分は何をなすべきかを見極めることが大切です。

 

エステルの名はペルシア名で「ハダス(星)」の派生語です。神の御心を受けて自分の使命に歩むとき、エステルはその名の通り星と輝いて民のしるべとなるでしょう。しかしその星は、神の光を受けて輝きます。神の栄光を私たちは表すことができますように。私たちのなすべき働きを主に祈り求め歩みましょう。

9/6 「 手から手へ 」 ネヘミヤ 8章1-12節 川内裕子 牧師

<主の前に一人の人のようになる>

 ペルシアの地で、故郷エルサレムの城壁が荒れ果てたままであることを聞いたネヘミヤは、主から思いを与えられ、エルサレムに戻ります。ネヘミヤは、人々を励まして城壁の再建を始め、それを妨害しようとする内外の力に対抗しつつ、工事を進めてゆき、城壁は52日で完成しました。

神を礼拝する神殿と、それを囲むように神のもとに住まう人々の町の城壁が築かれたことは、人々の信仰生活のよりどころができたこととなりました。第七の月、イスラエルの暦では新年にあたる一日に、人々は水の門の前の広場に集まります。男女の人々、聞いて理解できる人々は全て集まった、と二度も記されていることは示唆的です。主を信じる人々は、すべてもれることなく集まってきたのです。そして、一人の人のようになりました。大勢の人が心と思いを合わせて、主の前に出てきたのです。

ここに礼拝の原点があります。すべての人々は、各々の属性や違いによらず、神の前に平等に招かれているということ。そして集められた違いをもった人々は、主の前に一つとなるということです。

 

<神の言葉は語られ、解き明かされ、理解される>

集まった人々が行った礼拝はどんなものだったでしょうか。

夜明けから正午まで、モーセの律法の書に耳を傾けます。そして祈りを合わせ、主を賛美しました。労働腐れた律法の書を、レビ人はヘブライ語から当時人々が使っていたアラム語に翻訳し、民は律法の語ることがらを理解しました。

そこで起こったことは悔い改めです。聖書の言葉を自分のこととして理解する時に、自分がどんなに神から離れた、罪ある人間であるかを思い知り、民は深く嘆き悲しみます。エズラやネヘミヤ、レビ人たちは、民が嘆き悲しむままにしません。深い罪の中にいた自分たちに、神が何をして下さったかに思いを向けさせようとします。

 

<手から手へ>

嘆くのではなく、「主を喜び祝うこと」。このことこそが、力の源であると告げます。民はその言葉を理解し、喜びます。

私たちもまた、自らの罪に深い嘆きの中に置かれます。けれども、イエス・キリストの贖いを通して私たちを救ってくださった神の愛、引き裂かれる痛みを通しての深い、激しい愛を、悔い改めをもって受け止め喜び祝うことが示されます。

悔い改めに導かれた民には、主と共にある新しい歩みが備えられました。喜び祝うご馳走を、備えのないものには分け与えるよう告げられます。

主の前に一人の人のようになった民は、その肢体となる一人一人を互いに自分のこととして受け止め、互いに手を差し伸べ、つなぎ、仕え合うようになりました。分かちあう時に、なぜそうするのか、主による救いの喜びをも共に分かち合われたことでしょう。

今日は胆振東部地震が発生して2年目の日です。北海道全域が暗闇に包まれた日、私たちは大切な方々が無事でおられるか、困っていることはないかと手を伸ばし、祈りを捧げました。一足早く通電した教会では、地域に開放し、充電に訪れたり、食べ物を分かち合ったりし、先の見えない中で励まし合いました。

 

主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源です。主にあって一人の人にされた私たちは、今置かれている状況がどのようであれ、それぞれ遣わされてゆき、主への感謝と喜びと共に、互いの必要を手から手へ分かち合いましょう。

8/30 「 ネヘミヤの召命 」 ネヘミヤ 1章4-11節 川内活也 牧師

エズラ記

紀元前598年頃にバビロンによるユダヤ人捕囚が始まります。バビロンに捕え移されたユダヤ人は約60年間捕囚生活におかれましたが、ペルシャ帝国キュロス王の勅令により紀元前538年頃に解放の時を迎えました(エズ1章)。エルサレムに帰還した民は神殿の再建に着手し、紀元前515年頃についに『第二神殿』が再建されます(エズ6章)。それから約60年後の紀元前458年頃にエズラはエルサレムへと帰還し(エズ7章)、イスラエルの霊的な復興に務めました。

 

ネヘミヤ記

紀元前445年頃にペルシャのアルタクセルクセス(アルタシャスタ)王によってネヘミヤはユダヤの総督としてエルサレムに派遣されました。そして長らく崩れたままであったエルサレムの城壁を2ヶ月足らずで再建し帰還の民の生活の場を整えました。エズラは捕囚とされていたユダヤ人の霊的な復興に用いられた人物でネヘミヤは実生活の復興に用いられた人物と言えます。今日はそのネヘミヤの活動初期の個所を見ていきましょう。

 

優れたリーダー、ネヘミヤ

概論の通りネヘミヤはエルサレムの復興に用いられた人物で、彼のリーダーシップは聖書に記録されている様々な指導者の中でも特に注目される知恵と力に満ちたものです。何よりも詩編127:1にあるように城壁の再建事業は彼の信仰による事業でした。そのように用いられたネヘミヤの活動の初めには一体何があったのでしょうか?

 

成功者ネヘミヤ

ネヘミヤはバビロン捕囚の時期に生まれた『捕囚2世(もしくは3世)』と考えられます。バビロン捕囚の民の中には『成功者』も多く、そうした成功者の中には捕囚の解放を受けてもペルシャ(旧バビロン)の生活を続ける者も少なくありませんでした。ネヘミヤは王の献酌官であり王や王妃からの信頼も厚くペルシャでの高い地位にありました。いわば成功者の一人と言えます。

 

開かれた目・ネヘミヤの召命

そんな成功者ネヘミヤの下にエルサレムからの報告が入ります。それは帰還した同胞の民が恥辱を受けているというものでした。この報告はネヘミヤの心の目を開かせました。自分の日々の生活の中に突然『世界』が開かれたのです。それはモーセやパウロのように『直接的』な招きの形ではありませんでしたが、神の計画・御旨の働きへと招く神の召命として与えられたのです。

 

召しに応答し

ネヘミヤはこの招きを無視出来ませんでした。1章4節以下で彼はこの知らされた出来事を自分自身の罪として告白し、悔い改めの祈りをささげ、回復のために用いて欲しいと切実な献身の祈りを捧げます。

 

主の働き人

神の招きに目を開かれ、自らに与えられた主の働きとしてその召命に献身する時、神は志を立てさせ事を行わせて下さいます(フィリピ2:13)。ネヘミヤが優れたリーダーだったのではなく、主の召しに従い立ち歩み出す時に事を成させるための知恵を与えて下さるのです。

 

主からの召命とは何も牧師・教役者という直接献身にだけ限られるものではありません。貧しさや苦しみ、争いや嘆きの中にある同胞が虐げられ、恥辱を受けているという知らせを受けた時、その城壁を建て直されるための働きへと遣わされる招きもあるでしょう。主からの召命に目が開かれた時、ネヘミヤが自らの『痛み・主からの召命』としてその働きへと応答して歩み出したように、私たちも主の召しに応える者として日々を歩み出しましょう。

8/23 「 時 満ちて 」 エズラ 1章1-7節 川内活也 牧師

2つの視点

旧約聖書の歴史書には2つの視点があると言われています。1つは預言者の立場からの視点です。創世記から申命記までの『モーセ五書』の後からヨシュア記・サムエル記・列王記という流れでつながります。もう1つの視点は歴代誌・エズラ記・ネヘミヤ記とつながる視点です。こちらは祭司の視点から記された歴史書と呼ばれます。

エズラ記

古代オリエントの大国であったバビロンは衰退し、代わってペルシャが新たな大国となります。ペルシャの王キュロス2世は紀元前537年頃にバビロンに捕囚とされていた人々の解放を告げました。エズラ記はその解放宣言から書き始められています。

七十年の時満ちて

エレミヤ29:10以下では『バビロンに七十年の時が満ち』るまで捕らわれの日々が続くと語られています。バビロン捕囚期間そのものは約60年間です。捕らわれの期間をソロモン神殿の破壊から第二神殿奉献までの約七十年と考えるのか、新バビロニア帝国がオリエントを支配していた期間の約七十年と考えるのか諸説ありますが、預言の通りに『七十年の時が満ちて』捕囚の民は自由の身とされました。

主の民に属する者

キュロスは『主の民に属する者』に解放の使命は『神殿を建てること』と宣言しました。主の目に悪を行った裁きによる苦しみ、罪によりもたらされた『滅亡』と感じていた民にとってこの宣言は大きな喜びとして響きます。自分たちは主から断ち切られた滅びの民ではなく『主の民に属する者』だという真理の目が開かれる宣言でした。

時満ちて

キリストの十字架の贖いにより罪の捕囚とされていた人類に解放の宣言が与えられました。神は人を『主の民に属する者』として招かれるのです。それは生ける神の宮として霊と真理による礼拝により御自身のいのちへと結ばせて下さる交わりへの招きです。

解放された者の告白

世に在ってまだ苦しみに捕らわれていようとも自由とされていようとも、今、遣わされている地において私たちは主の民に属する者として神を礼拝する生ける神殿として、新しいこの一週、そして、地上での働きを終えて引き上げられるその日まで、主に解放された者としての告白を高らかに証ししつつ歩み出しましょう。

 

8/16 「 廃墟の上に 」 イザヤ 61章1-4節 川内活也 牧師

預言はいのちへの招き

聖書の預言は「救いへの招き」「悔い改め」への招きです。主から離れ、罪の中で死と滅びに向かう愛する子なる人間に「いのちへの道」へ立ち帰れと招く言葉です。主なる神様は預言者イザヤを通して多くの預言を与えられました。

救い主メシア

 イザヤ書には『メシア預言』と呼ばれる個所が多くあります。メシアとは救世主です。イエスさまは安息日に会堂で今日の個所を読まれた時(ルカ4:17~)に『今日、この聖書のことばが実現した』と宣言されました。

救いを告げる者

 油注がれた者=選ばれた者の働きがここにあります。それは『良き知らせを告げる』という使命です。罪の中に在る貧しい者・打ち砕かれた者・捕虜・囚人への癒しと満たしと解放を告げるためにイエスさまは世に降られ、十字架による贖いを完成されました。

彼ら

 さて3節中盤までは『わたし』という1人称の方、つまりイエスさまについて語られていますが、3節中盤以降では『彼ら』について語られています。『彼ら』とは『わたし(イエスさま)』により救いを受けた者、賛美の衣をまとった者、すなわちクリスチャンです。

正義の樫の木

 樫の木の材質は非常に堅く粘りがあり、強度も高く耐久性に優れていると言われます。4節で語られている復興のための建材とされる存在、神の回復預言の比喩です。主の輝きを現わすために植えられた正義の樫の木……クリスチャンとは救いを得た者であると同時に、キリストと共に救いを告げる使命を受けた選ばれた者、油注がれた者なのです。

廃墟の上に

 罪の中で人は『とこしえ(永遠)の廃墟』となってしまいました。永遠のいのちである神から離れた状態は永遠の死の状態です。しかし放置された廃墟は残されたままとはなりません。イエスさまにより与えられた福音により、その廃墟は建て直されるのです。

復興預言

 廃墟は過去の遺物です。主なる神さまはそれを『新しく』変えて下さるのです。過去の廃墟、それは罪であり傷であり痛みであり悲しみです。しかし主は『過去』を赦し・癒し『現在』を支え・励まし『将来と希望』の新しいいのちへと人を導く救いの道・復興の道を与えて下さったのです。

主に遣わされ

 私たちは主の救いの恵み・福音に先に与かった者です。その教会・クリスチャンの使命とは主に遣わされたあらゆる場においてこの恵み・福音を証し、宣べ伝えることです。新しいこの一週、主から受けた恵みの福音をそれぞれの地で現わす者とされるようにと求め、祈りの内に歩み出しましょう。

 

8/9 「 救いは間近 」 イザヤ 56章1-8節 川内活也 牧師

祝福への招き

イザヤ書はイスラエルが神への背信の中、滅びへと向かう時代に立てられたイザヤを通して語られた預言の書です。聖書の預言は裁きと滅亡ではなく神の祝福への招きの言葉です。それは神との交わりを喜びとして立ち返る全ての人々に与えられています。

エチオピアの宦官

今日の個所を押さえたまま、一旦、使徒言行録8章26節以下を見てみましょう。新約聖書の出来事の中でも有名な『エチオピアの宦官の救い』の記事です。エルサレム神殿で主なる神様を礼拝するという目的のためだけに3000km以上の旅をして来たこのエチオピアの高官は『外国人(異邦人)』であるだけでなく『宦官』です。ようやく辿り着いたエルサレム神殿でしたが、彼は恐らくその中に入ることは許されなかったでしょう(申命記23:1参照)。主なる神を慕い求めて旅してきた彼は、落胆の帰路にありました。

フィリポを通して

そんな彼に対し主なる神さまは伝道者フィリポを遣わされました。人の手によって築かれた神殿はこの宦官を拒んだかも知れませんが、主なる神さまは御自身を慕い求める者を喜んで迎え入れて下さるのです。悶々とした思いでイザヤ書53章を朗読していた宦官でしたが、主に遣わされたフィリポを通して福音を受け取りました。

フィリポのメッセージ

この宦官が読んでいたイザヤ書53章は『苦難のしもべ』として有名なメシア預言です。イエスさまの十字架による贖いの死、すなわち、キリストを通して与えられる神との交わりの回復・救いの約束が記されている箇所です。フィリポはこの箇所から聖書の説き明しを始めました。53章にあるイエスさまによる贖い、これを受けて54章以下では喜びの預言が続き55章では永遠の契約、救いの御業の宣言が続きます。宦官の心の闇に福音の光がどんどん照り輝いてきたことでしょう。もちろんフィリポの説教は残されていないので内容は不明ですが、53章から読み進めれば当然56章にも目を通すことになったでしょう。キリストを通して与えられた神の祝福の約束……しかし自分は異邦人であり宦官……神の会衆に加えられることは無い……そんな思いも有ったかも知れない彼が56章の3節まで読み進んだなら……いえ、フィリポを通して主が彼に与えたい言葉はまさにここだったのではないでしょうか。

『主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と』(イザヤ56:3)

間近に在る救い

偽善者たちは言う。お前のような罪人は神の民に相応しくないと。偽預言者たちは言う。神はお前のような者を退けられると。しかし神は言われる。「あなたはわたしの目に高価で貴い」と。神の救いは間近に在ります。主の御救いを信じる信仰をもって手を伸ばせば掴めるほどに迫って下さっているのです。この神の愛の約束、交わりへの招きに応えて立ち上がり、主の御前に悔い改めと感謝をもって歩み出すとき、誰であろうとも希望の果実、永遠のいのちの実をたわわに結ぶ枯れる事のないいのちの日々へとみだすのです。

 

8/2 「 約束の基 」 イザヤ 49章14-18節 川内活也 牧師

聖書の預言

聖書を通して神さまは御自身の思いを語られています。ですから聖書では未来を告げる『予言』ではなく神さまの思い・言葉を預かる(与えられた)『預言』という言葉を使います。また、神さまの言葉・御心を直接啓示されて民に伝える人を『預言者』と呼びます。

預言者イザヤ

聖書の『預言書』に分類される書物の中で一番多く記されているのがイザヤ書です。分裂していた南北イスラエルが紀元前500数十年頃に崩壊し、王族や貴族、有能な職人等がバビロンへと連れ去られ、サウル王から続いたイスラエル国家は完全に滅亡しました。その時期に活動した預言者の一人がイザヤです。

回復の預言

聖書を読む時、まず気づかされるのは『滅亡』の預言です。神さまから離れ、自分勝手な道へと歩み出し、罪の中で死と滅びへと向かって歩むイスラエルの姿、人類の姿が記されています。『罪から来る報酬は死です(ロマ6:23)』という大原則が語られていますが、神さまの御心は『滅ぼすこと』にあるのではなく『滅びの道から立ち返りなさい』という招きにあります。イザヤを始めとし全ての預言者を通して神さまが人々に伝えているのは『回復の預言』なのです。

どこに立ち返る?

『神に立ち返る』という招きをどう受け止めるでしょうか?それは『神の教えに』であったり『神の義に』であったり『戒めに』などそれぞれでしょうが、私は『神の愛に』という福音を受けています。神さまとの『愛の交わり』に立ち返る事こそが、神さまが人に願い・求められている招きの声であり、預言者を通し、聖書を通して語られている言葉として響いています。

愛の招き

今日の個所15~16節は私の一番の愛唱聖句です。神さまの愛の約束は復活のキリストにより完成されました。その脇には槍で突かれた跡が、そしてその御手には釘打たれた跡が残されています。その傷こそが神さまの愛の刻印なのです。『見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ』。主の御手の傷は私の名を、あなたの名を、愛する全ての者の名を刻まれたしるしなのです。

忘れない

先週月曜日の聖書通読では46章を読みました。その3節・4節においても神さまの招きの言葉がこうあります。『わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す』。母の胎に在る時からその名を呼ばれ(49:1)、共に歩まれ、白髪をいただき老いた日にもなっても私を忘れることなく背負い歩まれる神さま。たとえ私が神さまを知らず、背いて神さまを忘れたとしても、神さまは私を忘れることなく覚え続けられている。永遠にその御手に私を刻みつけておられる。それはなぜでしょうか?愛する我が子として神さまが私を、あなたを創造されたからです。

約束の基

聖書の約束の基はここにあります。天地万物の創り主である神さまが、宇宙の塵よりも小さく、誰からも捨てられ忘れ去られてしまうほどに小さき私を『愛する我が子よ』と呼びかけ、招かれているという約束です。『あなたはわたしの目に高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ43:4)という約束です。だからこそ、罪の中で死と滅びに向かって歩むのでなく、わたしの愛に立ち返りなさい、いのちを得なさい、と招き続けておられるのです。

新しく歩み出すこの一週、聖書の約束の基である『神さまの愛』に背負われている事を日々覚えつつ、委ねられている世の旅路を歩み続けましょう!

 

7/26 「知ってる  」 イザヤ 43章1-7節 川内裕子 牧師

<角を曲がると…>

 春以来、新型コロナウイルスの影響で、教会においでになれない方々が増え、2週間に一度ほど週報などを持参してお届けしています。道すがら、くっきりと広がる日高山脈や十勝平野を眺めて、神様の造られた自然の豊かさに心が慰められ、訪問のご褒美のように感じます。あらためて世界をおつくりになった創造主を身近に感じます。

 

<被造物なる私たち>

そして、自然のみならず、私たちもまた神によって創られた存在です。今日の43章は、4218節からの続きです。42章には、イスラエルの民が神から離れ、神の声を聞くことなく歩み、捕囚の苦しみにあることが記されます。そのように神から離れ続け、背き続けた民を、今日の43章では一転して贖いとる神の恵みの業が預言されます。

なぜ神から背き離れる民を、神は贖いだそうとされるのでしょうか。それは、神が民を創造したからでした。

 

<神の愛>

今日の焦点は4節の前半にあります。神の目に、イスラエルの民は高価で尊い。神がイスラエルを愛する、と語ります。42章を読めば、民が優れていたから愛しているということではなく、民の資質によらず、神から背いた民でありながら神は大切に贖いだそうとしていることがわかります。それは神の無条件の愛によるものです。

イスラエルの民に語られた預言は、私たちにも語られていることです。私たちも、愛して下さる無条件の神の愛によって贖われるのです。私たちが神にとって都合の良いものがあるから愛するのではなく、神が愛しているからゆえに私たちは救われます。

4節の後半では、イザヤは他国を代わりにしてイスラエルを贖う、と預言しています。けれども実際は他の国という被造物ではなく、それをはるかに超えて神様ご自身、イエス様によりわたしたちは贖われました。

 神の無条件の愛はどのように発揮されるでしょうか。まず、おそれるな、と励ましてくださいます。次になぜ怖がらなくてよいか。私が一緒にいるから。試練のただなかにおいてもわたしこそあなたと共にいるからと示されます。そして、もう一度神様のもとに集めてくださると言われます。それは地の果てからでも。神様の救いの届かない場所はないのです。

連れ帰る、共にいる、という視点は、神自らが一人一人に向き合って大切にしてくださることが示されています。先週は、私たちにとって大切な方を天にお送りしました。大きな悲しみがありますが、この方の人生を通して、神は一人一人にふさわしい形に寄り添ってくださる方であることを、改めて目の当たりにしました。

私たちも同様に、神私たちを創り、愛しているから、という一点において、値高く尊いものだとされるのです。人の評価、自分の評価によって自分の価値は決まりません。神様が私たちを愛して下さるのです。

 

<知ってる>

私たちは、自分が神を知っていると思いがちです。けれども、実は神が私たちを知っているのです。

あなたのこと、知ってる、と神様から愛されているという神の愛に生かされていきましょう。

 

 

7/19 「透かして見る  」 イザヤ 35章1-10節 川内裕子 牧師

<荒れ果てた土地の回復>

イザヤ書35章には、イスラエルの民の、バビロン捕囚からの解放が預言されています。まず語られるのは、民が連れ去られた後、荒れるままにされていた土地が回復することです。荒れ地には緑があふれ、花が一面に咲き誇り、木々の緑がまぶしくなります。豊かな水も湧き、葦やパピルスの水辺の草が茂るようになります。荒れ野の回復に伴い、山犬や獅子など荒野に住まう獣たちは一掃され、再び人々が住むことができる豊かな潤いのある土地となります。

 

<主が道を造られる>

そこに主は道を通されます。捕囚の地から人々が帰ってくる大きな道です。人々の先頭には主が歩まれ、人々を導きます。主がイスラエルの民に嗣業の地として与えられたその地を、主ご自身が荒れた地を整え、もう一度民のいるべき場所、住まうべき場所として人々を導き上り、連れ戻すという預言です。

 

<主の力づけ>

3~6節で、弱った人々が力づけられるさまが描かれます。人々は希望をなくし、力弱っていたのです。主の恵みを信じつつ歩むことができなくなっていました。

エマオの途上にあった、イエス様の二人の弟子を思い浮かべます(ルカ24:13~35)。二人はイエス様の十字架の死にうちのめされ、復活の出来事を信じることができません。当のイエス様を前にしても、その目は暗くされており、見ることができないのです。けれどもイエス様がパンを割いて渡されたとき、二人の目は開かれます。イエス様だとわかった二人は、力を受け、イエス様の弟子にとって危険に満ちたエルサレムに直ちに戻り、イエス・キリストの復活の証人として生きてゆきます。主の伴いによって、私たちは力を受けるのです。

 

<透かして見る>

 私たちは、荒野の中に、すでに成就した救いを見ましょう。荒れ地の状態に、私たちは神の救いの道を透かして見ましょう。どこか別の場所ではなく、いま行き悩んでいる私たちのその場その場、荒れ地のただなかにおいて、主が干からびた地を豊かな土地に変えてくださり、道を通してくださることを信じましょう。

 

この荒れ野の地こそが私たちの歩む道であり、主の整えられた肥沃の地、主が先立って共に歩いてくださる地であることを信じ、主の恵みを透かし見て歩むことができますように。

7/12 「ごくり 呑み込む  」 イザヤ 25章1-10節 川内裕子 牧師

<解放の預言>

 イザヤ書25章は主への感謝と賛美から始まります。バビロンに捕囚の民となっていた人々への解放の預言が語られているのです。2節の「都」はバビロンの都と考えられ、勢力を誇っていた都が砕かれ、がれきの山となり、滅ぼされると語られます。民をとらえていた力の中心が打ち砕かれるのです。そのように力を取り除く主の御業がほめたたえられます。

賛美の歌い手は、それら異邦の民に押さえつけられていた、貧しく、乏しいイスラエルの民の群れです。自分たちではどうしようもない、圧倒的な力により支配されていた民が、主による解放によって喜びの声を上げるのです。

 

<エルサレムでの祝宴>

主は、解放された民のために、シオンの山上で祝宴を開いてくださいます。主自らがよい肉と、熟成された古い酒を民にふるまいます。そこでは民を覆っていた布が取り去られ、民の涙はぬぐわれます。

二つの「布」が出てきます。ヘブライ語で見てみると、「民の顔を包んでいた『布』」は、主の前で、恐れ多くて隔てとするもの、もしくはそれによって主に敬意を表す結果となるものです。「すべての国を覆っていた『布』」は鋳像のようなもの、あるいは蜘蛛の巣状に覆うものを指します。民が主との間に置いた「隔て」です。それを主は滅ぼしてくださいました。

民は喜び、踊ります。

 

<ごくり、呑み込む>

78節の「滅ぼす」は、対象をごくっと丸呑みする感じの動詞です。ここでは、主が、民自身が主との間に置いた隔てをごくりと呑み込み(7)、死(8)そのものをその身のうちに取り込んで、その死の存在を打ち破られるのです。捕囚の地で、主の支配とは何の関連もないようなありさまに打ち捨てられていた「その死」の状態にある民を、主は救ってくださると預言されています。

いつ終わるともしれない捕囚の生活、エルサレムから遠く離れ、主から見捨てられているとの思いを抱く生活の中で、「その」死を、「その」断絶を、主の側から近寄ってこられてごくりと呑み込んでくださる。そして主と、顔と顔を合わせて主が民を古い酒とよい肉でもてなしてくださるのです。

 

私たちが主の前に勝手に作っている隔てを、主ご自身が近づいてくださり、取り去ってくださいます。今日は5か月ぶりに主の晩餐式を行い、パンと杯を頂きます。神ご自身であるイエス様から、私たちに近づいてくださり、私たちの断絶を呑み込み、死を滅ぼしてくださったことを感謝して、新しい一週間も歩んでいきましょう。

 

7/5 「 あっちとこっち 」 イザヤ 19章19-25節 川内裕子 牧師

<力を求めて>

 イザヤ書19章には、エジプトに対する裁きが語られています。当時のエジプトは、国内では南のエチオピア支配による内紛、国際関係では北方アッシリアからの支配に対する対抗を強めていました。おりしも天候の不順により、民衆の産業と生活は壊滅的な打撃を受けます。為政者はむなしく死者や偶像の託宣を求め、人々は一体どうしたらよいのかわからずおろおろとする様子が描かれます。

 南ユダの人々は、迫りくるアッシリアの勢力を恐れ、エジプトに助けを求めたり、亡命したりすることもありました。しかし、このように見てくると、頼みにしたエジプトもまた、主の裁きの前には力なく、頼りにならないものであることがわかります。

 

<その日には…>

16節からは「その日には…」と繰り返し、終末的な預言がエジプトに語られます。主の裁きの前に力を失い、なす術のないエジプトの恐れ弱まった姿が描かれ(16節~)、その後、主なる神を信じる町が建てられていくことが語られます(18節~)19節以降、エジプトの中心に主の神殿が建てられ、人々が主なる神に立ち帰るさまが預言され、エジプト人が、抑圧する者からの解放を主に求めるならば、主はその声を聞き彼らを救ってくださると語ります。

主の救いと回復は、エジプトにとどまりません。23節以降を読むと、対立しているエジプトとアッシリアが結ばれ、道が整えられ、人々が行き来し、共に主を礼拝することが預言されます。

イスラエルと共にエジプトとアッシリアもまた主から祝福を受け、互いに対立し、攻撃し合っていた国々が、向きを変えて同じ主なる神を見上げ、一緒に歩みだすことが預言されます。そこに対立の壁、敵意の壁は取り除かれます。

エジプトに対する裁きの預言は、最終的には互いの隔てを取り除き、一つにされて主に向かって歩む世界の預言となり、神の祝福と愛が語られます。

 

<あっちとこっち>

エジプトがアッシリアと対立したように、私たちの世界にも「あっち」と「こっち」が存在します。過日、アメリカで白人警官の不当な拘束により、黒人男性が命を落としたことをきっかけに全米から世界に抗議行動が広がりました。このことをアメリカにおける人種差別の問題、ととらえている限り、私たちはこの出来事をあっち側においてしまいます。同じ時期にクルド人男性が暴力的な警察の職務質問に遭ってけがをされたという事件がありましたが、そのことは日本であまりニュースになっていません。アメリカの出来事はまさに私たちのことなのです。

北海道のHPの新型コロナウイルスのページに、「新型コロナウイルス感染症に関連した人権への配慮について」という記述があります。本来ならば病気の客観的な状況を示すページに並列して人権的な面への配慮を求めるということが書かれていることに、私たちのあっちとこっちの罪を感じます。このことによって顕在化したように、日常生活の中において、自分と異なるものを「あっち側」として排除、攻撃しようとする罪の側面を私たちは持っていることを知ります。

 

神はあっちとこっちではなく、あっちもこっちも、共に主に向いてゆくよう招いてくださいました。互いの敵意の壁、偏見の中垣を壊し、あげるべき叫びを主に上げ、私たちの敵意の中に主イエスが来てくださった福音に生きてゆきましょう。

 

6/28 「 全ての民の旗印 」 イザヤ 11章1-10節 川内活也 牧師

平和預言

今日のイザヤ預言は『平和預言』と呼ばれる個所です。北イスラエルの滅亡や南ユダ王国存亡の危機の中、イザヤはイスラエルの滅亡とバビロン捕囚の預言を神さまから託されましたが同時に『回復の時』も約束されています。その約束を信じたユダヤ人はバビロン捕囚後実に2300年以上を経て1948年に今の独立国家イスラエルを築きました。しかし聖書の『平和預言』にみられる姿とは全く異なる状況が続いています。

預言の成就する日

ではイザヤや預言者達に託された神さまの約束は嘘だったのでしょうか?そうではありません。神の国の平和は人の武力や暴力、経済や思想によって樹立されるものではないと最初から語られているのに、勝手に人々が誤解をしていただけなのです。そもそも聖書を通して神さまが語られているのはイスラエル・ユダヤ人のための救いではなく、彼らを通して与えられる全人類への御自身の招きの言葉です。このイザヤ11章に描かれている『平和』は終末預言です。世界の歴史が神の御手の内に巻き取られ、神御自身の永遠の支配である神の国に招き入れられたその時に成就する永遠の平和の姿です。

「すでに」と「やがて」

『エッサイの根より若枝』とはイエス・キリストを指す預言です。イエスさまは『やがて来る神の国の預言』と共に『すでに来ている神の国』を宣言されていますやがて来る神の国は、すでに来た救い主キリスト・イエスによって私たちのただ中に築かれているのです。

神の国に相応しい者

この平和の君キリストこそが全ての民の旗印とされていくのです。やがて来る神の国に相応しい者とは、すでに来た神の国をもって生きる者です。夢想主義や非現実主義者と言われようとも、やがて来たる神の国の平和を見つめ、すでに来たキリストの約束の内に平和を築くことを神は求めておられるのです。

神の国の完成に向かい

教会が世のただ中に遣わされているのは何のためでしょうか?それはやがて来たりたもう神の国の福音を、すでに来たりたもう神の国を受けた者が世に証しする灯とされるためです。『平和を実現する人々は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれます』

すでに私達のただ中に来たキリストの平和を実現する基礎工事の先に、やがて来る神の国の平和が成就していくのです。

帯広教会創立記念月間として覚えつつ今月は歩んで来ました。やがて来たりたもう神の国の到来に向かい、キリストの旗印の下に生み出された教会です。既に来たりたもう神の国を受けた私たち・教会はその委ねられた使命に立ち、それぞれに遣わされている場にあって、主から受けた恵みを分かち合う証しの日々を歩み続けましょう。

 

6/21 「 働き人 」 イザヤ 6章1-8節 川内活也 牧師

ウジヤ王

南ユダ王国10代王ウジヤ16歳で王位に就きました。父アマツヤ王に倣い『主の目に適うことを行い歴代第2位となる52年間の王政統治の中、北イスラエルとの関係修復によって平和と安定の時代を築ました、晩年には主の命に背いたために神の怒りに触れて『神罰的重い皮膚病』に侵され、ついに死を迎えます。

絶望的な闇の中で

ウジヤ王が死んだ年。それは南ユダの人々にとって先行きの見えない闇の時代の始まりです。半世紀に及ぶ平和と安定の時代が終わったという不安が社会に広がりました。そんな絶望的な闇が広まる社会の中、預言者イザヤは何を頼るよりもまず神の神殿へと向かいました。

イザヤの召命

今日の個所は小見出しにもあるようにイザヤが主なる神からの召しを受けて歩み出した有名な箇所です。神の召しに従う働き人の姿を、今日はイザヤよりもセラフィムに焦点を当てて見ていきます。

セラフィム

セラフィムが登場するのはこのイザヤ書6章だけです。主の神殿、神の宮、今日で言うならキリストの御肢体なる教会において神に仕える働きを担っている天使、それがセラフィムです。福音宣教の働き人として召された教会、救いに与った者の歩むべき姿を、主の御前に仕える働き人であるセラフィムの姿からともに見て行きましょう。

主に仕える働き人の姿

セラフィムの特徴的・象徴的な姿3対6枚の翼に描かれています1対で顔を覆う姿主への全き畏れ謙遜の姿です。両足を覆う1対は主への従順の姿、そして1対で飛び交う姿は賜物を用いて主に仕える奉仕者の姿です。主への畏れと謙遜を身に着け、従順に従い、委ねられた賜物を用いて飛び交うセラフィム達は神の御前で主への賛美を呼び交わします。それは一つ思いに結ばれた信仰の姿、完全なる神の愛に結ばれた賛美の姿、真の礼拝者の姿です。

主の臨在

セラフィム達の『礼拝』により神の宮は主の臨在に満たされました。神の宮である教会、そして聖なる宮である私たちがセラフィムに倣い、主への畏れと謙遜、従順と賜物を用いた奉仕による働き人として歩む時、主の臨在に満たされるのです。

罪赦された者として

私たちは『燃える炭火』であるキリストの十字架により神との交わりに招かれています。帯広教会の創立記念月間を覚える中、私たち一人一人の内に、そして教会の内に主の臨在が満ち溢れ、世の光・地の塩として福音を証しし続ける働きを祈り求めつつ、新しい一週へと歩み出しましょう。

 

6/14 「 不変の願い 」 イザヤ 1章9-20節 川内活也 牧師

預言者イザヤ

聖書通読は先週からイザヤ書に入りました。イザヤは紀元前8世紀後半からの約40年間、南ユダを中心に活動した預言者です。

預言者

聖書の「よげん」は予想や予報の『予言』ではなく『預かった言葉』と書きます。預言者とは主なる神様から『預かった言葉』を伝えるという意味で『伝令者・メッセンジャー・配達員』としての働き人を指す言葉と言えます。

イスラエルを通して

聖書はその全体が『神から預けられたことば』です。一民族や一部の人間だけを対象とするメッセージなら『全世界に宣べ伝え』られる必要はありません(マタイ24:14他)。預言は今日の私たち一人一人を含め全人類に与えられている神さまの約束です。その『ことば』その思いを伝えるために神さまはアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの姿を通し全ての者にご自身のメッセージを語っておられます。

背信(罪)の報酬・回復への招き

イザヤ書1章の前半では『神の愛』から離れていったイスラエルの姿が語られています。神を捨て、神を侮り、自分たちの欲望のままに歩む『神との断絶の歴史』です。形式だけの礼拝の真似事に対し神さまは深い嫌悪と憤りを隠しません。絶縁状を叩き付けるほどの強烈な神様の叱責が聖書の中には多く記されています。でもそれは人を嫌悪し、排除し、見捨て、滅ぼすための裁きの言葉ではないのです。それほどまでの憤りを発しながらもその根底にある思いは「死と滅びに向かっていく愚かな民」を決して見捨てることができないという神さまの愛の叫びです。神との断絶=罪はどこに生じるのでしょうか?それは論じ合うこと、対話することに背を向ける時に生じる罪の結果です。

論じ合おう

18節で神さまは『論じ合おう』と招かれています。これは交わりのしるしです。神さまは人との交わりの回復を願い求めておられるのです。どのように『論じ』あえるのでしょうか?それは神さまに向き合う祈りによって始まります。神に向き合うこと。それはすなわち「主を認める」ことです。最大の罪は神との断絶です。主を認めない、神に向き合わない、自己完結の傲慢こそが断絶の姿です。

不変の願い

主なる神の願いは変わる事がないのです。御自身の愛をもって生み出した我が子なる人間との愛の交わりを結び続ける事。共に生きるいのちの喜びを確かめ合う交わりを主なる神さまは求めておられます。

今月は帯広教会の創立記念月間です。永遠に変わらぬ神の願い、その招きを宣べ伝え、証しし続けて歩むという教会の使命を覚えつつ、新しい一週へと歩みだしましょう。

  

エゼキエル33:11『彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか』

6/7 「 執り成し祈る者 」 歴代誌下 30章13-20節 川内活也 牧師

 ヒゼキヤ王

25歳で南ユダ王国第13代目の王に即位したヒゼキヤは先代の父王アハズが犯した神への背信と悪政に倣わず、まず初めに神殿の回復・信仰復興に努めました。主は彼を祝福し、北イスラエル王国が滅亡する戦乱の時代の中でも南ユダ王国に安定と繁栄を与えられました。南北分裂イスラエル王国歴代王の中でも非常に優れた王のひとりです。

ヒゼキヤ王の祈り

ヒゼキヤ王の記録で有名なのは『日時計が10度戻された祈り』(列王下20~)でしょう。死の病からの癒しを求めて祈ったヒゼキヤに神さまは預言者イザヤを通して快復を約束されました。そのしるしとして日時計が10度(45分)逆戻りしたという出来事です。私たちの持つ常識や経験、知恵・知識で考えるなら「有り得ない・不可能な話」に思えます。しかし受胎告知の場面でも天使ガブリエルが宣言したように『神にとって不可能なことは何一つないのです』(ルカ1:37)。ヒゼキヤ王の祈りは歴代王の中で善王と呼ばれる王たちに並ぶ「信仰者」としての祈りです。主なる神さまへの全き信頼を土台とする祈りが、ヒゼキヤ王の人生の土台にありました。

信仰による祈り

信仰による正しい人の祈りには力があり(ヤコブ5:16)、目にしていないものをも確信させます(ヘブライ11:1)。

執り成しの祈り

今日の箇所ではヒゼキヤ王の執り成しの祈りが記されています(6~9節)。「間違った方法」で祭りに加わった民のために執り成し祈るヒゼキヤ王の姿です。不義を責め立て裁くのではなく、民のために執り成し祈る信仰者の姿です。私達に神さまが求めておられるのは『祝福を祈るのであって、呪ってはなりません』(ローマ12:14)という勧めに表されている執り成し祈る信仰です。

受けた者だからこそ

『そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ23:34)。私たちがまだ罪人であった時、キリストの十字架による贖いの救いが与えられたのです。イエスさまは弟子たちを派遣する際に『ただで受けたのだからただで与えなさい』と命じられました。私たちはキリスト・イエスによる執り成しの祈りを受けて救いに与った者なのです。新たに歩み出すこの一週、教会の兄弟姉妹を覚え、家族・友人・知人を覚え、日々、主への執り成しの祈りを捧げつつ歩んでまいりましょう!

 

『だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします』ヤコブ5章16節

 

5/31 「 準備万端 」 使徒言行録 2章1-13節 川内裕子 牧師

<五旬祭の日が来て…>

五旬祭の日が来て、一つところに集まっていた弟子たちや他の人々に起こったことは、聖霊が降る、という出来事でした。聖霊は、大勢の人々が何事かと集まってくるほどの激しい風が吹いてくるような天からの響きでした。そののち、

炎のような舌が一人一人の上にとどまり、人々は霊が語らせるままにあらゆる国々の言葉で語り始めました。このことは旧約聖書にすでに預言されていたことでもあり、またイエス様が弟子たちに約束されていたことでした(使徒1)。そのイエス様の約束通り、人々はイエス様のことを証しし始めました。

 ペンテコステの出来事はそのようなことです。聖霊は「風、息、火…」の「ような」と比喩としてあらわされます。神様をきっかりとことばの箱の中に入れることはできません。聖霊は私たちの中に吹き入れられ、私たちを温め、私たちの中に働いてくださるのです。

五旬祭は過ぎ越しの祭りから数えて50日目の小麦の刈入れの祭りです。それは同時にイエス様の十字架と復活から50日目でもあります。約束の聖霊が降り、人々がイエス様の証し人として語り始めたこの時を、教会の誕生日、とも言います。

 

<一つになる>

「一同が一つになって(1)」いたところに聖霊が下ったペンテコステを、今、一つに集まれない私たちがどう受け止めるか、というチャレンジを受けます。先日、ユーチューブで50か国で、それぞれの言葉でアメイジング・グレイスを賛美しているリモート演奏を見ました。場所を離れても私たちは主にあって一つ思いになれることを知り、慰めを頂きました。私たちの礼拝は新型コロナウイルスによって、広げられていったといえるでしょう。それぞれの場で私たちは一つのこと、イエス様が私たちの救い主であることを証しし続けることができるのです。

 

<準備万端>

 先日、ニューヨーク・タイムズ紙で新型コロナウイルスにより亡くなった1,000人の方々の氏名、年齢、居住地、ひととなりが掲載され、追悼されました。人は数でからげられる存在ではなく、一人ひとり大切な存在です。それに私たちは思いを馳せ、人の命の尊さを知ります。ペンテコステの時、神は一人一人を尊い大切な存在として招かれ、賜物と霊によって語り伝える働きをくださいました。

私たちは語る力を頂いたならば、聞く力も頂いたのではないですか。私たちが神から遣わされ語りかけようとしている方が、どんな人生を歩み、何を求め、必要なことは何かを耳を傾け、聞くことが大切なのではないでしょうか。そうしてこそ語る言葉は与えられるのではないでしょうか。

まだ、礼拝は短縮プログラム…、まだ他のプログラムも再開できない…、まだ積極的に教会にお誘いできない…、まだその時ではない、と私たちは思っているでしょうか。

いいえ、もう準備万端です。私たちがまだもう少しと思っているときに、神様は霊の息を私たちに吹き入れ、私たちを召し、私たちがなすべき働きに召してくださっています。それぞれに導かれたところで、主の証し人として遣わされていきましょう。

 

 

 

5/24 「 石を投じる 」 歴代誌下 17章3-11節 川内裕子 牧師

<主が共におられた>

 今日登場するのは、南ユダ王国のヨシャファト王、ダビデから数えて6代目の王です。主はヨシャファトと共におられました(3節)。それはダビデが最初の頃歩んだように、正しい道を歩んだからです。「少し距離をとって…」と推奨されるこの時、「共にいる」との魅力的な宣言に、ことさら惹かれます。

 

<民に教え巡る>

 ヨシャファトはこれまでの王とは一味違った事績が記されます。高官たち、レビ人たち、祭司たちをユダの全ての町々に派遣し、巡らせて民に主の律法を教えさせたというのです。民への宗教教育です。ヨシャファトの父アサの治世に長く続いた平和が、そのような政策を行う余裕を生み出したのかもしれません。民は王の兵として戦うのではなく、落ち着いて主の律法を知るという生活を得たのです。

 主の律法を知るとは、どういうことでしょうか。それは自分たちのルーツを知り、自分たちを救い出してくださった神の愛を知り、だからこそ主なる神を礼拝し従うのだ、という自らの立ちどころを知ることです。

 ただ目に見える王の命ずるままに、何のために何に向かって礼拝しているのかを知らずに主を拝するのではなく、自分が頼るべき方、拝むべき方を知って主を礼拝することを知ったのです。

 主の教えを教わることにより、民はきっと根っこを伸ばしてしっかり立つように変わったでしょう。それは国全体のありようも変えたのではないでしょうか。南ユダ周辺の国々が主への恐れを覚え、戦を向ける国はなかった(10)というのは、ヨシャファト王一人の力によるものではないと思います。「人草」と雑草のように勘定される民の、細い草一本一本が主への信頼に立つときに、国全体が変わっていったことを、周りの国々は実感したのではないでしょうか。

 

<石を投じる>

 ヨシャファトは、民の中に「主の教え」という石を投じたのです。水の中にドボンと石が投げ入れられたなら、石が投じられたところから水面には水紋が広がってゆくでしょう。民の心も体も、主の教えを頂いて変わっていきました。広がる水紋は遠くに広がって影響を及ぼしていきます。

 

 私たちの中に、日々いろんな石が投じられています。私たちはそのたびに揺さぶられます。「あなたのそばにやってきたよ、あなたと共に生きるよ」という主の大きな愛を、どーんと受け入れましょう。私たち一人一人の手に余るほどの大きさかもしれませんけれど。その愛の思いがけない大きさに、広がる波紋は大きく遠くうねってゆくかもしれませんけれど。神の愛に揺さぶられ、心と体を震わせて、その波紋を広げてゆきましょう。「今は少し離れて」と言われるこの世の中で、つながるために。

 

5/17 「 さざ波寄す 」 ヨハネの手紙一 4章7-15節 川内裕子 牧師

<励ましあう交わり>

今日礼拝後の定期総会では今年度の計画について協議します。今年度のテーマ「励ましあう交わり」、主題聖句ヨハネの手紙4:7「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」に沿って、今日は主題聖句を含む聖書箇所を読んでゆきましょう

 

<神さまから始まる>

7節は「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と勧められますそこで私たちは「互いに愛し合うって、どうするんだろう」と思いめぐらしてしまいますが、愛の出発点は人間同士ではありません

 「愛は神から出るもの(7節)」とある通り、愛の出発点は神様ですその愛はイエス・キリストを通して現わされました。十字架の死による私たちの罪の贖い。これが神の愛です。神ご自身が一方的に私たちを愛してくださり、命を与えてくださった、ということが、「神は愛」の本質なのです。神の愛は、ご自身が傷つき、血を流し、孤独に打ちひしがれながらも、私たちに命を取り戻してくださったもので、わたしたちは、ただただその神の愛を受け取り生きるのみです。さらに、神は私たちに聖霊を与えてくださり、聖霊の導きによって神を愛を知ることができます(13節)こうして読んでくると「互いに愛し合いましょう」と私たち勧められていながら、何から何まで、神様から頂いているのが私たちです

 では私たちが応えられることって何でしょうかそれは1415節にあるように、イエス様を救い主として証しすることです。「神様は私たちを神様の命をもって愛してくださり、私たちを生かしてくださるよ」という確信に生き、私もそうだ、あなたもそうなのだよ、と伝えること。これが「互いに愛し合うこと」です。

 

<さざ波寄す>

 「いのちの水」という絵本を御紹介します。渇いた者の心も体も潤す「いのちの水」と呼ばれる泉が、だんだん囲い込まれ、高い塀の中では泉を感謝する礼拝がささげられ、塀の外の渇いた人達はその水を飲むことが出来なくなり…というお話です。「いのちの水」がその純粋性を保つために守られているだけでは、人々の渇きをいやすという本来の役目を果たすことができないように、わたしたちに与えらえた神の愛も、証しし、伝えなければあらわすことができないのです。

ここは、「愛」「愛する」という言葉が、聖書の中で最もたくさん使われている章です。寄せては返すさざ波のように、繰り返し、繰り返し、私たちに示された神の愛が語られます。

歩み始めたこの新しい年度、互いに神の愛に生かされ、イエス様による救いの福音を隣りびとに証しする決心をいただきましょう。私たちの心にさざ波のように繰り返し寄せてくる神の愛に促されて、今与えられた道を、いただいた愛を湧きあがらせる泉となって歩んでいきましょう。

 

5/10 「 分かつ世の中で 」 歴代誌上29章10-20節 川内裕子 牧師

<主の主権を告白するダビデの祈り>

 全会衆を前にしたダビデの祈りの中心は、主なる神が主権者であり、栄光は神殿建築のために多くをささげた人間ではなく、もともとそれを下さった神様が受けるのだ、と賛美をささげることが中心です。それを支えているのは「私たちは…寄留民、移住者(15節)」という考え方です。

 

<私たちは寄留の民>

 寄留民(ゲール)とは、自分が本来の所属する国や土地を離れて、異郷の地に身を寄せ、滞在している民のこと。イスラエルの民自身が、エジプトの地で寄留者であり、出エジプトしてカナンの地に移住してきた民でした。エジプトでの労役の日々を身をもって体験したからこそ、聖書には寄留者について言及があります(出エジプト記22:20など)。寄留者とともに寡婦、孤児、貧しいものの保護について記されており、これは社会のしわ寄せが来るのがこれらの立場の人々であることの証しです。

 

<神殿建築の中での寄留者の労役>

さて、神殿建築の際に寄留者がどのように労役されたかを見てみると、ダビデもソロモンも寄留者を採石などの労働者として使ったことがわかります(歴代誌上22:2、歴代誌下2:1617など)。歴代誌ではソロモンが自国民を労役につかせなかったことが書かれ、寄留民の保護について主から示されているものの、彼らの立場は弱く、まず使われていくのは自国民ではなく寄留の民であることがわかります。

神殿建築という、自らの思いを尽くし、信仰と生き方をかけて取り組むべき大事業にあたり、全ては神様から頂いたもので、私たちは寄留の民です、と告白しながら、まず使役されていくのはイスラエルの民ではなく寄留民であった、という歩みの中に、立場が変わればたやすく分断されていく人間の罪の本質を見ます。

 

<分かつ世の中で>

世界中に蔓延する感染症拡大の中にある今も同じことが起こっています。町の中の多くの店舗が営業自粛をする中、それぞれの状況に応じて、営業の選び取りをしているお店に「自粛をしろ」という強迫まがいの張り紙をする「自粛警察」とあだ名される人たちがいます。それをしている人は正しいことをしているつもりなのでしょう。けれど私たちは何をもって「正しい」とするのか、について慎重であるべきです。私が正しいと思うことと、あなたが正しいと思うことは違います。主の目から見て正しいことも。私たちは落ち着いて祈り、選択していく必要があります。

新聞には会社の倒産や経営難の記事が散見され、仕事なくし、住まいを失う人々も多くいます。路上生活をされる方々の数が確実に増え、準備したお弁当がすぐになくなってしまうということも友人から聞きました。多くの困難者が切り捨てられ、恐れの中にあって、自分と違うものを分断してしまう世界があります。

 

私たちは、簡単に分かち放たれるこの世界の中で、いかにつながるべきかを問われています。私たちが家の中にいるとしても、私たちが心を伸ばしてつながっていく方法があると知ります。私たちは主に「わたしたちは寄留の民です、あなたのためにお返しします。」と告白しながら、分かたれても、イエス様と世の人々とつながっていきましょう。

5/3 「 根っこを掘っている 」 歴代誌上21章22-27節 川内裕子 牧師

 

<エブス人オルナンのもとに>

 ダビデが民の人口調査をしたことに端を発して主から疫病がもたらされます。主はダビデの「剣を取りうる男子(5節)」の人口調査を、よしとされません。疫病により7万人ものイスラエルの人々が倒れます。

ダビデは自らの行いを心から悔い、民を助けることを主に願った結果、エブス人オルナンの麦打ち場に主の祭壇を築くよう命じられます。オルナンは、土地をはじめ犠牲をささげるのに必要なものは全て無償で差し出すと申し出ますが、ダビデはオルナンの提案を断り、ダビデ自身がお金を払い、犠牲を払うことが必要だと強調し、金600シェケルでオルナンから土地を買い取ります。

 

<自らの実をささげる>

ダビデは自分で買い取った土地で、自分で準備した犠牲をささげ、主に祈り求めます。主はダビデに応え疫病はやみました。

このダビデの出来事で強調されているのは、自分自身のものをささげる、ということです。わたしたちは今このような状況の中で、それぞれの選び取りをしています。神はあなたたち一人一人が答えるんだよ、と言っています。借り物の判断ではなく、あなた自身がこれでいい、これで行こうと決心したことを神の前に出していきなさいといういざないを頂いています。

しかしこの選び取りが本当に正しいかを振り返りながらすごしていることもある意味事実でしょう。

 

<根っこを掘っている>

庭仕事をしていて、横に広がる雑草の根っこを掘り起こしてゆくと、思いがけず離れたところに顔を出している草にまでたどり着きます。目に見えるところには関連がないようにみえて、一つのことは別のところにつながっていると知ります。

新型コロナウイルスのことがで思いがけずライブ配信が始まりました。いつも来られている方がおいでになれない、ということで始めましたが、体調のために時々しか礼拝に来られない方が毎週礼拝できて嬉しい、などのように思いがけないところにつながりました。

 応答讃美歌の「み神こそわが望み」の4節に「主なる神/災いの 起こるとも/わが望み わが力」とある通り、私たちの神様は順調な時だけの神ではなく災いのときもそうなのです。

 

 私たちは今根っこを掘っています。あなた自身の決断で、あなた自身を神の前にもっていくんだよ、と教わりながら。私たちがどこに歩んでいるかわからないけれども、神様はご存じです。この状況に飲み込まれずに歩みましょう。すべてを司っておられる神様の力を望みに持ち、今日も根っこを掘っていきましょう。

 

4/26 「 神の家 」 歴代誌上17章1-10節 川内活也 牧師

ダビデの王宮

ダビデは神の導きにより、南北統一の古代イスラエル王国第二代目の王となりました。ティルスの王より献上された王宮建設のための資材・人材を用いてダビデは立派な王宮を建て上げます(14章)。17章1節ではそのように王宮に住むようになったダビデの心情が語られます。自分を導いて下さった主の『契約の箱』は天幕に置かれたままなのに、自分だけ立派な家に住んでいて良いのだろうか?ダビデはその思いを預言者ナタンに告げ、ナタンも「心にあることは何でも実行すると良いでしょう」と後押しをしました。

神の思い

ところが神さまはそんなダビデの思いに対し『否』と告げます。理由は「多くの血を流したから(歴代上22章8節)」と後世でダビデは告白してますが、それだけでなく「主のために」というダビデの思いの中に、ある種の「思い違い」があったからです。主への純粋な思いからの感謝としてではなく「幕屋住いは可哀想」というような憐れみ・傲慢があったのかも知れません。神さまは「わたしは一度もそんなことは求めていない(6節)」と厳しく戒めます。そして「お前に家を作ってもらう必要はない。むしろわたしがお前の家を建てるのだ」と諭します(10節)。人がどんなに優れた王として繁栄を得ても、王の王・主の主にのみ『主権』が在るのです。

神の喜び

神が喜ばれる基準は人が「どれだけのモノを献げたか」ではなく「どのような思いを献げたか」が全てです。「返す事の出来ない恵みを神からいただいたのだ」と知ることが信仰の応答の姿です。「ギブアンドテイク」の関係ではないのです。「神の恵みに私はキチンとお返しをした」という自己評価・自負の思いが生じるなら、それは霊的な傲慢として退けられてしまうのです。

主に喜ばれる『宮』

主なる神さまは何を喜ばれるのでしょうか?それは「何を献げたか?」ではなく「どのような思いを献げたか?」であり、モノをもって神の喜びを得ようという姿勢ではなく、神との交わりを心から喜びとして応答する信仰の姿勢です。主なる神さまは人の基準・人の手による神殿にはお住まいになりません。神が住まわれるのは聖なる宮です。それは神との交わりを喜びとする信仰者自身なのです(コリント上3章16~17節)

神の住まう家として

疫病蔓延を抑止するために今は共に集まる事を避けなければならない社会状況の中にありますが、神の愛によって結ばれている信仰の確信の内に、『神の住まわれる家』として互いに愛をもって執り成し祈りつつ、新しい一週へと歩み出しましょう。

 

4/19 「 祝福の民 」 歴代誌上5章1-5節 川内活也 牧師

自粛

新型コロナ感染拡大防止のために新たな緊急事態宣言が発令されました。『感染疫病の拡大防止』という観点から、私達の教会でも集会規模の縮小・自宅礼拝の推奨を行う事になりました。『礼拝』は場所や形ではなく信仰者の『霊と真理』をもって主に捧げる聖なる献げものですので『自粛』するものではありませんが、共に集まるという行動については『自粛』せざるを得ない状況です。

ルベン

今日の箇所に登場する『ルベン』とは、ヤコブの長男の名です。本来、長男は他の兄弟の2倍の祝福を受け継ぐ者ですが、ルベンは罪によってその権利を取り去られてしまいました。

祝福の条件

罪により長子の権利を失ったルベンですが、イスラエル(ヤコブ)の祝福の民としてカナン征服後には他の氏族たち同様に大きな祝福を神さまから与えられました。本来なら「罪」ゆえに滅んでいてもおかしくないルベンの一族が祝福の民とされたのは自分の力に奢り高ぶる事無く、主なる神さまへの信頼をささげる『まことの礼拝者』として歩んだからです。

祝福から遠ざけられた民

しかし神さまから祝福されていた古代イスラエル王国は、建国から数百年後には隣国によって滅ぼされ『祝福の民』は嗣業から遠ざけられました。その理由は『まことの礼拝者』としての礼拝を棄てて歩んだ結果です。

信仰生活の両輪

神さまが『祝福の民』として恵みを注がれるのは『霊と真理をもって神を拝する礼拝者』です。信仰生活の土台は『まことの礼拝』であり、それは場所や形式に制限されない霊と真理による『礼拝』です。では『礼拝』が守られていれば『教会=主に在る会衆の交わりの場』は不要なのでしょうか?いいえ違います。「霊とまことの礼拝」と「主に呼び出された会衆としての交わり=教会」は信仰生活の両輪なのです。

まことの礼拝者として

主に在る兄弟姉妹の交わりの中で、霊とまことの礼拝者としての信仰が日々育まれ、支えられ、豊かに成長させられていくのです(ヘブル10:25)。祝福の民として、私達は今、この教会、そして、この礼拝を神の嗣業として与えられ結ばれています。礼拝は主にささげるものですが、同時に兄弟姉妹が『互いに』心から神をほめたたえるものであり、その『互いに』を実現する場が『教会』なのです。祝福の民・主なる神の恵みを受ける者として、霊と真理をもって主を拝し、互いに心を合わせて福音の喜びを証しする教会として新しい一週へと歩み出しましょう。

 

4/12 「 先行き・・・平安! 」 マルコ10章32-34節 川内活也 牧師

先頭に立つ主

マルコ10:32には、福音書の記録の中でも重要な証言が記されています。イエスは先頭に立って進んで行かれたという一文です。十字架の死を預言されるイエス様が弟子達に先立ち歩む姿です。預言通りに十字架の死に明渡されたイエス様を見た弟子達は死への恐れという先行きへの不安の戸を固く閉ざして家に閉じ籠りました。

シャローム

そのような状況の中、十字架の死から三日目の朝に死を打ち破られて復活されたイエスさまは弟子たちのもとへ御自身を現わされ、開口一番『平安あれ・シャローム』と宣言されたのです先頭に立ち歩まれたイエス様は十字架の死で終わったのではなく罪の報酬である死を打ち破られたのです。死の先に在る復活の勝利。その事実を目の当たりにし、そのイエスさまが『大丈夫だよ。平安に満たされなさい』と語られた時、弟子たちの『恐れ』の戸は開かれたのです。

死に打ち勝つ復活の信仰

弟子達が恐れていたのは「イエスさまと同じように処刑されてしまうのではないか」という死への不安です。同じ末路を辿るではないかという先行きへの不安です。ではその不安は杞憂に終わったのでしょうか?いいえ。弟子達は使徒としての働きの中殉教の死を迎える事になりました。しかし彼らは復活のキリストとの出会いにより「死の恐れ」に支配される者ではなく「復活の約束」に生きる者へと変えられたのです。

信仰者の祈り

私達は「祈る事しか出来ない」のではなく「祈る事が出来る」「祈り求めるべき方を知っていす。「十字架の死の先に新しいいのちへの扉を開き迎え入れて下さる王の王・主の主・まことの神」が今も生きて共におられることを知っています。これこそが復活の信仰です。この方が先立ち導き、死と滅びを打ち破られたのだからこそ、私達もその御跡を辿る先に『復活の勝利』が与えられているという復活の信仰によって確信をもって祈る者とされるのです。

復活の主と共に

復活の主イエス・キリストは恐れや不安の中に閉ざされた心の真ん中に立たれて「シャローム」と語りかけて下さいます。先頭に立って十字架へと歩まれ、死と滅びを打ち破り、復活の朝へと導いて下さる方が共におられる。この約束を信じる信仰により心を開き、それぞれに委ねられている日々へと歩み出して行きましょう!

 

…キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいましたへの手紙第二 1章10節 

 

4/5 「 一粒の麦として 」 ヨハネ12章20-26節 川内活也 牧師

ギリシャ人との出会い

『探求の民』と呼ばれるギリシャ人の一行がフィリポの仲介でイエスさまの下に来ました。イエスさまは彼らが探求する『人とは何者か・自分とは何者か』という問いへの答えを『麦の種の比喩』から語り始められます

一粒の麦、地に落ちて死なずば……

一粒の麦を大切に保管していればそれは一粒のままです。種が種のままで在り続ける限り、そこに実りはありません。この当たり前の話を比喩としてイエスさまは続けて語られます。『自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る』(25節)。これは命をぞんざいに扱えと言っているわけではありません。一粒のままであり続けるなら種としての命を一時期保持し続けてもやがて死に至るのです。しかし、その命、種としての自分を捨て、地に命を明渡すなら、種としては死んだ麦が地の中で発芽し成長し新たな命の実を結ぶように、自分の命を保ち、新しい命へとつながって行くのだと教えられたのです。

人が『在る』のは

『自分は、何者として存在しているのか』という真理を探求するギリシャ人に対し、イエスさまは『人は神の御心を成す存在、<わたし>と共に<父>との交わりに結ばれる存在』であることを示されました。完全なる交わりという『愛』の神に似せて生み出された人間は、その『愛』を実らせる一粒の種としてのいのちを持つ存在なのです。

罪の殻を破り

種は殻に覆われています。神の愛を受けて生まれた人間は、その愛を覆う『罪という殻』に閉じ込められています。神との交わりから離れた結果、罪の殻に閉じ篭って死と滅びを待つ存在となってしまったのです。罪の殻を破って発芽し、実を結ぶためには、先ず、地に落ちて死ぬ事が必要です。殻が破れる時には痛みや恐れや不安や動揺があるかも知れません。しかし、その『死』、十字架の先には主が約束される復活の命、まことの実り在る朝が備えられているのです。罪からの解放記念日です。

死の先に在る復活のいのち

神の愛は『発芽率100%』の完全ないのちの道である事をイエスさまは十字架と復活を通して世に示されました。私達は一粒の麦としてこの世に生を受けて神に遣わされています。それぞれに委ねられているその命を、神の御心に従い、神の愛を世に実らせるために捧げるなら、まことの命を保ち、豊かな実を結ぶ復活の命の日々へと歩み出すのです。十字架の苦難と死の先に復活のいのちを示されたイエスさまの御跡に従い、私達もまた、一粒の麦としてこの地上での日々を豊かな実を結ぶために備えて下さっている神の御心に聞き従って歩みましょう。

 

 『わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです』第一コリント15章58節