3/27 「欠けを欠けとせず」 
ヨハネによる福音書 18章25~27
             説教者/川内活也 牧師

ペテロの黒歴史

カトリック教会の歴史では、初代教皇として「聖人」にも数えられているペテロですが、彼の「黒歴史」とも言うべき今日の箇所の出来事を、聖書は4つの福音書全てにおいて記録しています。イエスさまとの関係を否定するという「背信・断絶」の宣言を「呪って誓った」という弟子時代のこの離反行為だけでなく、使徒としての働きに歩んでいた時代にも、ユダヤ人改宗者たちの顔色を窺って律法主義を容認したり、異邦人伝道から身を引いたりと(ガラテヤ2:11以下)、とにかく、ペテロの持つ「弱さ・愚かさ・欠け在る姿」を聖書は隠さずに示します。

慰めの約束

「欠けある器は使えない」のであれば、誰も神さまの御用に用いられることはありません。イエスさまは「弱く欠けある器であるペテロ」に対し、裏切りと離反へ歩むことを知った上で、慰めの約束を与えられました(以降、ルカ22:3134参照)。

①失敗しても大丈夫

イエスさまの慰めの約束の第一は失敗を禁じるものではありませんでした。弱さと欠けを持つ存在である罪人ペテロを、そのまま受け入れておられるのです。「義人・聖人」であることが前提ではなく、欠けある弱き「罪人」であって尚、イエスさまはペテロを受け止め、「それでも大丈夫だよ」と語られているのです。

②祈られてるから大丈夫

そうは言っても、過ちや失敗・欠けのある者は「大丈夫なワケ無いじゃないですか!」という判断基準を持つものです。確かに「ダメなものはダメ」と諦めるのは自然な判断かも知れません。しかし、その「大丈夫」な根拠をイエスさまは述べられます。「わたしはあなたのために祈った」と(ルカ22:32)。イエスさまが祈られ、聖霊さまが深いとりなしの祈り(ローマ8:26)をもって支えて下さっている……この約束により「弱く欠けある器であっても大丈夫」だと知らされています。

③用いられるから大丈夫

弱さに倒れる欠けある器であっても、しかし、主の御手の中に歩む時、「立ち直りの道」が与えられます。それはまさに「失敗という死」からの「復活のいのち」と言えるでしょう。十字架の死を目前に控えながら、イエスさまは御自身が与えられる復活のいのちへの招きを、ペテロに与えられました。

裁く者ではなく

「弱く・欠けある器」として、自分自身を裁き、隣人を裁き、排除していくのが「罪の支配」である死と滅びの道です。しかしペテロは、イエスさまの招きの言葉・慰めの言葉に聞き従いました。その時、欠けを欠けとして排除されない、主の御手の中で用いられる器とされたのです。

 

『しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』ルカ22:32

 

3/20 「一つに結ばれ」 
ヨハネによる福音書 17章20~26
             説教者/川内活也 牧師

栄光への道

ヨハネは、最後の晩餐の結びとして、イエスさまのとりなしの祈りを17章に記録しています。イエスさまの視線は降誕の時から変わる事無く「十字架」を見据えての歩みでした。地上での命は、降誕の時から「贖いの犠牲」となるためにささげられていたのです。そしてついに、その時が来た事をイエスさまは「栄光を受ける時が来た」と宣言されます。神の栄光が現わされる扉、それが御自身の十字架による贖いの死であることを宣言され、神を知り、キリストを知る時に、人は神との交わりに在る永遠のいのちへ至るのだ(3節)と宣言されました。

とりなしの祈り

この「永遠のいのち」へ至る「栄光の道」を歩むのはイエスさまお一人だけでなく、従う弟子たちであることが前半で語られます。そして、今日お読みした20節では、この救いの御業は弟子たちに留まらず、彼らを通して「神を知り・キリストを知る」全ての者、今日に至るまでの全ての人々に与えられている祝福であることが分かります。その全ての人々への「とりなしの祈り」として、17章後半の祈りがささげられます。

イエスさまの願い

冒頭で御自身のために、中半で弟子たちのために、そして20節以下で「私たち」のためにとりなされているイエスさまの祈りは「一つとされる」ことを願うものです。この願いこそが、天地万物の創造の初めから変わることの無い、神御自身の願いです。罪とは「断絶」の関係です。その状態の先には死と滅びが待っています。だからこそ神さまは「御自身と一つとされる交わり」へ私たちを招かれ、また、その愛に結ばれて生きる者へと立ち返るように願っておられるのです。

同一化ではなく一致

さて「一つとなる」ことを神さまは願われていますが、大事なことは「全ての者が同一化すること」ではなく「一致すること」です。イエスさまが祈られた「一致」とは、行政や組織や人格としての同一化・一体化ではなく、御霊の一致・愛による一致です。個々に人格を持つ特別な存在として、神さまは一人一人を創造されました。罪の性質はその互いの相違を「断絶の貧しさ」として排除します。しかし「神の愛によって」一つに結ばれる時、個々の違いは、神の豊かさとして喜びの交わりを生み出すのです。

愛は結びの帯

互いの存在を喜びとする交わりは、神の愛によって結ばれるものなのです。自分にとって都合の良い存在であるか否かではなく、神の愛の内に在る存在か否か、いえ、誰一人として神の愛から排除された存在はいないのだという真理によって互いを喜びとする時、完全なる結びの帯である愛による一致が与えられるのです。

一つに結ばれ

天地万物の創り主なる神の御心はどこにあるのか?それは、御自身との愛の交わりに人が結ばれることです。個々に多様な人格ある存在者でありながら、主なる神さまとの交わりにおいて、互いの存在を喜びとし一つに結ばれる完全なる一致。その結び目として、イエスさまの十字架の贖いは神さまの栄光を現わし、神さまの愛を私たちが知る「世の光」として、輝き続けています。

 

『そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです』コロサイ3:14

 

3/13 「喜びに満ち」 
ヨハネによる福音書 16章19~24
             説教者/川内活也 牧師

最後の晩餐の席で

十字架の死を目前に見据えつつ、イエスさまは過越しの食事の席上で弟子たちに「告別説教」を語られました。今日はその中から「悲しみから喜びに変わる」という小見出し部分の19節~24節の御言葉に注目します。

しばしの別れ?

「しばらくわたしを見なくなり、しばらくするとまた見る」というイエスさまの宣言に、弟子たちは困惑します。この「しばらくの別れ」とは、まず第一に十字架の出来事を指します。文字通りの「死別」から「復活の主との再会」までの期間です。ですので、これは弟子たちに与えられている約束です。しかし、合わせてこれは「昇天」と「再臨」の約束をも指しています。これは今日の私たちも含め、全てのクリスチャンに語られている約束です。最初の「しばらく」と比べると、非常に間の空いた「しばらく」に感じますが、主の前に千年は1日のようであり1日は千年のようなものです(2ペテロ3:8)。大事なのは、イエスさまとの「しばしの別れ」の時も、新しい助け手である聖霊さまが共に在って、喜びに満たされる期間であるということです。

何があるのか?

イエスさまとの「しばしの別れ」の間、まず初めに何が起きるかというと「悲しみ・苦難」が挙げられています。その悲しみ・苦しみは「産みの苦しみ」に譬えられています。すなわち「喜びを生み出す苦しみ」との宣言です。歴史の中・人生の中で、迫害や苦悩、悲しみや恐れが襲って来ますが「キリストを待ち望む者」は、その中に在っても変わることの無い、将来と希望の喜びに満ち溢れるのです。

変わることの無い土台

さて、イエスさまはマタイ24章で終末の預言を語られました。これはイエスさまの昇天から再臨までの「しばらくの間」に世に訪れる「苦しみ・悩み・悲しみ」の出来事です。もちろん、現在の世界情勢を見て「終末が来た」と単純に考える必要はありません。地震も飢饉も戦争も、これまで幾度となく繰り返されて来たのですから。ただ、大切なのは、そのような「終末を覚えるほどの混乱と苦痛」の中に在っても、私たちは「しばらくの後」に「やがて来たりたもう神の国」という「揺ぎ無い信仰の土台」に立ち、地上の旅路を歩む者とされている事実に目を向ける事です。世が喜びとしている「土台」は不安定で崩れてしまうものですが、信仰者が土台とする「神の国の約束」は、揺るぐことの無い永遠の喜びなのです。

主に求める信仰

この「揺ぎ無い土台」の上に人生を建て上げる時、求める相手は「世の喜び」ではなく「主なる神御自身」であると気付きます。神の約束を信じる信仰とは、神との愛の交わりに結ばれている確信です。だから私たちは世の恐れに支配される事無く、神の愛に依り頼む祈りへと招かれるのです。世の只中にあって、全地を支配しているかのような苦難の中に置かれていても、私たちは主の義を求めて祈り求めるようにと勧められています。その時、私たちは『喜びで満たされる』(24節)のです。

祈ることしか出来ないのではなく、祈ることが出来るのがクリスチャンなのです。

しばらくの間おとずれる苦しみ・悩み・苦しみ・嘆きの中に在って尚、「永遠の圧倒的な勝利者」である主イエスと共に歩む信仰による祈りの日々は、御霊の喜びに支えられる日々なのです。

 

『しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』(ヨハネ16:33)

 

 

3/6 「主の願い」 
ヨハネによる福音書 15章11~17
             説教者/川内活也 牧師

受難節(レント)

春を迎えるこの時期、教会歴では「受難節」に入ります。イエスさまの復活を記念する「イースター(復活記念主日)」ですが、ユダヤ歴に従いますのでクリスマスと違い毎年変わります。今年は4月17日がイースターです。「復活」という新しいいのちの約束の前に、イエスさまは十字架と苦難を負って下さいました。その「主が負われた苦しみ」を特に覚える期間が「受難節(レント)」です。イースターの前、日曜日を除く40日前から教会歴では「受難節(レント)」を定めますが、今年は、先週3月4日の「灰の水曜日」から「受難節(レント)」に入りました。イースターへ向かう3月・4月は、ヨハネによる福音書の後半に記されている主の受難と復活の記録から、共に御言葉を分かち合いたいと思います。

主の願い

さて、今日はヨハネ15章11節から17節までを選ばせていただきました。冒頭でイエスさまはこう語られています。『これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。この一文こそが、聖書全体を通して神さまが「何を願っておられるのか?」を知る答えと言えます。聖書を通して神さまが願っておられるのは「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」ということであり、そのために、私たちを招き続けて下さっているのです。

告別説教

受肉された肉体に訪れようとしている苦しみと死を目前にし、イエスさまは「これらのことを話した」と言われます。弟子たちに言い残しておくべき、最も重要なメッセージとして語られたのです。その時点では弟子たちはこの言葉の意味、込められた思いを明確に理解は出来ていなかったでしょう。しかしヨハネは後になってこの「遺言」の意味を理解し、大切な御言葉として福音書に書き記しました。

喜びが満たされるために

何をもって私たちはまことの「喜び」に満たされるのか?それは、神の喜びに満たされる時です。直前の箇所で「ぶどうの木のたとえ」が語られていますが、農夫は実りの実を見て喜びに満たされるものです。神さまが喜びに満ちる実りの実とは、御自身が愛の内に創造された愛する我が子である「あなたがた」が「互いに愛し合うこと」以外にありません。

汚れた器はきよめられ

神さまとの交わりに生きる「愛の器」であった人類は、しかし、その愛の注ぎから離れ、泥水のような罪の汚れをその器に満たしてしまいました。その汚れを洗い清めるために、イエスさまは世に注ぎ出されたのです。9節を見るとこうあります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛して来た」汚れた器をキレイな水で洗い清めるように、イエスさまは御自身の愛をもって、罪に汚れた器である私たちを洗い清めて下さるのです。また、3節を見るとこうあります。「わたしの話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている」と。器が清められるのはなんのためでしょうか?その器に、喜びの実を満たすため、渇きを癒す清い水を注ぎ満たすためです。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」に、イエスさまは御自身の愛を惜しみなく注ぎ、罪に汚れた器を洗い清めて下さったのです。

 

その愛を注がれ、満たされた器として、私たちもまた、受けた恵みを注ぎ出し、互いの器を洗い清め、注ぎ満たすという務めを与えられているのです。

 

2/27 「喜びだから」 
     フィリピの信徒への手紙 4章15~20
             説教者/川内裕子 牧師

<ひとりの人を大切にする>

先週木曜、ロシアによるウクライナへの軍事攻撃が始まり、そこに至るまでの背景があるにしろ、暴力で征服していく方法はするべきではないと考えています。砲撃を受け、崩れたアパートの前で茫然としている人の写真を見て、また何人の人が亡くなった、けがをしたという報道を見て、人を人数で取りまとめるのではなく、一人ひとりに名前があり、人生があることに思いを馳せたいと思います。その人たちの日常が無理やりもぎ取られていることに、悲しみと怒りと、なんともすることの出来ない自分の無力さを覚えます。

この攻撃に対して、あちこちで抗議の声が上がっています。ロシアにおいても反戦デモが繰り広げられ、2日前の報道では1600人以上が拘束されたとの報道されていました。国と国の間で大きな力が動いていくとき、ひとりひとりの個人の思いや主張は、このように封殺されていくことを目の当たりにします。

やはり、ひとりの人を大切にすることを痛感します。

 

<パウロとフィリピの教会の人々との「やりとり」>

ひとりの人を大切にしていたことが伺えるこの書です。短いひと時、福音を伝えて一緒にいたパウロに、フィリピの教会の人々は多くの献金を送り、彼を支えていました。他の教会はしないけど、あなたたちはしてくれた、というパウロの言葉に、彼らが互いに親しい間柄にあったことを想起させます。貧しくても足ることを知っているよ、とパウロは言いながらも、自分に贈ってくれた贈り物で私は満ち足りている、と感謝の言葉を伝えます。

フィリピの教会の人々は、何度も、かなりの献金をしてパウロを支えたようですが、それに対してパウロが、自分はもらってばかりで申し訳ないなあという負い目を感じているようではありません。

パウロは双方の間に「もののやり取り」があるという言葉を使います。これは決算するとか、損得勘定をするとかの商業用語ですが、そうするとパウロが一方的にもらってばかりなのではなく、お互いに相手に渡したものがあるとパウロは考えているようです。それは献金ばかりではなく、福音を伝えたことも含まれるようです。パウロに渡したものは、最終的に神が喜んで受け取ってくださるいけにえであるとパウロは語ります。最終的に、フィリピの教会の人達は神からの「実」をもらうのだというのです。天に富を積む、というイエス様の言葉を思い起こします。

 

<喜びだから>

考えてみると、私たちはみな、神から命を頂いているのです。新生讃美歌300番「罪ゆるされしこの身をば」で私のために血を流して救って下さった神に「われ何をもちてこれに応えん」とあります。神の独り子の命を通していただいた救いに、私たちはそれに匹敵する何をも持たないのです。それに対して、申し訳ない、ではなくただただ感謝をもって応え、受け取るのみです。

神さまも、私たちをそれほど愛して下さり、そうすることが喜びだからなのです。受難節を前に、私たちには到底負いきれない犠牲を払って下さった神に、その犠牲を負い目ではなく感謝で受けて生きていきましょう。

そして、そのことを互いの隣人関係においても実践していきましょう。

 

 

2/20 「どうかな」 
     フィリピの信徒への手紙 3章12~16
             説教者/川内裕子 牧師

<私たちはすでに完全な者?>

フィリピの信徒への手紙の3回目、今日は3章を読みます。パウロは3章の初め、「主において喜びなさい」と勧めた後、2節以降一転して「あの犬ども」「よこしまな働き手」など、強い口調を用いながら、異なった教えをもたらしている人々への注意を呼びかけています。「切り傷に過ぎない割礼」などの表現から、ユダヤ主義的な教えを主張するユダヤ人キリスト者が、巡回伝道者としてフィリピにも訪れていたのではないか、と言われています。割礼や律法を守ることで自分たちは既に完全なものとなっており、救われているので、イエス様の十字架の贖いは必要ないと主張した人々のことです。

3章は、その主張に対する反論が述べられます。5~11節は、自分が以前割礼を受け、律法順守の、先ほどの教えによれば立派に該当するような者で、それを誇りにしていたけれども、今はその生き方は全く自分にとって大事ではなく、イエス・キリストの死と復活に与ることこそが大切な事と考えていると言います。

そして自分たちはすでに完成されたものだという反対者の主張に対し、12節以降、私たちは決して完成者ではなく、いまだ求め続けている者だと反論します。完成していたら、すでにキリストの救いは必要ありません。私たちにとって大切なのはイエス・キリストによる救いなのだと、パウロは繰り返し語ります。

 

<いつも途上>

青年時代に、自分はこれからどのような人生を歩めばよいだろうかと迷っていた時期がありました。福音のために何かしたいと思いつつ、どうやって生きていけばよいかわからなかった時、悩みを聞き、祈ってくださった牧師が、12節の箇所を読んでくださいました。その時から折々に、このみ言葉は私の中に響いてきました。

もうわかった、この生き方は完璧だ、目標を達成した、ゴールだというわけではありません。どんな時も私たちは途中経過を生きています。私たちそれぞれの歩みも、教会としての歩みも、今行っていることが、どんな結果をもたらすのか、何につながるのかわかりません。来週は教会総会を行います。状況がどうなるかわからないながらも計画を立てました。今考えられる中で、最善と思えることを私たちは選択していきたいと思います。

 

西南学院大学の学長をなさったギャロット先生は、「わかっただけのイエスさまにわかっただけの自分を捧げなさい」とよく語られたそうです。全部わかったから進む、というのではなく、今自分に明らかにされている目の前の一歩を進んでいくのです。

<どうかな>

先が見えないのに進むのは不安でしょうか?12節に戻ってみます。「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」と書かれています。イエスさまが、私たちをすでにつかんでくださっているのです。私はここから、自分のへその緒が、イエスさまにつながっているようなイメージを持ちます。イエスさまから栄養をいただき、自由に遣わされていくのです。

 

「これでどうかな?」と思う時、イエスさまがつないでくださったへその緒に信頼し、歩んで行きましょう。

2/13 「土がつく」 
     フィリピの信徒への手紙 2章1~11
             説教者/川内裕子 牧師

<三位一体の神から>

引き続き、フィリピの教会の人々へパウロが宛てた手紙を読んでいます。囚われの不自由な生活の中にありながら、喜びを失わず、ひときわ強い信頼と愛に結ばれたフィリピの教会の人々へ送った言葉から、私たちの信仰生活の励ましを頂きましょう。

 1節の「キリストの励まし、愛の慰め、霊による交わり」からは、「キリストの恵み・神の愛・聖霊の交わり」の三位一体の神を想起します。この三位一体の神を知っているならどうなるか。2節には繰り返し、「同じ、ひとつ」と記され、人々がひとつ思いになるとパウロは語ります。つまり、私たちを一つにしてくださるのは神であるということです。

 

<ひとつになるためには>

35節では、神を知り、ひとつとされるためには、へりくだること、相手をすぐれたものと考え、相手への尊敬をもつこと、他人のことに注意を払い、相手への配慮をすることの三つが大切であるとされます。そしてそのことはイエス・キリストがそうであったから、それにならおうと勧められているのです。

キリストが実際にどのような方であるかについて、6~11節にはキリスト賛歌とも呼ばれている箇所が続きます。キリストは神でありながら、神の姿であることに安住せず人となり、へりくだって徹底して、人として歩まれました。このように歩まれたイエスさまを、神は高く引き上げ、全ての者にまさる名を与えられました。へりくだることがなぜ高くされることになるのでしょうか。

 

<土がつく>

土がつくとは、相撲用語で負けることで、転じて失敗することを意味します。勝とうとするわたしたち。負けることを嫌う私たちの姿があります。けれど、イエス様の洗足の出来事(ヨハネ13)のように、他者のために土がつく生き方があるよね、と教えてくださったのがイエス様です。

私たちはそのような「イエス・キリストは主である」と告白することで、それによって三位一体である神をたたえ、神に栄光を返すのです。

 

私たちには、生きていくうえでの具体的な導き手があります。それは人となって歩まれたイエスさまです。神ご自身がへりくだって、被造物として生きてくださいました。私たちはその謙遜な神にならって日々を歩みましょう。

2/6 「立ち止まらず分け入る」 
     フィリピの信徒への手紙 1章9~11
             説教者/川内裕子 牧師

<親愛なるフィリピの教会の人々に>

 2月は、フィリピの信徒への手紙をご一緒に読んでいきます。本文の中にも「監禁されている」などあるように、パウロは捕らえられており、この書はいわゆる「獄中書簡」と呼ばれる書です。一方この書には「喜び/喜ぶ」の語が頻出し、「喜びの書」とも呼ばれます。自由を制限された境遇にあって、なおも信仰の喜びのうちにあるパウロの書簡から、この閉塞感のある「いま」を生きる私たちへのメッセージを聞いていきましょう。

フィリピの教会はパウロが小アジア州からヨーロッパに、初めて伝道した思い出深い場所です。いつもなら断る献金の支援などを受け取ったり、手紙の文章からもフィリピの教会の人々とは、特別な親しさで結ばれていることがわかります。今日読んだ場所は1章の中でも挨拶の部分です。教会の人々についての祈りが記されます。

 

<神の愛を知るということ>

「知る力」と「見抜く力」を身に着けることにより、人々の愛がますます豊かになるとパウロは祈ります。「知る力」とは、神の意志を知的にも、行動においても認識すること、「見抜く力」とは肌感覚として、感性として認める、ということを意味します。頭だけでわかる、ということでなく、心も体も全身全霊で分かる、ということです。イエスさまは聖書のどの掟が一番大切かと問われ、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛しなさい」(マタイ22:37)と答えられたことを思い出します。この教えは引き続き語られた「隣人を自分のように愛すること」とセットになっています。私たちは頭で分かるだけでなく、実際に言葉や行いで隣人を愛することにより、神を愛することができるようになります。「愛が豊かになる」とは愛の存在である神について、分かるようになる、ということです。

そのように愛なる神について知っていくならば、「本当に重要な事を見分けられるようになる」すなわち神の愛を見分けることができるようになります。キリストの再臨、終末の時に十分な者とされ、キリストから神の正しさ、平和を実現する実を受け取り、神の栄光がたたえられるようになるというのです。「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちにまかれるのです」(ヤコブの手紙3:18)と語られる通り、神の義しさは平和を実現することです。

 

<立ち止まらず分け入る>

21日でミャンマーで軍事クーデターが起こって1年でした。人々に対して軍の暴力が続く中、当初行われていた人々が町に出てのデモなども、今は難しくなっています。しかし暴力には決して服従しないと知恵を絞り、その日1016時、サイレントデモが行われました。私自身も祈りに覚えながらその日を過ごし、終了後無人の町に拍手の響く映像を見ながら、出来ることの多くない中でも体で意思を表し、平和を実現していこうとする人々の姿を見ました。

 

今どんな状況に生きていようと、私たちは神の愛を実現するチャンスを与えられています。これが神の愛を実現することだ、と示された時に、立ち止まらず分け入っていく日々を歩めますように。

1/30 「新しい人を着る」 
     エフェソの信徒への手紙 4章25~32節
             説教者/西島啓喜 執事

1 パウロへの啓示(1-3章)

前半で、パウロは述べます。「天地創造のはじめから、神は一つの計画を持っておられた。それは、異なるものが、神の家族となり、愛し合うことだ。キリストが来られる以前にはそのことは隠されていたが、パウロにその神の秘められた計画が啓示され、今や、教会においてそれが実現されている。」そして、神への賛美をもって3章を締めくくります。

 

2 古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る(4:17以降)

まず「古い人を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」なさいと勧められます(4:22-24)。「人を脱ぐ・着る」というのは、「人そのものが変わる」ということです。4:25以降、古い人と新しい人の対比が述べられます。古い人は「嘘をつき、怒り続け、盗み、不健全な言葉を口にし、無慈悲で、下品な冗談を口にし、快楽の暗闇を愛し、酒に満たされてどんちゃん騒ぎし」ますが、新しい人は「真実を語り、怒りを制御し、正当な収入を得て困っている人に与え、健全な言葉で他の人を励まし、互いに親切にし、感謝を口にし、光の中を歩き、霊に満たされ賛美し、あらゆることを神に感謝します。」

 

3 人と人の関係

パウロは、「新しい人」の日常生活について具体的に書いていきます。

(1)妻と夫

妻はキリストに従うように夫に仕えなさい、夫はキリストが教会にご自身を与えたように妻を愛しなさい」、と勧められています。夫婦の形はそれぞれですが、「キリストに対するおそれ(敬いの心)をもって仕え合う」ということが大事です。夫婦の関係は正に「異なるものが神の家族となり、愛し合うこと」が試される場です。

(2)子どもと親

子どもは「両親に従い、両親を敬いなさい」、父親は「子どもを怒らせず、しつけ諭しなさい」、と勧められます。「両親を敬いなさい」は、モーセの十戒にある基本的な教えです。後半の「父親」への教えは、暴力ではなく、イエス様が教えたように子どもを教え、諭して育てなさい、と解釈できます。暴力的な支配、被支配の関係は、子供に反抗心を植え付け、神の家族としてのあり方を破壊するものです。

(3)奴隷と主人

「奴隷は真心から主人に仕えなさい、主人たちは自由人と分け隔てなく奴隷を扱いなさい」、と言われます。当時、奴隷の中にはクリスチャンになる人も多かった。教会では、主人と奴隷も神を主とあおぎ、兄弟姉妹と呼び合っていた。オネシモのように、パウロと教会を結びつける、大事な働きをした奴隷もいた。社会的に異なる立場、境遇にいる人も教会という「神の家族」として神様は公平に目を注いでおられる。そのことを思って生きることが大事なのだと教えられます。

 

4 悪との戦い 

 

最後に、「信仰生活の戦いのための防具を身に着けなさい」と勧められます。信仰生活には様々な攻撃や誘惑があります。イエス様を試みた悪魔は聖書の言葉を以て試しました。それに対し、イエス様も聖書の言葉を以て、試みを退けます。「神の武具を身につける」ということは、聖書をよく読み、祈り、神様が本当に望んでおられることは何であるか、しっかり聞き取ることだと思います。人間の生き方(倫理)は、今日、多岐に渡ります。しかし、「神の秘められた計画は、異なるものが神の家族となり、愛し合うことだ。」、その原則をしっかりと心に留めておくことが大切だと思います。

1/23 「交わりの神 」 ヨハネによる福音書14章15~21節 説教者/川内活也 牧師

4福音書

新約聖書の初めの4書は「福音書」と呼ばれています。4人の筆者の視点から見たイエスさまの公生涯が記録されていることで、私たちは「立体的」に、イエスさまの地上での歩みを知る事が出来ます。

ヨハネの特徴

この4つの福音書にはそれぞれ特徴があると言われます。ヨハネは「神の本質」を伝える福音書だと言われます。すなわち、神の本質とは何か?それは「神は愛である」という真理に焦点を当てているのが、ヨハネの福音書の特徴です。新約聖書全体で用いられている「愛」という言葉291回の内、ヨハネ福音書だけで39回、手紙や黙示録を合わせると約3分の1の84回も用いていることからも、ヨハネが「神の本質は愛なのだ」という真理に焦点を当てて福音を宣べ伝えて来たことが分かります。

「愛」も「神」も見たものはいない

ヨハネは福音書の冒頭や、手紙の中で「今だかつて、神を見たものはない」と宣言していますが、ここに「神の本質である愛」を当てはめると「今だかつて、愛を見たものはない」とも言えるでしょう。「愛」という言葉や、おぼろげなイメージは有っても、それを「見た者」はいないのです。それは「神」という言葉やおぼろげなイメージは有っても、神を見たものはいないというのと同じです。

本質的に神を「知る」人間

聖書は、天地万物の創り主である神さまを証ししています。この方によって人は「創造された」と創世記では語られています。主なる神に創られた存在であるゆえに、人は「おぼろげながら」も神を知る存在として歴史を歩み、的外れであっても神を求めて歩んで来たのです。

神を知る

「神を知る」ということは、人の知恵や知識や学問において「理解する」というものとは違います。真理の霊・聖霊によってのみ神を知る者とされるのです。

「神の本質」=「愛」

父・み子・み霊という三位にして完全に一体である存在の存在者、それが主なる神さまであると聖書は証言します。その関係は、互いを証明し合う必要も無く、論じ合う必要も無く、何一つ、断絶を生じる要素・要因を持たない、ひとつの存在、「三位にして完全に一つに結ばれておられる、完全な交わりの存在」です。この「完全なる交わり」を指して、ヨハネは「神は愛なり」(1ヨハネ4:8)と証ししているのです。今だかつて誰も見たことが無い「神」は、今だかつて誰も見たことが無い「愛」そのものなのだと、ヨハネは伝えているのです。

交わりの神に結ばれ

この「三位にして完全に一つに結ばれておられる、完全な交わりの存在」である主なる神と、私たちも1つに結ばれるのが「かの日」の交わりの姿なのです。この「完全なる交わり」という関係が、すなわち「愛」の関係です。

真理の霊に導かれ

祝祷でも祈りますが、キリストの恵み・父なる神の愛・聖霊の親しき交わりを求める者に、真理の霊の導きは与えられるのです。その時、知的・物的な「理解」ではなく、霊的な「完全なる交わりの喜び」に満たされるのです。主の交わりに結ばれている日々を喜びとし、それぞれに与えられているこの一週もまた、主が共に在ることを覚え、感謝しつつ、歩み出しましょう。

 

『愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです』1ヨハネ4:8

1/16 「洗足 」 ヨハネによる福音書13章1~11節 説教者/川内活也 牧師

足が汚れる環境

今日の箇所で見るイエスさまの時代、履物は動物の皮で編んだサンダルが一般的でした。サンダルを履いていても、乾燥した地域ですから、細かなゴミや埃が編み目の隙間からも入ります。ですから、生活していれば常に足が汚れる環境でした。

足を洗う者

一般的な家では、それぞれが自分で足を洗う事もありますが、人を招くような、ある程度の水準の家には、その家に仕える「しもべ」がいました。お手伝いさんですね。招かれた人々の足を洗うのも、当然のように「しもべ」の仕事とされていましたし、客もしもべに足を洗ってもらう事は普通のことと考えていました。

謙遜の模範

ところが今日の場面では、イエスさまが弟子たちの足を洗うという行動を起こされました。ここから、「謙遜」の姿を知ります。13節以下を読むと、15節にあるように、イエスさまは「模範を示された」のです。「主」であり「先生」と呼ばれるイエスさまが「しもべ」として仕えられた姿を通し、古来、「愛をもって互いに仕え合うこと(ガラテヤ5:13等)」「互いに人を自分よりすぐれた者だと認める謙遜(フィリピ2:3等)」の教えだと第一に知らされます。

赦しの模範

しかし、この箇所から単に「へりくだって仕える者の姿」だけしか読まないのは、もったいない事です。今日は見落とされがちなもう一つのポイントに、焦点を当てたいと思います。それは、この洗足を通してイエスさまが示された「赦し」の姿です。「弟子たち」の中には、あの「イスカリオテのユダ」も含まれています。そのイスカリオテのユダも含み、弟子たち全てを愛し抜かれたイエスさまが、「足を洗う」というしもべの姿を示されました。

きよいものの汚れ

この当時、半月に1度でも行水してれば充分に「きれい」と考えられていましたが、足は違います。清い者であっても、足は日々よごれ、汚れを運んでしまうのです。

洗足は赦しの模範

謙遜の模範としてだけでなく「赦しの模範」としてこの箇所を読む時、ここに現わされたイエスさまの愛がさらにクローズアップされてきます。私たちは神の愛の内にあって、すでに「きよいもの」とされているのです。しかし、その「足」は、地上の歩みの中で日々汚れてしまうものです。主と共に歩む者のその汚れた足を、主はしもべとなって洗い清めて下さるのです。主であり、先生であるイエスさまから、足を洗われる時、ペテロのようについつい「なりません!」と言いたくもなるでしょう。でも、これが単なる謙遜の模範では無く、赦しの姿だと知るなら、「申し訳ない」という気持ちよりも「感謝します」という関係が結ばれるのです。

主の愛に結ばれた者として

イエスさまの十字架で現わされた神さまの愛は、まさに、この赦しの姿、しもべとして腰を屈め、汚れた足を洗い拭って下さる愛と赦しの姿なのです。その赦しは、イスカリオテのユダにまで及ぶ、愛し抜かれた姿です。互いに足を洗い合うこと。それは、互いを自分よりもすぐれたものとして愛し敬うという「謙遜」への招きであり、互いを愛し赦し合うという「交わり」への招きです。新しく歩み出すこの週、主が模範となって示された愛を、世に現わす器として、私たち一人一人が用いられることを祈り求めつつ、歩み出しましょう。

 

 

『愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです』(1ヨハネ4:11)

1/9 「天国と地獄 」 ヨハネによる福音書12章44~50節 説教者/川内活也 牧師

天国と地獄

本日の説教題「天国と地獄」からまず想起するのは、運動会の徒競走BGMでも有名な「あの曲」ではないでしょうか?もともとは「地獄のオルフェ」というオペレッタ序曲ですが、その明るく軽快で楽し気な曲調が、運動会の徒競走BGMとして定着しています。古今東西における「地獄の描写」には、明るく楽しい雰囲気を描くものが多々あります。日本の昔話でも、地獄仲間と一緒に地獄から脱出するようなお話もあります。

聖書に見る「地獄」

さて、人が作り出した「地獄のイメージ」に対し、人を創られた神さまが聖書を通して知らせている「本物の地獄」はどのようなものでしょうか?そこには人が作り出した「明るく楽しいイメージ」は微塵もありません。そこには一切の「交わり」がありません。それが、交わりの主であるまことの愛の神から離れた結果なのです。

聖書に見る「天国」

完全な孤独と断絶の中での永遠の苦しみの場である「地獄」に対し、聖書に見る「天国」は対照的です。もはや死も無く苦しみも無い場であり、何よりも、主なる神さまと「神の民」が互いの存在を喜び祝う「交わり」に結ばれています。主なる神さまが支配される「神の国」ですから、人の支配に怯える必要もありません。対人コミュニケーションが苦手だった人でも、隔ての壁を取り除かれる神の支配の中で真の交わりの喜びに結ばれるのです。

交わりのいけにえ

旧約律法の中には「交わりのいけにえ(和解のささげもの)」が記されています。完全な交わりである愛の神から離れて歩む「断絶の罪」に支配された人間が、再び、神さまとの交わりに結ばれるための犠牲の規定です。しかし、イエスさまがこの犠牲となられたことで、主との交わり・永遠の和解は完成しているのです。

さばくもの

聖書は「善悪」によって人は裁かれるのではなく、主なる神さまとの交わりに結ばれているか否かによって、その人自身に裁きを招くことが述べられています。「救いの道=神との交わり・和解の道」として、イエスさまは世に降られた「非常口誘導標識」のように道を指し示しているのです。その招きを信じて従う先には「パラダイス」「神の国」への道が開かれており、それを信じないならば「ハデス」と共に「ゲヘナ」に飲み込まれてしまうのです。裁くものとは、神の招きを信じて歩み出さない自分自身の不信仰です。神との断絶に留まる時、永遠に全ての良きもの・全ての交わりから断たれてしまうのです。

主の御言葉に従い

裁かれないために信じるのではなく、信じて従う先に救いの扉は開かれています。新しく歩み出したこの年、世を救うために来られたイエスさまの招きの言葉に聞き従い、主との交わりに結ばれて歩み続けましょう。

 

『わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く』ヨハネ12:48

 

1/2 「新たな歩み 」 イザヤ書43章16~20節 説教者/川内活也 牧師

イザヤ書

イザヤ書は、古代イスラエル王国の末期となる、紀元前8世紀頃に活躍した預言者イザヤに与えられた神さまの約束の言葉です。ソロモン王の治世以降、南北に分裂した古代イスラエルは、先に北イスラエルが滅亡を迎えました。残っていた南ユダ王国も、イザヤの時代には周辺列強国に囲まれた弱小国家となっていました。やがて来る「国家滅亡の日」と「バビロンへの捕囚」、そして、捕囚の地バビロンからの「解放と回復」が預言されている書物です。

国家滅亡の理由

栄華を極めたソロモン王の時代以降、なぜ、イスラエルは衰退の一途を辿ったのでしょうか?この「国家衰退」について、政治学的には様々な要因が語られますが、聖書を読むと、その原因は「主なる神さまから離れたためだ」と明確に示されています。

主の民でありながら

イスラエルという名称は、アブラハムの子であるイサクの子ヤコブの別名です。ヤコブ(別名イスラエル)が、12人の子どもらと親族を引き連れ、飢饉を逃れるためにエジプトへ移住したのが紀元前1700年頃の話です。それから約400年後の紀元前1300年頃、数十万人にまで増えていたイスラエルの人々は、エジプトの地で奴隷状態の苦しみの中にいました。神さまは指導者としてモーセを選ばれ、イスラエルの民を、アブラハムに約束された「乳と蜜の流れる約束の地カナン」へ導き出されます。40年間の荒野の旅を経て、約束の地に入り、さらに数百年を経て、国家としての「イスラエル」がサウル王の時代に建てられました。三代目であるソロモンの時代には、ついにイスラエルは「栄華を極める王国」となったのです。すなわち「イスラエル」は、アブラハムの時から「主なる神さま」との交わりの中で導かれて来た民なのです。にもかかわらず、400~500年間続いた「王国時代」の中で、主なる神さまとの交わりを断ち切った「自分勝手な道」を歩みました。神との交わり、すなわち、祝福と守りの手を振り払って、自分勝手な道を歩み出した結果、政治学的に挙げられる様々な要因が、イスラエルを滅ぼしていったのです。

滅亡と回復の預言

神さまがイスラエルを滅ぼしたいのではない。神さまから離れた結果、イスラエルは滅んでしまうのだ、と、預言者は語ります。イザヤ書は、そのような「国家滅亡の時期」に語られた預言書です。国は滅び、民は再びエジプトでの奴隷状態と同じ「捕らわれの身」になっていくことが預言されました。しかし、このような出来事の中でも神さまはイスラエルを「見捨てる」ということは有りませんでした。イザヤ書の特徴は「神に背いた。だからイスラエルは滅んでしまう」という滅亡預言だけではなく、そのように滅びながらも、再び主なる神さまは、あの出エジプトのように、御自身の御手をもって民を「捕らわれの地」から導き出し、祝福の内に建て直されるという「回復の預言」までがセットとなっているのです。

新たな「出エジプト」

先ほどお読みいただいた箇所、16節・17節を読むと、出エジプトの出来事が思い浮かびます。詩編やさまざまな記録の中で、イスラエルの民に向かい繰り返し語られて来たのは、「エジプトの地から贖い出して下さった主を忘れてはならない」という事でした。民の記憶には、語り継がれて来た、主なる神さまのくすしい御業が刻まれています。ところが、その「語り継がれて来た出エジプトの記憶」を根底から引っくり返すような言葉が18節で述べられています。しかし、これは19節の約束を、より強める前置きの言葉なのです。この預言の後に起こる、イスラエルの滅亡と、バビロンへの捕囚、そして、捕囚からの解放という一連の歴史は、確かに「第二の出エジプト」と呼ばれるような、神の救いの御業です。しかし、その「解放・回復・救い」の道は、過去の出エジプトとは全く違うものとして、神さまは導かれます。

過去に捕らわれずに

「あの時はああだった、この時はこうだった」という、過去の記憶ではなく、今、まさに目の前に起ころうとしているのは「新しい神の御業なのだ」ということが、強調されているのです。驚くべき御業でエジプトの地から導き出された主なる神さまは、今、まさに全く新しい御業をもって、民を導き出されるのだという約束です。人々の記憶にあるような「過去の栄光」ではなく、人々が思いもしなかったような「新しい御業」をもって、捕らわれの地から解放し、回復を与え、祝福を与えるという預言なのです。

新たな歩み

過去の栄光や繁栄、現在の困難・困窮・不安・問題などに「捕らわれの身」となってしまうようなこともあります。特に一昨年来のコロナ社会の混乱で、様々な日常が、荒れ野や砂漠のように、乾いてしまっているかも知れません。しかし、聖書の神、天地万物の創り主である「まことの神さま」は、無から有を生み出される方です。人の心に思い浮かびもしなかったことを、御自分を愛する者たちに準備される方なのだということを、この一年の初めに心に刻みましょう。新しく歩み出すこの1年の日々が、主の御手の中で新しく創られていくことを信じ、主の御心を尋ね求めつつ、歩み出しましょう!

12/26 「 ね、聞いて 」 ルカによる福音書2章36~40節 説教者/川内裕子 牧師

<神殿での出会い>

イエスさま誕生後40日経ち、ヨセフとマリアはイエス様を連れて神殿に行きます。マリアの出産の清めと初子の捧献と贖いのためです。そこで親子が出会ったのは2人の高齢の人物でした。

 

<救いを見た人々 ~シメオン>

一人はシメオン。彼は聖霊の働きによりメシアに会うまでは死なないとお告げを受けていました。彼は聖霊の導きによりこの幼子が救い主であることを示され、イエスさまを抱いて賛美します。「私はこの目であなたの救いを見た。この赤ちゃんは万人のための救いになる。」というのです。律法で定められた小羊を準備できず、鳩を捧げようとしているありふれた貧しい親子にシメオンが導かれたのは聖霊の働きでした。誰が見ても立派な様子の、人の目による判断にはよりませんでした。

 

<救いを見た人々 ~アンナ>

もう一人はアンナです。彼女も親子に近づき、シメオンの言葉を裏付けるように神を賛美します。アンナはアシェル族の人と紹介されています。北イスラエルの北方、海沿いの豊かな地方を割り当てられた氏族です。南北の王国に分かれたあと、南ユダの王ヒゼキヤが、北イスラエルにも手紙を送って過越の祭に参加するよう呼びかけた時、多くの人々はそれをあざ笑って参加する事はありませんでしたが、アシェル、マナセ、ゼブルンから悔い改めてその呼びかけに加わった人々がいた、と記されています(歴下30:10)。アンナはそのように主の前にへりくだった人々がいた一族の出身でした。また彼女は女預言者と言われています。新約聖書の中で、預言者、と言われている女性はアンナだけです。彼女は7年間の結婚生活の後夫が亡くなり、以来一人で生活をしてきて84歳になっていました。神殿にいつもいて、断食をしたり祈ったりして、夜も昼も神様に仕えていました。新約聖書に残されている情報は少ないのですが、このように夫を亡くし高齢になった女性の預言者としての働きが当時あったのではないかと推測されます(Ⅰテモテ5)

アンナも「預言者」として神の言葉を預かることにより、聖霊の働きが及び、この親子の元に導かれ、幼子が自分たちの救い主であることが示されたのです。彼女は神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話しました。

 

<ね、聞いて>

彼らに共通するのは、イエス様が成人し行動してから、この方が救い主である、と示されたのではなく、既に人の姿となってこの世に来てくださったことそのものが救いである、と示されたことです。救いがどのように実現したのかを神から示されるのが預言者でした。そして預言者の働きはそのことを皆に伝えることでした。救いの知らせは人々にとっての喜びの知らせ、福音です。人々には現実の形を取って見えていませんが、預言者はあらかじめその救いを見ることができました。

私たちも、預言者としての働きを担わせていただきましょう。アンナが常に主に目を注ぎ、心の焦点を合わせて主の救いの出来事に気づかせていただいたように、私たちもまた、この世にあって主のみ旨を求め、気づきを頂きましょう。この2年、コロナの感染症の影響の中で過ごしています。その中にあっても、主の導きを頂き、すでに到来している主の救いを喜び賛美し、遣わされていきましょう。

12/19 「 ひらいて ひらいて 」 ルカによる福音書2章8~12節 説教者/川内裕子 牧師

<ビッグニュースは羊飼いに>

あなたがたのための救い主が生まれたという、世界全体に関わる、良い知らせが、羊飼いたちを通して地上に伝えられたことには大きな意味があります。

当時の羊飼いは、人々からさげすまれていた職業の一つと言われています。彼らは人々の羊を預かって飼育し、羊たちの餌の草を求めて、あちこちを遊牧しながら働き、夜も家に帰ることなく野宿をし、夜通し羊の番をしています。このような生活では、夜家にいて女性たちや子どもたちを守ることができないので家の主人としての役割を果たしていないと軽んじられました。

また羊を連れて移動している生活の中では、安息日を守って仕事を休み、礼拝をするということもできません。聖なる生活者から遠いと考えられていました。住民登録の命令が出されたために人々が皆自分の町に旅立っている中、彼らは住民登録をする物の数にも入れられていませんでした。

さらにあちこち遊牧しながら羊を飼い、しばしば他人の農地に入り込んで草を食べさせることがあったので盗人のようだと考えられていました。村や町に定住し土地を持っている人々とは相いれないものがありました。

 

<全人類にあなたがたも>

そのようなわけで、全人類に関わる重要な知らせが、人々から軽視されていた羊飼いにもたらされたという出来事は、示唆的です。

天の使いの言葉は、これまで羊飼いたちと他の人々の間に引かれていた線引きを取り払います。「あなたがた」のための救い主の「あなたがた」に区切りはありません。羊飼いも、他の人々も、みな神にとっては愛する「あなたがた」であると、天の使いは羊飼いたちの前に現れ、そ救い主誕生のニュースを知らせたのでした。

天の使いは、羊飼いたちに派遣の言葉を送ります。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12)。家畜小屋の飼い葉おけは、彼らが出かけることを避け、彼らを拒んでいる町村の家の中にあります。羊飼いたちにはチャレンジです。

 

<ひらいて ひらいて>

天使の言葉を受け取った羊飼いたちの中に変革が起こります。羊飼いたちは「さあ、行こう!」と派遣に応えます。そして飼い葉おけの幼子を「探し当て」、天使が話してくれたことを人々に「知らせ」ます。羊飼いたちは人々との間の隔ての垣根をとりこわし、以前は拒まれていた世界に踏み出しました。彼らの心はひらいて、ひらいて、神さまからの福音を届けます。神から派遣された彼らは、見出し、伝道するという働きを喜びを持って果たし、神をあがめ、賛美しながら野原に戻っていきます。もう線引きも、隔てもありません。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と天使の大群が賛美したように、隔てを乗り越えてゆく人々に、主の平和があります。

私たちも、平和の働きに遣わされていきましょう。小さな働きで良いのです。自らの隔てを破り、和解に踏み出しましょう。私は、あなたは、どこに派遣されているでしょうか。具体的な働きを祈り求め、歩みだしましょう。

あなたのために救い主が生まれた。全ての民がその懐に入れられています、との主の救いの宣言を私たちも頂きましょう。あなたの隔てを乗り越え、あなたの全存在をひらいて、ひらいて、救い主誕生の福音を伝えるものとして遣わされていきましょう。

12/12 「 あなたに会うために 」 ルカによる福音書1章39~45節 説教者/川内裕子 牧師

今日の聖書箇所には、様々な出会いが記されています。声を交わしているのは、マリアとエリサベトですが、二人のおなかの中にはそれぞれ赤ちゃんがいます。そして、エリサベトの夫ザカリアもいます。これら5人の人々が、出会いの時を迎えました。この出会いによってもたらされたこと、私たちに示されていることに耳を傾けましょう。

先週、この直前の聖書箇所は、マリアの元に突然天使が現れる受胎告知の場面でした。その後に起こったことが、今日の出会いの場面です。マリアは自分の住んでいるナザレから、エリサベトとザカリアが住んでいたユダの山里まで100キロ近くの距離を「急いで」出かけます。ヨセフと結婚前に、聖霊によって子どもを授かっていると、誰が信じるでしょうか。マリアは誰にも告げず、一人でエリサベトの元に向かったと思います。自分の身に起こったことを、同じように神の力が働いたエリサベトなら分かち合えると考えたのでしょう。マリアは、妊娠初期の危険で不安定な体調の中、急いで、この長くて危険な距離を旅しました。

マリアはその家の主人のザカリアにもきっと挨拶したことでしょう。しかし、聖書はマリアはエリサベトに挨拶した、と記し、マリアはエリサベトに会いに行ったのだ、ということを示します。「お言葉通りこの身になりますように」と受け入れたからと言って、「お言葉」がどのように「この身」に実現してゆくのか、妊娠も出産も経験した事のない若い女性マリアにはわからないのです。

エリサベトとザカリアには長らく子どもが与えられませんでしたが、天使が現れ、その言葉通りエリサベトはザカリアの子を身ごもり、おなかの中で6カ月になっていました。マリアは年若く、エリサベトは年老いていました。けれども二人とも神の力が働いてそれぞれ子どもを身ごもりました。二人とも初めての妊娠です。神の言葉が実現する、という初めての道を踏み出そうとしている二人の女性がここで出会います。

マリアは、自分と同じように神の力がはたらいて身ごもり、既に6カ月、自分の先を歩んでいるエリサベトに、自分の身に主のお言葉が実現する、不安や恐れを分かち合いたいと考えたのではないでしょうか

このマリアとエリサベトの出会いは、同時に彼女たちの胎児たちの出会いも生みました。マリアの挨拶を聞いて、エリサベトの赤ちゃんがおなかの中で踊ります。エリサベトは自分のおなかの中の子によって訪れたのが主を身ごもった女性であることを知らされます。彼女にも聖霊が降ります。

「私の主」(43)とエリサベトが言い、マリアのおなかの子が主であることを彼女は告白します。4245節のエリサベトの言葉は、ほとばしる歌のよう、彼女の言葉は預言者の言葉のようです。「祝福・喜び・幸い」と語り、マリアの決断は「幸い」と位置付けられます。

エリサベトとの出会いによって、マリアも幸い、喜びへと変えられます。4755節では、エリサベトの言葉に呼応するようにマリアが歌います。主は、高ぶる者を低め、虐げられたものを引き上げてくださるという、預言を行います。喜びの基は、主の救いの業です。救いそのものがマリアの身に宿っていることを見て、今のこの現状に来てくださるのが主の救いだということが私たちに示されます。

 

クリスマスはあなたに会うために、わたしに会うために神が近づいてくださったことを記念する出来事です。

12/5 「 え、わたしなの? 」 ルカによる福音書1章28~33節 説教者/川内裕子 牧師

第2アドベントを迎えました。日本語では「待降節」という「アドベント」は、「おとずれ・到来」という意味です。イエス・キリストの誕生を待つ時、神がこの世に「イエス」という人の姿をしておいでくださったことを記念する時を、今月はルカによる福音書を読みながら待ちたいと思います。

 

マリアのもとに突然天使ガブリエルが訪れ、マリアは戸惑います。天使はマリアが男の子を産むこと、「イエス」という名づけ、ダビデの王座の系譜に連なる者となる、と告げます。神の救いのご計画の渦に、いきなり放り込まれたようなマリアです。とてもすぐに呑み込み、理解できる事柄ではありません。

マリアはとても実際的なところから取り掛かって天使に応答します。「わたしは男の人を知らないので、そんなことはありえない。」まず子どもを身ごもるということがない、というのです。マリアはダビデ家のヨセフの婚約者ではありましたが、まだ実際に一緒に生活してはいませんでした。

当時、婚約しているということは結婚していることと同義でした。ヨセフの妻とみなされるマリアが、ヨセフ以外の子を身ごもることは罪とみなされ、マリアは罰せられる可能性もありました。まだヨセフと一緒に生活もしていない彼女にとっては、子どもを身ごもるということもあり得ない思いでした。

 

天使は再びマリアに語ります。聖霊が、神の力があなたを包む。そうやって子どもは生まれ、生まれる子は「神の子」と呼ばれる。親類のエリサベトも高齢だが男の子を身ごもって6カ月もなっている。人の常識では到底考えられないことだが、神にはできる。

 

マリアがすっかりこのことを理解したのか、あまりの事柄の大きさに圧倒されたのかはわかりません。自分自身の人生をゆるがせにする出来事の前で、長年イスラエルの民が待ち続けた救い主の誕生が、自分の人生と直接結びつく、と示されても、なかなか信じがたいことかも知れません。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という返事を聞いて、天使はマリアのもとを去ります。あなた()を主人として、あなたの意向に従うのみ。この先どうなるかわからないけれど、あなたの言葉が実現するように、というのがその返事の意味するところです。

 

先の読めない人生に踏み出すマリアです。天使から告げられて、「確かに私たちイスラエルの民は、長い間救い主を待っていたけど、『え、それわたしの身に起こることなの?』」という思いだったでしょう。しかし、天使の「主があなたと共におられる」「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」、エリサベトの根拠も示されて「神にできないことは何一つない」という言葉を示されて、マリアは神の言葉を受け入れて歩みだしていきます。

 

私たちにも、同じように主からの呼びかけがあります。神さまは一緒にいてくださいます。また、私たちを聖霊によって助けてくださいます。そして必ず道を開いてくださいます。

 

なぜなら、神さまは殺されるかも知れない命を大切にしてくださる方だから。今、命の瀬戸際で苦しんでおられるところにこそ神さまが立ってくださるという約束に慰めと励ましを頂いて歩みましょう。

11/28 「 ついて行く 」 ヨハネによる福音書12章12~19節 説教者/川内活也 牧師

エルサレム入城

イエスさまが公の前で宣教を開始されて約3年半、ついに十字架に向かう最後の1週間が始まりました。ユダヤ三大祭のひとつ「過越しの祭り」を目前に控え、多くの人々がエルサレムに集まっている中、イエスさまは預言の通り(ゼカリヤ9:9)「ろばの子」の背に乗り、エルサレムに入られます。イエスさまと共に居た群衆だけでなく、噂を聞きつけた多くの群衆も集まり、祭の雰囲気も相まってイエスさまの「エルサレム入城」は盛り上がっていました。

期待されていたメシア像

さて、19節ではその光景を見たパリサイ人らが「なんてことだ!みんながイエスについて行ってしまった!」と嘆くほど、イエスさま人気は高まっていました。この時、イエスさまはどんな思いだったでしょう?ご自分についてくる群衆の姿に喜んでいたでしょうか?そうではありませんでした。民が求めていた「メシア像」は、ローマの圧政を打ち破る「革命家」への期待です。イスラエルが昔の王国時代のように繁栄することです。「死」も「敗北」も「苦しみ」も無く、自分達を世界の頂点に導いてくれる解放者、それこそが民が求めていた力強い「メシア」の姿でした。

預言されていたメシア

しかし旧約の預言者たちは「救い主(メシア)」について、民が求めているような「英雄的革命家」として語ってはいません。イザヤ53章にあるように「苦難のしもべ」としての姿で語られています。神が備えられた「救い主(メシア)」は、一時的な解放者・一部民族限定の救い主ではなく、全ての人を罪の囚われから解放する永遠の救い主です。

「死」への恐怖

こんにちの私たちは「十字架」の出来事までを聖書を通して知っていますが、当時、リアルタイムでイエスさまについて行った人々はそうではありませんでした。そのため、イエスさまが捕らえられた後、十字架で「死」に明け渡された時、多くの人々はイエスさまの前から離れて行ったのです。「敗北者イエス」「死んでしまった英雄」としか考えられなかったのでしょう。そればかりでなく、自分達も同罪にされるのではないかという恐れ・不安に襲われたのです。

十字架無くして復活無し

「死と滅び」は罪から来る報いです。それは肉体・物質の問題でなく、霊的な存在である全ての人が負っている永遠の課題です。それゆえ、一時的なローマ帝国からの解放・イスラエルという一部民族限定の「救い」ではなく、罪からの永遠の解放を全ての人に与えるための「救い主」としてイエスさまは世に降られたのです。そのための道としてイエスさまは「わたしについて来なさい」と招かれます(ルカ9:23)。それは「死なない道」ではなく「復活への道」です。新しく生まれなければ神の国を見ることは無く(ヨハネ3:3)、新しく生まれるためにはキリストと共に十字架に死ぬことが必要なのです(ローマ6:6)。キリストと共に十字架に死ぬ時、キリストと共に新しく生まれる復活の朝を迎えるのです。

降誕

イエスさまの十字架の道は3年半の「公生涯」から始まったのではありません。三位一体である真の「神」として在った方が、世に降られたその時から始まったのです。神の御座から降られるとは、まさに「神としての死」とも言える選びです。復活のいのちへ向かう道へ「わたしについて来なさい」と招かれるイエスさまは、まず初めに「神としての死」を選び、世に降られました。

 自分が「死ぬことの無い道」を願い、的外れな「メシア像」を求めてイエスさまについて行った群衆のようにではなく、神の御位を降ることさえ惜しまず、十字架の死へ歩まれたイエスさまについて行く時、死と滅びを打ち破るまことのいのちへの復活の朝を迎えるのです。

 アドベント第一週を歩み出すこの時、私たちは先ず、自分自身の心の王座を降り、それぞれが負うべき十字架を背負って、イエスさまについて行きましょう。

 

11/21 「 死への憤り 」 ヨハネによる福音書11章45~53節 説教者/川内活也 牧師

命を狙われるイエスさま

ラザロの「復活」を目の当たりにした人々の内、多くはイエスさまを信じましたが、一部の人たちは悪意をもってパリサイ人らにこの出来事を報告しました。イエスさまに対し「殺意」を抱く人々の姿は、すでに5章18節の時点でも記されています。5章においてはベトザタの池で病人を癒されたこと、そして今回はラザロを生き返らせたことが、イエスさまを殺害する「動機」となっています。厳密に言えば「正しい行い」のためではなく「神を冒涜した」という理解が、彼らの動機となっていますが、その動機さえ誤ったものであるとイエスさまは諭されました(ヨハネ10:3139)。しかし、地上のことだけを考える者たちの頑なな心は、真理でありいのちである方を排除する思いに凝り固まっていました。

死への憤り

ラザロの死と復活に関する記録は、11章1節から44節に渡り記されています。その中で特に目を引くのはイエスさまの感情についての記述です。「心に憤りを覚えられ」「涙を流された」とあります。これはラザロの「死」に対してではなく人々を支配している「死」に対する憤りであり、支配されている人々に対してながされた涙です。

いのちに結ばれる者であったのに

聖書は人間の存在、世界の存在について「神がお創りになられた」と明確に宣言しています。世界を創った「ついでに」人間も創られたのではなく、人間を生み出す場として世界を創造されたのです。そこに、御自身との愛の交わりに結ばれる存在、「神の子ども」として人が創造されたのです。存在の存在である神の霊を受けた存在、それが人間です。永遠のいのちである方からいのちを受けた存在であり、本来、「死」とは無関係の存在だったのです。にもかかわらず、いのちである神との交わりから離れた「罪」により、人は死と滅びに結ばれる存在となってしまいました。

死ぬための誕生

次週は待降節第1主日を迎えます。イエスさまの誕生を記念するクリスマスの時期を今年も間近にしていますが、イエスさまの誕生は「死ぬための誕生」でした。もちろん、命在る者は全て等しく死に向かって生まれる者だとも言えますが、イエスさまの誕生は「滅びへの死」へ向かう誕生ではありませんでした。

皮肉な預言

今日の箇所に、イエスさまを殺す計画を立てた大祭司カイアファたちのやり取りが記されていますが、大変興味深いものです。彼ら自身は単なる「悪だくみ」をしていただけですが、この会話に「神の預言」が語られていたのです(ヨハネ11:5052)。イエスさまの「死」は滅びへの死ではなく、多くの者を生かすいのちを得させるための「死」であるとの預言です。

苦難のしもべの喜び

招詞でお読みしたイザヤ53章は「苦難のしもべ」と呼ばれるメシア預言、イエスさまについての預言の言葉です。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」のです。死と滅びに支配され、嘆き悲しんでいる多くの者が、イエスさま御自身のいのちによって、その死と滅びの支配から解放され、永遠のいのちの交わりに再び結ばれる時を迎えたからです。

死と滅びからの解放

神との断絶による「罪」の中で、死と滅びに結ばれていた私たちですが、今やイエスさまの十字架による贖いの死により、全ての者にいのちへの道が開かれました。「わたしを信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と、今日も招かれる御声を信じ受け入れ、御約束のいのちの内に在る事を感謝しつつ、新しい一週へと歩み出しましょう!

 

 

『罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです』ローマ6:23

 

11/14 「 解放者の道 」 ヨハネによる福音書9章1~7節 説教者/川内活也 牧師

的外れな質問

生まれつき目が見えない男を前に、弟子達は「彼が盲目なのは彼の罪のせいなのか、それとも親の罪のせいなのか」とイエスさまに問いました。今日では考えられない差別的発言ですが、当時は極自然な疑問とされていました。しかしイエスさまは彼らの問いに対して「罪の報いなのではない。神の栄光が現わされるために」と答えられます。

罪の責任

因果応報や「呪いの継承」という考えは古くから世界中にあります。しかし聖書は「子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない」(エゼキエル18:20)と宣言しています。ましてや障害や苦難は「罪の報い」などではないのです。

解決無き原因探し

弟子達も当時のユダヤ社会も、そして、この盲目の男性自身も、「生まれつき目が見えない」という現実を「罪の報い」とだけ見ていました。そのため、そこには何の解決も与えられません。ただ、何も解決しない原因探しだけがそこにあり、嘆きと呟きと諦めだけが支配する世界となっていました。

遣わされた者

イザヤ61章1節で、救い主は捕われ人に解放を告げるために遣わされた者と預言されています。まさしくイエスさまは神の栄光を現わすために遣わされた救い主として、この男性に向き合われました。現代に生きる私たちには少し受け入れ難い方法ですが、土を唾でこねて男性のまぶたに塗ります。唾は癒しを、土は神の創造を表します。イエスさまの行為を目の当たりにした人々は、この象徴行為から「神の癒しによる再創造」に気付いたでしょう。そして男性に「シロアム(遣わされた者)の池に行き、洗いなさい」と招かれました。

従い歩み出す時

イエスさまの招きに従い歩み出した男性は、シロアムの池の水で顔を洗うと、目が開かれ、視力が回復しました。「運命」と諦めて彷徨っていた道が、遣わされた者(イエスさま)との出会いと、その招きを信じて立ち歩む時、真理の道となり、自由を与えられたのです(ヨハネ8:32参照)。神の御業は、主を信じて従い歩む者に現わされるのです。立ち上がって歩み出す事も出来ないほどに打ちひしがれていたとしても、御霊ご自身が深い呻きをもって執り成して下さると聖書は約束しています(ローマ8:26)。先ず何よりも、主の招きを信じる信仰による祈りこそが、真理の道へと私たちを導いて下さいます。

苦難の中に神の御業が現わされる

不幸や苦しみは罪の報いではないという大前提があります。しかし、私たちはその苦難を前にする時、解決に至らない「原因探し」に彷徨い、運命だと諦め、倒れ伏してしまうことがあります。しかし、あらゆる苦しみさえも、主に信頼して立ち歩み出す時に、神の栄光を現わす機会と変えられるのです。

神の御業を現わす証し人として、新しいこの一週、主に遣わされた者として共に歩み出しましょう。

 

11/7 「 正しい裁き 」 ヨハネによる福音書8章1~9節 説教者/川内活也 牧師

異常な裁き

今日の箇所は福音書の中でも有名な出来事の1つです。律法に従うなら、姦淫の罪は、その当事者男女共が石打ちの刑によって死刑とされる重罪です。律法学者・パリサイ人らは、女をイエスさまのもとに連れ出して来ました。しかしそれは正しい裁きを求める思いからではなく、6節にあるようにイエスさまを試みるための異常な裁きの思いだったのです。

罪に定めない

この論戦を挑んで来た律法学者・パリサイ人に対し、イエスさまは一言だけ告げられます。「罪無き者が先ず初めに石を投げよ」(7節)と。この宣告に対し、人々は年長者から順にこの場を離れて行きます。訴える者が誰も居なくなった後、イエスさまは彼女に語られます。「わたしもあなたを罪に定めない。今後、罪から離れなさい」(11節)と。まるで『スカッとジャパン』というテレビ番組を思い出すような、胸が空くやり取りです。

神を畏れる信仰者

さて、今日は1点注目したい部分があります。イエスさまの宣告を聞き、その場から立ち去って行った人々の姿です。律法学者やパリサイ人の言動は、悪意に満ちたものですが、この箇所を読む時、彼らがある意味で「神を畏れる信仰者」であった姿に気付かされます。

義人はいない

パウロはローマ3章で「義人はいない。ひとりもいない」と語ります。イエスさまからの言葉を受けた時、義人の代表であるかのように胸を張っていた律法学者やパリサイ人らは自分自身の「罪」に向き合いました。ここで大事なのは、彼らの中の誰一人として「私は罪人ではない!」と自己主張しなかった点です。

侮る者

人は、平気で嘘をつくものです。国の最高機関である国会でさえ、人々から選ばれた国会議員、総理大臣が平気で嘘を並べ立てるような社会です。なぜそのような不法が蔓延るのでしょうか?それは「相手を侮っているから」に他なりません。不法者は、人を侮っているだけでなく、神をも侮っているのです。

律法学者らに倣う点

律法学者やパリサイ人らの行動には、倣うべき姿があります。それは言い訳も、自己正当化も、反論もせず、自らの内にある「罪」に向き合う姿勢です。これは、主なる神さまに対する「畏れ」を持つ信仰の片鱗と言えます。周囲の「人」に対してでなく、自分の「心」をも知っているお方を前に、自らの「罪」を認めざるを得なかったのです。

罪に向き合い

私達は自らの内にある「罪」「悪い考え・恥ずべき行い」を誰よりも知っているでしょう。それを言い訳と自己弁護と嘘で、ひと時だけ、何とかやり過ごそうとするならば、それは神を侮るという大きな罪なのです。律法学者・パリサイ人らは、神への畏れから、自らの罪の自覚へ導かれました。しかし残念ながら彼らが取った次の行動は「その場から立ち去る」というものでした。

正しい裁き

ヤコブの手紙4章では「神に近づけ」と勧められています。義人はいない、全ての者が罪の中で死と滅びに向かう存在なのです。そして神さまはそのような「罪人」に「悔い改めて生きよ」(エゼキエル18:32)と招かれているのです。この招きこそが、神さまの正しい裁きなのです。神の義に対し、誰一人「相応しい者」はいない。にもかかわらず神は、相応しく無い者を、御自身の元へと受け入れるために、相応しい者として認め、御子キリストの十字架によって全ての罪を洗い流して下さったのです。

罪の定めから解かれ

私達は自らの罪・汚れを知る者となる「まことのへりくだり」がまず必要です。神の前に、義人はいない、ひとりもいない。私もまた罪人の頭ですと、神を畏れて、その義の前に心打ち砕かれる時、「わたしもあなたを罪に定めない」というイエスさまの招きの声を聞くでしょう。

 

エゼキエル18:32『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる

 

 

10/31 「 平和の福音 」 エフェソの信徒への手紙2章14~18節 説教者/西島啓喜 執事

1 エフェソの信徒への手紙、1-3章概観

この手紙はパウロがローマで投獄されている時に書かれ、各地の教会に回覧して礼拝の中で朗読されたと言われています。

私達に対する神の計画は天地創造以前から始まるとパウロは書き出します(1:4-5)。私達を愛する神の子にしようという計画はキリスト以前には隠されていました。しかし、その「秘められた計画」がパウロに対して個人的に啓示された、というのです(3:3)。その計画とは、ユダヤ人だけではなく、すべての人が福音を聞くことによって神の家族となったことです。「一つの体」とは「教会」を指します。神の家族が目指すのは何か、「神が前もって準備してくださった善い業を行って歩む」ことです(2:10)。

 

2 キリスト讃歌

2:14-18は初代の教会で広く歌われていた、賛美歌、キリスト讃歌ではないかといわれています。

 「キリストはわたしたちの平和であります。」「平和」はヘブライ語で「シャローム」、アラビア語で「ア・サラーム」、同じセム語に属する兄弟の言葉です。しかしこの兄弟が最も激しく憎み合っている悲しい現実があります。イスラエルとパレスチナの憎しみは解決のしようがないと思うほど絶望的です。両者の問題が解決すれば世界の殆どの問題は解決する、と言われます。

「二つのものを一つにし、 敵意という隔ての壁を取り壊し・・」、「二つのもの」はユダヤ人と異邦人を指すと考えられます。かつては軽蔑しあい、敵対していたユダヤ人と異邦人ですが、イエス・キリストの十字架はその敵意という隔ての壁を取り壊したといいます。「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」もともと、律法(トーラー)は人間と人間の正しい関係、人間と神の正しい関係を規定するものとして与えられました。しかし、それがいつからか柔軟性のない、愛のない、違う立場の人を裁く使われ方に変わっていってしまったのです。そうした敵意を作り出す律法をキリストの十字架は破棄したのです。

 

3 「ミンダナオ子ども図書館MCL」のこと

「ミンダナオ子ども図書館」は児童文学者の松居友さんが18年前に始めた事業です。ミンダナオ島は日本に一番近いイスラム紛争地域と言われます。その訪問がミンダナオ子ども図書館を始めるきっかけとなりました。紛争により笑顔どころか、表情すら失っている子どもたちを見てショックを受け、「何か僕に、出来ることはないだろうか。」、そう思って「読み聞かせ」をはじめました。子どもたちに絵本を読み聞かせると笑顔が戻って来る。周りにいるお年寄りや大人たちも笑顔もなり、笑顔の循環ができる、と言います。MCLの働きは、読み聞かせだけではなく、紛争が起こったら、すぐ駆けつけて難民の支援に当たる。食料を届け、雨を防ぐシートを届け、毛布を届ける。両親を戦争で亡くした子どもたちや貧しい先住民の子ども達を引き取って一緒に生活しています。子どもたちには奨学金を与え、希望すれば大学まで出ることもできます。

子どもたちの背景は、キリスト教、イスラム教、先住民マノボ、とさまざまですが、子どもたちは、お互いの宗教・文化を尊重して生活しています。それは一つの家族です。こういう小さな平和が世界に広がるといいな、と思います。

 

4 まとめに

「神が作った壁なら壊すことはできないが、人間の作った壁は、人間が壊すことができる」と言われます。確かに「ベルリンの壁」が壊される日が来るなんて想像していませんでした。イスラエルとパレスチナの壁もいつかは壊されるでしょう。私達の心に壁があるとすれば、それは自分で築いたもので、自分で取り壊すことができます。すでにキリストが「敵意と隔ての壁」を、十字架によって取り壊されたのです。

シャローム、サラームが、世界においても、私達の心のおいても少しずつでも打ち立てられることを願います。

10/23 「 とばりの向こう 」 列王記上19章13~18節 説教者/川内裕子 牧師

<南へ逃避行>

預言者エリヤといえば、列王記上18章のカルメル山におけるバアルとアシェラの預言者との対峙を思い起こします。全イスラエルの民の前で、バアルとアシェラの預言者、合計850人とたった一人で向き合い、準備した犠牲の雄牛にどちらの神が答えてくださるかと勝負をしたのです。激しい火を降して応え圧倒的な勝利をおさめたのは、もちろん主なる神でした。それにも関わらず、バアルとアシェラの預言者たちを殺したエリヤは、イゼベルに命を狙う脅迫を受けると、恐れて直ちに逃げ出しました。北イスラエルから南ユダのベエル・シェバ、それからさらに南下し、40日歩き続けてホレブの山まで逃げていきます。その距離にアハブ王とイゼベルの支配下を逃げ出そうとするエリヤの必死さを感じます。

 

<エリヤの孤独>

ホレブの山の洞穴に閉じこもったエリヤに、「エリヤよ、ここで何をしているのか」と主が問われます。孤独と恐れの中に置かれているエリヤは、「私はこんなに頑張っているのに、私一人だけが割りにあわない」と主にその責任を問うかのような答えをします。「わたし一人だけが」という言葉が、エリヤの孤独を示します。

私たちには、誰も自分を助けてくれず、孤立無援で働いていると感じる経験があるでしょう。自分だけが頑張っていて、誰も自分を理解してくれないとエリヤのように孤独を感じ、見放された思いに陥ることがあるでしょう。目の前のことでいっぱいいっぱいで、周りを見回す余裕はありません。むしろ、周りは誰も助けてくれない、分かってくれないと怒りさえ覚えることもあります。エリヤの洞穴の中での最初の答えは、布団をかぶって駄々をこねている子どものように聞こえます。そこを出て主の前に立て、という言葉に従うこともできず主の呼びかけに心ふさいでいます。

主は岩を砕く激しい風、地を揺るがす地震、燃える炎の通り過ぎたのちに、「静かにささやく声」でエリヤを呼ばれました。カルメル山で顕現した激しい力ではなく、弱り切ったエリヤの心に、「静かにささやく声」が届きました。

 

<とばりの向こう>

洞穴から出て来たエリヤと主は、同じ会話を繰り返します。けれども今度はエリヤは主の言葉を聞く準備ができています。主はようやく答えられます。来た道を引き返し、逃げて来たその場所にまた戻りなさい。ハザエルをアラムの王、イエフをイスラエルの王とせよ。これはひいてはアハブとイゼベルに連なる王系を倒してゆくこととつながります。エリシャを預言者として立てよ。これは後継者の任命です。イスラエルに主に従う民7000人の人を残している。

「私一人」と孤独を訴えるエリヤへの答えは、イスラエルの中に主なる神に従う7000人がいるよ、預言者一人じゃなくて後継者を与えるよ、バアルを持ち込んだ支配者は倒されていくよ、あなたは一人ではないよということでした。

自分の周りにとばりをおろしていたら見えない世界があります。とばりの向こうにはあなたと共に働く人々、あなたの働きを受け継ぐ人々、多方面から一緒に働く人々がいるよと主が目を開いてくださいます。なによりも、南へ南へと逃げていた時に、主ご自身が一緒にいてくださり、エリヤを養って下さったのです。

私たちもまた、主のささやく声に耳を傾け、孤独のとばりのむこうに目を凝らし、耳を澄まして、主の召して下さる働きに立っていきましょう

 

 

 

 

10/17 「 心開かれる 」 列王記上17章17~24節 説教者/川内裕子 牧師

<思いもかけない理不尽>

10月は、旧約聖書の中の大預言者、エリヤをめぐる出来事を読んでいます。エリヤとの出会いで、わずかな粉と油が尽きることなく、飢え死にから逃れたサレプタの女性に、思いもかけない出来事が起こります。女性の大切な息子が病気になり、死んでしまったのです。女性にとっては、足元をすくわれたような驚きと悲しみでしょう。二人で飢え死にするはずのところを生き永らえたのに、自分より長く生きるはずの息子が先に死に、自分が取り残されてしまったのです。その衝撃はエリヤに向かいます。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるためにこられたのですか。」(18節)という女性の言葉は一見、理不尽な問い、八つ当たりのように聞こえます。息子はエリヤのせいで病気になり、死んでしまったわけではないのです。

 

<正しく声を上げる>

しかし、彼女は向かうべき人に向かって言葉を向けたと思います。以前の「あなたの神、主は生きておられます」(12節)の言葉には、わたしの神とあなたの神は違う、という態度を感じます。しかしエリヤが主が雨を降らせること、天候を司ることを語り、粉も油もなくならないと語る中で、彼女はエリヤの求めに応じ、その結果尽きることのない粉と油で養われる体験をします。

18節ではエリヤに「神の人」と呼び掛けています。自分の身に起こった事から、主なる神を認めつつあるように思えます。けれども、それならなぜ息子を死なせたのかと信じ切ることができない様子もみて取れます。女性は息子の死を自分の罪の結果と捉え、自分の犯してきた罪に応じて、大切な息子の命を神が取り上げたと考えたのです。

女性から嘆きをぶつけられたエリヤも、神に声を上げます。息子と二人きりになり、主に訴え、自分の命を移すかのように息子に3度身を重ね、祈ります。エリヤの必死の主への求めが伺えます。主はその祈りに応えられて、息子は生き返ります。

 

<心開かれる>

あたたかい息子の体、息をしている息子を手の中に抱いたとき、女性の口から「今わたしはわかりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と彼女の信仰告白がこぼれます。「神の人」と言いつつも迷いの中と行ったり来たりだった彼女が、はっきりとエリヤを通して主を認めます。「あなたの神」がとうとう「わたしの神」になったのです。

エリヤがイスラエルの民の前でバアルの預言者と対峙した大きな働きはまだここにはありません。エリヤは自分も命の瀬戸際に立たされながら、一人の異邦人女性とその息子の命のために必死に神に祈り、願いました。命を与え、生かして下さる主の業をその身に体験して、この女性は心を開かれていきました。この女性の回心は、イスラエルの民の回心の先触れです。そして私たち一人一人の神への献身の先触れでもあります。

あなたと、あなたの大切なものの命にふれ、生かして下さる主なる神に信頼し、立ち帰り、新たな週も生きる者として歩んでいきましょう

 

 

 

10/10 「 実に気の進まぬこと 」 列王記上17章8~16節 説教者/川内裕子 牧師

<主の言葉、ふたたび>

いつ涸れるとも知れぬケリト川がとうとう涸れてしまい、そこで生活していたエリヤに、シドンのサレプタに行きそこの一人のやもめに命じてあなたを養うとの主の言葉が告げられます。この主の命令は、前回同様、素直に従うには普通ではない命令でしたが、エリヤは主の言葉に従います。

シドンはアハブ王の妻イゼベルの故郷、エリヤにとって異邦の地でした。サレプタは地中海沿いの町で、他の地域よりも水があったと考えられます。当時夫をなくした女性や、親を亡くした子ども、寄留者は、後ろ盾なく、保護すべき人々と考えられてきました。エリヤは本来なら保護の必要な人物から養われるということです。

 

<エリヤと女性の出会い>

サレプタに着いたエリヤは、たきぎを拾っている女性に水を求め、次いでひとかけのパンを求めます。水を取りに行こうとした女性は、パンの求めには応じません。彼女にあるのは、死ぬ前に息子と食べるための少しの粉と油しかなかったからです。窮状を語る女性に、エリヤはまず私にパンを作って持ってきて、その後、あなたと息子の分を作りなさいと命じます。彼女にとっては、なんとも気の進まない依頼です。この突然やって来た見も知らぬ異国人、イスラエル人の男性は無茶な願い事をする。自分と息子でようやく分かち合う最後の食べ物、と考えているのに、それを2人ではなく3人で分かち合えという。しかも、まずこの男性の分を作り、その後自分と子どもの分を作りなさいという。この女性にとっては、断ってもいい案件でした。しかし、最終的に女性はエリヤの言葉に従い、その言葉通りにします。彼女の中で起こっていたことは何でしょうか。

 

<命につながる食べ物>

女性の「あなたの神、主は生きておられます。」(1712)という言葉は、「誓って言いますが」という神に誓う言葉です。同じような誓いを、エリヤもアハブに向かって口にしています。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」(17:1)。この異邦人の女性は、「私の神」とは言いません。「エリヤの信じる神、あなたの神」です。

エリヤは女性に養いの依頼をし、イスラエルの神は、雨を降らせる日まで 壺の粉は尽きることなく、かめの油はなくならない(14)と語ります。彼女が最初に語った食べ物の列挙は、死につながります。これを食べたら、あとは死ぬだけ。しかしエリヤが語った食べ物は命をつなぐことにつながりました。それはあなたの神、私の神ではない、と線引きをしていた女性は最終的に、死から命へと、エリヤの神、あなたの神へと歩を移しましたそこから彼女と、息子の生きてゆく道が開かれていきました。同時にエリヤが生き延びるか否かも、この女性のひとまたぎにかかっていたのでした。

イスラエルにとっては異邦の地、バアルを持ち込み干ばつのきっかけともなったイゼベルの故郷の地の女性にエリヤが生き延びる術が託されました。

夫が亡くなり、後ろ盾をなくしながら、守り育てるべき息子も育てあぐねている女性にイスラエルの行方がかかっていました。

自分のことで精いっぱいであっても、あなたの神は私の神であるか、という問いを頂きつつ、命へとつながる歩みへと踏み出していくことができますように。

 

 

10/3 「 水際生活 」 列王記上17章1~7節 説教者/川内裕子 牧師

<エリヤの預言>

エリヤは列王記にかなりのボリュームでその働きを記されている預言者で、新約聖書でも記されている通り、イスラエルの人々にとって大きな働きをなした預言者として覚えられています。そんなエリヤは、今日の箇所では、アハブ王に預言した後、公に現れての働きは何もしません。主に命じられた通り、自分の故郷に近いケリト川のほとりに隠れ住むのです。

アハブ王は偶像バアルやアシェラを拝み、その力に依り頼みます。天候や、豊穣を司るとされたそれらの偶像を拝むアハブ王に、エリヤは向こう数年、雨も露もないだろうと主なる神の預言を告げます。エリヤの干ばつの宣言は天候をつかさどるのはバアルではなく主なる神だ、という宣言を意味しました。エリヤはそのため、イスラエルに害なす者としてアハブ王から命を狙われ、隠れ住むこととなります。

 

<人々が問われたこと>

数年の間、露も降りず、雨も降らないというエリヤの語った預言は、農作物が育つ水も、人々の飲料も、もちろん家畜の水もなくなり、人々が飲むものも食べるものもなくなることを意味します。干ばつは、王にだけ降りかかることではなく、国民にも、エリヤ自身にも降りかかることでした。列王記上18:21では、カルメル山に集まった民にエリヤは呼び掛けます。「あなたたちはいつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるならバアルに従え。」その時「民はひと言も答えなかった。」と記されています。

あなた方が頼りにし、信じているのは誰なのか、あなたたちが従っている神は何者か、ということを、この出来事を通して人々は問われます。

 

<養われる方は主なる神>

干ばつの中で、エリヤ自身も生活します。エリヤは主の命じられたとおりに、ヨルダンの東、ケリト川のほとりに隠れ住みます。それは彼の故郷近くでした。主は烏に命じてパンと肉を朝夕運ばせ、飲み水はケリト川から飲むようにと指示します。

 ここ数年、と自身が預言を預かり伝えつつも、いつまで続くかわからない水際生活をエリヤは続けました。ずっと先まで、ではなく、朝から夕、夕から朝と一日ごとに養われる生活に、出エジプトした民が日ごとのマナで生活したことが重なります。

ケリト川は雨季のみ水の流れる枯れ川であったことが7節からわかります。有り余る中で養われているわけではない、その日その日の水際生活で、確かに主は養って下さる方であることをエリヤは身をもって体験しました。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)とイエス様は言われました。私たちを養って下さり、生かして下さるのは主なる神ご自身であると語られています。今日は主の晩餐式を行います。イエス様の十字架の贖いを覚えて、イエス様の裂かれた肉を覚えつつパンを頂き、イエス様の流された血を覚えつつぶどうジュースを頂く時です。全ての人が主に招かれています。どっちつかずではなく、主のもとにおいでなさいと招かれています。エリヤを通して体現された「必ずあなたを養う」、という約束に私たちも生きていきましょう。

 

 

9/26 「 喜びと希望 」 ヨハネ7章37~39節 説教者/川内活也 牧師

話が違う?

イエスさまはご自分の兄弟たちに「わたしの時は来ていないから、祭には行かない」と宣言されました。しかし、ふたを開けてみれば身を隠されるどころか、民衆の注目を一身に集めるような登場をされています。その姿を見た兄弟たちは「話が違う……」と思った事でしょう。でも、イエスさまは居ても立ってもいられず、そう叫ばざるを得ないからこそ、今日の箇所にあるように御自身を民の前に表されたのです。

ユダヤ三大祭

今日の場面はユダヤ三大祭のひとつ「仮庵の祭」の出来事です。出エジプトの出来事に因み、この主の業を記念するため毎年行うよう、律法で定められているものです。エジプトからの解放を記念する「過越しの祭」、シナイ山で律法を受けたことを記念する「7週の祭」、そして、約束の地へと荒野を旅した日を記念する「仮庵の祭」です。

仮庵の祭

仮庵とは「仮の住まい」です。荒野の旅では天幕が人々の住まいでした。しかしそれは「約束の地カナン」という希望へ向かう幕屋です。苦しみから解放され(過越し)・主との交わりに結ばれる(律法授与)という喜びと感謝を携え、尚、将来と希望へ向かって歩む荒野の旅路。その主の導きを記念するためにこの祭が定められています。

荒野の旅において「水」は命を繋ぐ大切な宝です。主は荒野を旅する民に、必要に応じて「水」を与えられました。それは民全体の喜びとして主が与えて下さる恵みです。そのため、仮庵の祭でも「水」を祭壇に注ぐ形で、主の恵みを記念していました。

排除された者

ところが形骸化した祭において、この「水」を記念する場に加わる事が許されたのは、極一部の人々だけです。大多数の民衆は、この「注がれる水の記念」の場から排除されていました。

居ても立ってもいられず

荒野の旅において「水」は命を繋ぐもの。民全体への恵みとして与えられた主の業が、今や、一部の者によってのみ独占されている祭の姿。イエスさまはその姿を目の当たりにされ、居ても立ってもいられずに叫ばれたのです。

地上の旅路

私たちの人生は仮庵の旅です(2コリント5:1他)。この仮の住まいをやがて脱ぎ捨て、永遠の神の住まいへと入る希望の旅なのです。しかし、その旅路において必要な「生けるいのちの水」を得られず、搾取され、排除され、失っているなら、その旅は悩みと苦しみ・恐れと不安・絶望と悲しみの旅路となってしまうのです。

イエスさまの招き

地上の旅において、飼う者のいない羊の群れのように、いのちの水を持たずに死と滅びへと歩む人々を見て、イエスさまは招きの叫び声を上げられます。「渇いている者はわたしのもとに来なさい」と。将来と希望の約束の旅を歩むために必要な「生けるいのちの水」を与えると招かれているのです。

 『祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。 

彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。

干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない』

エレミヤ17章7~8節

 

9/19 「 感謝して分かち合う 」 ヨハネ6章10~13節 説教者/川内活也 牧師

「しるし」ではなく

イエスさまは「しるし(不思議な奇跡)」を求める事を否定的に語られます(マルコ8:12ほか)。しかし、4つの福音書全てに取り上げられている今日の「5つのパンと2匹の魚」の出来事は、まさに「不思議なしるし」です。でもイエスさまが願っておられるのは、そのようなエンターテイメントへの拍手喝采では無かったのです。今日はこの箇所をベースに、イエス・キリスト、主なる神さまが何を人の応答として求めておられるのかを共に見てみましょう。

200デナリのパンでも不足

今の日本の価値で200デナリオンは約100万円です。別の箇所ですが、レプタ2枚で1食分のパンが買える価値があると言われています。1レプタ約40円ですから80円で1食分のパンが買える計算になります。では、200デナリオン・100万円では何食分になるのでしょうか?12,500食分です。200デナリもあれば、充分に1万人が食事をすることが出来るのです。しかし、フィリポの答えは「200デナリでも足りません」というものでした。

ましてやこれっぽちでは……

フィリポに続いてイエスさまの問いに答えたのはアンデレです。自分たちが携行している食料は荷物持ちの少年が持つ5つのパンと2匹の魚だけです。自分たちの食事としては必要量を確保しているとしても、目の前にいる1万人の群衆の必要量には到底足りない、というのが彼の答えでした。

不安の中で

アンデレは「持っているモノ」でも不安でした。フィリポは「あり余るモノ」にさえ不安を訴えます。彼らの姿は、罪の支配の中で死と滅びにつながれている、全ての人間の性質を表しています。人は不安の中に生きています。今持っているものに不足を感じるだけでなく、どれだけのものをもったとしても「不足」に不安を覚えるのです。

信じる信仰が鎖を解く

ヨハネの福音書では一貫して「イエス(神)を信じる信仰」へと招いています。これはイエスさまを信じたら金持ちになるとか病気が治るとかいう「しるし」の話ではありません。どこまでいっても真に「大丈夫」と言えない「死と滅び」の鎖に捕らわれた「罪」の存在である人間。しかしその鎖を解かれるために、イエスさまは世に降られたのです。

大丈夫

この天地は滅び去ります。頼りとしていた経済も安定も健康も、いつか必ず死と滅びに飲み込まれてしまうのです。「この天地は滅び去ります。しかしわたしの言葉は決して滅びることがありません」と語る事の出来る唯一の主なる神さまが「大丈夫」と言われる招きを信じる時、死と滅びの恐れ・不安は消え去るのです。

感謝して分かち合う

死と滅びの支配の中に在って、人は、持っている5つのパンと2匹の魚だけではなく、200デナリのパンにさえも不安を感じるのです。しかし、インマヌエルである主なる神さまが共におられることを信じ受け入れ、従う時、「大丈夫だよ」という主の平安が、いのちの泉として湧き上がります。新たに何かを手に入れるまで不幸なのではない、いま与えられている5つのパンと2匹の魚こそが、主への感謝をもって分かち合う時に、全ての者を充たす豊かな恵みとして用いられるのです。

 

金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。

ヘブライ13章5節

 

 

9/12 「 いのちの泉 」 ヨハネ4章13~15節 説教者/川内活也 牧師

サマリヤの女

当時、ユダヤ人はサマリヤ地方を「汚れている」と見下していました。その評価はサマリヤの人々も自認している事でした。「神の民であるイスラエル人」というアイデンティティと同時に「汚れたサマリヤ人」という卑屈な自己認識が混在する地域だったのです。

また、父権主義社会でもありましたので、女性は低い立場に追いやられていました。ここに出て来る「サマリヤの女」は、ユダヤ人から軽蔑されるサマリヤの住民であり、社会的地位が軽んじられている「女性」だったのです。

そればかりでなく、彼女は16節以下を読むと「5人の男性と、結婚と離婚を繰り返し、現在は6人目の男性と同棲中」だと分かります。当時の社会でも「汚れている」と見られる立場です。彼女が、人とのかかわりを避けて生きている姿が見られます。

罪の中の罪、断絶の中の断絶、孤立の中の孤立を生きていた、そんな彼女に、イエスさまは声をかけられました。

いのちの泉

13節以下でイエスさまと女の会話は「渇くことの無い水」をテーマに進められます。その会話の中でイエスさまは「わたしを信じなさい」(21節)と招かれました。そして、キリストと呼ばれるメシア(救い主)とはイエスさまであると明らかにされます(25~26節)。イエスさまを信じた時、彼女の内に「いのちの泉」が湧き上がりました。

インマヌエル

マタイ1章23節で、イエスさまは「インマヌエル(主、共にいませり)」と呼ばれると約束されています。旧約聖書の中にも度々語られますが、主なる神さまは「共におられる方」です。「主なる神はあなたと共にいるよ」というメッセージは、すなわち「あなたは見捨てられた存在ではないよ・わたし(神さま)はあなたを知り、覚え、見つめ、そばにいるよ」という約束なのです。

人の渇き

人間は「交わりの存在」として創造された者です。しかし神との断絶という「罪」によって、真の交わりから断ち切られて歩む者となりました。交わりを求めながら断絶を生みだす存在となってしまったのです。この「断絶」こそが、人の魂に渇きをもたらせます。様々な自己評価・他人からの評価・社会の中で、断絶を恐れ、怯え、渇いていくのです。

真の交わりとは愛

三位一体である主なる神さまは「完全な交わり」に結ばれている唯一の存在です。その姿をもって「神は愛なり」と語られています。この方との交わりに結ばれることこそ、イエスさまが与えられるいのちの水なのです。

渇きが潤され

人目を避けて、断絶の中に生きていたサマリヤの女は「主に知られている自分」を知りました。それは、神に愛されている自分であることを知る事です。断絶と孤立を生み出す罪の世界に在る人の価値観、世の基準で無く、「わたしはあなたを忘れない・共にいるよ」と語られる真の神を基準とする交わりの命です。その命の喜びに満たされた彼女は、人々の前に躍り出て、神を賛美し、証しする者となりました(28節)。生けるいのちの泉が、彼女の人生に湧き上がったのです。

 

自分自身で、また、周りから「価値無き存在」と評価されることほど、心が渇く状況はありません。しかし、そのような評価を覆し、打ち破る「真の評価」をもって、主なる神さまは私たちに語りかけておられます。

『あなたはわたしの目に高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と。

主の招きを信じ、受け入れる時、私たちの内に、尽きることの無い『いのちの泉』が溢れ流れ、渇くことの無い人生へと歩み出すのです。

  

 

『女が自分の乳飲み子を忘れようか?自分の胎の子をあわれまないだろうか?たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ』イザヤ書49章15節

 

9/5 「 栄えは主に在り 」 ヨハネ3章22~30節 説教者/川内活也 牧師

バプテスマのヨハネ

ユダヤ教には「清めの儀式」として手や全身を水で洗う慣習がありましたが、バプテスマのヨハネはこれを「ただの慣習的な儀式」ではなく「罪の悔い改め」として教えました。この新しい視点は人々に受入れられ、多くの人々がその教えに従いバプテスマを受け、また、弟子に加わりました。

きよめの論争

25~26節を見ると、ヨハネの弟子たちがユダヤ人たちと「きよめ」についての論争をしたとあります。具体的な内容は分かりませんが、要は、川向うでバプテスマを授けているイエスさまたちのグループのほうが、ヨハネたちよりも優れているのではないか?と馬鹿にされたことが予想できます。ヨハネの弟子たちにしてみれば、師匠の権威が失墜することは自分達にとっての屈辱であり恥です。商売敵に客を取られたような苛立ちもあったかも知れません。せっかく築き上げて来た自分たちのコミュニティーが崩壊してしまうのではないかとの恐れもあったでしょう。悔しさや動揺がヨハネの弟子たちの中に広がり、師匠ヨハネにその思いを伝えました。

ヨハネの使命

弟子たちの懸念・疑念・動揺に対しヨハネは告げます。自分の使命はあくまでもイエスさまを迎えるための道備えであり、自分が花婿なのではなく、自分は介添人なのだと、その使命を宣言します。これは負け惜しみではなく、これこそが喜びの使命なのだと教えました。

喜びへの働き

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)それこそが「わたしは喜びで満たされている」(29節)という告白に至る道なのだと、バプテスマのヨハネは証ししました。喜びに至る働きとは「あの方(主なる神)」が栄えるために「わたし」が衰えていくことなのです。

頌栄の告白

教会・信仰者は「頌栄」を信仰の告白として常に言い表して来ました。主の祈りの結びにも「国と力と栄えとは、限りなく汝(主)のものなればなり」と告白します。頌栄とは「献身」の信仰告白です。

肉の支配から神の支配へ

神は、いのちへの道を与えられました。すなわち人が自らを王とする人生では無く、まことの神の支配の内に歩む人生への道です。それは、心の王座を主に明け渡す道です。

栄えは主に在り

良くも悪くも、心の王座に座り、築き歩んで来た日々を明け渡すことは苦痛かも知れません。それは、バプテスマのヨハネの弟子たちが感じたような恐れや不安、動揺を覚えるものかも知れません。しかし、だからこそバプテスマのヨハネの告白が力ある証しとなります。「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」。なぜならそれこそが、肉の支配による死と滅びの道から、永遠のいのちである義なる神、王の王、主の主の支配に在って「喜びに満たされる」道だからです。

「国と力と栄えとは、主のものです」と、心の王座を明け渡す時に、人知では測り知れない神の平安と喜びが、私たち一人一人を正しく治めて下さるのです。

 

『すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます』2コリント4:15~16

 

8/29 「 もう、戻らない 」 ミカ書4章1~3節 説教者/川内裕子 牧師

 <主の教え>

 

『わたしたちだけのときは』という絵本は、カナダの先住民族の一つであるクリー族の祖母と孫娘とのやり取りでつづられるお話しです。祖母が経験したキリスト教の寄宿学校での体験の中で祖母たちが自分たちを失わないでいようとする姿が描かれます。カナダでは強制的に国内139カ所の寄宿学校に送られた先住民族の子どもたちが、劣悪な待遇や虐待のために6000人以上も学校にいる間に亡くなったと言われています。聖書のみことばに立とうとする学校が、なぜ多くの子供の命を奪うことになってしまったのか、正しくみ言葉に学ぶことの切実さを考えます。

 

ミカは南ユダの預言者で、北イスラエルがアッシリアに攻め込まれ、南ユダも周辺諸国の圧力を受ける不安定な状況の中、「終わりの日に、人々はエルサレムを目指す。主がみ言葉を語られる」と預言します。主の「裁き」と「戒め」は、争いにはつながらない、「戦うことを学ばない」、平和につながるのだと語ります。

 

みことばに正しく聞くならば、私たちのなすことは、平和につながるはずだというのが、主の教えです。

 

 

 

<剣を鋤に、槍を鎌に>

 

では、具体的に「平和」をどうやって実現するのか。3節では、剣や槍を鋤や鎌に打ち直すと語られます。剣や槍は相手を傷つけ、命を奪う道具です。一方鋤や鎌は農具です。土地を耕し、作物を育てる道具であり、命を養うものです。同じ金属を材料としながら、殺し傷つける道具を鋳造して、全く正反対の命を生かすものとして作り直そうと語られています。

 

戦いの場で、実際に剣や槍を使うことのほかに、ここで私たちは目に見えない剣や槍を相手に振りかざすことはないかと自問します。言葉や行いを通して、パワーをふるってしまうことはないでしょうか。家族、友人、知人…。私はあります。力をふるってしまうことも、力をふるわれてしまうことも。いずれにしろ、その関係の中に対等で、安心できるつながりはありません。今日の御言葉は、そのような力の関係に終止符を打つものです。

 

 

 

<もう、戻らない>

 

剣や槍を、鋤や鎌に打ち直すとは、剣や槍を使う立場にはもう立たない、剣や槍をふるう場にはもう行かない、奪う者、殺す者に、自分はならない、という決断を表します。

 

今日の応答賛美歌『ガリラヤの風』の作詞者、由木康さんは、主の祈りの「み国を来らせたまえ」の句から第1次世界大戦中の体験をふまえ、神の国の永遠の平和が実現するようにとの祈りを込めてこの讃美歌を作りました。争いの時代を歩みながら、神の平和が支配する世を希求したのです。

 

ガリラヤで語られたイエス様は敵を愛し、迫害する者のために祈れと言われました。そして、十字架の道に至るまで、ご自身がおっしゃったその通りに歩まれました。その先にはみじめな負けはなく、その先には死からの勝利、復活がありました。力の強い者が勝ってゆくという世の考えに、私たちは与しません。「もはや戦うことを学ばない」という、世にあっては愚かな生き方に私たちは立ちましょう。もう、力でねじ伏せる生き方には戻らない、そう決断して、主と共に今週も歩みましょう。

 

 

8/22 「 そこをくぐり抜けて 」 イザヤ書65章17~25節 説教者/川内裕子 牧師

 

 <新しい天と、新しい地の創造>

 8月は「平和」をテーマに、今日はイザヤ書より。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(17)からは、「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)を想起します。ここで用いられる「創造する」(バーラー)は、神様の行為にのみ使われる動詞です。

また「新しい天、新しい地」という表現から、ヨハネの黙示録211「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。」の終末論的な天地の創造を想起します。

今日の箇所は、神様だけが行われる創造の業、それもこれまでの世界を刷新する、全く新しい天地を創造される、という預言なのです。

17節・18節には、「創造する」と3度も語ることにより、その創造の業の絶対性が強調されています。またその創造は、以前のものは思い浮かばないくらいの新しさ(17)というのです。それほどの刷新、人々が思いもよらないような新しさなのです。

 

<その創造は喜び、楽しみ>

この全く新しい創造は、喜びと楽しみをもたらします。18節~19節にはヘブライ語で「楽しむ」・「喜ぶ」という2つの類語がそれぞれ3回ずつ用いられます。神が創造の業を喜び楽しみ、喜び楽しむものとしてエルサレムと民は創造され、創られたものは喜び楽しむ、というはちきれんばかりの歓喜が伝わってきます。

 

<新しい創造の預言がたちのぼるのは>

では、喜びと楽しみに満ちた創造とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。それは一人の人間の人生が何十年、何百年もの成長をする木の一生にたとえられるような人々の長寿です。そして長く住む場所が保証され、その生業が保証され食べてゆくことができる、という生きていく上での祝福です。

裏を返せば、現状はそうではない、ということです。乳飲み子が育つことができず、高齢の方々は長寿を全うできず、建てた家は他国の人々に略奪されて追い出され、苗を植えたぶどうは自分たちの口には入らず他国の人々が食べる。戦争や内紛、飢餓、そのような平和とは程遠いことが、この預言が語られたときに起こっていたということです。バビロンの捕囚から帰還したものの、住む土地はすでに先住の人々に奪われ、略奪や攻撃にさらされ、生き延びてゆくことの危機にさらされていた人々にこの預言は語られました。

 

<そこをくぐり抜けて>

 新しい創造の預言は、動物たちについても語られます。力を持ち、小羊や牛の肉を食べる獣が変えられ、本来餌とする草食動物と共に草を食べるのです。新しい創造の中では、力をもち、他を蹂躙し、支配しようとするものが練られて変えられ、力弱くされているものと共に生きてゆくと語られています。

私たちは時として自分本位に生き、結果として他者を略奪する者として生きてしまうこともあります。悔い改めと共に主の練りきよめをくぐり抜け、他者と共に生きてゆく新しい創造へと招かれています。

奪い取られている人々が神を呼ぶ前に応え、語っているあいだに聞き届けてくださるのが神様です(24)。今、この困難の現状の中で、神の新しい創造は始まっている、という慰めの約束を私たちは頂きます。新たに創造され、隣りびとと共に生きる者となりますように。

8/15 「 苦難の先に 」 エゼキエル書13章1~7節 説教者/西島啓喜 執事

 

 (1)バビロン捕囚

エゼキエルはバビロン捕囚という、激動の時代を生きた預言者です。エゼキエルが25歳位になったころ、アッシリアが新バビロニアによって滅ぼされ、世界はエジプトと新バビロニア二分されます。南ユダはエジプト優位とみてエジプト側に付きますが、バビロニアは力を蓄え、南ユダに圧力を加え、国王エホヤキンはバビロン王に降伏し、家族共々バビロンに連行されます。エゼキエルも他の住民とともにバビロンに連行されます。これが第一次バビロン捕囚です

(2)にせ預言者
捕囚民は意外に楽観的でした。「バビロンの王との平和が実現しすぐ帰還できる」「エルサレムは難攻不落で神殿が残っている限り、主は必ず救出してくださる」。偽預言者は人々に心地よい言葉を語りました。エゼキエルは、彼らは廃墟を食い物にし、うわべを取り繕うだけの偽預言者だ、と糾弾します。

(3)エルサレム落城
それから12年後、難攻不落と言われていたエルサレムの城壁は崩され、神殿も焼け落ち、万世一系のダビデ王朝も途絶えます。このことは、イスラエルの民に深刻な打撃を与えました。「イスラエルの神は無力であったのか、あるいは自分たちは神から完全に見捨てられてしまったのか」。絶望のどん底にある民に、エゼキエルは、回復の希望を与えます。さらにエゼキエルは新しい神殿のかたち、新しい国家のかたちを描いてみせます。エゼキエルの再建プランは、帰還した人々に引き継がれ第2神殿の再建に繋がります。

(4)結語
イスラエルの民は、バビロン捕囚により信仰的な危機に陥りました。しかし、預言者や、歴史文書を守った書記たちによってイスラエルの歴史が見直されます。それらの、歴史や信仰告白は、今、手元にある旧約聖書という形でまとめられるました。
バビロン捕囚という危機によってイスラエルは再生しました。しかし、それは前のような形のイスラエルではありません。頼るべきは、見える国家や神殿での祭儀ではない、ヤーウェのみに頼ること、律法を心に刻みつけ、律法を持ち歩くこと、正義を実現し、弱者を守ること、律法本来の掟を行うことが大切なのだ、と自覚します。さらに、今回の悲劇を通して、ヤーウェが一部族や一国家の神ではなく、世界の主になったことを確信しました。
私達は今、コロナという危機の只中にあります。エゼキエルの体験は、このコロナ危機をどう受け止めるかという示唆を与えるように思います。イスラエルの民が危機の中で真剣に神と向き合ったように、私達も今、静まって、主と向き合うときとしたい。

8/8 「 生命の道をつなぐ 」出エジプト記 1章15~21節 説教者/川内裕子 牧師

 

 今日登場するエジプト王は、生命を選別し、コントロールしようとした人物です。王はイスラエルの人々の数が、エジプト国内に増えることを警戒しました。ヤコブが一族でエジプトに移り住み、400年ほどが経過し、エジプトの飢饉の危機を救ったイスラエルの息子ヨセフの存在も忘れられていました。 王は戦争になった時にイスラエルの民が敵側につくことを警戒します。イスラエルの民はエジプトの北方、ゴシェンの地で遊牧をしました。それはヨセフがエジプト王に一族がエジプトの地で生きていくことを赦してもらうためにとった知恵でした。けれど、「羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであった」と書かれているように、長い年月の間に、エジプト人にとって、イスラエルの民は、自分たちの嫌う仕事を生業とする嫌悪する存在となったのかもしれません。

イスラエルの民に重労働を課すことによってその人口増加を食い止めようとしたエジプト人の計画は頓挫します。とうとう王は、二人の助産婦に戦士となる男の子は殺し、奴隷として強制労働に使うことの出来る女の子は生かしておけ、と命じます。自分たちの国が繁栄し、成り立ってゆくために、自分の国の都合のために、イスラエルの民の生命の選別を、王は行います。

 エジプト王は神の化身と考えられました。「現人神」の王の命令に背けば、死も覚悟しなくてはならないでしょう。しかし二人の助産婦は、王の命令よりも、自分が信じ、恐れ敬う主なる神に従いました。命を与えてくださるのは主なる神である、と考えた彼女たちは、自分たちの手で、神が与えた命を奪うことをしませんでした。

 命令を出したにも関わらず、相変わらず男の子が生かされている状況を見て、王は助産婦たちに、一体どういうことかと問いただします。自らの生殺与奪の権を握る王に対して、彼女たちは「ヘブライ人の女性は丈夫なので、私たちが行く前に生んでしまうのだ」という知恵のある返答をします。主なる神が彼女たちに後ろ盾を与え、助けてくださっていることがわかります。

 ところで、先ほど見たように、エジプトの王はファラオという称号のみで登場し、王の名は記されていません。それに対して二人の助産婦は「シフラ」と「プア」という名が残されています。「シフラ」とは「美しい人、立派な人」という意味があり、「プア」とは「輝き」という意味があります。

 名を記されることの無い王と、美しい、輝きと名を記される助産婦たちの対比の中に、いかに目に見える力を持っているように見えても、他人の生命を握り左右する権利は、人間にはないのだということを知らされます。そして主なる神は危機にさらされ、命を脅かされている人々をお見捨てになることなく生きる道を備えてくださる神であると知らされます。

絶体絶命で逃げ道がないように見えながら、シフラとプアは王の前で、知恵を与えられて自らの命も、また殺されるはずだった多くの男の子の命も救いました。シフラとプアには、主なる神への畏れ敬いがありました。助産婦は一人一人個別のお産に立ち会い、赤ちゃんは取り上げるものの、生まれてくる子どもと、出産する母親が無事に命をつなぐのは、神の業であるということを、命の生み出しのかたわらにいて身に染みていたのではないでしょうか。

シフラとプアには、生命を生み出す創造主への絶対的な信頼と、生み出すこと神への畏敬の念があり、そのことにより具体的な脅威をもたらす王の命令よりも、命を造られ、生み出す神に従うことが正しいと決断したのでしょう。

アリが大きな建物に小さな穴を穿つように、シフラとプアは自分に与えられた小さな力でしなやかに立ちはだかる困難に立ち向かいました。彼女たちはそうして命の道をつないでいったのです。それは彼女たちの名の通り、美しい輝きでした。

私たちもまた、自らの小ささによりあきらめることなく、命の源である主に心を向け、命の道をつないでゆくことができますように。

 

 

8/1 「 生命を掘る 」創世記 26章15~25節 説教者/川内裕子 牧師

 

<寄留者だから>

創世記26章では、アブラハムの息子イサクが、自分で土地を持たない寄留の民であることが記されます。イサクたちは寄留の地で種をまいて収穫し、羊や牛を飼って遊牧する生活を送っています。乾燥した当地では、水は大変貴重でした。人々は雨季に現れる川の川床の水脈をたどって井戸を掘りました。安定した量を使おうと思えば、それに比例して非常に深く掘らねばならないし、その労力も比例するのです。

飢饉の時、豊かなエジプトに下ることをイサクは主からとどめられ、ゲラルに寄留します。その地では、もともと父アブラハムが掘った井戸を埋めてふさがれてしまい、新たに井戸を掘るとゲラルの羊飼いたちからそれは自分たちのもの、と言いがかりをつけられます。エセク(争い)、シトナ(敵意)…という井戸の名が、争いがあったことを示唆します。

イサクは、自分たちが掘った井戸の所有権をあくまでも主張して争い続けることをしません。それは彼が寛容で慎み深いから譲ったのではないと私は思います。彼には井戸を放棄して次の場所に向かうしか方法がなかったのだと思います。彼は寄留者であり、その土地の人々から居住して生活することを許容されている人々だったからです。すでに見たように、出ていけと言われたら言うことを聞いて出ていかざるを得ない、弱い立場にある人々だったからです。

水なしではやっていけないのです。ですからイサクは掘り当てた井戸を手放し、別の場所に井戸を掘ります。ここには、強く、安住している者が、既得権を主張し、よりどころのない者たちを搾取する姿が記されています。

 

<共に>

21日にミャンマーでクーデターが起こって半年がたちました。今日で6カ月です。そんなにも長い間、ミャンマーの人々は苦しめられています。町に出て抗議のデモすると銃を撃たれ、逮捕されるようになると、倒れても必ず起き上がるというミャンマーの起き上がりこぼしを道路に並べて抗議、生活用品をバリケードにと次々に知恵を絞って抗議する彼らの姿に、井戸を取り上げられると次の井戸掘りへと向かったイサクたちが重なります。

毎週金曜日の夜に誰もが参加できるミャンマーを覚える祈り会では、どんどんひどくなる状況が知らされます。国軍の弾圧に加え、洪水による災害、コロナの蔓延の中でも国軍が酸素ボンベを国民に渡さず多くの方々が召されていること、聞いていて胸が苦しくなります。命をつなぐために必要な水を取り上げられてしまうイサクたちが重なります。

逃れの道はないのでしょうか。イサクはエジプトへの道を主に閉ざされた時、この土地に居なさい、ここであなたを祝福すると約束を受けました。次々に追われて井戸を掘った時、最後に争いの起こらなかった井戸を掘りあてレホボト(広い場所)と名付け、その後再び主の祝福の約束を頂きました。このように必ず救いはある、というのが聖書の約束です。

今日、「アトゥトゥミャンマー支援」という在日ミャンマー人支援団体が立ち上がります。困難の中にあって、小さな顔の見える支援を目指しているそうです。私も賛同者に加わらせていただきました。「アトゥトゥ」とは「共に」という意味のビルマ語です。苦しみと悲しみの中にあるミャンマーの方々と「共に」分かち合いたいと願っています。

 

<生命を掘る>

イサクは水を掘り続けました。それは命をつなぐため、なくてはならないものでした。イサクは主の約束に立ち、自分たち一族の生命を掘り続けたのです

持っている者がさらに搾取し、持たないものが搾取されるこの世にあって、痛んでいる人の傍らで「恐れるな、私が共にいる」というのが主の祝福の約束です。私たちもまた隣りびとと共に、主と共に命の井戸を掘り続けましょう

 

 

7/25 「 約束の実を味わう人生 」ヨハネによる福音書 3章1~3節 説教者/川内活也 牧師

ニコデモ

ニコデモはユダヤ教指導者の一人です。当時のユダヤ教指導者というのは、宗教的な教師という立場だけでなく、ユダヤ社会全体の指導者という立場にもありました。つまり、社会的な地位に在るエリートです。そんな彼が、人目を避けるような時間を選んでイエス様のもとに訪れます。

渇望

多くの人は「人生の成功者」「勝ち組」を求めて生きています。地位や名声や財産・権力などを「成功のステータス」と考え、それらをどれだけ持っているかによって「豊か」や「貧しさ」を測ります。自分が持っているモノだけでなく、他人がどれだけ持っているかも判断基準とします。しかし、自分が「豊かさ・幸せ」の基準と考えていたモノをどんなに手に入れても、人は、その事によって真に「豊かさ・幸い」を得られるワケでは無いのです。社会的には「成功者」であったニコデモの内にも、未だ満たされない渇望の思いが満ちていたのです。

空しい教え

指導者・教師であったニコデモのもとには、多くの人々が日夜「真理」を求めてやって来ます。ラビと呼ばれる教師たちは、それぞれの学派の解釈に従い、民に「真理」を説き明かす務めにありました。ニコデモも、先祖や先輩教師から学んだ「真理」を民に語っていましたが、実は彼自身、その教えに空しさを感じていたのです。ニコデモは「どうすれば神の国へと入ることが出来るのか」という答えを、未だ知らずにいたのです。自分が信じ、行っている宗教行為や儀礼が、一体、どのような意味があるのかを考え始めたとき、彼は不安と恐れを抱いたのです。

聖書の中の聖書

宗教改革で有名なマルチン・ルターは、ヨハネ3章16節を指して「聖書の中の聖書」と言います。御子キリストを(キリストを通して表された神の愛)信じる者に与えられる神様の祝福の約束を聖書は語っているのです。その真理を土台とする時に、人は初めて、約束の祝福を味わう人生を築き上げることが出来るのです。

解放・自由・従順・祝福

人は、キリストの十字架によって、罪の縄目から解放され自由を得させられています。先ず、この真理によって人は「新しく生まれた者」へと変えられます。その自由の中で、御言葉の招きに従い歩む時、御霊の実を結び、約束の祝福の実を味わう人生を歩む者と変えられるのです。

悔い改めと感謝をもって

聖書を通して約束されている神さまの祝福、約束の実りある人生を歩むために、新しく始まるこの一週、十字架に現わされた神の愛を信じ受け取り、悔い改めと感謝の内に、御言葉に従い歩み出しましょう。

 

 

『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』 ヨハネ3章16節

 

7/18 「 祝福をたずさえて」ヨハネによる福音書 1章35~42節 説教者/川内活也 牧師

伝える者

招きの言葉で分かちあいましたが(ローマ10:14~15)、聖書の福音は「伝える者」がいなければ聞くことは出来ません。それは人の心に自然発生するものではなく、私達は必ず「誰か(何か)」を通して初めて、聖書を知り、キリストを知るに至るのです。

種を蒔く者

どんなに肥沃な土地であっても、そこに種が蒔かれなければ作物の実りは生じません。聖書の福音の種が蒔かれることによって、初めて収穫の実り向かういのちの発芽と成長が始まるのです。種を蒔く者、つまり、種を「委ねられた者」の務めがここにあります。

アンデレ

今日の箇所の小見出しは「最初の弟子たち」とされています。この箇所では、イエス様の公生涯の中で、特に中心的な弟子として用いられた12弟子の中で最初にイエス様に従ったのはアンデレだったと語ります。しかし、アンデレ自ら自然発生的にイエス様の弟子となったのではなく、バプテスマのヨハネが蒔いた「種=信仰告白」によってイエス様と出会ったことが分かります。

そしてペテロへ

バプテスマのヨハネの言葉によってイエス様と出会ったアンデレは、今度は自分が受けた「福音の種」を、兄弟ペテロへと伝えました。アンデレは、求め続けて来た約束の救いの喜びを、自分だけの「喜び」として味わうのでなく、その恵みの種を、ペテロの内にも蒔く者となったのです。

「父の家」から旅立ち

先週の聖書通読(創世記12章)で、神様から祝福の約束を受けたアブラハムが、住み慣れた父の家から旅立つ場面がありました。神様の祝福・喜びの福音の種は「自分の場」から出て行かなければ蒔けないのです。神の福音・祝福の種は、自分一人が握りしめるものではなく、隣人と分かち合う恵みの種なのです。

神学校週間を覚えて

今日は「連盟神学校週間」を覚えてのアピールを壮年会が行って下さいました。連盟には現在、3つの神学校が在り、それぞれの学校で神学生が学んでいます。牧師・伝道者という「直接献身者」として、聖書の福音を宣べ伝える働きに立つため備えの学びを受けている学生です。その働きと学びのために、祈りと支援の協力に思いを向けたいと思います

祝福をたずさえて

私達は「誰か(何か)」から、聖書の約束する神の祝福・福音の種を受けた者です。それは神様が私たち一人一人を愛し、祝福し、恵みに満たす豊かな喜びとして蒔かれたものです。では、その恵みの内に与えられた新たな種をどのように用いるべきでしょうか?自分だけの収穫の喜びとして握るのでなく、その祝福の種をたずさえ持って、隣人へと蒔いていく働きを委ねられ、遣わされているのです。愛された喜びを、赦された感謝を、与えられた希望を、今度は私達が隣人へと伝えるようにと神様は招かれています。

 

ただで受けたのだから、ただで与えなさい。マタイ10章8節

 

7/11 「 いのちの光」ヨハネによる福音書 1章1~5節 説教者/川内活也 牧師

ことば

教会聖書通読も2巡目に入りましたが、今日のヨハネの箇所は創世記1章を想起させる証言です。創世記では、神様の創造の業において、人間以外の被造物は全て「神のことば」によって創られた姿をみます。その創造の業を確認するように、ヨハネは「言によらずに成ったものは何一つ無かった」(3節)と宣言します。そして、この「ことば」こそは「いのち」であり「光」であり、御子キリスト御自身であると証言が続きます。

神に似る存在

先ほど、人間は神の「ことば」によらずに創造された唯一の被造物であることをみました。初めの人アダムは、地のちりから形創られたとあります。でもそれだけでは生きる存在とはなりません。その形創られた器に、神の息(ルーアハ/神の霊)が吹き込まれ、初めて人は、命在る被造物として立ち上がったのです。神様は人を御自身と似る存在、すなわち、神の子として生み出されたのです。(詩編8:6)

愛の本質・罪の性質

主なる神様に似せて生み出された人間の本質は、神様御自身と同じ「愛」の存在です。完全なる交わりの存在なのです。しかし、アダムとエバによりもたらされた神様との断絶により、「罪」という性質を持つ存在として歩み出しました。いのちである神様との断絶により、人は「死と滅び」につながれた存在となってしまったのです。

キリスト=生ける神のみことば

12節~13節を読むと、神様との断絶によって死と滅びにつながれた人間が、再び「神の子」としてのいのちと光に結ばれる道が示されています。それは「生ける神のみことばなるキリスト」を受け入れること、すなわち、新しいいのちの息・神の霊「ルーアハ」を受ける入れることによってです。神様との交わりに再び結び合わせる「愛の結び目」として、神のみことばにして神御自身であるイエス様が、世に降られたのです。

ことばを宿す者

さて、永遠のいのちである神様から離れたからといって、人は即座に滅びることはありませんでした。罪の性質の内に歩みながらも「神に僅かに劣る者」としての賜物は永遠に残されています。その賜物とは「ことば」です。私達の内に、神様は「ことば」を与えられました。天地万物を創造された「ことば」です。御手によって造られたものを全て治めるように(詩8:7)と与えられた賜物です。

何を生み出す「ことば」としているか?

与えられた賜物である「ことば」を、愛の本質の内に用いるなら、いのちと光を創り出す「神の御業」が現わされます。しかし、その「ことば」を罪の性質の内に用いる時、そこには死と闇、断絶と争いを創り出す「悪しき罪の実」を生み出すのです。

正しく治める

神様の「創造の業」を受け継ぐ者として与えられている「ことば」は、死をもいのちをも生み出す賜物なのです。その賜物をどのように用いるかの自由をも、私達は与えられているのです。死と闇の断絶による滅びを創り出す言葉ではなく、神の愛の内に歩む交わりに結ばれ、いのちと光の交わりを生み出す言葉をもって、主の証し人、世の光・地の塩として歩み出しましょう。

 

悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。エフェソ4:29

 

7/4 「 その日、神の国にて」ヨハネの黙示録 21章1~8節 説教者/川内活也 牧師

初めと終わり

今日からはまた創世記の通読が始まりますが、今日は先週の通読箇所であったヨハネの黙示録の中から御言葉を分かち合いたいと思います。6節に「アルファでありオメガ・初めであり終わりである方」と神様は語られていますが、聖書の最初の巻である創世記と、結びの巻である黙示録を、同じ主の日に味わえる恵みを感謝します。

新しい天と新しい地

創世記1章で神様が創造された被造物世界が、全く新しい天と地に置き換えられる姿が1節に描かれています。それはまるで、本の読み聞かせを終えた父や母が、その本を閉じて横に置き、我が子を胸に抱くような姿です。創世記から紡がれ続けて来た歴史が、「その日」、神様の御手の中で閉ざされるのです。「歴史の中に住まう」という読み聞かせが終わり、「神と共に住まう」永遠のいのちの交わりが「その日」から始まるのです。

もはや海もなく

古い天地と共に「海もなくなった」と1節で書かれています。黙示録のこの箇所において「海」は「死・嘆き・悲しみ・労苦・不安」という「闇の領域」を象徴する存在として語られています。新しい天と新しい地においては、その「闇の領域」である「死・嘆き・悲しみ・労苦」はもはや無くなり、揺るぐことの無い神の御腕に抱かれて、その目の涙も拭い去られると約束されているのです。

約束の希望

黙示録は「終末預言の裁きの書」のように語られますが、そうではありません。迫害と混乱・不安の中に在った初代教会の人々に与えらた「希望の手紙」なのです。

希望と願望

ところで希望と願望は違います。願望や欲望は地上に属する宝です。財産や健康や人々からの評価は、確かに生きる上でのひと時の喜びになるかも知れません。しかし、それら地上に属する宝は、やがて必ず失われてしまうものです。いえ、失う以前に、それらを手に入れられる人生を歩めるのは、ほんの一握りの限られた人々の場合がほとんどです。そうした地上に属する宝は「希望」とは成り得ないものなのです。だからイエス様はこう言われます。「宝を天に蓄えなさい」(マタイ6章19節以下)と。

希望は人を生かす

パウロは「生きることはキリスト、死もまた益なり」と告白します。彼の内には揺ぎ無い神への全き信頼、すなわち、神の約束という希望が在ったのです。やがて失われる地上の宝を「希望」とせず、永遠に朽ちることの無い神の約束に希望を置いていたからこそ、地上の旅路を希望の内に歩み続けることが出来たのです。闇の時間を神の希望の光につながれて進む、信仰者の姿がここにあります。

希望の内に歩み出す

地上の歴史という古い天地は、やがて、神の御手において閉ざされる時を迎えます。その時、私達は神の御手の内に抱かれ、あらゆる涙を拭われ、あらゆる断絶から解放され、まことの神の愛の交わりの内に結ばれるのです。永遠の神が約束されている天の宝、朽ちる事なきまことの希望を固く掴み、新しい一週も、与えられているそれぞれの日々へと、共に歩み出しましょう。

 

 

6/27 「 ゆるぎなくつながれて」ヨハネの黙示録 13章5~10節 説教者/川内裕子 牧師

<支配しようとする力>

今週で一回目の通読が終わる聖書通読も、最後の書に入り今はヨハネの黙示録を読んでいます。ヨハネが終末の時について、神から見せられた幻を書き記した書です。今日は終末の時、獣にたとえられる力が、猛威を振るう様が記されています。

131節から登場する「この獣」は、私たちを支配しようとする力です。海、地中海の向こう、ローマからざぶりとやってくる不気味な力を感じます。この獣のそれぞれ冠をつけた角や、7つの頭、神を冒涜する様々の名が記されている、という描写からは、自分自身を神とし、主なる神をないがしろにする存在であることがわかります。「この獣」は圧倒的な勢いでこの世に押し寄せ、人々の生活や生き方、考え、や信仰全てに影響を与えてしまう様々な力だととらえることができます。そして人々その力に圧倒されてしまいます。この獣が権威を持ち、神を冒涜し、敵対し、神に従い信じる者と戦って勝ち、激しく力をふるう様子が記されます。神さまの力は隠されてしまったかのようです。こんな不条理が許されていていいのでしょうか。

 

<「この獣」は、なに?>

でも、考えてみると、このような不条理は確かに、昔も今も、あります。不正義と、不公平も。私たちの紡いできた歴史の中では、このようなことが繰り返し起こってきました。

623日の「沖縄慰霊の日」、沖縄県主催の戦没者追悼式で朗読された中学2年生の方の「みるく世()の謳」(平和な世の歌)と題した詩は、76年前と今を行き来し、本当にあった戦争の連続の内に今があり、平和を作るものとして私は生きたいという力強い決意が迫ってきました。平和を願い、命は大切なものであるということを私たちは十分頭でわかっておきながら、争いを繰り返し、自分たちの目に見えないところのことは仕方がないと目をつむる罪の性質を私たちは持っています。

 

<ゆるぎなくつながれて>

 

57節を読むと「この獣」は、神を冒涜し、地上で力をふるい、神に従う者たちと戦って勝ち、あらゆる国民を支配する力が与えられていることが4カ所に書かれています。そして、それは神によって与えられ、許されていることなのです。私たちはここに注意深く神の慮りを認めます。神に敵対する力がこの世の中に勝ち、それが許されている時が、確かにあります。けれどもそれは神の主権の元にあること。敵対する力にからめとられてしまいそうなときも、私たちの土台は神にあることを信じましょう。私たちがどんな暴風の中にいるとしても、ゆるぎない神の土台に、神ご自身がしっかりと私たちをつかんでつないでくださっていることを信じ歩みましょう。

 

6/20 「 さあ、どうぞ!」ヨハネの黙示録 3章14~22節 説教者/川内裕子 牧師

<教会創立記念月間を迎えて>

6月は帯広教会の教会創立記念月間です。今日は、教会創立記念礼拝として、58年にわたる教会の歩みをスライドで振り返りました。私は20年ちょっと前、旧会堂の最後の時代に、1年間帯広教会で養われ、神学校へと送り出していただきました。スライドを見ながら、懐かしく当時を思い出すと同時に、年月を隔ててまたこの教会で共に主の業に与ることができ感謝です。

 

<何でも間に合っている、は本当か>

今日の箇所は、ラオディキアの教会へ書き送るようヨハネがイエスより啓示を受けたところです。ラオディキアは紀元前3世紀に建設された、裕福な街で、金融、織物、医学、特に目薬で有名だったと言われています。地震により、壊滅的な被害を受けたときも、ローマ帝国の援助を受けずに町を再建できたといわれています。私たちで何でもできる。手助けは必要ない、という人々に対して、それは本当なの?間に合っているの?というイエスの問いが投げられます。私から金を買いなさい、私から白い衣を買いなさい、私から目薬を買いなさいと言われます。

 それは、どこまでも人々に関わって行こうとされる神からの手の差し伸べです。ヨハネ福音書13章には、十字架の時が近づいていることを悟り、弟子たちを愛し抜かれたイエスが、弟子たちの足を洗った出来事が記されます。恐縮しそれを止めようとするペトロに「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしとなんのかかわりもないことになる」とイエスは応えられます。そして死へと歩み出す前に大切な教えとして「主であり師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と互いに仕え合い、関わりあうことの大切さを伝えます。

 十分です、間に合っています、と主の介入を拒むならば、私とあなたは何の関係もなくなってしまうではないか、というのです。

 

<さあ、どうぞ!>

私に頼れ、と主は言われます。もう十分間に合っているからと言わず、主から必要なものを得なさいと言われます。イエスは私たちの戸をノックし続けています。それは私たちから開かないと、迎え入れることのできない扉です。私を迎え入れよと主は言われます。主を迎え入れるとき、私たちには予想もつかないことが招き入れられるでしょう。主は中に入って一緒に食事をしようと言われます。思いもかけない食卓が準備されることでしょう。

さあ、どうぞ、と私たち一人ひとりの、また帯広教会の戸を開き、私たちの思いではなく、主の御思いが成るように祈りつつ、わたしたちの教会の事柄として受け入れ、主の業として分かち合い、主と共に人々共に歩んでいきましょう。

 

 

6/13 「 がまんくらべ」ヨナ書 4章1~11節 説教者/川内裕子 牧師

<怒るヨナ>

 旧約聖書の中では一風変わった預言者として覚えられているヨナです。異邦人の地、アッシリアの都、ニネベに遣わされようとしますが、彼は神の言葉に逆らい、ニネベとは真反対に逃げようとします。最終的には神に引き戻され、ニネベに向かい、「あと40日したらニネベは滅びる」と神の言葉を語ります。

 ニネベの人々がその言葉を聞き、悔い改めたのを見て神がニネベに下そうとした災いを思い直したことが、ヨナには我慢なりません。神に向かって怒り、死ぬ方がまし、とまで言います。

 彼は「あなたは恵みと憐れみに満ち…(2)」と神がどのような方であるかを「災いをくだそうとしても思い直される方」と自分なりの理解も含めながら告白しつつ(346参照)、その赦しがニネベの民に向けられることが許せないのです。

 

<あなたの怒りは正しいか>

 ヨナの怒りから出る行動に、神は「あなたの怒りは正しいか」と問いを向けつつ応答されます。ニネベの行く末を見張ろうと暑さの中座っていたヨナのために、とうごまの涼しい日陰を与えます。その後一夜にしてとうごまを枯らせた神に再び怒りをぶつけるヨナに、神は再び「あなたの怒りは正しいか」と問います。ヨナは自分の怒りを正当化します。

ヨナは「あの人々は私にとって大切な人々」とニネベの人々をみなすことができません。神は右も左もわきまえぬニネベの人々や家畜を惜しまずにいられようか、ととうごまの体験を示しながらヨナに語りかけます。ヨナの答えは残されていません。神はヨナを通して、私たちにその問いを投げかけておられます。

 

<がまんくらべ>

 神の言葉に逆らい、逃げたり怒ったり文句を言ったりするヨナですが、もともと神がそのようなヨナにご自分の言葉を預けられた、という出来事に私たちは目を向けたいと思います。正しく神告白しながら、預言を伝えるべき人々を隣人とみなせず、彼らが神への立ち帰りをすることで預言の本来の役割を果たしたことを喜べない人物がヨナです。

 けれども神はそのように自分本位で、不十分なヨナにご自身の働きを委ねてくださいました。神に怒り、反抗するヨナに、神は丁寧に寄り添い、語りかけ行動してくださいます。ヨナ書は、神とヨナのがまんくらべの書です。

 ヨナのように神告白をしながらも、逃げたり反抗したり怒ったり、自分のことしか考えられなかったりする私たちです。けれども神は私たち一人ひとりに期待し、召命を与え、忍耐強く愛を注いでくださいます。神との愛のがまんくらべ、ヨナを通した神の問いに、私たちはどう応えて歩むでしょうか。

 

 

6/6 「 ふるえる ふるえる」アモス書 8章~18節 説教者/川内裕子 牧師

<むさぼる生き方>

アモス書には、北イスラエルの繁栄が一部の人々に独占され、多くの人々が抑圧されていることを批判する預言が語られています。今日取り上げた箇所は、不正を行う商人たちへの厳しい言葉です。

彼らの商売のやり方は、升を小さくして売る量を少なくごまかし、貨幣を量る重りを重くして決められた量より多くの対価を得、品質の悪い作物を売りつけるものでした。そのような不正な商売を、彼らは貧しい人々、苦しむ農民に対して行います。さらにはそれらの人々を靴一足の値段のような二束三文の値段で買おうとします。それは、乏しい人からむしり取り、身ぐるみはがした後、その人自身をも搾取してしまうような扱いです。

ここに書かれているのは、富む者が、貧しい者から搾取し、その持ち物や尊厳をはぎ取って、ますます肥え太っていく有様です。それはこの当時のことではなく、今も起こっていることではないでしょうか。

 

<神のわななき>

彼らの罪の根源は、「隣人」への思いの欠如にあり、その貪欲さは、新月祭や安息日が終わるのを待ちきれないことにも表れます。本来は、神からの恵みが豊かにあることに心を向け、感謝すべき時ですが、彼らにとってその時は商売のできない足枷の時でしかありません。

私たちには神の視点からこの状況を見ることが必要です。レビ記193536節には、不正なはかりを用いることが厳しく戒められています。そしてそれは隣人との関係に紐づけられています。この戒めは寄留者の保護に引き続いて記されているからです。なぜ、正しいはかりを用いなくてはならないのか。それは私たちが隣人と正しい関係を結ぶためだからです。

神は公正さを取り戻します。神は商人たちの不正なやり方を忘れないと言います(8:7)。このありさまに、神はわななきます。8節に記されるような地震は、神の顕現と考えられてきました。

イエス様が十字架上で息を引き取られた時、よみがえりの時、地震が起こったことを聖書は語ります(マタイ27528:2)。神は人々の嘆きを決して忘れず、私たちの立ち帰りを待ち、現れてくださいます。私たちが隣人を認めず、つながらず罪の道を歩くのを、神はわななき、ふるえ、砕いてつなげてくださるのです。

 

<ふるえる ふるえる>

今年度、「伝道する教会」をテーマに、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」の聖句を主題に歩んでいます。私たちは今日の招詞(マルコ4:2123)にあるように、私たちは燭台に上に置かれる光を置くものとして召されています。神は決して小さくされた人々をそのままにしてはおかれないという約束の光を掲げる者として召されています。み言葉に歩むとき、私たち自身もふるえ、揺さぶられることがあります。けれどもそのように問いかけを頂きながら、今日もまた隣人と共に生きていく道を歩みましょう。

5/30 「 結ぶべき実り、とは?」ヨハネによる福音書 15章1~12節 説教者/西島啓喜 執事

イエス様はご自身を「まことのぶどうの木」、つまり「本物のぶどうの木」だとおっしゃいます。そして「ほんものの実りをもたらす私につながりなさい」と教えます。どの幹につながるか、つまりどの教えに自分の生き方を据えるか、それは「実り」を与えるために大切なことです。

 1 実らないぶどうの枝

 「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」

 余市のブドウ園での経験です。緑豊かなブドウ園の中に数本、真っ赤に紅葉したブドウの枝がありました。「きれいですね」と私が言うと「あれは枯れた枝なのよ。養分をとれなくなって枯れたの。取り除かれるのよ」と説明されました。人間の目にはどんなに美しく、華やかに見える枝でも、死んだ枝は実を結ぶことができません。人間も同じではないかなと思わされます。人間の目にはどんなに華やかな人生であっても神から離れては死んだ生き方なのです。ぶどうの木は死んだら生き返ることができません。しかし、人間は生き返ることができます。放蕩息子のたとえの中で、弟息子が戻ってきたとき、父親は「この息子は、死んでいたのに生き返った」といって喜びます。

神様から離れた生き方、的外れな生き方のことを聖書では「罪」といいます。方向を変えて、神様の元に帰ってくることを悔い改めといいます。方向性を変えたことを象徴的に表すために受けるのがバプテスマ式です。神様はすべての人が神様の目的に生きるように、向きを変えることを望んでおられます。

 2 実るための「刈り込み」

「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」

 「手入れ」とは「刈り込み」とも訳されます。生きている枝は、もっと豊かに実を結ぶように「刈り込み」を受けるというのです。自然の植物は、できるだけ高く、できるだけ広がろうとします。しかしブドウ園のブドウは勝手に高くなったり、広がっては困る。不要な枝は刈り取られ、農夫が望む枝だけが残される。それは本来のブドウの欲求とは違うかもしれません。神様の目的に生きる、とは目的に沿わない自我を切り取ってもらうこと、手入れを受け入れることです。それは時に苦痛を伴うことや自尊心が傷つくことかもしれません。神様の目的に生きる、とはそれをも受け入れることです。

 3 結ぶべき実り、とは? 

 私たちが結ぶべき「実り」は何でしょう?12節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とあります。これが結ぶべき実りです。愛とはもちろんアガペーと呼ばれる愛です。アガペーは感情を超えた「理性に基づく愛、意思に基づく愛」ともいわれています。イエス様はご自分の願いではなく、神の望みに従って十字架への道を歩まれました。教会は、このキリストの命令に従って歩む群れです。帯広教会が、「本物のぶどうの木」であるイエス様にとどまり続け、「愛における一致」という、ゆたかな実りを生み出す教会でありたいと願います。

 

5/23 「 なすべきこと 」 使徒言行録 22章17~21節 川内活也 牧師

ペンテコステ(聖霊降臨記念主日)

今日は教会歴でペンテコステ主日となります。使徒言行録2章冒頭に記されている聖霊降臨を記念する主日です。1章においてイエス様が約束されたように、聖霊降臨の日から、キリストの福音は全世界に広がり、証しされていきました。福音の証しの群れである教会の「誕生記念日」です。

ペテロからパウロへ

さて、先週は使徒言行録16章から22章までを教会の聖書通読表に従い読み進んで来ました。この辺りから、記録の中心人物はペテロからパウロへと移行します。この記録を書き記したルカがパウロと同行し始めたのもこの時期からと言われています(16:10)。

なすべきをなし

先週も学びましたが、パウロは率先してクリスチャンを迫害していた人物です。そんな彼が復活のキリストに出会い、ダマスコの町で回心し、伝道者として歩むようになったのですが、イエス様は彼を最初に招く際にこう言われました。「あなたのなすべきことを知らせよう」(使徒9:6)。神様からの使命・目的を知らされ、目が開かれたパウロは、その知らされた「なすべきこと」をなし続けて歩み続けました。

怒れるパウロ

先週、15章から、パウロとバルナバが激しい仲違いをした記録を読みましたが、18章辺りで、今度はペテロとの大口論をしたようです。クリスチャンになっても生来の性格、個性が変わるってワケでは無いのでしょうね。それも含めて「ひとりの人という存在」として神様は愛されるのですから。さて、使徒言行録本文には載っていないこの口論、ガラテヤ2章11節以下で触れられています。要は、ペテロ(ケファ)が「初めの使命・なすべきこと」を捨てて保身に走っていると非難し「口撃」したのです。

なすべきこと

パウロは復活のキリストに出会い「なすべきこと」を知らされました。それは、使徒の働き冒頭でイエス様が約束されたように「聖霊を受け・福音の証しを・全世界に告げ広める」という働きです。その「全世界」とは、ユダヤ人社会だけでは無いのです。自分の住みやすいコミュニティ、自分を受け入れてくれる人々、自分と好みや感性の合う人々だけではありません。自分とは相容れないと避ける「異邦人」をも含めた「全世界」です。パウロは最後の伝道旅行となるこの逮捕を受け、回心の経緯を証しする中で、今日の箇所(2221)にあるように、自分の「なすべきこと」が異邦人伝道にあると証ししました。

エフェソ教会

パウロの宣教により、いくつもの「教会」が誕生して来た経緯をこれまで読み進んで来ましたが、その中のひとつに有名な「エフェソ教会」の誕生があった記録を先週の通読から読みました。エフェソ教会は初代教会時代に大きく用いられた教会の一つですが、黙示録2章では神様から戒められています。「あなたには言うべきこと(非難すべきこと)がある。あなたは初めの愛から離れてしまった」「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」

教会の使命

ペンテコステを迎え、我が身の信仰を、そして、教会の使命をもう一度見つめ直しましょう。「初めの愛」「初めのころの行い」から離れてしまっていては、教会もクリスチャンも、神様から委ねられた「なすべきこと」を果たす事は出来ません。

 

 

神様から受けた初めの愛と恵み、悔い改めと感謝、委ねられている使命・働きに立ち返って、新たなる一週へと歩み出しましょう。

 

5/16 「 広がる福音 」 使徒言行録 15章36~41節 川内活也 牧師

ペテロからパウロへ

先週の教会聖書通読は、主日の9章から読み進みました。使徒言行録も半ばに差し掛かり、ペテロを中心とした視点からパウロを中心とした視点へと変わり始めた事が分かる部分でした。

迫害者から証し人

9章では有名な「パウロの回心」の記録を読みました。純粋で熱心な「パリサイ派のユダヤ教徒」として、自分達の守り行っている「信仰」に立ち、クリスチャンを迫害していたパウロ(当時はサウロ)です。しかし、ダマスコの途上で復活のイエス様と出会い「なすべきこと」を教えると約束されます。アナニアを通して目が開かれたパウロは迫害者から証し人へと変えられました。おかげで、それまで仲間であったユダヤ人達から命を狙われるようになります。キリストの証し人として人生を歩み出したパウロは、エルサレム教会に加わろうとしますが、ここでも受け入れてもらえない状況に身をおきます。その時、使徒達との仲保者に立った人物がバルナバです。皆に信頼されているバルナバが「パウロは真のクリスチャンだ」と信じた姿勢が、他の信仰者たちの硬化した態度を改めさせたのです。

バルナバ

バルナバは初代教会の中でも特筆される「キリストに倣い・従う信仰者」です。4章36節を読むと、彼の本名はヨセフですが、その信仰姿勢から「バルナバ(訳すと「慰めの子」)」と呼ばれていたと知ります。過去に聖徒らを迫害したパウロの罪に捕らわれず、彼が告白するキリストとの出会いの証しを心から信じ受け入れたバルナバの信仰姿勢は、罪人の悔い改めを信じて十字架の死へと歩んだイエス様の愛に倣う姿です。

そして、伝道者へ

そんなバルナバと共に、パウロは13章で「伝道者」としての働きへ召されます。キプロスへの宣教に向かう二人は、助手としてヨハネ(マルコ)を連れて行きます。しかし、キプロス伝道の後、アンティオキアへの伝道に回ろうとした矢先、ヨハネ(マルコ)は助手の仕事を投げ出してエルサレムに帰ってしまいました。さて、当初は「バルナバとパウロ」という順位で呼ばれてましたが、この頃から「パウロとバルナバ」と呼ばれるようになっています。一行はアンティオキアの後、イコニオン、リストラ等の都市を回り、福音の伝道を続けました。

仲違い

会議のために一度帰還したエルサレムから、再びパウロとバルナバは巡回伝道の旅に遣わされようとしますが、ここで、今日お読みした箇所にあるような「決定的な仲違い」が生じます。しかし、この分裂騒動も、福音が広がる一つの過程に過ぎないのです。マルコ(ヨハネ)に対するどちらの態度が信仰者として正しいのかという評価判断をする必要はありません。パウロもバルナバも、与えられた福音に立ち、選び取り、歩んだ「信仰者」なのです。

広がる福音

この仲違い事件から約20年後、パウロは殉教間近のローマの獄中でマルコに対する高評価を語ります。マルコがこれほどまでに主に用いられる信仰者として歩んだのは、バルナバの信仰による慰めと支えがあったからに他なりません。

生ける分裂もまた福音

人体は細胞分裂を繰り返し成長していきます。キリストの御肢体なる教会も、時には痛みの伴う問題や課題に直面するかも知れませんが、しかし、パウロやバルナバのように「キリストにつながる核となる信仰」によって生きるならば、その痛みや苦しみ、課題や問題さえも、神は福音が広がる教会の成長のための細胞分裂として、祝福し用いて下さいます。

 

5/9 「 神から出たもの 」 使徒言行録 5章33~42節 川内活也 牧師

使徒の働き

教会の聖書通読は使徒言行録に入りました。アニメの影響で「使徒」という名称が有名になりましたが、もちろん、使徒言行録とは全く関係の無い話です。使徒言行録はイスカリオテのユダを除く11弟子の歩みから始まる行状記録です。前半はペテロを、後半はパウロを中心とした行状記録となっています。イエス様が昇天された後、使徒と呼ばれるようになった弟子達やパウロが活動していたこの時期は「初代教会時代」と呼ばれます。

増え広がる信仰者

イエス様の十字架と死、復活と昇天の後、聖霊を受け、それまで開かれていなかった「霊の目」が開かれた使徒達は、聖書の福音を大胆に語り伝え始めました。それにより、多くの人々が聖書の真理に導かれてクリスチャンとなっていきました。

迫害の始まり

イエス様を十字架で殺す事で全ての片がついたと安心していたユダヤ人指導者達は、その状況を疎ましく思います。使徒達に対し、イエス様の名による宣教を禁じる命令を下し、封じ込めが図られます。初代教会はその始まりからすでに「迫害」の状況に置かれていました。

原始共産主義

さて「共産主義」は「民主主義の対極」に勘違いされることもありますが、これは間違いです。「共産主義」の対極は「資本主義」であり、「民主主義」の対極は「独裁主義」です。民主的か独裁的かというのは「政治制度」の話、共産主義・資本主義は「経済制度」の話です。初代教会の信仰者は「神の家族」として全ての財産を共有する「原始共産主義」の形態を選びましたが、それは、やがて上手くいかなくなりました。人の内に在る「罪の性質」は、正しく治めることを妨げるものです。聖書には共産主義・社会主義・資本主義という「経済制度」や、独裁主義・民主主義という「政治制度」それぞれを肯定する聖句があります。しかし大切なメッセージは「どの制度が正しいのか」ではありません。

神から出たもの

今日お読みした箇所で、ガマリエルは「人から出たものは滅ぶが、神から出たものは滅びない」と証言します。人の感情や思想や欲望から生じる「正義」はやがて滅びます。ただ、神の義のみが永遠に立ち続けるのです。

上からの知恵

「神から出たもの」を知る知恵はヤコブ3章13節~18節にあります。ねたみや利己心、偏見や偽善、混乱やあらゆる悪い行いが伴うものであれば、それは上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。純真で温和で、優しく、従順で、憐れみと良い実に満ち、柔和で、平和を実現するための計画や行動であるなら、それは、上からの知恵であり、神から出たものです。

 

2021年度という新しい日々を歩み出すにあたり、帯広教会でも4月25日に教会総会を開き、教会形成への計画を立てました。それらの歩み、また、一人一人の日々の歩みが、上からの知恵によって豊かに用いられ、「神から出たもの」として、世の光・地の塩の証しとされることを祈り願い求めつつ、共に歩み出しましょう。

 

 

『愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です3ヨハネ 11

5/2 「 折が良くても悪くても 」 2テモテ 4章1~5節 川内活也 牧師

今年度主題聖句

帯広教会では2015年から10年間の教会形成テーマを掲げています。7年目となる今年度は「伝道する教会」というテーマの基、主題聖句をテモテへの手紙二4章2節に定めて歩み出しました。

 

星に願いを

私は流れ星を見るのが子どもの頃から好きです。好きになった最初の理由は「流れ星が現れて消えるまでに3回願い事を唱えれば叶う」と聞いたことです。今でこそ、宇宙の塵が大気圏で燃える光に過ぎないものに願いを叶える力など無いと分かっていますが、それでも流星群のニュースを見ると心がウキウキします。

 

宗教心からの祈り願い

流れ星などの迷信だけでなく、人類は様々な迷信や宗教を作り出して来ました。他の動物と人間との違いは「宗教心の有無だ」とも言われます。聖書を読むとその理由として、人は神の霊を吹き込まれて生み出された存在だからと知ります。人の内にある霊・魂は、切実に、主なる神さまのいのちに結ばれる事を願い求めているのです。しかし、神との断絶という罪ゆえに、肉において真の神を知らずに歩む中、様々な迷信や偶像を作り出して来ました。そして、自分達の作り出した「神々」に祈り願って歩んで来たのです。

 

伝道

伝道とは文字通り「(真理の)道を伝える」ことです。神との断絶という歴史を歩んで来た人類に、創り主である真の神を伝えることです。パウロはアテネの人々に「あなたがたが知らずに拝んでいる方を教えよう」と語りました。たとえ外なる人は知らずとも、人の内に在る霊が慕い求めているのは創り主なる真の神なのです。

 

御言葉を伝える

ヨハネ福音書で「ことば」とは神御自身であり、御子キリストであると知らされています。宣べ伝えるべき「御言葉」とは、聖書の文字や文章・単語という字面ではなく、御子キリスト御自身です。コロサイ1章27~28節では「あなたがたの内におられるキリストを宣べ伝える」のだとあります。それはすなわち、信仰者の全存在をもってキリストを世に現わすことです。初代教会時代、使徒や伝道者らの「聖書の説き明し」も伝道の業ではありましたが、それ以上に、信仰者の生きる姿が多くの人々に真理への関心を開かせ、求めを引き起こし、福音の招きへの応答へと導いたのです。

 

折が良くても悪くても

歴史・人生は、順風満帆・平穏無事な時だけではありません。初代教会時代には多くの信仰者が大迫害の中で殉教の死を迎えました。しかし、殉教者の人数以上の人々が、次々に福音を求め、信じ受け入れ、信仰の群れに増し加えられていったのです。それは殉教の死という迫害の只中にあって尚、信仰者の内に輝くキリストの栄光と希望、いのちの光が現わされていたからです。いつでも、どこででも、内なる御言葉、キリストの福音の喜びに満ち溢れる信仰者の生き様は「悪い時代」の闇の中でも世の光として輝き続けるのです。

 

伝道する教会

流れ星への願掛けはただの迷信ですが、いつでも・どこででも・どんな場合にも「意識をそこに向けて歩み続ける姿勢」への気付きになります。ひとりひとりが「伝道する教会」として、それぞれの内に住まわれる神の御言葉なるキリストを世に現わす信仰生活こそが「自分の務め」であることにいつも意識を向けて歩みだしましょう。

 

「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えなさい」(ペトロ一3章15節)

 

4/25 「 問いを生きる 」 コヘレトの言葉 12章9~14節 川内裕子 牧師

<つき棒や釘>

教会の近くの公園にお散歩に行くために、保育園の子どもたちがよく通っていきます。保育士に連れられて、横断歩道を渡ったりなど、日々安全に歩くやり方を教わりながら歩いています。子どもたちが保育から繰り返し学ぶ様子を見て、繰り返し、繰り返し私たちを教え、養ってくださる主なる神を思います。

今日の箇所は、これまでのまとめのような内容です。11節に注目すると、コヘレトが苦労して集めた賢者の言葉は「つき棒」や「釘」だと言います。これは牧畜用語で、「つき棒」は家畜、特に牛を追い立てて導くための杖で、「釘」は杖の先に打ち込まれた釘、これも動物を追っていくために使うものです。あるいは家畜を囲うために柵を作るための杭とみなしている聖書もあります。

いずれにしろ、家畜を飼う時に、安全に歩かせ、えさ場へを誘い、囲いの中へと導く、そのような道具のことです。

 

<主は羊飼い>

そのような言葉は、「ただ一人の牧者」によって与えられたと言います。この「牧者」という言葉は、今日の交読文詩編231「羊飼い」と同じ言葉です。詩編によれば、「羊飼い」は「主」であり、主は今日のコヘレトの箇所と同じように、「鞭」や「杖」(4)でわたしを力づけるのです。主の言葉は私たちを養い、修正し、導き、いざない、教えるのです。

今日の箇所13節「神を畏れ、その戒めを守れ」は、その「つき棒」、「釘」、「鞭」「杖」に促され、従いなさい、という教えです。

今日の招詞(ルカ24:39)では、復活されたイエスさまが弟子たちの真ん中に現れます。驚き恐れる弟子たちに「見て、触りなさい」と呼び掛けます。羊飼いは家畜と離れてその家畜を飼うことはできません。それらのそば近くいて彼らの歩みを導き、危険には自らの身を挺して守るのです。イエスさまの言葉は、弟子たちにあなたたちと一緒にいるよ、共にいるよという呼びかけです。

 

<問いを生きる>

 

神学生の時、夏期奉仕で伺った教会でのことを自戒をもって思い起こします。なすべきと頂いた働きに、できない言い訳をつけないで向かい合おうと思います。「どうしたらいいの?あなたはどうすべき?何を選ぶ?あなたはどちらに立つの?」と共にいて尋ねてくださる主の問いを受けながら生きていきましょう。

 

4/18 「 命のことほぎ 」 コヘレトの言葉 7章1~6節 川内裕子 牧師

<「生きる」ことに焦点をあてて>

 今日の箇所は、「命」について、通奏低音のように流れている箇所です。2節に焦点を当てると、みんなが笑顔で嬉しい席に行くよりも、ある人の死を悼み、悲しんでいる弔いの場に行く方がふさわしい、と言っています。それはなぜかというと、「そこには人皆の終わりがある」からだと続きます。集まる人々は命あるものとして心にとめよ、と言いますが、「どんなことに」心を留めるべきなのでしょうか。

ヒントは1節にあります。1節の前半の「名声 香油」の組み合わせも、「弔いの家 主演の家」の枠組みの中で考えることができます。「名声」はある人の良い行い、働き、言葉。人々の中に知られるような、その人の成し遂げた良い業のことです。そのようなことが語られるのは弔いの場です。その方が生きている間、どのような働きをし、隣人に尽くし、正しく生きたのか、というその人の名、名声が弔いの席で語られます。ここでは「名声」は、その人の死後人々の間に残される善い行い、生前の振る舞いに基づいた名声だと考えられます。

総合して考えると、ある方が亡くなり、その人が弔われる時には、その人の生きて来た生き様が明らかにされ、「生きる」ということの内実がはっきりと示される。そこに人は皆焦点を当てるのが良い、と語られているようです。

3節以降も2節の枠組みをあてはめて読んでいきます。「顔が曇るにつれて心は安らぐ」とは、憂い悲しみに沈むときに、人は生と死を見つめて心はしっかりとなる、という意味になります。

今日の箇所には、人は皆いつかは死ぬのだから、生はむなしいという厭世観は導入されていません。人生の終わり、死を見つめるように、と言い、それは死から生を見よ、という勧めなのです。

 

<命のことほぎ>

今日は招詞に、エマオに向かった弟子たちが復活のイエスさまと出会った箇所から読んでいただきました。イエスさまは語ります。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。イエスさまは確かに十字架につけられた。激しい苦しみと暴力を加えられ、十字架上で殺された。そこから復活の主を見上げることが必要なのではないでしょうか。イエスさまの十字架の苦しみの場にいることができず逃げてしまった弟子たちですが、イエスさまは彼らを引き戻し語りかけ、招いてくださいます。目の開けた弟子たちは逃げて来たエルサレムへ、イエスさまが殺されたエルサレムへと急いで出発します。

十字架の死から復活が始まります。だから私たちは「弔いの家」に行くのです。

あなたの、私の、私たちの教会の「弔いの家」はどこでしょう?逃げてしまいたくなるような、かかわりを持ちたくないと思うような「悲しみの時」はどこですか。

死の場で、その命は祝い、ことほがれています。死んで終わり、ではない、死から立ち上がる「命のことほぎ」を見据えながら、共に生きる方々とうわべだけの喜びではなく、涙と傷の痛みから湧き上がる深い共感に結ばれながら、新しい一週を歩みましょう。

 

 

4/11 「 吸って 吐いて 」 テモテへの手紙二 4章1~5節 川内裕子 牧師

<しっかり立って>

 新年度が始まり、帯広教会は「伝道する教会」をテーマに歩み始めました。今日は、主題聖句「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」からみ糧を頂き、新たな年度に立ち歩む道しるべを頂きましょう。

このテモテへの手紙は、パウロが弟子のテモテに書き送った、という形をとっていますが、実際はパウロの手によるものではなく、パウロよりもう少し後の時代の人物がパウロの名を借りて当時敷衍していた間違った教えに揺らぐことがないようにと教会に語った書簡だと考えられます。

1節では、イエス・キリストの再臨のことが念頭に置かれた言葉が記されます。復活されたイエス様が必ずまたおいでになる、という再臨の約束をもって私たちは今、終末の時を生きています。そのためにどうすればよいか、と語られています。

2節の御言葉とは、神の福音、宣教の言葉のこと。「励みなさい」と、その一点に固執して立ち続けるよう勧められています。「とがめ、戒め、励ましなさい」と、イエス様の福音を妥協しないで伝えるよう命じられています。「忍耐強く、十分に教え」…ただし、広い心で相手を受け止め教えるようにと語られています。その背景としては、34節にかけて、当時異端の教えが広がり、人々が真理から離れ、自分に都合の良い信仰になびいていくという状況があったことが伺えます。そんな中で自分の信仰にしっかり立つことが勧められているのです。

 

<信仰の養い>

しっかり立つためには、福音を正しく自分のものとすることが大切でしょう。そのために特別なことは何もありません。祈り、聖書を読み、証しを分かち合うという、信仰生活において当たり前のことをたゆみなく続けることです。

本物の福音に触れ続けることで、突発的なことが起こっても培われた信仰により何をなすべきかが示されます。

今日の招詞では、ガリラヤに行った弟子たちが復活のイエス様に会った時のイエス様の言葉を読んでいただきました。イエスさまが弟子たちに命じたことは「あなたがたは…すべての民をわたしの弟子にしなさい。」ということです。私たちは全ての方々がイエスさまに従う者となるよう、イエスさまの福音を伝える働きを委ねられています。

 

<吸って 吐いて>

 息を「吸って」ばかりでは、おなかにぱんぱんに息が溜まります。「吸った」息は「吐く」でしょう。私たちの信仰の歩みも「吸って」「吐いて」の繰り返しです。み言葉を受け、学び、養われ、身の内に「吸って」、頂いた福音の恵みを伝え、語り、証しする「吐いて」いく連続の中で生きていきます。

 

 今年度の「伝道する教会」というテーマ、私たちが日々のデボーション、祈り会、礼拝を通してみ言葉によって養われるその恵みを、家族に友人に、私たちのとなりびとに自分の言葉で伝えることができますように。

 

4/4 イースター礼拝「 確かに あなたに 」 マタイによる福音書28章1~10節 川内裕子 牧師

<あの方は、ここにはおられない>

「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」「あの方は、ここにはおられない」と主の天使は言いました。過ぎ越しの祭りの時、出エジプトの時に屠られた小羊のように、その血は流され、肉は裂け、イエス様は十字架上で死なれました。その遺体は墓穴に納められ、墓の入り口には大きな石の蓋がされました。マタイ福音書では、イエスさまが逮捕されたとき、いつも身近にいた多くの弟子たちは逃げ去ってしまいます。

大勢の女弟子たちが遠くからイエス様の十字架刑を見守り、イエスさまが墓に葬られるのをマグダラのマリアとイエス様の母マリアが見届けます。3日後、安息日の翌日にマリアたちは再び墓に向かいます。そこに天使が現れて大きな墓のふた石は転がされて開いたのでした。墓の番兵も震え上がる恐ろしさの中、天使は女性たちに冒頭の言葉を投げかけます。

 

<わたしの働きも終わりなの?>

女性たちが向かった「墓」で、彼女たちはそこにイエスさまは「いない」ことを確認することになりました。天使は言います。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」

十字架につけられて「死んだ」イエスさまは、死人がいるはずの「墓」にはいない。では、イエスさまはどこにおられるのか。天使は、イエスさまはガリラヤに行かれる、と言います。続けて天使は女弟子たちに、逃げ去った男弟子たちへの伝令の働きを託します。「あの方は死者の中から復活された。そしてあなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」

ガリラヤは、イエスさまが働きを始められた場所です。イエスさまは弟子たちと多くの町々、村々を行き廻って、天の国は近づいたと語り、病んだ人々を癒し、貧しいものと共に過ごされました。

女性たちは「墓」へ、死んでしまってその働きは終わり、というところへイエスさまの体を捜しに行きました。自分たちもまたイエスさまの死んだ体と同じようにその働きも終わったと考えていたかも知れません。しかし、「墓」には「終わり」も「死」もありませんでした。「さあ、遺体のおいてあった場所をみなさい」と天使は言います。そこには遺体はありませんでした。なぜならイエスさまは生きておられるからです。イエスさまは墓から、死人の中から起こされました。

空の墓を見て、空っぽの死を見て、女性たちはイエスさまが死人の中から起こされたことを信じます。それと同時に、女性たちもまた、それによって「終わり」から引き起こされていったのです。女性たちは人がよみがえる、という信じがたい出来事に恐れながらも、イエスさまが再び起こされ、それによって自分たちも起こされたことに大喜びして、はじかれるように墓から走り出します。弟子たちにこのことを伝えるためです。

 

<確かに あなたに>

天使の言葉はほかならぬイエスさまによって繰り返されます。墓から走り出た女性たちの前にイエスさまがおられます。女性たちは語り伝える働きへと、派遣されていきます。

「確かに、あなたがたに伝えました」。天使によって、イエスさまによって彼女たちにしかできない働きを託された女弟子たちのように、私たちも新たな年、主の働きへと遣わされてきます。

 

 

 

8/1 「 生命を掘る 」創世記 26章15~25節 説教者/川内裕子 牧師