9/11 「受けたから」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録3章17~4章4節 

<知ることは、変わるチャンス>

先週のペトロのメッセージの続きです。生まれつき足の不自由な男性が癒されたことに、人々が驚いて集まって来たので、ペトロは癒したのは自分ではなく、「神の子であるイエスさまの力」なのだと語ります。

そのイエスさまを、あなたがたは十字架につけてしまったが、それはあなたがたの「無知」のため、つまりイエス様がキリスト、救い主、神の子であることを知らなかったからだと言います。自分たち自身が待ち望んでいた救い主を自分たちが殺してしまったのだが、それはすでに預言されていたこと。

知らないでいたことで、神の子を十字架にかけてしまいました。しかし、そのことを「知った」今、「知った故の責任を負う」のです。では、どうすれば? ペトロは人々に「悔い改めて立ち帰れ」と呼び掛けます。「知ったなら、神の元に立ち帰り、変わろう!」と勧めるのです。「知る」ことは、「さあ、変わろう」というチャンスを頂くことです。

 

<受けたから>

ペトロは旧約聖書を引用しつつ、イスラエルの民が地上のすべての民族の祝福の基となると言われた民であることを思い起こさせます。だから神はイエスさまを世に遣わして下さったのだと語ります。あなたがたが立ち帰り、その福音を伝えることで、世のすべての人々がその祝福に与ることが出来るというのです。

4章に入ると、復活を信じないサドカイ派や祭司たち、神殿司らに二人は捕らえられ、その口を閉ざされ、牢に入れられてしまいます。しかし、このペトロのメッセージを聞いて信じた人は男性だけでも5千人になったと記されます。知ったからには、変わろう、悔い改めて立ち帰ろうというペトロの呼びかけに応答した人々がとてもたくさん起こされたということです。

わたしたちもまた、このメッセージを自分のこととして受け取ります。主イエスの死の責任が、自分にあると知った今、私たちは「知った故の責任」を負うことになります。それは命までかけて私たちを愛して下さった主のもとに悔い改めて立ち帰ることです。それによって私たちは主から「祝福を頂く」のだと聖書は語っています。私たちはその祝福を感謝を持って受けたからこそ、多くの人々に告げ知らせる働きを担っているのです。

 

 

9/4 「花が咲き驚く」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録3章11~16節 

<イエスの名によって>

1カ月ぶりの使徒言行録、今日は40年以上生まれつき足の不自由な男性がペトロとヨハネとの出会いを通してイエスさまから癒していただいたという出来事の続きからです。

歩けるようになった男性は、ペトロとヨハネから離れず、踊り歩いて神を賛美しながら一緒に神殿の境内に入ってきます。「付きまとっている」と訳されている言葉は、「しっかり捕まえる」という意味のギリシア語です。この出会いを手放したくないと男性は二人につながっています。それを見た人々は非常に驚き、彼らの元に殺到します。12節にペトロが言うように、ペトロとヨハネの力や信心によって、この男性が癒された、と思ったからでしょう。

それらの人々を前に、ペトロは自分たちの力や信心でこのことが起こったのではないんだと語ります。16節によれば、それは「イエスの名」、イエスの力なのです。6節でも「イエスの名によって」ペトロは男性手を取って立ち上がらせました。イエスの力が働いて、この男性は癒されたのです。

ペテロは1315節で、そのようなことが出来るのは、イエスさまこそ神が御自身の働きを委ね、与えられた神だからと言います。ペトロたち二人はそのことを伝える証人なのです。

 

<花が咲き驚く>

私たちはきれいな花が咲いて、その美しさに驚き、愛でます。しかし、その花は種があり、球根があり、それから根を伸ばして茎や葉が伸び、それから花が咲くのです。私たちは花が咲いてから気づくことが多いけれど、花が咲くのは、種があり、球根があってこそ。

人々は生まれた時から歩くことの出来ない男性が歩いている!という花が咲く結果を見て、その奇跡に注目し、驚きました。ペトロは人々に、その花咲く奇跡の底に働いている神のみこころを見ようと語ります。

人々が行ったことはイエスさまを拒み、捨て、殺すことでした。イエスさまよりも、殺人と暴動の罪でとらえられていたバラバの解放を望んだのです。

それが私たちの在り方です。命よりも、死、争いを選ぶ私たちは、ウクライナやミャンマーを見るまでもなく、平和を、と言いながら、他を制圧する暴力で、相手を抑え込み、自分の意思を通そうとしてしまいます。力にものを言わせ、相手を黙らせ、手っ取り早く征服しようとする私たちの平和のありかたは、イエスさまの生き方とは対極にあります。

そのように私たちが葬ったイエスさまを、神様が復活させました。

癒された男性は、「付きまとっている」と訳されたように、ペトロとヨハネをしっかりと捕まえていました。4:14では議員たちらが集まって二人を議会で取り調べる中、この男性は二人のそばに立って離れません。自分を人として尊重する人格的出会いが与えられ、神は私を愛して下さっている、と全身で理解し、証ししているのです。この二人を通して、神のまなざしを受けた、その関係が結ばれているから、離れようとしないのです。

私たちもこの男性のように、しっかりとイエスさまにつかまり、離れないでいましょう。私たちはもう、命を遠ざける道を行くのをやめましょう。イエスさまにしっかりとつながり、人々と人格的関係を結び、命を生かす道を歩みましょう。私も、あなたも生きる道を歩みましょう。

 

花が咲いて私たちは驚きます。しかし、その花は、命の源の種からつながっているのです。

8/28 「代替不可の主の恵み」 説教者/川内活也牧師
創世記25章27~34節 

ヤコブとエサウ

リベカの胎に与えられたのは双子でした。リベカが妊娠中に主の御心を尋ね求めると「弟が祝福を受け継ぐ」との約束が与えられます。こうしてアブラハムの子イサクに、双子の兄エサウと弟のヤコブが与えられました。エサウは巧みな狩人となり、ヤコブは「穏やかな人(無垢な人)」で天幕の周りで働く者となりました。

関心の違い

神さまはすでに多くの家畜を与えて下さっていたのに、エサウは与えられている以上の「獲物」を求めて野に出て行きました。一方ヤコブは、神さまから祝福として委ねられている一族を大事にし、天幕の周りで働く者となったのです。今日の箇所で、神さまの祝福に対するエサウとヤコブ両者の姿勢を知る事が出来ます。神さまの祝福を慕い求める無垢なヤコブと、地上に在るひと時の「祝福」「満たし」にしか関心を示さず生きるエサウの姿です。

野の獲物を求めず

地上の旅路において必要なものは確かにあるでしょう。経済社会における財政や、健康や知識などは、充実した日々を得させる力となるかも知れません。しかしそれらは「神さまからの祝福」に取って替わり得る恵みにはならないのです。地上の宝は地上で朽ち果てます。だから、宝は天に蓄えよと勧められているのです。(マタイ620

恵みの相続人

御子キリストによって現わされた神の祝福は「神の子となる特権」(ヨハネ1:12)です。パウロは「約束の子どもが子孫とされる」(ローマ9:8)と語り、ガラテヤ3章29ではクリスチャンを「約束の相続人である」と宣言します。

ヤコブの姿に倣う信仰

神さまの祝福と恵みを忘れず、十字架に示された神の愛・初めの信仰から離れない道は、ヤコブの信仰に倣うことです。すなわち、天幕の周りで働く無垢なる信仰、与えられている神さまの祝福を感謝し、正しく治め、管理し、用いる者として歩むことです。

代替不可の主の恵み

永遠の神様との和解に結ばれた恵み以上の恵みは、地上には無いのです。知識や名誉や財産、自分の努力や才能、若さや健康、それらの何をもってしても、十字架に現わされた神さまの愛と赦し、将来と希望の代替(だいたい)とはならないのです。

 

新たなこの一週、福音の真理であるこの信仰の土台の内に、与えられている地上の祝福も感謝しつつ、何よりも、はるかに与えられている将来と希望の約束をみすえて歩み続けましょう!

 

 『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』マタイ6章33節

8/21 「日々新たに」 説教者/西島啓喜 執事
    2コリント 4:16-18

16節から18節は同じことを強調して3つの異なる対比で述べられています。

 

1 艱難と栄光(17節)

パウロは「一時の軽い艱難」といいますが決して軽いものでなかったことを私たちは知っています。(11:23以降)。イエス・キリストが受けた栄光は、ご自身が受けた十字架上の苦しみを通して表された。どんなに大きな困難・苦しみが襲ってきても、それはすでにイエス・キリストが受けた、その苦しみを辿っているだけにすぎない、とパウロは謙虚に受け止めます。信仰者にとって大事なのは「目の前の艱難ではなく、約束されている、永遠の重い栄光だ」と17節は語ります。

 

2 見えるものと見えないもの(18節)

ミンダナオ子供図書館MCLの子どもたちと、オンラインで交流会を持ちました。日本の支援者たちが質問します。「みんなの宝物はなに?」子どもたちの答えは、「家族が宝物!」、「友達が宝物!」そして、ひときわ大きな声で「愛だ、ラブ、愛が宝だ」そういう声が飛び交いました。とても強い感動を覚えました。この子どもたちは、生活を通して「愛が宝」ということが身についています。それぞれ宗教や習慣の違いを尊重しながら生活しています。イスラムの子とクリスチャンの子が結婚することもあります。すると、式場は教会で、儀式はイスラムの伝統で行われ、みんながそれぞれの伝統の歌やダンスで祝います。難民が出ればキリスト教、イスラム教、関係なく一緒に支援に出かけます。毎日のニュースは、戦争、迫害、対立、分断のニュースばかりです。世界はそのようなもの一色のように感じます。しかし、世界にはMCLのように見えないところで愛し合う共同体がある。世界はもっと良いものだ、それを伝えていくことが平和を作り出すことではないか?平和を覚える8月にそう思わされました。

 

3 外なる人と内なる人(16節)

16節の言葉を読むと、S教会の牧師であったK先生に教えられたことを思い出します。牧師館にはご両親も一緒に住んでいました。お母様はだんだん、体が衰えてきました。しかしK牧師がこんなことを言いました。「きみ、信仰っていいね。母を見ていると体は衰えてくるけど、信仰はますます輝いてくるのがわかるんだ。」。

最近、息子のM牧師から同じような話を聞くことになりました。K牧師のお連れ合いが今年の2月、天に召されました。「K先生は気落ちしていない?」、心配して尋ねました。M牧師は、「父は判断がだいぶ怪しくなり、母の死もよくわからないみたい。でもそれは悲しみを和らげる神様のご配慮なのではないかと思う。それでも『祈ろうか』というとしっかりした祈りをするんだ。信仰は最後まで残るんですね」。 

 

K先生のお母さん、そしてK先生自身から信仰者の希望を教えられた気がします。「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」私達に「信仰」という目に見えない宝が与えられていることに感謝したいと思います。そしてこの宝が、日々新たにされ、成長させられていくことを信じ、期待しつつ歩んでいきたいと思います。

8/14 「満ち足りた死」 説教者/川内活也牧師
創世記25章1~11節 

1、ケトラ

アブラハムの「妻」として、正妻サラと女奴隷ハガルは有名ですが、アブラハムの葬儀記録直前で「3人目の妻」をめとった記録がある事には少なからず驚かされます。ルターなどは、このアブラハムの選択を「子孫繁栄に尽くした」と肯定的に捉え、それゆえに神さまの「祝福」に生涯満たされたと語ります。一方、カルヴァンなどは「ハガルの時と同じ過ちを繰り返した」ことにより、この後に争いとなっていったのだと否定的に捉えています。実際のところは本人に聞かないと分かりませんが、いずれにせよ、アブラハムはその生涯で3人の妻を通し、イサクとイシュマエルを含める8人の息子の父となりました。

 

2、満ち足りた死

7~8節を読むとアブラハムは「長寿を全うし・満ち足りて」生涯を終えたと記されています。3人の妻、8人の息子、莫大な財産……しかしそれらがアブラハムの心を「満ち足らせた」のではありません。アブラハムを「満ち足らせた」のは主なる神さまとの出会いと交わりに生きる日々、主への信仰による将来と希望の確信です。アブラハムの希望は「地上」にではなく「天」に在りました(ヘブル11章参照)。神さまから約束された祝福を、その目に見て、その手で掴むことが無くても、その祝福を約束された主なる神さまを仰ぎ見続けて歩んだのです。アブラハムは主への信仰に満ち足り、委ねられた日々・走るべき道のりを走り抜いたのです。

 

3、芽生えるいのち

たとえ「満ち足りた死」を本人が迎えたとしても、地上に残される身内にとって、やはり「死」は人間的に悲しみや痛みを覚えるものです。イサクとイシュマエルも、それぞれの立場や生活の領域は違いましたが、この悲しみと痛みを共有し、慰め合い、協力してアブラハムを葬る務めを果たしました。1人の信仰者アブラハムの信仰に満ち足りた死は、その子イサクとイシュマエルに「兄弟が共に生きるいのちの交わり」を教える時となったのです。

 

4、主を見上げる平和

さて、聖書に記録されている最大の「満ち足りた死」はイエス・キリストの十字架の死です。罪による隔ての壁によって生じる敵意・争いを取り除き、神と共に、そして、兄弟姉妹・全ての隣人と共に生きるいのちの道を与えられたのです。この十字架の主の「死」は、神との和解・隣人との和解・共に生きる喜びへの招きとして、主が完成された救いの約束、平和への招きです。イサクとイシュマエルは「信仰の父アブラハム」の死を前にして、共に平和を生きる者とされました。キリストの十字架の死を仰ぎ見る時、私たちはさらに豊かな神の平和によって共に結ばれる者とされるのです。

 

5、平和をつくる者として

明日は77年目の終戦記念日を迎えます。しかしこの間にも世界中で争いが続き、暴力に巻き込まれ、苦しめられている人々が数多に居ることを私たちは見聞きして知る者です。十字架の死において、隔ての壁を取り除く業を「完了」された主イエス・キリストの名により、「平和をつくる者」として用いられることを祈り求めつつ、新しい一週・それぞれに委ねられている道を歩んでまいりましょう。

 

『悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる』1ペテロ3:11~12

8/7 「主の山に備えあり」 説教者/川内活也牧師
創世記22章1~8節 

信仰の父アブラハム

先週はハガルとイシュマエルに目を注がれた神さまの姿を見る中で、アブラハムとサラの「不信仰」な部分にも触れました。しかし、やはりアブラハムは「信仰の父」と呼ばれる信仰者なのだという点に、今日は目を向けたいと思います。

無理難題

今日の箇所では、とてもショッキングなやり取りが記されています。「あなたの子イサクを犠牲にささげよ」と神さまがアブラハムに求められたのです。もちろん聖書を読めば分かる通り、神さまは「人柱」のように人命を求める方ではありません。1節を読むとその理由は「アブラハムを試すため」であったとあります。12章冒頭で最初に与えられた約束以降、アブラハムの中には「迷い・恐れ・不安」が繰り返し襲いました。約束の子イサクが与えられた今、神さまは「地上の全ての民を祝福に招く約束」を確かに信じ受け取る「信仰」を得させるため、この「無理難題」とも言える試練をアブラハムに与えられました。

信仰の称賛

アブラハムが称賛される信仰についてはヘブル書11章8~19節にパウロが詳しく記しています。神さまが約束された祝福を、見ずに信じる信仰の歩みの先に、約束の祝福が確かに与えられた姿です。パウロは触れていませんが、その信仰の歩みは何の迷いも悩みも無く、淡々と信じ従ったのではなく、紆余曲折、様々な迷いの道を歩んだ事を先に学びました。それでもなお「主の山に備えあり」と信じ歩んだ姿が「信仰の父」と呼ばれる姿なのです。

信仰者

私たちは、この神さまの祝福の約束を受け継ぐ者です。しかし世の旅路において「迷い・恐れ・不安」の中で、神さまの約束を見上げず肉の力を頼りとする弱さ・不信仰にも陥ります。その時、死の闇の支配の中で目が閉ざされてしまいます。だからこそ「信仰の父」であるアブラハムの歩みが励ましとして与えられます。この時アブラハムに与えられた約束は変わらないのです。「迷い・恐れ・不安」が迫る世の旅路の中、主の山に上り自らを明け渡す時、死の闇に閉ざされていた目が開かれ、復活の命の約束へと目が開かれるのです。その時、開かれた信仰者の目が見出すのは、贖いのための犠牲の雄羊なのです。

備えられた犠牲

モリヤの地とは、エルサレムが築かれた丘陵地と言われます。第二歴代誌31節を読むと、ソロモン王はダビデ王の意向に従い、この主の山に神殿を築いたと言われています。そして、全ての民の祝福のために、贖いの犠牲となって屠られた小羊イエス・キリストが掛かられた十字架も、このモリヤの地に立てられたのです。

主の山に備えあり

恐れ・悩み・不安への思い煩いに立ち向かうために、自らの肉の力で握り締め頼りとしているものを手放しましょう。主の御前に歩み出し、委ね求め祈るその時、主の山に備えられている神の恵みを見出す信仰の目が開かれるのです。イエス・キリストの十字架に現わされた神の祝福の約束、復活の希望の内に、信仰によるまことの平安が与えられるのです。神の真の平安に満たされた信仰の旅路として、新たなこの一週へと歩み出しましょう。

 

 

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。エフェソ4章67

7/31 「主の目は注がれ」 説教者/川内活也牧師
創世記21章14~21節 

信仰の父?

アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。しかし創世記をここまで読み進めて来ると、果たしてアブラハムが「信仰の父」と呼ばれるに値する歩みを全うして来たのか、疑念を抱かざるを得ません。

不信仰の画策

15章においてアブラハムは神に「自分の後継者はダマスコのエリエゼルになります」と告げました。しかし神は改めて「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と約束されます(15:4)。その約束を信じたアブラハムを、神は「義」と認められました(15:6)。にもかかわらず16章になると今度は妻サラと共謀し、サラの女奴隷ハガルを母胎とする「子作り」を計画します。もちろん「不信仰」というよりは「不安」から生じた勇み足とも言えますが、この行動の中に「神の不備を自分たちの知恵で補おう」とする傲慢な姿勢が見られます。主に尋ね求めて歩むという信仰生活から「尋ねる・求める」という祈りを忘れる時、不安や疑いが生じ、自らの手で事を成そうと動き出し、受けなくても良い苦悩に陥ってしまうのです。

巻添え

懐妊を機にサラとハガルの関係は悪くなり、ハガルは荒れ野へ逃亡することになります。その時出会った神の名をハガルは「エル(神)・ロイ(見る)」と呼び「あなたこそ私を顧みてくださる神」と告白しました。やがてアブラハムとサラの間についに約束の子イサクが与えられると、サラは今日の箇所にあるように、ハガルとその子を追放させます。アブラハムとサラの不信仰から生じた悩みの巻添えと言えるでしょう。

御覧になられる神

神はハガルの子が泣く声を聞かれ、二人に救いの手を伸べられました。その後も神はその子どもと共におられたので、その子は成長し弓を射るものとなっていきます。まさに「エル(神)・ロイ(見る)」なる神の栄光がここにも現わされたのです。

注がれながら注ぎ出さず

この時代、子孫を残せない女性は評価されませんでした。ですから、アブラハムへの神さまの約束は、時代背景的に不当な苦しみを受けていたサラへの慰めの約束でもあったのです。しかし彼らは注がれていた主の目では無く、自分たちの知恵・知識・経験に寄り頼み、ハガルを利用したのです。そして今度は、自分に子どもが与えられたことで、ハガルを切り捨ててしまいました。不当な社会構造の中で、神の祝福への招きに聞き従わずに歩んだ結果、苦しみの中にある互いに「目を注ぐ」ことも出来なくなっていたのです。

主の目は注がれる

神は、異邦人奴隷のハガルに「目を注がれ」、彼女の目を「開き」、彼女の嘆きの声に耳を傾けられます。また、時代背景的に不当な悲しみを負わされていたサラの胎を開き、慰めの子、約束の子をアブラハムに与えられました。旧約聖書の時代から、神は、イスラエルだけでなく、全ての民に、また、男子優先の社会で虐げられていた女性たちに目を注がれて来たことが分かります。

主に尋ね求める信仰

アブラハムやサラの姿を通して、私たちも自分自身の信仰を問われます。いつの間にか神に尋ね・求める祈りを忘れ、自分勝手な方法・勝手に定めた期間内で神の祝福を得ようとしてしまう弱さがあるのです。その時、神の祝福を忘れ、同じ苦しみに遭う隣人にさえ目が注げなくなってしまうのです。そんな私たちに、主の目は今日も注がれています。神は私たちと共におられ、今日も私たちが御自身に向かって正しい道を尋ね求める祈りを待っておられるのです。

 

『主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる』哀歌3章25節

7/24 「物ではなく、いまや」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録3章1~10節 

<通り過ぎる人々>

午後3時の祈りの時、神殿で行われる祭儀の時間に合わせて、敬虔なユダヤ人が神殿に祈りに上ってゆきます。人の最も多い時間に、生まれつき足の不自由な男性が「物」のように運ばれて置かれます。通り過ぎ、神殿に上ってゆく人々にとって、この男性は自分の信仰の敬虔さを表す施しの対象であり、門のそばに置かれ、神殿に上ってゆくことはできないこの男性にとっては、通り過ぎる人々は生活の糧を与えてくれる対象です。両者をつなぐものはまさに「金銀」で、神殿に上る人々にとっては、施しを与える対象が誰でも良く、門のそばに置かれた男性にとっても、施しをもらえるならだれでも良いという関係です。人々は通りすぎ、彼は置かれ続けます。

 

<見る、見る、見る…>

その男性の前に、「わたしには金や銀はないが…」とはっきり言うペトロたちが通りかかります。お金がなければ、関わりは生じないのでは。けれども、ここで、両者の関係が始まります。3~5節にはギリシャ語ではそれぞれ違う単語で「見る」という言葉が4回繰り返されます。

まず、門のそばに置かれている男性がペトロとヨハネに目を留め、施しを乞います。すると、ペトロとヨハネは彼を「じっと見」ます。凝視する、注視する、という単語が使われています。そして男性にも「わたしたちをみなさい」と声をかけます。この「見る」は、「注目してみること、本質を見極めようとすること」という意味です。何がもらえるのだろうと男性は二人を見つめます。ここの見るは「心を向け、注目する」という意味です。互いが互いに注目し合ったとき、両者の新しい関係が始まりました。私たちは関心のないものには目を向けません。目を向け、じっと見るということは、その人に心を向け、思いを向け、その人のことを考えるということです。ペトロたちはこの男性に対して、何を考えたのでしょうか。

この男性は40歳を過ぎていました(使徒4:22)。当時の寿命で考えると、この人は、生まれたときから、一生、死ぬまで足が不自由で、このまま人生が終わると自他ともに考えていたと言えます。彼は門のそばに置かれ、人々は金銭を渡して通り過ぎる。この記号のような関係がこの男性の一生続くことに、神殿に上り、神の前に出ようとしている人たちが誰も疑問をさしはさみませんでした。彼自身もまた、そうでした。

そうではないことを、ペトロたちは伝えます。

 

<物ではなく、いまや>

「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とペトロは男性の手を取って立ち上がらせます。「イエス・キリストの名によって」とは、「イエスさまの力によって」ということです。人々が、その男性の一生、考えもしなかった癒しが、イエスさまの力によって実現します。彼の足はしっかりと強くなり、立ち上がり、地面を踏みしめ、歩き、跳ね、踊ります。8節の表現から、信じられないほどの喜びと驚きに満ちた男性の様子が伺えます。彼は癒して下さったのは神だとわかり、神を賛美します。そして二人と一緒に境内に入っていきました。

今まで、門のそば、境内の入り口に物のように置かれ、一度も入ることを許されなかった神殿の中に、自分の足で、喜び賛美しながら入っていったのです。

この40年、あなたはずっと神に愛されている存在であったとペトロたちは伝えます。あなたは物ではなく、記号ではなく、互いに見つめ合い、尊重される存在であり、神に愛される人間であると手を差し出し、神の力を伝えます。もうこの男性は、物のように置かれる存在ではありません。今や、神の愛を知る一人の人として立ち上がりました。

通り過ぎず、一緒に神の元にいこうとペトロは伝えます。教会の一つひとつの働き、遣わされる私たちの働きが、相手を物や記号ではなく、神に愛される一人の人として、共に歩むものでありますように。一緒に神の元に行こうと手をつなぐものになりますように祈ります。

 

 

7/17 「手と手と手と」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録2章37~47節 

<どうしたらよいか、の問い>

ペンテコステの日、集まった人々にペトロが語ったことは、人々が十字架にかけて殺したイエスこそ、自分たちの救い主であり、自分たちのために神が遣わして下さった神の子だったということでした。イエスの死は、自分と大いに関係がある、ということを知らされた人々は、心を打たれ「わたしたちはどうしたらよいのか」という問いを使徒たちにぶつけます。

ペトロは「悔い改めなさい」と答えます。「悔い改める」とは、自分の立っているところをぐるっと転回させて立ち位置を変えることです。神の愛にふれた時、私たちは自分中心の生き方から、神を中心とした生き方に変えられていくのです。

ペトロはさらに人々に、イエスキリストの名によってバプテスマを受け、悔い改めを公にするよう勧めます。そして神から差し出されている罪の赦しを受け入れ、聖霊を受け、神の恵みを伝えるものに変えられるようにと勧めます。

イエスを迫害し、敵対していた人々が、イエスを救い主と信じ、神に従う働き人として変えられるのです。

 

<手と手と手と>

人々は変えられました。使徒の教え、相互の交わり、パンを割く事、祈ることに熱心だったと記されています。強調されているのは、人々が主にあって一つとされたということです。持っている物を共有し、互いに補い合う、心を合わせて神殿に集まり礼拝し、家では一緒に食事をする…。

 信者たちの生き方は民衆の心もひきつけ、日々救われ仲間になる人が加えられます。主を信じる人々の輪が広がり、さらに一つに広がっていくのです。イエスをキリスト、救い主と受け入れる生き方に変えられた人々が、互いに助け合って生きる様子が記されています。

 人々に降った聖霊は、隣りびとに神の恵みを伝えることへと用いられていくのです。

今日、帯広教会では神学校週間を覚え、神学校献金のアピールをして頂きました。先程ご覧いただいた動画で、西南学院大学神学部の神学生たちが、自分自身の学びについて語り、同時に世界の平和を求めて祈っていることを語りました。最後に三本指を掲げていたのは、現在ミャンマーで使われている民主化運動の象徴として、軍政への抵抗の意思を示し、民主化を求めるサインです。以前神学部で学んでいた時、「地球規模で考え、実践は足元から」と、講義室に掲げられていました。

私たちは誰と共に生きているのかと問いを受けます。

「手と手と手と」は、保育の場でよく使われるつながり遊び歌です。隣りの人と、手と手を合わせ、つながっていきます。

私の、あなたの、この手は、誰とつながっているでしょうか。誰と生活を共にし、分かち合い、祈りあっているでしょうか。

 

わたしたちはどうすればよいのか、という悔い改めの問いを頂いた私たちは、具体的に、自分のこの手を合わせ、隣り人と生きていきましょう。

7/10 「つながっている」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録2章22~36節 

<イエスこそが、救い主>

ペンテコステの日、聖霊が降った物音に驚いて集まって来た人々に、ペテロが語ります。今日の箇所では、イエスさまこそが、自分たちが待ち望んでいたキリスト、救い主だったのだ、と語ります。

「奇跡」「不思議な業」「しるし」…。ペトロはイエスさまが行われた数々のことを人々に思い起こさせます。病を癒し、人々に食べ物を与え、神の国の福音を語って来たこと。これらは神さまがイエスさまを通して行われたことであるとペテロは言います。神さまから遣わされたからこそ、イエスさまはこのような働きをなすことが出来たのだ、と神の派遣を語ります。

またペトロは「ダビデはこう語った」と、詩編を引用しながら、イエスさまこそが救い主であることを人々に証明します。イエスさまは死んだけれども、復活された、とイエスさまの復活について語ります。

 

<つながっている>

イエスさまの死を、ペトロは「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった」、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と語ります。「イエスさまの死」はあなたがたと大いに関係がある、関係があるどころか、イエスさまはあなたたちによって殺されたのだと言うのです。そしてそれは神の御計画だったと言うのです。(「神はお定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなたがたに引き渡された」。)

これは人々にとって衝撃的なことでした。イエスさまを十字架につけることに賛同した人々は、自分たちこそが、神に対して信仰深く、正しいことをしたと考えていたでしょう。しかし、神の御心が明らかにされる時に、その思いはひっくり返されます。自分たちの行いも神の御計画の内にあり、自分たちの罪のためにこそ、イエスさまは十字架にかかられたのだというのです。自分とは何の関わりもないとみなしていた「ナザレのイエス」が、実は待ち望んでいた救い主だったということを人々は知らされます。

イエス・キリストは、ご自身もろとも私たち一人ひとりの罪を十字架につけられ、葬られ、復活されました。私たちをご自身の元に引き戻し、立ち帰らせ、いのちの道を歩ませようと手を伸ばして下さる神さまの愛を、私たちはイエスさまを通して知らされます。

「あなたとわたしはつながっている」と神さまは私たちを呼んでくださいます。神の独り子、イエスさまが私たちと神さまをつないでくださいました。

 

人々に降った聖霊により、イエスさまが救い主であるということが明らかに示され、人々はそのことを証しします。私たちは、主が約束して下さった通り、助け主なる聖霊を遣わしていただき、「イエスは私の救い主である」と告白しつつ、日々を歩んで行きましょう。

7/3 「注がれる」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録2章14~21節 

<五旬祭の日に聖霊が降って…>

五旬祭の日、使徒たちをはじめ120人ほどの人々が集まって祈っていると、天から聖霊が降り、人々は世界中の言葉で神の業を語り出しました。大きな物音に驚いて集まって来た人々が、その証人となりました。信じがたい出来事に驚き怪しみ、「酒に酔っているのだ」と揶揄する人々もいました。

 

<すでに預言されていた通り>

そこで12人の使徒が立ち上がり、ペトロが代表して人々に語ります。今日はその初めの部分です。旧約聖書ヨエル書からの引用を語ります。

「終わりの時」に「神」が「御自身の霊を全ての人に注ぐ」とどうなるのか。まず、あなたたちの息子や娘、僕や女僕は預言すると言います。「預言」とは、神の言葉を預かって語ることです。旧約聖書には多くの預言者が登場します。エレミヤが「私は年若いから…」と神さまからの預言者の召命をしり込みします。しかし神は「若者に過ぎないと言ってはならない。」と彼を励ましました。ここで息子や娘、と言われている通り、年齢によらず、神の言葉は委ねられることが明らかになります。

さらに性別によらず神の霊は注がれます。旧約聖書の女預言者としては士師記「デボラ」を思い起こします。が、男性の預言者に比べて、残されている数は圧倒的に少ないのです。ここでは「娘」にも霊が注がれます。男性だけでなく、性別によらず、神の霊は注がれて預言すると語られます。

18節では「僕やはしためにも」と語られます。旧約聖書の時代、僕たちはイスラエルの民にとっての異邦人であることが多かったのです。ここでは、預言するのはイスラエルの民だけではなく、異邦人たちにもその働きは広がると言われています。イスラエルの神、私たちの神と考えていたのに、福音の広がりが異邦人に広げられ、更に彼ら自身が預言者の働きを担うとされています。またここには奴隷という身分にもよらずに神の霊は注がれることも意味されています。

僕・はしためということばにより、先ほどの性別によらず、ということも同じです。

神の言葉を取り次ぐ預言者は、年齢によらず、身分によらず、性別によらず、国籍によらず、等しく、平等に、ということがここで言われていることです。

そして若者は幻を見、老人は夢で幻を見ます。幻を「見る」と訳される言葉は、実際に目に見るというニュアンスのある言葉です。「夢」も「幻」も、神が人にみ旨を語る時に用いる方法でした。寝ても覚めても、私たちには神さまの御心が示されていくのです。

 

<神は注ぐ>

神の霊は、特定の人に注がれるのではなく、全ての人に、等しく平等に注がれます。神は御自身の意思で、私たちにあふれんばかりの霊を注ぎます。その霊を頂いて私たちは神の国実現の幻を見、夢を見るのです。

先週から今日は、日本バプテスト連盟では「神学校週間」として覚えて過ごしています。西南神学部で7名、東京バプテスト神学校で8名、九州バプテスト神学校で9名の神学生が学んでいます。年齢も、性別も国籍も様々な方々です。神から頂いた召命に従って献身し、学ばれている神学生の学びと生活、働きが充実するよう祈り、捧げ、支えましょう。

そして今日、神の霊は全ての人に注がれると宣言されました。神の言葉は私たちの予想をはるかに超えて実現します。若いから、年を取っているから、女だから、向いてないから…という私たちの側のしり込みは神さまには通じません。献身者だけでなく、全ての人々、今ここにおられる皆さんお一人ひとりに神の霊は注がれています。

神から頂く豊かなビジョンを目に見、夢に見、わたしたちもまた神の働きに連なっていくのです。

神の霊は注がれています。神は霊を注いでいます。

 

 

6/26 「父の家を離れ」 説教者/川内活也牧師
創世記12章1~4節 

父との別れ

6月11日に父が召天しました。家族との死別は初めての経験でしたし、入院から2ヶ月ほどの短い期間での召天でしたので、寂しさや喪失感で、突然、涙腺崩壊してしまう状態はまだ続いています。しかし、長年父が牧会していた教会での葬儀であり、家族も周囲の関係者もほとんどがクリスチャンという、同じ信仰による希望と慰めに満たされていることは感謝です。

アブラムへの招き

今日の分かち合う箇所は、アブラム(後に信仰の父と呼ばれるアブラハム)が、父テラと死別した直後の箇所です。テラはカルデヤのウルから、カナンを目指して移動していましたが、最終的にはユーフラテス川上流のハランという地にとどまっていたと記録されています。族長時代と呼ばれるこの時代、テラは多くの財産と一族を築いた裕福な族長だった姿を聖書の記録から読み取る事が出来ます。さて1節を読むと、そのテラがハランで亡くなった時、アブラムは神さまから「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と招かれました。

アブラムの決意

父テラが築いた豊かな一族をアブラムは受継ぎました。ハランの地において、安定と安住を得ていた様子が伝わります。そのままそこに留まり、地域の有力部族として生きることが、一般的には賢い選択だったかも知れません。しかしアブラムは、神さまからの招きに従い、安定と安住の地を離れる決意に立ち上がりました。当時の常識、安定と安住の「父の家」を離れ、主なる神さまの招きに従い、歩み出したのです。

知識の実

さて、創世記3章で、人類に「罪」がもたらされた記録があります。先々週のメッセージでも語られていましたが、この善悪を知る知識の木の実が「致死的な毒性植物」だったのではありません。神さまが語られた約束の言葉を捨てて、蛇の誘惑に従い、神さまを侮り、その実を採って食べることを選び取ったことが「罪=神さまとの断絶」であり、いのちである方との交わりを断ち切った事により、人は「死と滅び」に捕われてしまったのです。結果、人は確かに「神のようになる」という言葉通りに、神のように善悪を知りつつ、善では無く、欲望のままに悪を選ぶことさえ出来る知恵と知識を得たのです。神さまとの交わりの中で、いのちに結ばれ、将来と希望に満ちた「非常に良かった世界」が、この時から死と滅びにつながれてしまいました。

父の家を離れ、天の父へ向かい

「父の家」が示すのは、主なる神さまから離れた「知恵と知識」に満ちた世界です。そこには確かに慣れ親しんだ安定・安心があるかも知れません。しかし、そこには主なる神さまとの交わりが無いのです。アブラムは神さまの招きに従い立ち上がり、父の家を離れ、天の父なる神さまの約束に向かって歩み出しました。神さまから隠れて食べた「善悪の知識の木の実」を捨て、神さまの約束の御言葉を信じる信仰の実を選びとったのです。

箴言1:07 主を畏れることは知恵の初め。

神を畏れること、主の御言葉を信じる信仰こそが、まことの知恵と知識の実を結ばせ、約束の祝福へと私たちを導くのです。(箴言1:7)罪の世に在って慣れ親しんでいる知恵・知識・経験からでは無く、主の御言葉の約束を信じる信仰によって、私たちは自分自身の、そして、家族におよぶ死と滅びに対してさえ、キリスト・イエスによる圧倒的な勝利を得させられるのです。

新たなこの一週、私たちは慣れ親しんだ世の知識、死と滅びの罪を離れ、神さまの約束される祝福の家に向かい、信仰をもって歩み出しましょう!

 

 

『信仰は、望んでいることを保証し、見えないものを確信させるものです』ヘブル11章1節

6/19 「十戒における『我と汝』」 説教者/澤田二穂 兄
出エジプト記20章1~7節 

 <信仰と対話>

「我と汝」の対話の関係に立つならば、たとえスポーツ等のライバルにおいてさえも親交を通じて互いに影響し合い成長し合うことができます。

<十戒の前文の精神>

「十戒」の前文(20:2)では、神は、「私、ヤハウェはあなたの神である」と人間を「我と汝」の関係へと招きます。この関係は、エジプトからイスラエルを開放したという救済と恵みが先行する関係であります。十戒は、このような関係において私たちがどのように応答するのかが語られているのです。

<十戒の前文の精神で、十戒を読む>

十戒の中で、通常の禁止命令(創世記3:17)「取って食べてはならない」のように「~してはならない」と訳されている戒めは、実は、文法の上で、否定の推量すなわち「当然あり得ない。」と訳すべき文章で書かれています。(関根清三)。つまり、十戒の前文の精神である「汝と我」の関係にあるならば、一つ一つの戒めは、「行なってしまう」可能性はあっても「・・(行なわれない)のが当然だ」の意味で語られているのです。

<イエスの「アッバ」の祈り>

イエスさまは、祈りの中で神への呼びかの言葉に特化した「アッバ(アラム語、父よ(ギリシャ語による翻訳)」と呼びかけて神との「垂直関係」を強め、人々との「水平関係」を築き、苦難に対応しました。

<変化する時代のうねりの中で>

私たちも「アッバ、父よ」と呼びかけて神さまとの太いパイプで結ばれるイメージで「我と汝」の関係を深め、神の使命を受け止めながら、人生でお会いできる人々との対話の関係を築き、同時に時代の難局に向って参りたいと願っております。

6/12 「断絶」 説教者/川内裕子 牧師
創世記3章1~7節 

 

 <いざない>

活也牧師のメッセージの月には、先週から創世記を読んでいます。先週1章から神の創造の業によって世界が生み出され、私たちは神の同労者として、よい世界を守り管理する働きを委ねられていることを知らされました。

今日は3章から読んでいきます。先週「それはきわめてよかった」と神が言われた創造の世界に、不穏な影が差します。まず登場するのは蛇、女、男。神は登場しません。蛇は神がお造りになったもので「最も賢い」と紹介されます。その賢さは、人の心の底にある思いをあぶりだすような問いを発することに現れます。

神の言葉は「全ての木から取って食べよ。ただし善悪の知識の木から決して食べてはならない。必ず死ぬ。」(2:1617)でした。蛇は、「どの木からも食べてはいけないと神は言ったのか」と問います。女は答えます「食べても良いのだ。しかし園の中央は食べてはだめ、触れてもだめ、死んではいけないから」。「触れる」ことに神は言及しませんでしたが、女は自分で条件を加えます。「必ず死ぬ」が「死んではいけない」と曖昧になります。蛇は女の好奇心を掻き立てます。「死なない。神のようになるのだ。」女は蛇にいざなわれます。

「必ず死ぬ」、が「死ぬかもしれない」になり、とうとう「決して死なない」になってしまいます。

 

<挑戦>

女はとうとう実を取って食べます。男は女に渡されるまま食べます。女と蛇が会話している間、男は反論せず黙って聞いています。女は「わたしたちは」と二人を代表して蛇と会話しています。善悪の知識の木の実を取って食べることは、女も男も自分の意思として行ったのです。積極的であれ、消極的であれ。女も、男も神に不従順だったのです。

彼らは目が開け、裸であることが分かります。神の造られたそのままの存在をイチジクの葉で隠します。

 

<断絶と、断絶をつなぐもの>

彼らは神から隠れ、「どこにいるのか」と神に問われます。「罪」は禁じられた実を食べた事ではなく、神から隠れたことなのです。神から隠れ、不従順に生きる二人に、神はしわしわ縮み隠しているところも隠せなくなるイチジク(植物)ではなく、皮の衣を作って与えます。二人のために動物の命が流されたことを意味します。私はここにイエスさまの十字架の贖いの先取りを見ます。

私たちは神に不従順な生き方を選択しました。神から背を向け言い訳をして生きようとすることで、それは私たちから神への断絶を意味しました。

しかし神は、そんな私たちを呼び、贖い、生かして下さいます。

神の造られた世界に不従順を呼び込んだのは、私たち人間です。世界中で起こっている戦争や紛争、そして私たちの日常の中のいさかいも、私たちの不従順の結果なのです。そのために神の造られた大地がうめいています。

私たちはこの地を受け継ぎ、よく管理せよと神に委ねられました。私たちが神の手を断絶したのに、神はなおも私たちを読んでくださいます。神の手が伸ばされているのを受け取るべきではないでしょうか。

 

6/5 「支配」 説教者/川内活也 牧師
創世記1章27~31節 

 

 聖書

今日私たちの手に与えられている聖書は、イエス・キリスト誕生以前に書かれた旧約39巻と、誕生後に書かれた新約27巻の合計66巻から成る「唯一の霊的規範の書」です。先週は西島執事を通し、聖書の最後の書である「ヨハネの黙示録」からの説き明しをいただきましたが、今日は一気に戻って、聖書の始めに記されている書である創世記から共に御言葉に耳を傾けましょう。

はじめに

聖書はその冒頭で「初めに」ついて語ります。全ての理には「終わり」がありますが、「終わり」を迎える前には「始まり」があります。この天地万物の基礎の基礎、土台の土台についての記録が、創世記の1章です。

生み出された人間

さて1節の「初めに神は天地を創造された」という宣言から25節までの間に、天地万物の創造の業が記されています。そして、全てが整った後、今日お読みしました26節以下で、人間の創造についての記録が始まります。

創造の目的

神さまは何のために天地を創造されたのか?この真理についてはまず「出産」に例えられます。夫婦に子どもが与えられた時、その子の誕生に備えて両親は家を整えます。その準備のための整えの業一つ一つが喜びの時です。最善を尽くし、最良のモノをもって我が子の誕生の時を待ち望むのです。神さまは創造の6日間、どれほどの喜びをもって万物を創造されたことでしょう。整える1つ1つの業を確認し「神はこれを見て、良しとされた」と何度も語られています。そして、全てが整った後に、ついに人が創造されました。この時、神さまは「極めて良かった」と宣言されました。整えに整えた我が家に、ついに誕生した我が子を迎え入れた時に、喜びと感謝に満ちる姿を思い浮かべます。

創造の目的

神さまは何のために天地を創造されたのか?この真理については次に「建築」にも例えられます。何の目的も無く建物を建てる人はいません。「家」を建てる者は「家」を建てる事が目的なのでなく「家に住まう者の生活の場を整える」という目的を持ちます。神さまは天地万物を「人が住まうべき家」として整えて造られたのです。

支配者ではなく支配人

「愛する我が子が住まうべき家」として天地万物を神さまは創造されたのだという真理に立って初めて、28節を正しく理解することが出来ます。「全てを支配せよ」との宣言だけを聞くと、人間が天地万物の「支配者」であるかのように聞こえます。「支配」という単語の意味だけで考えるなら「自分の意志・命令によって相手の行為や在り方を規定し束縛する主権者」になってしまいます。しかし、神さまは人間に、被造物に対する生殺与奪権限を与えたのではありません。正しく統べ治める「支配人」となるようにと、この世界を委ねられたのです。

主権者と共に

主なる神さまから、私たちは世界を正しく治める使命・責任・義務を委ねられているのです。神さまとの愛の交わりに結ばれ生きる者として創造された人間であるからこそ、委ねられている世界を正しく治める管理者・支配人としての務めがあるのです。主権は神に在り。私たちは世界を正しく治める時に、支配人として、主権者なる創り主と共に「極めて良い世界」を築き上げ、喜ぶ同労者とされるのです。

 

  

主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。詩編127編1節

 

5/29 「苦難の中にある人へ」 説教者/西島啓喜 執事
ヨハネの黙示録20章1~6節 

1 前半の振り返り

  ヨハネの黙示録の時代、教会は大きな危機に襲われていました。一つはローマ帝国による迫害、もう一つは神より富に頼る傾向です。4章から16章でヨハネは天上の情景を見せられます。巻物の7つの封印が解かれるたびに、7つのラッパが鳴るたびに、7つの鉢から中身が注がれるたびに地上に災難が降りかかります。しかし国々は悔い改めません。恐怖や脅しで人の心を変えることはできません。12章では、天で竜(サタン)が破れ地上に投げ落とされます。この戦いに勝利をもたらしたのは「武器」ではなく、「小羊の血」と、殉教者たちの「証しの言葉」です。地上には竜に操られた2頭の獣(国家・支配者と富の力)が出現し、自分を礼拝するよう強制します。しかし2頭の獣は最後の決戦に敗北し地上から一掃されます。

 

2 竜の捕縛のイメージ(20:1-3

竜は悪魔、サタンとも呼ばれ、この世界に、争い、不幸、自然災害・・ありとあらゆる悲惨をもたらす根源的な闇の力と考えられます。しかし、凶暴な竜もあっけなく捕らえられてしまいます。神の前には全く無力な存在です。

 

3 千年の統治のイメージ(20:4-6

2つ目は「千年王国」と呼ばれているイメージです。ヨハネはこの1000にどういう意図を込めたのでしょうか。それは価値のある期間、恵みの豊かさを表す数字と考えられます。(詩編84:11あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。)「イエスの証しと神の言葉のために、」苦難を通ってきた者たちが忘れられることは決してない、キリストの復活の豊かな命に預かるよ、そういう約束と見ることができます。

しかし、不思議なことに竜が再び解放されます。これは人間の現実を描いたものではないか、と思わされます。この世界では「なんで、どうして・・」、とつぶやく以外、できないような悲劇が突然に襲う。まるで竜が突然、解放されて暴れまわるようです。しかし、ヨハネが幻を通して示されたのは、悪が勝利して終わることは決してない。必ず神が勝利する、だから絶望してはいけない、と語っているのだと思います。

 

4 慰めの書、ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録はよく葬儀でも読まれます。彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(21:4

 死は悲しい別れですが、一方で、長かった戦いの生活から解放された。今は神のみ元で平安を得ている、と信ずることができるのは幸いです。

 

生きている限り、小さな悪、大きな悪による悲惨から逃れることはできません。しかし、どんな困難な中にあっても「キリストはすでに勝利された、だからしっかりせよ、諦めるな、希望を失うな」ヨハネは、そんな励ましを与え続けているように思います。

 

 

 

5/22 「懐にとどく」 説教者/川内裕子 牧師
使徒言行録2章1~13節 

<約束されたもの>

五旬祭は、過ぎ越祭から50日後、小麦の刈入れの初物を捧げるお祭りです。キリスト教会では、イースターから数えて50日目、ギリシャ語の50番目の、という言葉からペンテコステと言います。日本語ではこの日を聖霊降臨日と言い、それが今日の聖書の箇所の出来事に由来します。今年のペンテコステは65日ですが、少し先取りしましょう。

この日、弟子たちが集まっていると、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえてきました。「風」は「神の霊」「息」と同じ言葉です。ここで大風の音が聞こえたことは、神の霊がこの場に激しく降ったことを示しています。さらに炎のような舌が一人ひとりの上にとどまります。「炎」もまた、神の臨在を表す言葉です。一人一人に聖霊が降ったことが強調されます。これはかつてイエスさまが弟子たちに約束されていたものでした。

 

<それぞれの言葉で>

約束された聖霊を受けた弟子たちが語り始めた言葉は様々な国の言葉でした。大きな物音に驚いて集まってきた人々がその言葉を聞きます。ガリラヤの片田舎の言葉しか知らないと思っていた人々が、当時における世界中の国々、地方の言葉を話しているのを聞いて、集まった人々は驚きます。

弟子たちの語っていたことは「神も偉大な業」について、すなわち、彼らは、集まった全ての人々がそれぞれ理解できる母語で、キリストの証人として証ししていたのです。

 

<懐にとどく>

 さて、聖霊が激しい風として降ったことについてもう少し考えてみます。台風や帯広の突風などを体験すると、激しい風はそこにあるものを根こそぎ吹き飛ばしてしまうものだと実感します。聖霊の風をそれぞれが受けた時、もともとの自分の考え方とかあり方とか、そのようなものを吹き飛ばして神さまの息を吹き入れて下さり、刷新して下さったということができます。弟子たちはそのように変えられ、聞く人々の言葉でイエスさまを証ししました。それは、自分の土俵で語り、行う、というのではなく、イエスさまをお伝えしたい方の土俵で語り、行い、証しするということです。

 私たちも同様に、聖霊を受け、私たちが自分で設けている限界や考えを吹き飛ばしていただき、刷新されましょう。ペンテコステは「教会の誕生日」と言われます。私たち一人一人だけではなく、教会の働きも聖霊を受け、刷新され、振り返る時を頂きましょう。

 私たちに出会って下さったイエスさまを、相手の懐にとどく言葉で、行いで、祈りをもって証しし、私たちも教会も歩んで行きましょう。

 

 

 

5/15 「集められる」 説教者/川内裕子 牧師
使徒言行録1章12~26節 

<心ひとつに祈る>

 先週、「神の国の実現は、今ですか?」と問うた弟子たちに、復活のイエスさまは、「その時は神さまだけがご存じなんだよ。神の国は、あなたたち自身が神さまから働きを委ねられ、それぞれが頂いたもので実現していくんだよ。」と答えられました。

 その後、11人の弟子たちはエルサレムの宿泊している場所に戻ってきました。そこには彼ら以外にも人々がいました。人数も名前も記されていませんが複数の女性たち、イエスさまの母マリア、イエスさまのきょうだいたちです。そしてさらにその後、その人数は120人ほどに増えていたと書かれています。

 彼らが行っていたのは、心ひとつにして熱心に祈る、ということでした。イエスさまが捕らえられたのち、イエスさまのそばから逃げ出し、イエスさまの処刑後、自分たちの身の危険を感じて部屋にカギをかけて閉じこもっていた弟子たちは、復活の主に出会い、変えられました。今、その場に集まった多くの人々は、恐れによって寄り集まっているのではなく、イエスさまから頂いた使命に従って生きるために祈りを通して神さまとの対話を行っているのでした。

 

<神さまの選び>

人びとが神の導きの中で示されたのは、イエスさまを裏切り離れていったイスカリオテのユダの代わりに12人目の使徒を任命しようとすることでした。彼らは二人の候補者を挙げ、いずれがその働きを担うべきかくじを引きます。「くじを引く」というということは、人の思いによって決めるのではなく、神さまの御心を尋ねる、ということです。人々は神さまの選びに委ねました。

 

<集められる>

 この12人目の使徒の選びが神さまの選びであったことは、ここにいた全ての人々にとって象徴的なことです。選ばれたマティアだけでなく、全ての人々は神さまが召しを与え、選んでくださったということです。

 人々はみな、それぞれイエスさまとの出会いがあって変えられて集められていた人々です。一度は逃げ出した人々も、復活の主に出会って呼び集められました。イエスさまの働きを辞めさせ、家に連れ戻そうとした家族たちも、イエスさまに従う者として呼び出されました。その他100人以上もの人々が、それぞれイエスさまとの出会いによってここに集められてきたのです。

それは、「主の復活の証人となる」という働きのために、一人一人神さまが呼び集めてくださったのでした。

私たちもそれぞれ「主の復活の証人となる」という召しを主から与えられています。自分から推薦したのでもなく、すでに主が選んでくださったその召しを身に受けて、主に委ねられた働きにどのようにお応えするかを祈り求めていきましょう。

 

5/8 「頂いたもので」 説教者/川内裕子 牧師
使徒言行録1章6~11節 

<天に昇る前に>

弟子たちは復活されたイエスさまに質問します。「イスラエルのために国を建て直して下さるのはこの時ですか?」。「国を建て直す」とは神さまが終末の時、正しい秩序を回復させてくださることを意味しているようです。今やきっと復活の主が、イスラエルが世界を支配する終末的な国家の復興を成し遂げて下さると弟子たちは期待したようです。

 

<私の証人になる>

それに対するイエスさまの答えは、弟子たちの予想とは違うものだったのではないでしょうか。イエスさまは、あなたたちが期待している終末の時がいつ訪れるかは父なる神の御計画であり、あなたたちには分からないといいます。

そして神が国を建て直して下さるのは?というイスラエルの終末論的回復についてイエスさまが答えられたのは、弟子たちに聖霊が降るということ、そしてそれによって弟子たちは力を受け、全世界でイエスさまの証人として働く、ということでした。

神様のお働きを尋ねる弟子たちに対し、イエスさまは弟子たちがなしてゆく働きを答えられました。この8節のイエスさまの答えこそが、使徒言行録を通して記されていることで、8節は使徒言行録の主題と言ってもよいでしょう。

「あなた方の上に聖霊が降る」とは、弟子たちに神の力が働くこと、終末の時の始まりを意味します。「力を受ける」とは神の働きを頂くことで、「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、地の果て」つまり世界中で「私の証人になる」イエスさまの福音が伝えられる、というように、終末の時の神さまの支配は、弟子たちに委託された働きにより広がっていくのだとイエスさまは語られました。イエスさまは弟子たちを神の国実現の働きに召して下さり、彼らの目の前で天に引き上げられていきました。

 

<頂いたもので>

「力を受ける」というイエスさまの言葉についてもう少し考えてみたいと思います。私達はすごいパワーをいただくのでしょうか。世界の果てまで、ぎゅんと走り抜けるような?

今回私はコロナに罹患し、軽症ですがそれなりの症状の中で、体力も落ちて、今の体調でどのくらいのことまでができるかなとか、体のささやかなメッセージに耳を澄ませる体験をしました。今まで、頂いていた健康を、無頓着に考えていたと思います。わたしたちの体が緻密に神様によってくみ上げられていることを、病気を頂くことで気づきました。神様は私たち一人一人に、日々生きていく力を与えて下さり、私たちの何気ない小さな働きも、神さまの委託を受けているのだと教えられました。

その私たちが、イエスさまの証人となると言われています。それはイエスさまはスーパーマンのような方だと語ることでしょうか。むしろイエスさまは、人々と一緒ご飯を食べて、やりきれない思いに涙をおとし、理不尽な圧力に怒り、人々と小さな歩みを共にしてくださいました。私たちが証人として歩み、担う働きは、そのような日常の小さな積み重ねです。そしてそれこそが私たちに委ねられた大切な福音宣教の働きなのではないでしょうか。

イエスさまが天に昇られた後、天を見上げていた弟子たちに、二人の白い服を着た人が「なぜ天を見上げてるの?」と声を掛けます。天使は、神さまと私たちをつなぐ「ここぞ」という時に現れます。なぜ天を見ているの?イエスさまはまたおいでになるよ、その時まであなたの神さまに委ねられた働きを担おうよ、と天使たちは弟子たちを促します。神さまから頂いたもので、私たちもこつこつとイエスさまを証ししていきましょう。

5/1 「一緒に食べよう」 説教者/川内裕子 牧師
使徒言行録1章1~5節 

<復活の主が一緒に>

これからしばらくご一緒に使徒言行録を読んでいきたいと考えています。同じ作者によって書かれたルカによる福音書の最後24章と使徒言行録の初めは、復活されたイエス様がその後弟子たちにどのように現れたか、その後天に上げられた様子など内容的に少し重なりがあります。使徒言行録はその後、人々によって、福音がどのように広がっていったかが記されている書といえるでしょう。

今日は復活のイエス様と弟子たちが共に過ごした様子を読んでいきます。「苦難を受けた」(3)、つまり十字架に至る受難と死を通られた後、イエスさまが示されたことは、ご自分が「生きている」ということ、すなわち「復活された」ということでした。

 

<約束されたものを待つ>

ルカによる福音書では復活のイエスさまとの出会いはエルサレムにて記されます。そして使徒言行録においても、イエスさまはエルサレムを離れないでいなさい、と今日の箇所で告げます。

弟子たちにとってエルサレムは、師と仰ぐイエスさまが捕らえられ暴行を受け、裁判を受けて処刑された場所です。イエスさまの弟子であるという理由で、つかまる可能性もあり、弟子たちにとっても危険な場所でした。ヨハネによる福音書には、ユダヤ人たちを恐れて、カギをしめて閉じこもって隠れていた弟子たちの姿が描かれます。

 

しかし同時にエルサレムは、イエス様の復活された場所でもありました。イエス様はエルサレムで弟子たちに出会ってくださいます。恐れと疑いの入り混じる中に、イエス様ご自身が復活の姿を現し、希望と信頼と再生の光を投げ込んでくださったのです。

イエス様はさらに弟子たちに父から約束されたもの、聖霊を待ちなさい。エルサレムを離れないでいなさいと語ります。苦しみと絶望、恐れのあるところに、聖霊ご自身が助けと弁護、とりなしを与えてくださるのだという約束です。弟子たちにとって危険なエルサレムを、イエスさまご自身が希望の地へと変えてくださったのです。

 

<一緒に食べよう>

その約束を、イエスさまは食事を共にしながら語られました。ルカによる福音書24章では、ご自身が復活された証しとして、弟子たちの前で魚をひと切れ食べる様子が記されています。「食べる」ことが「生きている・復活した」ことの証左となっているのです。

食べることは生きる記憶です。その時食べたものはすぐに当時に私たちを連れて行ってくれます。イエスさまと食べた事、その時話された神の国の福音は、弟子たちの記憶の中で固く結ばれたことでしょう。弟子たちは食べるたびイエスさまと過ごしたこと、イエスさまの約束された神の国の福音を思い起こしたことでしょう。

イエスさまの十字架の贖いを記念する主の晩餐に与ることは、私たちもまたその記憶に連なることを意味します。飲むたび、食べるたび、私たちも繰り返しイエスさまの福音を思い起こしましょう。一緒に食べようと語ってくださる主と共に。

 

4/24 「愛するゆえに」 説教者/川内活也 牧師
ヨハネによる福音書21章15~19節 

ペテロの召命

今日の箇所は「ペテロの召命」として有名な場面です。19節の終わりでイエスさまはペテロに「わたしに従いなさい」と召命を与えられました。この招きに至るやり取りの中心にあるのが「わたしを愛するか?」というイエスさまからの問い掛けです。

愛の種類

日本語で「愛」は1つの単語で表わされますが、古代ギリシャ語では、神の愛を表わす「アガペー」・性的な愛を表わす「エロス」・対人関係の絆や信頼といった人格的愛を表わす「フィレオー」・身内への愛を表わす「ストルゲー」という4つの概念に分けた単語が使われていました。日本語では全て「愛」と翻訳されていますが、今日の箇所のイエスさまとペテロの会話では「アガペー」と「フィレオー」の2つの「愛」の単語が使われています。

3度の確認

イエスさまはペテロに2度「わたしを愛するか?(アガパオー)」と尋ねます。その問いにペテロは2度とも「愛します(フィレオー)」と応じました。しかし3度目の問い掛けは「わたしを愛するか?(フィレオー)」にイエスさまは変えています。このやり取りには様々な解釈がなされて来ました。この「3度の確認」は、やはり、ペテロが3度イエスさまを否定した出来事を想起させます。このやり取りにおいて、ペテロの「背信の苦しみ」が癒されたのです。では「神の愛(アガペー)をもって愛するか?」という問いに、なぜペテロは「人格的愛(フィレオー)で愛します」と応じ、イエスさまは3度目に「人格的愛(フィレオー)で愛するか?」と問い直されたのでしょうか?

他者との比較でなく

イエスさまがペテロの離反を予告されたマルコ14章29節を見ると、ペテロは「たとえみんながつまづいても、私はつまづきません」と宣言しています。ペテロの内には他者との比較による傲慢が有ったのです。しかしその「傲慢な自信」はものの見事に打ち砕かれました。今日の箇所でイエスさまは「アガペーで愛するか?」とまず問われました。神的愛は人の努力や才能・頑張りで成し得るものではありません。それは「支える愛」です。復活の主に対し「神のように支える愛」を成し得られるはずもないという打ち砕かれた謙遜をもって、ペテロは「フィレオー」と応じたのです。イエスさまは人に対し「神の愛をもってわたしを愛せよ」と無理難題を求められるのではなく、神の愛(アガペー)に支えられて、あなたの最大の愛で応えることを願われているのです。他者との比較による「優れた愛」ではなく、人格的な神との交わりに支えられ、最大限の愛をもって応じるペテロの信仰告白です。

愛に応える愛

主との出会いとは、神の愛(アガペー)を注がれ、愛(フィレオー)をもって応えるという交わりです。この出会いによって人は「福音の使者」(エペソ6:20)として新しい命の日々へと歩み出すのです。主を愛するゆえに、主の愛に応える愛として、神の栄光を現わす証しの器とされることを願う人生へと変えられるのです。

栄光を現わす愛

主を愛する者であるがゆえに、主の栄光を現わしたいと応える人生は、主から委ねられている愛に満ちたものへと変えられます。主の愛に支えられ、主の愛に応え、主の栄光を現わす愛を選び取る信仰の目が開かれる時、古い肉の罪から解放された新しいいのちの日々へと歩む者とされるのです。

 

 

『だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい』1コリント10:31

 

4/17 「刻印」 説教者/川内活也 牧師
ヨハネによる福音書20章24~29節 

イースター

今日はイースター(主の復活記念日)です。イエスさまは、全ての罪の贖いの犠牲となられるために世に降り、神の国の福音を宣べ伝えられた後、犯罪者に対する極刑であった十字架で処刑され、死に明け渡されました。その十字架刑が行われたのが、今の暦で見るなら金曜日になります。その日、墓に葬られ、金・土・日と過ぎた三日目の朝、日曜日の朝早くに弟子たちが墓を見に行くと、そこにイエスさまの亡骸はありませんでした。約束されていた通りに、イエスさまは復活されていたのです。死をもって終えられたのではなく、全ての人が負わなければならなかった「罪の報いである死と滅び」を打ち破って復活された救い主。この救いの完成を記念するのが復活記念日(イースター)です。日曜毎に教会で礼拝がささげられているのも、この復活の朝を記念する信仰の告白となっています。

新しくされる

神さまはご自身の愛に結ばれる存在として人を創造されました。罪も傷も汚れも無い、完全に聖なる方に似せて人は創造されたのです。でも人は、神さまとの交わりから離れる歴史を歩み出しました。その断絶という「罪」によって、人は傷を負い、汚れに染まり、死と滅びへと向かう者となってしまいました。しかし神さまは愛する者が死と滅びに飲み込まれていくことを良しとせず、三位一体であるその身を引き裂き、罪からの回復の道、すなわち、御自身との交わりに再び結び合わされるいのちの道を備えて下さったのです。人が負うべき罪の報いである死と呪いを、罪無き方が代わりに十字架で負って下さいました。それによって私たちは本来在るべき創造の初めの姿、「罪も傷も汚れも無い、完全に聖なる方に似る者=神の子」として新しくされるいのちを与えられたのです。黙示録21章を見ると、この歴史が巻き去られた後、神さまの完全な御支配の中で、全てのものは罪も傷も汚れも無い、完全に聖なる姿へと新しくされることが約束されています。

「完全」なのに傷?

さて、神さまの御国において、全ての者は罪も傷も汚れも無い完全な聖なる姿に新しくされるのですが、その「神の国」において「傷」を持つ存在が一人だけいます。それが、イエスさまです。今日お読みした箇所で、復活されたイエスさまと弟子たちの会話が記されています。新しいいのちへの復活を世に示されるイエスさまの御身体なのに、その脇腹と手の平の傷、十字架刑で負われた傷跡がのこされたままだったのです。

この傷こそが完全な姿

イザヤ書49章14~16節を読むと、復活の主の御身体の傷の意味を知ります。神さまは旧約聖書の時代から、人を罪から贖われると約束されて来ました。そして、イエスさまの十字架の死と復活によって、その約束が果たされたのです。復活の主の御手に刻まれている釘打たれた傷跡は、罪からの救いと赦しが完成した刻印なのです。「見よ、わたしは手の平にあなたを刻んだ」と語られる通り、罪人の頭である私たち一人一人を、神さまは永遠に忘れる事無く愛されているという約束の印が、この御手に残された傷跡なのです。

約束を受け取る信仰

契約書にどれだけ素晴らしい内容が記されていても、そこに契約者の印が無ければ、それは何の価値もありません。死と滅びを打ち破り、罪から贖い出すという神さまの約束は、イエスさまの十字架の死と復活によってその約束の印が刻まれました。この救いの約束は完成したのです。あとはこの約束を私たちが信じ、受け取るか否かだけです。イエスさまがトマスに語られた言葉は、今日、私たち一人一人にも語られています。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

罪からの贖いの代価となられ十字架で死なれた主は、死と滅びを打ち破られ、その御手に私たち一人一人の名を刻み復活されました。その完成された約束を信じ受け取る者は、誰一人滅びる事無く、永遠のいのちの朝を迎えるのです。誰もが開く死の扉の先に、御手の傷をもって私の名を刻まれた主が、両手を広げて迎え入れて下さるのです。

 

「女が自分の乳飲み子を忘れようか?その胎の実を憐れまないだろうか?たとえ女たちが忘れても、わたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ」イザヤ書4915

4/10 「ピラト」 説教者/川内活也 牧師
ヨハネによる福音書19章1~4節 

受難週

今週は受難週です。イエスさまは受肉後、およそ30歳になられてから福音宣教を開始されました。それから約3年半の「公生涯」を歩まれ、ついに、降誕の目的である「十字架の死」を迎えられました。イエスさまが語られる「福音」は、主なる神との和解、すなわち、人が罪の悔い改めによって神との正しい関係に結ばれ、創造の目的である在るべき姿となって、まことのいのちを得ることです。しかし多くの人々はその「福音の真理」ではなく、自分の都合の良い「欲」を満たす・あるいは自分にとって都合の悪い存在としてイエスさまを見ていました。人々のそのような的外れな目を見つめながら、イエスさまは十字架への道を歩まれたのです。

弱みを握られた権力者

ローマ帝国支配のユダヤ州第五代総督として立てられたピラト。彼にはローマから属国を治めるための「正義と公正」が求められていました。また、それらを行うための権限が委ねられていました。しかし彼は自分の成すべき「正義と公正」から外れた悪政を行ったため、ユダヤ人からの反感を買ってしまっていました。そんな彼のもとに、ユダヤ人指導者たちはイエスさまを引き出します。その訴えが指導者たちの「ねたみ」によるとすぐに理解したピラトは、総督として自分の成すべき「正義と公正」に気付きます。イエスさまには何も「罪」が無いと知り、釈放に尽力しますが、ユダヤ人指導者たちは頑なに「死刑宣告」を求めました。ついにはピラトの悪政をローマに訴えると脅されます。過去の失政に覚えもあるピラトは、目の前の「正義と公正」から目を背け、保身のため、ついにイエスさまを十字架刑へと引き渡しました。

真理を拒む「人の欲」

ユダヤ人指導者たちは「民を導く者」としての権限と使命をもって立てられています。しかし、当時の彼らは「民を導く」という使命ではなく「自分たちの欲望」によって民を支配する者となっていました。民を救う事よりも自分たちの利権を守ることに思いが向いていたのです。イエスさまが民を救う方であることを知っていながら、利権のためにイエスさまを拒んだのです(ルカ23:35)。ピラトも、ユダヤ人指導者たちも、根源にあるのは「利権のための自己保身」という欲望です。成すべき正しい行いから目を背けさせる「罪」が、彼らの内に、そして、私たちの内に在るのです。

とりなしの主

しかし、だからこそ、そのような罪人の頭たちのために、イエスさまは十字架という「罪人の死」を代わりに負って下さったのです。「父よ彼らを赦したまえ。彼らは何をしているのか、分からずにいるのだから」と、十字架の上で執り成しの祈りをささげられたのは、罪を見過ごすためでなく、人が罪から悔い改めて立ち返り、いのちへの道へと歩むための扉を開かれるためだったのです。

贖いの確信から

「聖書を知っている・キリスト教を知っている」というのは信仰ではなく知識です。「私(たち)の罪を負って下さった方・いのちへの道を開かれるために、贖いの犠牲となって下さった方」を知り・信じ・従うことが信仰です。ピラトのように、ユダヤ人指導者のように、成すべき正しいことを知っていながら目を背け、自己保身を選ぶ者ではなく、成すべき正しいことを選び取り、いのちの道へと歩み出しましょう。主に贖われた者である信仰の確信によって、私たちは委ねられている日々を、正しく治める者として歩むことが出来るのです。

 

「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」 ヤコブ4章17節

 

4/3 「主にならい・成長する教会」 
エペソの信徒への手紙 4章12~16
             説教者/川内活也 牧師

新年度

2022年度最初の主日礼拝です。今日は新年度の教会主題聖句であるエフェソ書4章13節に注目し、年間テーマ「主にならい・成長する教会」というタイトルで御言葉を分かち合いましょう。

主にならう

「学ぶは真似る」と昔から言われます。教わる・教えるという形の「教育」もありますが、信仰生活においては「誰かが教師・誰かが生徒」という人間相互の師弟関係はありません(マタイ23:8)。「全てのクリスチャンは主を真似る・主に倣(なら)う者」として、キリストの御肢体なる教会を建て上げるようにと勧められているのです。

奉仕の業に適した者

パウロが11節で語っている、いわゆる「教師=教える者」というのは、イエスさまが禁じられている「先生」とは違います。学問としての知識で聖書を学ぶ「神学」での教育ではなく、御言葉を通して神から学ぶ「神学」、すなわち、キリストに真似る・キリストに倣う者としての信仰の歩みが「聖なる者たちの務め」です。そのような聖なる者たち、すなわち、奉仕の業に適した者たちがキリストに倣う姿を通して、新たにキリストに倣う者が興され、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで教会は成長するのです。

ならうべき土台

では、キリストに倣う者、そして何より、イエスさま御自身の「何」に私たちは倣うのでしょうか?イエスさまや「聖なる者」とされる先人クリスチャンが「何をしたのか」という点に目を向けると、多くの場合、的外れな方向へと信仰はズレて行きます。「何をしたのか」という「行動」は、時代や状況、それぞれの個性によって変わるものです。イエスさまのように40日間の断食をするとか、奇跡を行うとか、鞭打たれるとか、マザーテレサのように虐げられた人々に寄り添うとか、キング牧師のように神の公義を世に告げるとか、そうした行動を「真似る」のでは無いのです。倣うべき土台、それは「初めの愛」に結ばれ続けることです。神に愛された者であるがゆえに神を愛する者として歩む姿勢こそ、倣うべき土台なのです。「何を成すのか・成したのか」という行為・行動を真似るのではなく、その行為・行動の原理・土台である「神の愛に根差す」ことこそが、成長するための土台なのです。

土台を失った教会

黙示録2章4節を読むと、エフェソ教会が「初めの愛」から離れてしまった事を知ります。イエスさまが示された真似るべき・倣うべき「神との愛の交わり」から離れてしまった結果、神に祝福される成長を失ってしまった姿です。信仰者・教会が常に土台とすべき真理は、神が御子キリストを通してあらわされた「神との愛の交わりに結ばれること」以外には無いのです。

神の愛こそが成長の土台

今、私たちは受難節の歩みの中にあります。イエス様が十字架に歩まれた事を想起し、記念する期間です。それがなんのためであったのか、なぜ、そのような苦しみを受けられなければならなかったのかを思い出しましょう。初めの愛に立ち帰り、悔い改めと感謝をもって、主の十字架の御後を歩みましょう。私達一人一人が主の愛を土台・基礎として固め、日々、初めの愛に立ち帰って歩み出す時、私達に与えられている全ての交わりは、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、神の愛の内に建てられていくのです。

 

『イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません』1コリントの信徒への手紙3章11節