3/26 「わたしはあなたを」 説教者 川内裕子 牧師 ルカによる福音書22章66節-71節

<敵意に囲まれ>

ダビデの子、ホサナ!と喜んでエルサレムに迎え入れられたイエスさまは、今や逮捕され、最高法院にて、宗教指導者たちに囲まれて尋問されています。イエスさまは弟子たちと過ぎ越しの食事をした後、オリーブ山に行き、受難の時を前にして苦しみ祈りました。そうしているうちに、宗教指導者たちや群衆が押し寄せ、イエスさまを逮捕します。弟子のユダに裏切られ、こっそり後をつけていたペトロからも否まれ、他の弟子たちはいなくなり、人々のむき出しの敵意やあざけりの中に、イエスさまは一人放り込まれ、囲まれています。

 

<私たちの気持ちは定まっている>

最高法院では、罪があるか、ないか、ではなく、有罪にするための裁判が始まります。人々の心はもう定まっていて、あとはその結論に根拠をもたせるための裁判なのです。

「お前がメシアなら、そうだというがよい」と人々は言います。長い間待ち望み、訪れを待っていた「メシア」という言葉が、激しい悪意を持って使われます。「メシア」は、イエスを罪に定めるためのわなです。あんなに待ち望み、救われることを希望していたのに。自分には受け入れがたいメシア像をなんとしても取り除こうとする人間の暗くて深いかたくなさを覚えます。

イエスは「私が言っても決して信じない、答えない」、あなたたちの拒絶の考えは定まっているよね、と答えます。そして「今から後、人の子は全能の神の右に座る」と言います。イエスはご自身を「人の子」と呼びました。受難の時を通り抜けて、イエスは神の右に座る、とご自身で語ります。

先週読んだステファノの見た幻を思い起こします(使徒7:56)。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と彼が言った時も、人々はその言葉を受け入れませんでした。むしろそれは神への最大の冒涜と考え、彼に石を投げつけて殺してしまいました。

同様にここでも人々はイエスさまの言葉を受け入れません。イエスさまの言葉を受けて「お前は神の子なのか」と尋ねます。イエスさまは「それはあなたたちが言っていること」と答えます。

目の前にメシアが、神の子がおられるなら、どんなにか喜ばしく、嬉しいことでしょうか。しかし目の前のメシアは、自分たちに方向転換を求め、生き方の向き直りを求めるもので、彼らの期待したようなメシアではありませんでした。自分たちは周りこそ変わればよいと思っていたのに、そうではなかったのです。自分の信じたいように、自分の捉えたいように物事を考える私たち人間のかたくなさが露呈します

 

<変わろうとする神>

変わろうとしない人々に対して、反対の姿をイエスさまに見ることができます。イエスさまはオリーブ山で苦しみ悶えながら「父よ、御心ならこの杯をわたしから取り除けてほしい。だが、私の願いではなく、神の御心が行われるように」と祈りました。自分の望みはある、向き合わねばならない苦難から逃れたい。しかし神の御心が行われるようにと、イエスさま自身が変わろうとされたのです。神はそのように思い直し、譲歩し、歩み寄ってくださいます。かたくなな私たちに、神が思い返し、近づいてくださったのがイエスさまの十字架です。

 

<わたしはあなたを>

「メシア」も「神の子」も、人々にとってイエスさまを罪に定めるための記号でした。イエスさまがメシアであり、神の子であるはずないから、もしそうだと答えるならそれは神への冒涜だと考えました。自分たちの考えもしなかった存在がメシアであるとは、神はどう御心を行おうとしているのか、という思い直しの苦闘は、彼らにありませんでした。

私たちはイエスさまがそうであったように、自分たちの思いもしない出来事や人々に出くわしたとき、それならば、このことをどう考えればよいのか、という苦闘をしたいと思います。イエスさまにならうものとして歩みたいと思います。

はぎ取られ、孤独に立っておられるイエスに向かい、わたしはあなたをメシアだと告白することができるでしょうか。それともわたしはあなたを信じないというのでしょうか。

 

自分の思い描いたものではない道が開かれているとき、身をかがめ、思い返してくださる神に従い、私たちもこの人生に神の御心を求める日々に歩めますように。

 

3/19 「繰り返す拒み」 説教者 川内裕子 牧師 使徒言行録7章54節-8章3節

<その言葉は聞きたくない>

とらえられたステファノは、告発している人々自身が、律法を守らず、神をないがしろにしているのだ、と主張します。その言葉は、律法学者たち、また自分は熱心に神に従っていると思っている人々を激しく怒らせます。聖霊に満たされたステファノが「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったとき、人々はその言葉を最大の神への冒涜と考え、聞こえないように大声を上げ、耳をふさぎ、ステファノを都の外に引きずり出して石打ちにし、殺してしまいます。

人々の、神に対する熱心が、一人の人を殺してしまったのでした。そしてこの炎は、燃え広がります。ステファノの殺害だけにとどまらず、エルサレムの教会への大迫害が起こり、人々が地方へと逃げ、散らされていったことが記されています。また、家々が捜索され、イエスを救い主と信じる人々が引きずり出され、牢に送られたと記されています。

ここでパウロがサウロというギリシャ語名で登場します。のちの異邦人伝道に献身したパウロの面影はここになく、むしろその対極に立つ立場を彼は取っています。ステファノを有罪とみなす証人たちは、自分の着物をサウロの足元に置きます。「サウロはステファノの殺害に賛成していた」とあるように、証人たちの着物を預かることで、「あなたたちの証言は正しい、ステファノは神を冒涜した者であり殺されるべきだ。私は積極的にそのことに参与し、賛同する」という意思を示しています。そしてその意思表示の通り、サウロは次々とキリスト者を捕まえ、牢に送ります。

この激しい暴力を見る時に、「神に対する熱心」を私たちはそれぞれ自問する必要があるのではないでしょうか。

 

<イエスに向かう心>

ステファノはイエス様のことを「人の子」と呼びます。旧約聖書において、「人の子」は終末の時に現れる救済者をあらわす言葉として用いられます。イエス様はご自身のことを「人の子」と言われました。ダニエル書の黙示的な幻を髣髴とさせる光景をステファノは聖霊によって見せられます。神の右にイエスが立っている、という主告白は人々の暴力によってかき消されようとします。殺されようとしているステファノがしぼりだす言葉は、イエス様の受難を思い起こします(ルカ23章)。

とてもよく似ていますが、イエスさまは「父よ」と主なる神に向かい、ステファノは「主イエスよ」とイエス様に呼びかけます。イエス様の十字架上の叫びは、神と断絶していた私たちを、イエス様が結びなおしてくださった、その言葉です。ステファノはそのイエスさまに人々の心を向けようとします。人々はその言葉に耳を傾けることはありませんでした。

私たちの神への熱心が、イエスさまへと向かわせようとする声を封じ込めていることはないでしょうか。人を人とも思わず、石を投げつけて殺し、その声を封じ込めようとすることはないでしょうか。

 

<繰り返す拒み>

国と国との争いに、私たち一人の小さな力は抗えず、大きな波にのまれるように、繰り返す拒みの中を生きてしまいそうです。しかし、ウクライナに住む絵本作家オリガ・グレベンニクが、戦争によって一変した生活を鉛筆一本で描いた『戦争日記』は、瞬く間に多くの言語に翻訳され、人々の平和への希求を呼び起こします。

私たちは赦すことへと招かれています。繰り返す拒みの中で、私たちの神の熱心を問い返し、一人の命を大切するイエスさまに向かっていく声に従っていきましょう。

 

 

3/12 「開かれている」 説教者 川内裕子 牧師 使徒言行録7章44節-53節

<それぞれの場所で、主の働きを>

昨日は、2011311日に東日本大震災が起こって12年目を数える日でした。帯広でも長い、不気味な揺れが続いたと伺っています。今なお深い悲しみと苦しみ、なにげない、普通の生活を取り戻すことのできないことが続いています。傷ついたお一人お一人の心と体が主によって癒されることをお祈りします。昨年、連盟からは東日本大震災から10年の証言集が出されました。「光あれ~混沌の地に生かされて~」という本です。この中には震災を経験してのさまざまな証し、祈り、説教が収められています。

これらの証しを通して、震災を経験して生きてきている私たちの中に、主がどのような業をあらわしてくださっているかが示されます。帯広教会をはじめとして、北海道連合でも野田村の仮設住宅訪問や遠野ボランティアセンターでのご奉仕があったことを伺っています。出かけて行かれたその場所に、出会いが与えられ、主の働きが広げられていったことを思います。

 

<神はどこにでも>

今日の聖書箇所はステファノの弁明の最後の部分です。神はどこに住んでいるのか、と論じられています。結論から言えば、神はどこにでもおられるのです。出エジプトしたイスラエルの民は、荒野の40年間、神の臨在の幕屋と共に旅をしました。これは神が命じたとおりに民が作ったもので、旅の間、この聖所を民は持ち運んだのでした。これは、神を閉じこめ、ここにしかいないということではありません。「神はいつも民と共にいる」という証しでした。

 その後、カナンの地に定住した民が神殿を築いていくにあたり、人々は神の住まいは神殿である、神はここに住んでいる、と誤解してゆきます。大切なのは神殿だとすり替わってしまったのではないかと、ステファノは人々に心と耳に割礼を受けていない人たちよ、と批判します。おいでになることを預言され、待っていたはずのイエスさまを十字架にかけ、神の契約に逆らい、信じることも聞くこともあなたがたはしない、という批判です。

 

<開かれている>

 

  共にいてくださる神の働きをあらわしていく、というあり方は、今、このキリスト共同体に継承されています。先の震災でのボランティアの働きを思い起こします。出かけて行って与えられた出会いの中で起こされていった業。また、当地に行けなくても、「豆より」などで祈りをもって隣人のために携わったことごと。そのように、愛をもって隣人と生きていこうという働き、その関係性の中に神はおられるのではないでしょうか。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイ1820)。」とイエスさまは語りました。神は、私たちの作った器に閉じ込めておくことができる方ではありません。その器は開かれ、神は私たちの間のどこにでもおられて、わたしとあなたがつながる業の間に働いておられるのです。

3/5 「灰を見る」 説教者 川内裕子 牧師 使徒言行録7章37節-43節

<棕櫚の葉の十字架>

受難節第2主日を迎えました。昨年、レント時期に訪問した教会で棕櫚の葉で作った十字架を頂きました。レントの始まりの「灰の水曜日」には、前年のレントの最後の棕櫚の日曜日に用いた棕櫚の葉を燃やして灰にし、礼拝の中で額にしるしをつけ、イエス・キリストの十字架の苦しみを覚えるそうです。

頂いた十字架は、聖書にしおりとしてはさみました。この一年、聖書を開くたびこの十字架が目に留まり、イエスさまの十字架を苦しみを思い起こし、それが私のためであったということを心に刻むしるしとなりました。

 

<モーセはしるし>

今日の聖書の箇所にもしるしがあらわれます。とらえられたステファノは、モーセについて語ります。モーセに導かれてエジプトを脱出した民は、その導きに素直に従おうとはしませんでした。モーセがシナイ山で神から十戒を授けられている間、不在のモーセを待ち続けることのできなかった民は、アロンに要求して金の子牛を作り、これを拝み礼拝しました。金の子牛のみならず、星々や、他の民の偶像を拝んだことも、今日の聖書箇所の後半に記されています。

神が指導者、解放者として遣わしたモーセを、民は荒野の旅においても反抗し、認めず、思うままにふるまったことが書かれています。「エジプトを懐かしく思い」、とは、「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を作ってください」と続く言葉から、主なる神以外の偶像へと心惹かれ、それに頼ろうとする文脈に用いられています。

ステファノが語ったのは、主なる神に導き出された道しるべのないような荒野を旅することに耐えられない民の姿です。忍耐して導きを待つことができず、自分に都合の良い偶像を自らの手で作り、自分が神となって旅を操ろうとする姿です。拒絶されるモーセの姿が、イエスさまを思い起こすしるしとして、ここでは語られます。

モーセが37節に語った通り、主なる神はご自身の独り子イエスさまを民の中から立てられました。モーセが民から受け入れられなかった様子は、イエスさまが民から受け入れられなかったことのしるしとして語られているのです。世に降られたイエスさまを、人々は受け入れず、頼りがいのないものとして、あるいは自分の利益とする生活を損なうものとして憎み、反発し、十字架にかけたのでした。徹底的にいないものとして扱ったのです。ステファノは、モーセのことを語りつつ、それをしるしとして、イエスさまのことを人々に思い起こさせ、神から背き続けて生きている人々の罪を指摘したのです。

 

<灰を見る>

灰の水曜日の準備は、一年かけて行われます。一年の間さらされていた葉は、燃やされて灰になります。私たちは燃やされて灰になる存在であることを覚えます。また灰を身に受けることは、嘆きと悔い改めをあらわすことでもあります。一年の間の、私たちの背きの罪を覚えるのです。神を離れ、愛さず、互いに愛し合いなさいと愛の戒めを下さったイエスさまの言葉に従わないこともあった自分自身を、灰を見て思います。

にも関わらず、繰り返し手を差し伸べ、私たちを愛し、関わり続けてくださるイエス様の愛をわたしたちは受けています。今日はこのあと主の晩餐式を行います。イエス様の贖いを覚え、悔い改めて感謝をして向き直り、歩みだしましょう。

 

2/26 「和解の交わり」 説教者 川内活也 牧師 創世記45章4節-8節

受難節

今年のレント(受難節)に入りました。罪によって死と滅びの灰となるべき存在であったにもかかわらず、神さまの愛の招きによっていのちの道が開かれたことを覚え、悔い改めと感謝の祈りの内に、今年の受難節(レント)を歩みましょう。

兄たち、ヨセフの下へ

今日の箇所はヨセフがエジプトの大臣となって9年後、「世界中に起こった大飢饉」から2年が経ち、カナンの地に住むヨセフの父ヤコブの一族にも飢饉が及びました。ヤコブの命でヨセフの10人の兄たちはエジプトに穀物買い付けに出かけます。しかし、大臣となっていたヨセフは身の上を隠し兄たちに無理難題をふっかけました。

ルベンの責任転嫁

この出来事の中、42章21節以下を見ると、兄たちは「我々は弟のことで罰を受けているのだ」と嘆きます。しかし22節を読むと長兄のルベンだけは責任転嫁の言葉を発しています。決断時に承認・同調・委任した加担者の一人でありながら、自分に責任は無いと責任転嫁するルベンの姿は、人間の罪の性質を表しています。

ベニヤミンの冤罪

この第1回目の穀物買い付け騒動は、結局、兄弟の1人シメオンが人質となってエジプトに残ることで決着し、43章でベニヤミンも同行しての第2回目の穀物買い付けが記されています。ところがヨセフの計略によりベニヤミンに「窃盗の罪」が着せられます。ヨセフはベニヤミンを奴隷として捕らえると宣言します。その代わり、他の兄弟たちは穀物を持ってヤコブの家に帰るようにと告げたのです。もちろんヨセフは、過去の腹いせや意地悪でこのような計略を起こしたワケではありません。ヨセフ自身が神さまの整えの中で「神の祝福を受け継ぐ者」とされたように、兄たちも神さまに整えられる必要があったのです。ヨセフは兄たちが主に「整えられた」かを確認するためこの計略を起こしたのです。

整えられたユダ

結果は「ユダの嘆願」という小見出しの箇所に記録されています。ユダは過去に犯したヨセフに対する罪を心底悔いていました。自分たちの罪が、父にどれほど大きな悲しみを引き起こしたかということをハッキリと自覚し、自分自身の罪を認め、後悔の日々を過ごしていたことが分かります。またユダは、嘆願の中で後悔だけでなく、悔い改めの姿も表しています。窃盗の罪で捕われることになったベニヤミンに代わり、自分を奴隷として捕らえて欲しいと願い出ました。過去にヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばそうと提案したユダが、今度は弟の代わりに自分自身が奴隷となると申し出たのです。ベニヤミンの命を、自分の命をもって贖いたいと願うユダの告白に、ついにヨセフは堪えきれずに声を上げて泣き出しました。主に整えられた兄弟の姿をそこに確かに見たのです。そして、今日の箇所に繋がります。ヤコブの息子たちに、和解の交わりが結ばれたのです。

和解の交わり

罪の自覚と後悔だけでなく、神の愛ゆえに罪の自覚と悔い改めに歩み出す時に和解の交わりは生まれるのです。今年も受難節(レント)の第1週を迎えました。思いを新たに主の御前に罪の悔い改めを告白し、与えられた主の祝福を受け継ぐ者として、主なる神さまと、そして、隣人との和解の交わりの日々へと歩み出しましょう。

 

『互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのですガラテヤ6章2節

 

 

2/19 「広げられる祝福」 説教者 川内活也 牧師 創世記41章53節-57節

ヨセフ物語

父ヤコブからの寵愛を受け天真爛漫に育ったヨセフは、神さまの祝福と賜物を受けてはいましたが「ダイヤの原石」のような状態でした。兄たちからの怒りを買い、ヨセフは17歳の時、エジプトに奴隷として売られてしまいます。今日お読みした箇所は、その時から20数年後の出来事です。この20数年間、ヨセフの身に何が起こったのかを簡単に振り返ってみましょう。

主が共におられ

39章を読むと、ヨセフはファラオの宮廷役人侍従長ポティファルの奴隷となったと記録されています。39章では「主がヨセフと共におられた」ことが繰り返し記されています。ヨセフのプライド・アイデンティティは「裾の長い晴れ着」と共に剥ぎ取られなければなりませんでした。ヨセフは孤独となった時に初めて「真に頼るべき方」を知る目が開かれました。自分の父や財産や経験や知恵を頼りとせず、ただ、主なる神さまを頼りとする信仰の目が開かれたヨセフ……「主がヨセフと共におられた」ことで、彼の働きは祝福されて行きます。

祝福の広がり

ヨセフに与えられた神さまの祝福はポティファルの家にも広がっている姿を知ります(39:5)。ヨセフは共におられる主の祝福と守りの中で、奴隷という立場であってもポティファル家のために誠実に仕えていたからこその祝福です。

ファラオの前に立つヨセフ

偽りの祝福である「裾の長い晴れ着」を取り去られ、神の整えの内に歩み出したヨセフでしたが、理不尽な失脚により囚人生活に追い込まれます。その中でも「共におられる主」を頼りとして成すべき業に励むことで監守長の右腕に引き立てられました。そして28歳の頃、同じ監獄に送り込まれたファラオの給仕役と料理役が見た「夢」を解き明かしたヨセフは、その2年後、ファラオの前に立つこととなりました。

正しい管理者として

ヨセフが30歳の頃、ファラオは不吉な夢にうなされます。その夢を解き明かす者として召されたヨセフは、41章16節でファラオの夢を解き明かすのは「神がファラオの幸いについて告げるため」だと語っています。若き日に「夢」を語っていた時とは大違いの謙遜な姿勢です。ファラオはヨセフを大臣に召し上げ、将来への備えを担わせました。こうして、7年間の大豊作の間に備蓄政策を万全に備えたエジプトは、その後に起こる7年間の大飢饉の中でエジプトのみならず、全地の人々の命を繋ぐ祝福の穀物庫とされたのです。

広げられる祝福

さて、今日は特に1つのポイントに注目したいと思います。それは、信仰者として整えられたヨセフという器を通し、神さまの祝福がヨセフだけでなく、ポティファルの家、エジプト、世界に広げられて行く姿です。この祝福はアブラハムに約束された「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)という神さまの言葉を想起させます。そして、この祝福を今日受け継ぐ者として、私たち信仰者もまた、世に遣わされているのです。共におられる主の恵みと愛に包まれ、成すべき御心に従う時、アブラハムの祝福の約束は全地に広められて行くのです(ガラテヤ3:8)。それぞれに遣わされている場に在って「共におられる主」に依り頼み、信仰によって強められ、委ねられている業に誠実に努める時、主の祝福は私たち一人一人だけでなく、それぞれ遣わされている世界に広がって行くのです。

 

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。1ペトロ3章9節

 

2/12 「伏線」 説教者 川内活也 牧師 創世記38章1節-11節

ユダは兄弟たちから離れ

今日は「ヨセフ物語」に割り込む形(ペレツ)で聖書に記されている「ユダ物語」に耳を傾けましょう。兄弟結託しての報復で、ヨセフは「行方不明」になってしまいました。父ヤコブの嘆きの深さを目にし、自分たちの愚かで軽率な行為を悔やんだのか、ユダは兄弟たちから離れて生きる道を選びます。神の祝福の民としての天幕を離れ、ペリシテ人の地に移住し、ユダはそこで異邦人の妻をめとりました。ある意味、自分の罪を恥じ、後悔し、自暴自棄になり、父の家、神の祝福、与えられた恵みの約束を捨てる人生を歩み出したのです。

オナンの罪

ユダはカナン人の娘と結婚し3人の息子を与えられました。7節を読むと長男エルは神への背信の罪に歩んでいたため、子をもうけることなく死にました。それを受けユダは次男のオナンに、兄のために兄嫁タマルとの間に子をもうけるように告げます。これは家を継ぐという利益だけでなく、タマルにとっても自分の名誉を守るために必要なレビラート婚という制度(申命記25章5節~6節)です。しかしこの制度を軽んじたオナンも命を失うことになりました。

ユダの決断

ユダは自身の息子3人の内、長男と次男を失いました。本来ならレビラート婚の制度に従い3人目の息子をタマルに与える義務があったのですが、ユダはこの戒めを守るよりも3人目の息子まで死んでは困るという自分勝手な理由で、タマルをその父の家に帰してしまいました。ユダは責務を放棄し、タマルの権利を蔑ろにしてしまったのです。

遊女タマル

いつまでもユダから約束を果たしてもらえないタマルは一計を案じます。そして、タマルの計画通り事は運び、タマルはユダの子、しかも双子を身ごもりました。こうして、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」与えられたのです。

イエスさまの系図につながる伏線

ここまで読むと、マタイによる福音書の1章を思い出すでしょう。そう、イエスさまの誕生までの系図です。「ヨセフ物語」において、長子の権利と言う財産は後にヨセフが受け継ぎますが、「神さまの祝福」を受け継いだのはユダだったのです。ヨセフは11番目の息子、ユダは4番目の息子です。ヨセフは奴隷としてエジプトに連れられて行き、ユダは父の家を離れて罪の奴隷のように生きていました。この38章の時点では、両者にとって人生は、何とわびしく、苦しく、意味の無い、無価値な日々であったでしょうか?しかし、その「苦しみの日々」は、後に与えられる大いなる祝福につながる「神さまの伏線」だったのです。

神の計らい

27節以下を読むと、タマルはこの出来事の後、無事に双子を出産します。助産婦の経験から考えていた元々の予定に「介入」し「割って入」って生まれたのがペレツです。ここに私たちは神さまの計らい、神さまの「介入」の業を知ります。「罪」により死と滅びに定められていた全ての人に、新たなる約束のいのちを与える祝福の救いを得させるため、神さま御自身が歴史に介入された証しを、主キリストの系図に見るのです。

伏線回収

好ましくないと思える苦しみや試練、問題や悩みの内に歩む時があります。罪の中で祝福を失ったと感じる闇の日もあるでしょう。しかし、それらは神さま御自身の御手の介入により、人知を超える神の祝福、救いの御業が与えられる「伏線」に変えられていくのです。悔い改めるべき罪を悔い改め、担うべき働きを担い、成すべき福音の業を成し、備えられた「伏線回収」の恵みを待ち望みつつ歩み出しましょう。

 

主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。(詩編33編10~11節)

 

2/5 「神の整え」 説教者 川内活也 牧師 創世記37章1節-5節

祝福の継承

これまで、アブラハムに与えられた神さまの祝福が、高齢の妻サラを通して生まれたイサクに受け継がれ、その祝福はイサクに与えられた双子の兄弟の弟ヤコブに受け継がれたことを見て来ました。そして、ヤコブはこの祝福を妻ラケルとの第一子であるヨセフに継がせたいと考えていました。

問題有りの継承者たち

アブラハムは神さまの言葉への信頼を忘れ、自分の計画で世継ぎを得ようとしてしまいました。その子イサクは、妻リベカに預言として与えられた「弟(ヤコブ)が祝福を受け継ぐ」という言葉を忘れ、自分の好物であるジビエ料理を持って来る兄(エサウ)に祝福を受け継がせようとしました。聖書を読むと、神さまの祝福を受け継ぐ人々も聖人君子ではなく「少々問題有りな人たち」だった様子が分かります。

問題体質はヤコブにも

祝福の継承者三代目となったヤコブにも、この「問題体質」は受け継がれています。ヤコブの問題はヨセフに対する偏愛姿勢です。我が子に愛情を注ぎ育てる事は大切ですが、ヤコブのそれは他の兄弟たちとの差別化による偏愛でした。その弊害が、本来、神さまの祝福を受け継ぐ器であるヨセフにも及んでしまいます。「ヨセフ物語」の全体からするなら、もちろん、神さまの祝福の計画が進められている事が分かります。しかし、その祝福の計画に用いられた「人々」が、初めから無条件に素晴らしい人々であったかと言うと、そうではないのです。

歪んだプライドを持つヨセフ

異母兄弟たちと共に羊を飼っていたヨセフですが、2節を読むと「ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した」とあります。この短い一文の中に、ヨセフの狡猾さがうかがえます。この「告げ口」という行為は善を行うものではなく、兄たちの評価を貶めることで自分が受ける父からの評価を高めようとする行為です。ヤコブは、兄弟たちに対するリスペクトに欠ける人物だったのです。自らの働きによって高められる評価ではなく、他者を貶めることによって相対的に自分の評価価値を高めようとする狡猾さ・ずる賢さは、決して褒められたものではありません。

裾の長い晴れ着を着る者

ヨセフは兄たちから理不尽に虐げられた可哀想な主人公……では無いのです。神さまの計画の中にあって、大きく用いられるべき器として選ばれながら、肉のプライド・誤ったアイデンティティに凝り固まっている、そんな人物でした。父ヤコブからヨセフに与えられた「裾の長い晴れ着」は、ヤコブの偏愛の象徴であり、ヨセフの人格形成における歪んだプライド・アイデンティティの象徴です。兄たちを野に探しに行く時にさえ、この裾の長い晴れ着をひけらかす「的外れ」な人物だったのです。

神の整え

神さまはそんなヨセフを整え用いるために、まず、彼に本来の自分と向き合わせる必要がありました。彼の晴れ着、すなわちヨセフの誤ったプライド・価値観がこの後、様々な方法で剥がされていくことになります。ヨセフに与えられた神さまの賜物である夢は、確かに後に成就しますが、その約束の祝福に到るまでに、ヨセフは神様からの鍛錬・清めを受ける必要があったのです(詩編105:16~19)。

祝福への鍛錬

神さまの祝福を受け継ぐ恵みに招かれた私たちも、時に誤ったプライドやアイデンティティの「裾の長い着物」に身を包んでしまうかも知れません。しかしそのような時、神さまの祝福の器として用いられる教会として歩むため、相応しく無い者が相応しい者に整えられるために、祝福を得させる神さまの鍛錬を受ける日が来るかも知れません。しかしその時こそ、このヨセフ物語を思い出し、主の器として整え直される希望を告白しつつ歩みましょう。

 

 

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。ヘブル書1211

1/29 「コイノニアの広がり」 説教者 西島啓喜執事 フィリピの信徒への手紙 1章3節-11節

1 聖書の「コイノニア」
 「コイノニア」は日本語では「交わり」と訳され、「お茶会」とか「食事会」というイメージがあるのですが、聖書ではもっと広い意味があるようです。使徒言行録2:42にある「相互の交わり」が「コイノニア」で、必要な物資を分け合う、苦楽を分かち合う関係性をいいます。フィリピの信徒への手紙にも、随所に「コイノニア」という言葉が使われています。(1)1:5「・・福音にあずかっている・・」。場所や状況は違っても、困難な福音伝道を共有するのが「コイノニア」です。(2)1:7「・・共に共に恵みにあずかる・・」。監禁されているときも、法廷で弁明するときもパウロはフィリピの人びとと一緒に立っていると感じています。(3)2:1「・・“霊”による交わり・・」。教会は、聖霊=神の息吹で一致して集められた集会です。(4)3:10「・・その苦しみにあずかって・・・」キリストの生と死をなぞることが「コイノニア」なのです。(5)4:14「・・苦しみを共にして・・」。フィリピの教会ははじめから苦楽を共有してくれました。「コイノニア」にはそのような広い意味があります。

2 私たちの「コイノニア」
 コロナは見事に人と人を分断させました。2020年2月28日(金)、北海道独自の緊急事態宣言が出されました。急遽、役員会で協議し、3月1日の礼拝は役員だけで行うこととし、ほかの人は、ユーチューブ配信で参加するように呼びかけました。こうして帯広教会の礼拝配信がスタートしました。直接集まることはできなくてもオンラインでつながり続けることにしたのです。苦肉の策で始めた礼拝配信ですが思わぬ効果がありました。近くの方で礼拝を視聴してくださる方がいる、遠くの方でつながりを持ってくださる方がいる。帯広教会のコイノニアはぐんと広がった気がします。
 昨年、「教会の音響・配信懇談会」がきっかけでいくつかの教会の工事に携わってきました。その結果、「いままで反響して聞きにくかったのが改善された」「配信を始めて、施設に入っている人がリアルタイムで礼拝参加できるようになった」「バンド演奏の音がよくなり活気のある礼拝になった」・・といろいろな効果と感謝が伝えられました。しかし、それぞれの教会がおかれた環境で精一杯の奉仕を捧げている姿に大きな励ましを受けました。帯広教会で培ったノウハウを帯広だけでとどめればそれで終わりです。しかし、多くの教会と共有することでお互いに励ましあい、恵みを共有することができる、小さな「コイノニア」を体験させられた思いです。

3 ミンダナオ子ども図書館(MCL)のコイノニア
 昨年のクリスマス献金の一部をMCLの水田プロジェクトに捧げました。その縁があって、スタッフの西村奈々子さんから直接お話を聞くことにつながりました。西村さんはMCLの子どもたちに出会って、家族として受け入れられ救われた、といいます。子どもたちを通してキリストの愛に触れたのだと思っています。MCLの活動の基本は読み語りですが、食料やテントなどの緊急支援も行っています。しかし、読み語りや物資を支援すること自体が目的ではない。読み語りや支援を通して、「愛と友情」を届けることがMCLの目的です。私がMCLに注目して支援しているのは教会の働きと重なって見えるからです。「子どもたちが当たり前に生活に参与してる」「MCLの子どもたちが独りぼっちでいることはないし、独りぼっちにさせない。」「MCLでは異なる背景をもつ子どもたちが愛と尊敬をもって平和に暮らしている」・・・MCLの働きをを見ていると教会が何を大切にすべきかが見える気がします。教会が一番大事にしている「神の愛」を行いをもって示し、分かち合っていくこと、それぞれに与えられた賜物を出し合って、働きに参与していくこと、ほかの人に関心を向け一緒に立っていくこと、それが教会の大切な「コイノニア」なのではないかと思います。
 帯広教会の「コイノニア」が、内側に向かって充実し、外に向かってます広がっていくことを祈ります。

1/22 「神の派遣」 説教者 川内裕子牧師 使徒言行録 7章23節-36節

<脱出?逃亡?>

 さて、ステファノが最高法院でおこなったメッセージの続きです。先週、増え広がる民の数を脅威と感じたエジプト王が、民を虐待し、男の赤ん坊を殺すよう命じた死の危機の中で、モーセは王の娘からナイル川から引き上げられ、救い出されたことを読みました。今日の箇所では、モーセが民をエジプトから導き出す者として用いられた様子が語られます。

 40年の間エジプト人をしての教育を受けていたモーセですが、虐待されている同胞のイスラエル人を助けようと考えます。けれど虐待の暴力に対して、相手を殺して復讐しようとする力によるモーセのリーダーシップは、同胞のイスラエル人に受け入れられませんでした。モーセは遠くミディアン地方に逃げ出し、そこで結婚して子どもが与えられるまでもの長い間とどまります。

 

<失敗したのに…>

 逃げ出して、その後イスラエルの民とかかわりも持たずに新たな人生を歩んでいたモーセですが、40年が経過したのち、神はモーセを招きます。荒れ野の中で、燃え尽きない炎を上げる柴の中に神は顕現します。神はイスラエルの民をエジプトから脱出させようとし、その導き手としてモーセを召し出します。神の召命に従い、モーセはエジプトから民を導き出し、海を分けて民をわたらせ、荒れ野を通って民を導くリーダーとして働くことになりました。

 すでに最初にリーダーとして、つまずき、失敗しているモーセが、イスラエルの民の出エジプトのリーダーとして立つ、ということは、モーセにとってどういうことなんだろうか、と考えます。また同時に、イスラエルの民にとってもどういうことか、と思います。

 モーセにとっては、なんで俺がいまさら、という気持ちではないでしょうか。モーセは自分がこれなら民は理解してくれるだろうと思った方法が理解されず、むしろ反感を買ったことで気をくじかれます。ミディアンの地に逃げ出し、40年もの間同胞の元から離れて暮らすのです。神から与えられた民をエジプトから導き出すという召命は、自分の失敗に再び戻ることですし、復讐の危機にでくわすところです。かたきを討てばきっとイスラエルの同胞は自分を受け入れてくれるだろうという期待も、もう打ち砕かれています。もう自分の人生とは関係ない、民を救い導くことは自分の役割ではないとモーセは考え、40年も経っているのです。

 民にとっては、エジプト人として生きてきていたモーセです。「自分たちの同胞」としての意識ももてないのに、エジプトの地を逃げ出して40年も行方知れずだったモーセが、神の召命を受けて自分たちをエジプトから導き出すリーダーとして現れるというのです。

 

<神の派遣>

 こう考えてくると、モーセにとっても、イスラエルの民にとっても、モーセを出エジプトの導き手として立てるというのはあり得ないことと考えられます。神の召命は、神の派遣は、私たち人間にとってあり得ないこともあると教えられます。

神の派遣は、一度失敗した道に立ち戻ることです。諦めて逃げ出した道をもう一度たどることです。気まずい出会いをしたお互いの関係をもう一度結び合うことです。私たちが失敗し、本当なら忘れてしまいたい、なかったことにしてしまいたい、よりによって最もあり得ない状況へと神はわたしたちを派遣することがあるのです。最終的にモーセは出かけ、民はモーセと共に出エジプトしました。なぜこのような考えられないことが起こるのでしょうか。

 神は燃え尽きない柴の中で顕現したときにモーセに語りました。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」。神はモーセのはるか昔の先祖が生きていた時から、そしてそれよりさらに昔から生きて働いておられる神なのです。

 

そして神はイスラエルの人々の苦しみをつぶさに「見」、その叫びを「聞」きました。そのため、人々を救うために「降」ってこられたのです。神が共におられるという、インマヌエルの約束でした。このあり得ない派遣は、神が一緒にいてくださるという約束の元に実現します。私が一緒に行くから、さあ、行こう、という主と共に遣わされていきましょう。

 

1/15 「引き上げられる」 説教者 川内裕子牧師 使徒言行録 7章9節-22節

イエスの福音を伝えたために、「モーセ(律法)と神殿を冒涜した」と最高法院に引き出されたステファノが、人々の前で語った長いメッセージを読んでいます。今日は先週の6節「彼の子孫は、外国に移住し、400年の間、奴隷にされて虐げられる」に関連することが語られます。まず、9節にヨセフが、17節以降にモーセが登場します。

 どちらの人物の物語にも危機があり、危機の回避があります。父に偏愛されたヨセフは、彼自身の夢を見る賜物も手伝って、兄たちの妬みを買いエジプトへ売られることからヨセフの危機が始まります。しかし、ヨセフはエジプトの王に見いださされ大臣に任命されることで危機を脱出します。

 その後も飢饉という危機をきっかけにヨセフと家族の再会とエジプトへの寄留が引き起こされ、「彼の子孫は、外国に移住する」と神がアブラハムに語ったことが実現します。

 その神の言葉は続いて「400年の間、奴隷にされて虐げられる」でした。アブラハムした約束通り、17節「民は増え、エジプト中に広が」ったのです。しかし、その子孫の数の祝福は、新たな危機を生み出しました。この寄留の民の人口増加は、エジプト人にとって脅威となりました。民は強制労働に駆り出され、虐待を受けます。さらに生まれた男の子を、ナイル川に捨てて殺すようにと王は命じます。民族存亡の危機でもありますし、小さな命が一つ一つ摘み取られ、踏みにじられていく恐ろしい危機でもありました。

 そんな危機のさなかにモーセは生まれます。モーセを隠し育てられなくなった親は、モーセを防水したかごにいれてナイル川の茂みに捨てます。モーセに訪れた危機は、エジプト王の王女によって回避されました。エジプト王は、民族の数を恐れ、その一人ひとりと出会うことなく、群れとして存在する民が自分たちの国や国民に脅威を与えるものと感じたのです。そのため数を減らすために命の選別を命じました。その中で危機にさらされたモーセを救ったのは、当のエジプト王の娘でした。王女は、ヘブライ人の男の赤ちゃんは殺されなくてはならないという王の命令を知りながら、モーセがそのヘブライ人の男児であることを知りながら、捨てられたモーセを拾い上げ、自分の子として保護し、育てます。一人の赤ん坊の命に出会い向き合ったとき、到底その命を王の命令通りにすることはできなかったのです。

 モーセの名は、出エジプト記によると王女がモーセを「引き上げた」(マーシャー)というヘブライ語から名付けたとされています。ここの21節「拾い上げる」という言葉はギリシャ語で「アナイレオー」という言葉で、「上に」「取る」という言葉で取り上げる、という言葉です。また「選び取る」という意味にもなります。

 王女は父王の命を奪う命令よりも、自分の出会った命を生かすことを選んだのです。それによって、モーセは生かされることになりました。

 

 私たちの日々の歩みも、世界の情勢も、危機と脱出とを繰り返しています。出くわす試練と危機が、脱出と解放の道につながっているとは到底考えらえないこともあります。けれどヨセフとモーセの道のりをたどるときに、神が必ず苦難を捨て置かず、回復への道を備えてくださることを知ります。

 必ず私たちは引き上げられ、拾い上げられる道へと導かれます。

 

 

 また、命を奪う命令を出した王の足元をかいくぐって王女がモーセの命を引き上げたように、私たちも助けることを選び取り、引き上げることを選択することができるのです。そうやって、神の業に私たちは参与させていただくのです。一人の出会い、一つの出来事に大切に向き合い、命を引き継ぐことを選び取る道を歩めますように。

 

1/8 「踏み出す先に」 説教者 川内裕子牧師 使徒言行録 7章1節-8節

<最高法院での答え>

とらえられ、最高法院に引き出されたステファノは、「神殿」と「律法」をけなしたという理由で訴えられます。それに対して、彼は753までの長い弁論を行いますが、その結論は律法に逆らい、神に逆らったのは、むしろあなたたちだという訴えでした(75153)。そこにつながる事柄として、ステファノはアブラハム・ヨセフ・モーセの歩みを取り上げながら、イスラエルの民が神の前にいかに歩んだかを振り返っていきます。

 

<神は自由な風のように>

 今日のアブラハムについての言及は、創世記11章、12章、15章、17章、出エジプト記3章などにもみられます。アブラハムは神の呼び出しに従って、まだ見たこともない地へと出発しました。「土地」と「親族」、生きていくうえで大切なよすがとなるものから離れて、どこに行くかわからないけれど、「私が示す地」という茫漠とした招きにいざなわれたのです。示された地に入っても、財産も土地も与えられることなく、あなたの子孫がいつかこの地を所有すると言われます。さらに「子孫たちは外国に移住し、400年奴隷として虐げられる、そして神が彼らを脱出させ、ここに戻ってきて神を礼拝する」と約束します。

そしてその通りのことが起こります。子どもが与えられる望みは薄いと人間的に考えられる状態の中にあって子どもが与えられ、子孫はエジプトへ下り、奴隷として仕え、そして出エジプトして戻ってくるのです。

ここでは多く、神が主語で語られており、ここで語られているのは主なる神の自由な風のような働きです。ユダヤ人が神との契約として大切に考えていた割礼による契約よりもさらに先に、神はアブラハムを召し出し、祝福と解放の約束を与えたというのです。

 

<踏み出す先に>

 

人は400年も先のことをありありと考えることができるでしょうか。私たちには考えも及ばぬ将来を、すでに定めてくださり、私たちが歩む前から祝福の約束を与えてくださるのが神さまです。私たちの足を踏み出す先に何があるのか、私たちには漠として見えません。しかし、すでに定めておられる主の導きを信じて歩んでいきましょう。

 

1/1 「曲げないこと」 説教者 川内裕子牧師 使徒言行録 6章8節-15節

<ギリシア語を第一言語とする人々にも>

61節以降には、ヘブライ語を第一言語とするユダヤ人と、後から共同体に加わってきたギリシア語を第一言語とするユダヤ人との力関係による摩擦が記されます。仲間の寡婦たちの扱いが軽んじられていることを是正してほしいと上がった声は、ギリシア語を第一言語とするユダヤ人たちの中からもリーダーシップをとる奉仕者たちを任命することにつながりました。「霊と知恵に満ちた評判の良い人々」として選ばれたのは7人の男性たちでした。ここでステファノは「信仰と聖霊に満ちている人」と紹介され、筆頭に挙げられています。

このようにして、ギリシア語を第一言語とするユダヤ人の間に、どのように福音が広がっていったのか、ということに話は移っていきます。奉仕者のうち、筆頭に挙げられていたステファノに焦点が当てられていきます。

 

<繰り返し、人々の中でつまずきとなること>

ステファノの「不思議な業としるし」の行いは、使徒たちの姿と重なります。使徒たちの語る福音が人々につまずきとなり、最高法院に引き出されていったように、ギリシア語を第一言語とするユダヤ人の間でもステファノについて同じことが起こります。人々はステファノと議論をしますが、彼の知恵と霊に満ちた言葉には歯が立ちません。そこで人々が行ったのは、もっと大きな力を動かしてステファノを不公平な裁きの場に引き出そうとすることでした。ステファノの言葉を少しずつ変えて、偽りの証人を立てます。また民衆たち、長老たち、律法学者たちというあらゆる力関係を動かします。あらゆる手段を用いて目的を達成しようとする不当な力は、今も昔も同じように働いているのだと知ることができます。

ステファノはイエスさまのことを証しすることにより人々の前に引き出されていきます。その様子はイエスさまが最高法院に引き出された時に重なります(マルコ14:58)。人々は繰り返し、繰り返し、同じところに立ちどまり、引っ掛かるのです。

「ナザレのイエスとは何者なのか」。

 

<インマヌエル 神は私たちと一緒におられる>

私たちは先週クリスマスをお祝いしました。イエスさまが救い主としてこの世に来られたことをお祝いしたのです。その誕生は危険な旅の途上であり、身重の母は妊娠中移動を強いられ、泊まる場所、出産の場所にも事欠き、家畜を飼うスペースで出産し、飼い葉おけを寝床として寝かされたのでした。

私たちは今、終わりの見えない戦争の続く世界、不平等や搾取の続くシステムへの絡み取り、思うままにならない不条理の中に生きています。その不条理のただなかに、隅に追いやられている場所においでくださったのが救い主キリストです。インマヌエル「神は我々と共におられる」と呼ばれる方です。

繰り返しの迫害を受けても、キリスト者はここに立ってゆきます。ここに希望があるからです。12節「捕える」は、ギリシャ語では首根っこを押さえて根こそぎ取り去る、というような語感があります。たった一人、なんの抵抗もしていないのに、ステファノは大勢の人々に押さえつけられ、乱暴に取り押さえられて最高法院に引き出されたのです。ステファノは、その危機の中にあって「その顔はさながら天使の顔のようにみえた」と記されています。イエス・キリストが共におられる、という信仰と信頼が、彼に真実の平安を与えていたのです。

使徒たちが、弟子たちが、ステファノが、幾度も幾度も困難の中においても失望しなかった真実に、私たちも生きていきましょう。

 

<曲げないこと>

冬の雪の日、しなやかな木々の枝が、雪の重みでしなだれうなだれつつも、あるときばっさりとその雪を滑り落してもう一度その枝を上に向けるさまを見ます。抑えられても、抑えらえても、粘り強い芯が生きていてもう一度立ち上がるのです。

わたしたちも大きな力に押さえつけられ、身をかがめさせられ、折れてしまいそうな時があります。どんなに曲げられても、「神は私たちと共におられる」という真実によって、もう一度むくむくと力をいただきましょう。曲げられても、曲げないこと、その力を主からいただくのです。

 

 

12/25 「永遠の大牧者」 説教者 川内活也牧師 エゼキエル書 34章11節-16節

予型の民イスラエル

神さまは全人類・全歴史の「縮図」として、救いの「予型」にイスラエルを用いられました。創世記に見る初めの人アダムとエバは、神さまと共に生きる者として生み出されながら、神さまとの断絶を選び、死と滅びに向かう「罪」の存在となりました。その「罪」を受け継ぐ人類を、再び「いのちの道」へ招くために選ばれたのがアブラハム、そしてアブラハムの子孫であるイスラエルの民です。

人類の縮図としてのイスラエル

聖書を読む時、遠い昔の遠い国の人々の話として目を向けても、そこには何の意味も価値もありません。なぜなら聖書は「イスラエルの民」の姿を通して、今日の私たち一人一人に語りかけておられる神さまの招きだからです。神さまとの交わりから断たれた全人類・そして自分自身の姿に当てはめて読む時に、語りかけられる神様からのメッセージが響いて来るのです。

偽りの羊飼い

さて、今日の箇所では「牧者(羊飼い)」という表現が登場します。創世記を読むと、エデンの園において初めの人アダムとエバが主なる神さまの祝福と守りの内に養われていた姿を見ることが出来ます。しかし「自分で自分を養う者・神となることを求める高ぶり」により、アダムとエバが神さまとの関係を断ち切ってしまった罪の姿を知ります。自分で自分を養う、すなわち、人間が人間を支配する偽りの羊飼いの性質がここから始まったのです。

民を蝕む偽りの牧者

世の支配者は独裁者となってしまう性質を持つものです。支配者は自分優先の社会構造を創りあげてしまうものです。もちろん、世の支配者とは何も人間に限ったモノではなく、人格の無い「富や権力、名声」あるいは「健康問題」さえも人を支配してしまいます。正しく治めて管理せよと神さまから委ねられた祝福の恵みさえも、神さまから離れた人間の歴史の中では、逆に人間を支配するモノとなり、人を蝕んでしまうのです。

約束された真の牧者

古代イスラエルは神さまから離れ、人間の王や偽りの祭司を指導者に立てた結果、国は荒廃し、民は疲弊にあえぎました。そのような中で与えられたのがメシア預言、救いの預言、神さまとの和解・交わりの預言です。「偽りの牧者」を排し、主なる神さま御自身が「羊を養う」と宣言されるのが11節以下の預言です。創世記の始めのような、主なる神さまとの正しい交わりの回復がここで預言されています。この約束された正しい牧者である救い主メシア、まことの支配者こそ、王の王、主の主として歴史のただ中にお生まれ下さった御子キリストであると聖書は語っています(ヘブライ13:20~21参照)。

キリストの養い

キリストこそ約束された永遠の大牧者です。まことの支配者とは自分のために民から奪う者ではなく、文字通り民を支え心を配り、御自身のいのちさえ惜しまず十字架に差し出し、人々の滅びゆくいのちを買い戻された御方なのです。メシア=メサイヤ、救い主なるキリストが世にお生まれ下さったのは、私たちが偽りの牧者の下に苦しみ・奪われる日々から解放されるため、捕われ人に解放を告げられるためなのです。

将来と希望の緑の牧場へ

この世の支配者・偽りの牧者は、希望を蝕み失望させ、死と滅びへ人々を飲み込ませます。しかし、

世に降された「永遠の契約の血による羊の大牧者」イエス・キリストは、全ての民を御約束の希望をもって導き、信仰の内に養われるのです。喪失による悲嘆という「グリーフ」に飲み込まれ、圧し潰されそうになったとしても、インマヌエル(主、共にいませり)との御約束の内に支え、寄り添い、ケアし、将来と希望の緑の牧場へ導いて下さるのです。2022年のクリスマス。聖書の御言葉を通して約束された真の大牧者なるイエス・キリストの降誕を心の内に喜び迎え、委ねられている日々へと歩み出しましょう!

 

わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。ローマの信徒への手紙5章3~5節

 

12/18 「孤独の闇に」 説教者 川内活也牧師 マタイによる福音書 1章18節-25節

受胎告知

ルカ1:26以下を見ると、マリヤに与えられた「受胎告知」の出来事が記されています。今でこそ降誕劇などで「美しい情景」であらわされている受胎告知ですが、当時の社会状況から考えるなら「とんでもない厄介な出来事」でしかありません。婚約期間に「あなたは聖霊によって身ごもる」と宣告されたマリヤにとって、当時の制度では自らの命の危険を含む宣告だったからです。

マリヤの信仰

しかしマリヤは「ひどくとまどい(ルカ1:29)」ながらもみ使いの言葉を「お言葉通り、この身になりますように」と信じ受け入れました。それは「主があなたと共におられる(ルカ1:28)」という約束に裏付けられた信仰です。この出来事によって自分に向けられるかも知れない試練・苦難・人からの裁きという、受けたくないはずの苦しみも含め、マリヤは全てを主に委ねました。

ヨセフへの招き

一方、ヨセフの耳にも「マリヤの懐胎」の話が届きました。これは恐らくマリヤ本人からの告白でしょう。この告白に、ヨセフは「ひそかに離縁する」という方法を選びます。これは、ヨセフが「正しい人・誠実」であるがゆえ、様々な状況を考慮した上での「最善の方法」でした。マリヤの命を助けるためにはこれしかないと、独り悩み考え抜いた決断です。しかし、誰にも相談できない孤独の闇の中でヨセフが決心したその時、神さまは全く違う道をヨセフに指し示されました。

人の最善で無く神の最善

私達もともすればヨセフのように、自分の経験や知識による「最善の道」を「唯一の道」と考え、孤独の闇の中で決断し歩みだしてしまいます。しかし、真に最善の道はマリヤのように主の御言葉に信頼し『お言葉通りこの身になりますように』と委ねる時に与えられるのです。ヨセフはマリヤの命が奪われることを望まず、助かる道を考える「正しい人」でした。しかし彼は、マリヤから聞いた聖霊の証しを知っていながら信じない者としてこの出来事に向き合ったのです。御心を求めて「祈る」事をせずに、独りよがりな自分の「知恵・知識・経験」で最善の道を選び出そうとしました。その結果、ヨセフは「マリヤとの断絶」を選ぶ決心にいたってしまったのです。

孤独の闇に

孤独な闇の中で「マリヤとの断絶」という決心に到ったヨセフのもとに、神さまからの光が射しこみました。「恐れずにマリヤを迎え入れよ」という言葉がヨセフの夢の中に響きます。この「恐れずに」の意味には「疑わずに」という意味も込められています。ヨセフはこの招きによって「神を知る者」から「神を信じる者」へと変えられました。23節でイエス様の名について「その名は『インマヌエル(訳すと神はわたしたちと共におられる)』と呼ばれる」と語られています。約束の救い主の名は「共におられる神」と呼ばれるのです。この御名を信じ受け入れる者は、孤独の内に「断絶を選ぶ者」ではなく「交わりの中で共に歩む者」へと変えられます。ヨセフは「痛みを負わずにすむためにマリヤから離れる」孤独と断絶の道ではなく「共に痛みを担い合う」共生の道を選ぶ者となったのです。

共に生きる者として

約束の救い主として世に与えられたキリストは、苦しみを受けないために私たちを断絶される方ではなく、私たちが負うべき「苦しみ」を受けて下さり、共に歩み続けられる救い主です。2022年待降節第4週を迎えました。今日、主の招きに応答する者として、試練や苦しみから逃れるために断絶と孤独の闇を選ぶ道から、共におられると約束された救い主イエス・キリストとの交わりの光の内に歩み出し、全ての出来事において、断絶ではなく共に生きる道を求め、歩み出しましょう。

 

12/11 「その日、目は開かれ」 説教者 川内活也牧師 イザヤ書 42章1節-7節

主のしもべ

キリスト誕生の数百年前に書かれたイザヤ書では、メシア(救い主)誕生を預言し、メシアを「主の僕(しもべ)」と表現しています。僕(しもべ)とは主人と完全に一つ思いに結ばれた働き人の姿です。すなわち、神さまは「主の僕(しもべ)=メシア」を通して、御自身の思いを世に現わされると約束されていたのです。

捕われた人々

今日の箇所イザヤ書42章5節でも触れられていますが、天地万物はこの主なる神さまによって創造されたと聖書は語ります。そして、全地に広がり生きる命在る者も、神さまにより生み出された存在であると教えられます。しかし、神さまの御手により命を受け創造された人間は、初めの人アダムとエバ以来、この真のいのちである神さまから離れた存在となり、死と滅びに捕えられてしまいました。全ての人が、神さまとの断絶、すなわち「罪」の状態に捕われ、死と滅びに捕らわれてしまっているのです。

解放者である主のしもべ

その罪の縄目、死と滅びの道から解放するために与えられたのが、救い主メシア、イエス・キリストです。イザヤ書42章7節で「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」主の僕(しもべ)としてイエスさまはお生まれになられると約束されています。

愛ゆえに

なぜ神さまは死と滅びに捕らわれた人々を解放しようと思われるのでしょうか?人が死と滅びに飲み込まれようが、どうでも良い存在であるなら放っておかれたでしょう。しかし、そうはなさいませんでした。それは神さまが人を「愛される」ゆえです。「愛」の対義語は「憎しみ」でも「嫌う」でも無く「無関心」です。神さまは御自身の愛を注ぎ出して生み出された人類に、常に目を注がれ続けます。「無関心」とはなれないのです。愛する者であるゆえに、招詞の詩編33編13~14節でも語られたように「主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる」のです。マタイ1030節では、神さまは「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と語られています。どれほどの関心をもって、神さまは私たちを見ておられることでしょう!この深い深い関心の目を開き、神さまは死と滅びに捕らわれている人々を罪から解放されるために、御子イエス・キリストを「主の僕(しもべ)」として世に降されました。これがクリスマスを祝う意味です。神の愛が歴史の中に現わされた記念日として、私たちはクリスマスを喜び祝うのです。

関心の目を開き

戦争や災害、貧困や飢餓、差別・争いの中で、今も多くの人々が世界中で苦しみ、助けを求めています。しかし、私たちの目が、自分の日常にしか開かれていないならば、苦しみ・助けを求める人々の姿は見えず、その声は聞こえて来ないのです。「愛」の反対の意味となる言葉は「無関心」です。神さまの愛を受けた恵みを覚える記念のクリスマス。私たちもまた、この受けた愛を隣人へ広げる「主の僕(しもべ)」として、「無関心」という隔ての壁を取り除き、委ねられているそれぞれの場で愛の目が開かれる事を求めつつ、このアドベント第3週へと歩み出しましょう!

 

主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。詩編33編13~14節

 

 

12/4 「新たなるいのちの芽生え」 説教者 川内活也牧師 イザヤ書 11章1節-5節

2022年アドベント(待降節)第2週を迎えました。12月はイエスさまの降誕に特に関係が深い聖書箇所から、共に御言葉を分かち合いましょう。さて、今日の箇所は預言者イザヤによるメシア(救い主)預言として有名な箇所です。主なる神さまへの背信により、滅亡への一途を辿っていたイスラエル・ユダヤの人々に与えられた「希望の約束」に目を向けたいと思います。

エッサイの株

この箇所で先ず注目すべきは、有名なダビデ王の名ではなく、ダビデの父エッサイの名で預言が語られている点です。ダビデは古代イスラエル第二代目の王さまですが、初代の王さまはサウルです。ダビデの子らは「王族」に数えられますが、エッサイは「王族」に数えられません。むしろ、エッサイは当時の社会で低い地位とされていた「羊飼い」です。ここであえて「ダビデの株」ではなく「エサウの株」と表現されることにより、メシアは「社会的上位層」ではなく「社会的下位層」まで下ってお生まれになると約束されたのです。このことにより、神さまの救いの恵みは一定基準以上の者のためにではなく、最も低くされている者から全ての者へ広げ与えられるものだと知らされています。

切り株

さて「株」とは切り倒された木の「切り株」の事です。樹木としての命が断ち切られ、地に残された部分です。滅亡への一途を歩むイスラエルの近未来的な描写であり、同時に、神さまとの交わりを断ち切られた「罪の世界」に生きる全ての人々の姿です。『罪から来る報酬は死である(ローマ6:23)』とあるように、いのちであり光である神さまとの交わりから断ち切られ、朽ちていくだけの「死と滅び」の姿が「切り株」として象徴されています。

ひこばえ

しかしイザヤは、その「死と滅び」の象徴である切り株の根から、ひこばえのように救い主はお生まれになると預言します。いのち無き、希望無き、死と滅びの世界のただ中に、神さまは『新たなるいのちの芽生え』を約束されているのです。

若枝

さて、1節で語られる「若枝」はヘブライ語の「ネイツァー」という単語ですが、この言葉が「ナザレ」の語源と言われます。マタイ2章23節で「実現した預言」と挙げられていますが、それはこのイザヤによるメシア預言の実現について証しするものと考えられます。この『若枝』という表現は、他の箇所でもメシア預言として度々用いられていますが、その全てが救い主イエス・キリストを通して与えられる『新たなるいのちの芽生え』を約束しているのです。

平和の王

11章冒頭には『平和の王』という小見出しが付けられています(新共同訳聖書のみ)。主の若枝として芽生える救い主メシア、キリストは『平和の王』としてどのように世界を治められるのでしょうか?その姿が3節から5節に挙げられています。私たちは自分の目で見える範囲、そして、耳から聞く情報によって様々な判断をします。そしてそれは多くの場合、間違った判断・誤った裁き・偏った見方を生み出してしまうものです。しかし、平和の王なる主イエス・キリストは、主を畏れる正しい霊により、正義と真実によって正当に公正に全てを治められるのです。それゆえ、揺ぐことの無い「神の平和」を築くことが出来るのです。

神の平和の内に

私たちは「創り主・まことのいのち・永遠の光」である主なる神さまとの断絶による「罪」により、死と滅びに朽ち行く「切り株」のような存在となっていました。しかしその歴史のただ中に、救い主メシア・イエスさまが「ひこばえ」のように芽生えて下さったのです。クリスマスを待ち望むこのアドベント第2週、絶望的な死と滅びの切り株から芽吹く『新たなるいのち』の希望が与えられた約束を覚え、神の平和の内に治められつつ歩み出しましょう!

 

11/27 「天にあるように地にも」 説教者 川内裕子牧師 使徒言行録 6章1節-7節

 12月からこの地域の高齢者福祉に関する働きを引き受け、引継ぎを受けている中で、地域が一つのコミュニティとして支えあう体制を作ろうとしていることを目の当たりにしました。「地域にねざした教会」を目指している帯広教会もその一端を担っていきたいと思っています。

さて、使徒言行録4章に記されているように、それぞれが持ち物を持ち寄り、ささげて互いに補い合って生活していたごく初期の教会から、今日の聖書箇所は少し時間もたっていることが見て取れます。ここでも、教会が一つのコミュニティとなっています。ギリシャ語を話すユダヤ人たちとヘブライ語を話すユダヤ人たちが登場しますが、単に使う言葉が違う、ということではなく、それぞれの言語が用いられている文化や社会の背景も担っているというということです。

もとからユダヤ地方に住み、ヘブライ語を第一言語とする人々の方が、ユダヤ地方以外の地域に住んでいてギリシャ語を第一言語として用い、エルサレムに集まってきた人々よりも発言権があるなどの力関係もあったかもしれません。

ここで問題が生じ、声が上がります。「日々の分配のことで仲間のやもめたちが軽んじられていた」というのです。よく言われるのは、困窮者への生活支援が行われていたということです。旧約聖書には寡婦、孤児、寄留者を保護するようにと記されます。社会的に後ろ盾のない人を共同体で保護することが求められているのです。彼女たちに対する食事の支援が行われていたのかもしれません。もう一つの可能性もあります。「分配」と訳された「ディアコニア」は、「仕えること、奉仕」という意味もあります。彼女たちが食卓の奉仕をする、その奉仕の機会が奪われたまま見過ごしにされていた、ともとれるのです。いずれにしろ、「ここは後回しでも構わない」「それほど重要ではない」と周辺に追いやられていた人々が教会の中にいた、ということです。

さて、救い主の誕生の知らせは、周辺に追いやられていた羊飼いたちに知らされました。

大切な知らせは周辺化されている人々に届いたのです。天使の大群は「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に敵う人にあれ」(ルカ2:14)と賛美します。平和は、放っておかれがちな人々も照らされていく世界に実現します。暗闇に見えなくされている事柄に光をさし、明らかにされていく世界に生きていこうと思います。

使徒たちは「食事の世話」に担当者を立てるよう発案し、選ばれた7人の名はギリシャ語名で、ギリシャ語を第一言語とする人々に奉仕の場が広げられていったことが想像できます。奉仕を多くの人で担うようになっていったのです。私たちも一人ひとり、暗闇に光を照らし、隠されている事柄を明らかにしていこうと思います。

 

社会の中にあって、教会は週に一度礼拝を行う場のみならず、みことばに基づいて地域の人々に仕えていく生活の場であることを証ししていきたいと思います。

11/20 「神から出ること」 説教者 川内裕子牧師 使徒言行録 5章27節-42節

捕えられた使徒たちは、最高法院にて尋問を受けます。大祭司は「あの名・あの男」と言うことにより、イエスの名を口にすることを注意深く避けています。「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」(28)という言葉は、かえってイエスの死に関して自分たちは関連がある、と考えていることを暗示します。

それに対して、使徒たちはイエスの名を呼ぶことで対抗しているように思えます。「イエス」(30)だけでなく、「この方」(31)も、ギリシャ語では「イエス」と書かれています。イエスの名を告げることに、意味がある、力があると使徒たちが考えていると見て取れます。

 大祭司やその仲間のサドカイ派の人々は、イエスの名に囲い込まれることになります。使徒たちの宣教を喜んで聞き、癒しのわざが行われることを望んでいた民衆たちの勢いが、自分たちに反対する勢力になることを恐れます。そしてさらに、ガマリエルの言葉が続きます。

ガマリエルは民衆から支持を得ていたファリサイ派の律法の教師です。テウダやガリラヤのユダの例を引き、人間から出た計画や行動なら自滅するし、神から出たものなら彼らを滅ぼすことはできないと説得します。当時、ユダヤでは大変多くの反乱や暴動が起こっていたようです。そしてそれらは神から出たことではないので、起こっては消えていった、とガマリエルは言います。この件から手を引いて放っておきなさい、というガマリエルの意見は、「この人たちの働きが神から出ているのなら、あなた方は神に逆らうものとなるのだ」という主張です。

その言葉を受け入れ、最高法院は使徒たちをむち打ち、再び宣教を禁止を命じたのち、彼らを釈放します。もちろん、使徒たちはイエスさまを宣教することで迫害まで受けることになったことを喜び、今までと変わりなく大胆に宣教を続けました。

サドカイ派にしろ、ファリサイ派にしろ、最高法院に集まっていた人々は、主なる神を熱心に信じ、それぞれの立場から神に従っていた人々でした。イエスを救い主、キリスト、と信じることのない人々が、使徒たちの語るイエスの宣教の周りを遠巻きにしながらぐるぐる回り、神のわざにひきつけられつつ、信じることのできない様子がここには記されています。

最後に最高法院から放り出されたのは使徒たちでしたが、このことによってもっとイエスさまの福音は告げ広げられることになりました。イエスさまの福音にぐるぐる振り回されたのは、最高法院の宗教者たちだったかもしれません。結果として、このことは最高法院の面々もかかわって、使徒たちの宣教の働きは神から出たことであることを証明することになっていきます。

どんな障害があっても、神が御心ならば神のことがらとしてくださることがわかります。ですから、使徒たちが踏み出したように、私たちも神のことがらとしてくださることを信じてやってみなければ、と促しをいただきます。帯広教会では毎年クリスマス献金として外部献金をします。役員会で献金先を話し合い、ミンダナオ水田プロジェクトに今年度は献金することにしました。

私たちの教会の働きの一つ一つも、神から出ることとしていただけるよう祈りつつ、踏み出してゆきたいと思います

 

 

11/13 「息をふきかえす」 説教者 川内裕子牧師 使徒言行録 5章12節-26節

<使徒たち再び捕えられる>

今日から続く聖書箇所では、使徒34章と似た出来事が記されます。先には足の不自由な男性を癒したことで、ペトロとヨハネが捕らえられ、最高法院に引き出されてゆきます。今回は他の使徒たちも共に同じような境遇に置かれました。使徒たちは心一つにして神殿のソロモンの回廊に集まります。心一つとは、神に心を向ける、ということです。神の力を受けて人々の病を癒していくことが、噂がうわさを呼んで、ますます人々が集まります。

それは使徒たちの宣教が成功しているということでした。そのことをねたんだ大祭司と、死者の復活を認めないサドカイ派の人々によって、イエスさまの復活を宣教していた使徒たちは捕らえられ、牢に拘留されます。

 

<命の言葉を残らず告げよ>

1920節には、捕らえられた使徒たちが天使によって解放され、使命を与えられたと記されます。夜中に天使が現れて、牢の戸をひらき、「命の言葉」を「残らず」伝えるように命じるのです。使徒たちはその通りに行い、夜明けから神殿の境内で再び教え始めます。「命の言葉」は使徒たちを生かし、それを聞いた人々も生かし、そして今、聖書を読む私たちをも生かしていく言葉です。

それは、各々個別の神との出会いに基づいた、一人ひとりを生かしていく言葉なのです。私たちの生活に基づき、すとんと落ちていく、神さまのみことばによって私たちは生かされています。使徒たちはあますことなくその言葉を告げよと命じられます。

 

<息をふきかえす>

下役たちが見に行くと、牢には鍵がかかり、番兵も立っており、人々にはなぜ使徒たちが外に出ていくことが出来たのか、不思議です。押しとどめようとしてもとどめることの出来ない神の力を知ります。神の恵みは、閉じられても開けられるのです。道が閉ざされていても、作られるのです。

人には思いもよらない形で、神の業は実現します。「命の言葉」にふたをすることはできません。押さえられ、閉じられていく現実の中で、私たちは開けられ、連れ出され、息をふきかえしていくのです。

 

私たちを生かす、個別の神との出会いを、今日もまた私たちも証ししていきましょう。

 

11/6 「わたし/わたしたち」 説教者 川内裕子牧師 使徒言行録 4章32節-5章11節

<序>

対照的な人々が登場します。持ち物を売り、ささげたのは同じです。しかし偽らずささげたバルナバと、ごまかしてささげたアナニヤ、サフィラの夫婦です。持ってきたものの多少が問題なのではなく、「神を欺いた」ことが問題なのだとペトロは語ります。捧げものは自己申告です。けれども捧げる心を神はご存じなのだと知らされる出来事です。

 

<エクレシア~呼び出された民の群れ 「わたしたち」>

「教会」(5:11)は「エクレーシア(ギリシア語)」と言い、呼び出された民の群れ、集会、教会を意味します。使徒言行録では初出です。ここでは教会という建物、ではなく、そこに集められている「呼び出された民の群れ」の意味で用いられています。

先週は教会メンバーにメッセージをとりついで頂きました。「バプテスト教会の教会契約」は神の恵みに応答する、信徒の主体的約束であり、帯広教会の「目標宣言」は「帯広教会の教会契約」であると語ってくださいました。

今日はこのあと、主の晩餐式を行い、主イエスの割かれた肉、流された血を象徴するパンと杯を分かち合い、最後に献身の思いを持って「帯広教会の目標宣言」を唱和します。4つの「目標宣言」の後、「これらの目標実現において「私たちは」…行います」と続きます。「わたしたち」とあるように、教会は一人によって成っているのではなく、「わたし(単数)」がそれぞれ集められた「わたしたち(複数)」の集合なのです。

 

<「わたし」の集まり>

では、一人の思いは関係ないのでしょうか?初代教会では「必要に応じて」(4:35)捧げられたものが分配されたと記されています。個々人の状態や、様々な必要に応じて、分配が行われていたのです。すなわち、「今あなたが必要なものは何?」「わたしに欲しい助けは何?」という対話やまなざしの共有がされていたことが分かります。一人に向き合ってからでないと、その必要は明らかになりません。ここでは一人ひとりの状況が大切にされ、まなざしを向け合い、祈りをもって分かち合われていたのです。

 

<わたし/わたしたち>

 今日のメッセージ題の「/(スラッシュ)」は、「そして」とか「または」とかを示す記号です。神の恵みに応答して、具体的に行動するのは、「わたし」一人ひとりです。そして同時に、その全体が束ねられて教会の働きとなり、神の恵みへの応答は「わたしたち」が行うことでもあります。「わたし」の信仰が問われ、同時に「わたしたち」の信仰が照らし合わされるのです。

私たちの課題はそれぞれ、必要もそれぞれです。その一人ひとりに向き合い、目を注ぎ、祈りあって恵みを共有していく時に、教会はあたたかく、血の通った交わりとなって行くでしょう。

初代教会のそのようなあり方を、周りの人々が漏れ聞いていたことが5:11には想像できます。主イエスを頭に結ばれる交わりは、必ず周りの人々に証しとなって伝わるのです。

 

「わたし そして わたしたち」、「わたし または わたしたち」。「わたし」と「わたしたち」の間を行ったり来たりしながら、互いに祈り、声にならないうめきに耳を傾け、一人ひとりにまなざしを注ぎ支え合う共同体として生かされていきましょう。

10/30 「バプテスト教会の教会契約」 説教者 西島啓喜 執事 列王記下 23章1-3節

1 教会契約とは何か
 教会契約とは耳慣れない言葉ですが、実は新生讃美歌の後ろ見返しにある「教会の約束」のことです。バプテスト教会は教会契約に基づく「契約共同体」で、「信仰告白」と並んで「教会契約」を大切なものとしてきました。信仰告白が、神学的な事柄を扱っているのに対し、教会契約は、実践面について述べている、と言われています。教会契約を知ると多くの事柄がすっきりします。
(1)帯広教会の信仰宣言に「何人の信仰も制限することなく・・・」という序文がありますが、各人に与えられた信仰は違っていても自立した信徒の信仰は互いに尊重しよう、という意味だと思います。
(2)バプテスト教会の多くは使徒信条に否定的です。これは聖書の上に一切の権威を認めない、という聖書主義の徹底から来ています。信仰的に自立した各人が聖書から与えられた確信は最大限尊重する、という姿勢の現れだと思います。
(3)バプテストは幼児洗礼を否定します。これも教会契約を読んで理解することができない幼児は教会の構成員になれないということから来ています。それだけ教会契約は教会の存立にかかわる大事な約束だ、ということです。
2 教会契約の聖書的根拠
 聖書はいたるところで契約を語ります。例えば創世記15章のアブラムとの契約、出エジプト記24章のモーセ契約、また列王記下23章ヨシヤ王の契約など。アブラムの契約は、神の側に契約履行の義務がありましたが、モーセやヨシヤの場合は民の側に契約を履行する義務が与えられます。しかし、イスラエルの民は契約を結んではそれを破る、という歴史を歩みました。エレミヤはモーセ契約の破綻を目にして「新しい契約」が与えられることを預言します(エレミヤ31章)。
   イエスの弟子たちはイエスが十字架上で流された血を「新しい契約の血」であると受け止めました。第一コリント11:25に初期のバプテストたちは教会契約の根拠を見出しました。教会契約は神の恵みに対する、信徒の主体的な約束です。教会契約は自分がこの約束にふさわしい歩みをしているか自己吟味のためにある、とされています。
3 帯広教会の「目標宣言」
 帯広教会の「目標宣言」は「教会契約」の改訂版と考えることができます。目標宣言は4つの柱からできています。
・心から主に礼拝をささげます。
・互いに受け入れ、支え、励ましあいます。
・福音を祈りと行いをもって伝えます。
・世の助けとなります。
 大事なのは、その根底に神の愛があるということです。帯広教会の一致の根底は、愛という絆で結ばれて、一緒に礼拝し、支え、伝道し、世に仕えるという相互の約束です。
  来週は、主の晩餐式があります。自分はこの約束をどれだけ意識していたか、自己吟味しながら感謝を持って受けたいと思います。

 

10/23 「礼拝者ヤコブ」 説教者/川内活也牧師
創世記35章2~7節 

シケムの地で

ヤコブはエサウとの再会と和解を果たしましたが、部族間での衝突を避けるために兄との距離を置き、ベエルシェバから100Kmほど北の地に留まりました。そこはシケムという名の町のそばで、ハモルという有力者が治める地でした。ヤコブはハモルに対価を払い、町のそばに宿営を張り、平和に暮らそうと考えていました。

新たな争い

ようやく帰り着いたカナンの地で、平和に暮らしたいと願っていたヤコブでしたが、このシケムの地で新たな争いに巻き込まれます。レアとの間に与えられた娘ディナが、ハモルの息子シケムから襲われてしまったのです。そのような蛮行を行ったシケムでしたが、ディナを恋い慕い、正式に婚姻関係を結びたいと願いました。しかしヤコブの息子たちは、妹ディナに加えられた恥辱的蛮行を到底赦せません。シメオンとレビは策を練り、婚姻を認めるフリをしてシケムと町の男たちを殺害してしまいました。平和に暮らす事を願っていたヤコブは、この出来事により、またも争いの不安と悲しみに捕らわれました。

ベテルへ

この悩みの中、神さまはヤコブに「ベテルへ行け」と招かれます。そこはかつて、兄エサウの怒りから逃れる旅の途上、独り、石を枕に夜を過ごした地です。神さまとの初めての出会いの地、ヤコブの信仰の原点とも言える場所です。不安や恐れ、問題に直面する時に、神さまは「信仰の原点に立ち返れ」と招かれるのです。

偶像を取り除き

ベテルへ向かう中で、ヤコブは1つのことを示されます。それは一族の中にある「偶像を取り除く」という決断です。ベテルで現れた主なる神さまとの出会いの後、ヤコブは様々な生活の中で、知らず知らずの内に「偶像」を受け入れて過ごして来ました。伯父ラバンの家からも、妻ラケルがこっそり「偶像」を持ち出して来ていました。礼拝者としてベテルに向かうために、ヤコブはそうした「偶像」を捨て去る決断をしたのです。

偶像礼拝とは

さて、偶像とは何でしょうか?分かりやすいものは「人の手によって作られた神々の像」です。主なる神さまによって生み出された全ての人々の霊は、無自覚の中にも「主を求める心=宗教心・信仰心」を持っています。神さまとの愛の交わりによって満たされる存在としての本質です。しかし同時に、アダムとエバ以来、全ての人は神さまとの関係を断たれた「罪」の性質を持つ存在です。罪の性質は、本来向かうべき主なる神さまとの交わりでは無く、人が作り出した価値観・宗教心・娯楽・快楽に充たしを求めさせます。それが「偶像礼拝」です。聖書はそのような偶像礼拝は「霊的な姦淫の罪」として断じます。

霊と真理の礼拝者として

ヤコブはその真理に気付き、信仰の原点であるベテルの地で主なる神さまを礼拝する前に、自らの内にある偶像を取り除くことを選び取りました。大いなる祝福の約束、主なる神さまとの交わりの回復に結ばれるために、その手に握り締めていた偶像を取り除いたのです。日々の歩みの中で、私たちもいつの間にか人の手によって作られた偶像を握り締めていることがあるかも知れません。それは何も宗教的な偶像に限らず、知識や名誉や欲望や快楽かも知れません。それらを握り締めたままでは、主なる神さまの祝福を受けることは出来ないのです。全ての偶像を手放し、霊と真理の礼拝者として、両手を開いて主なる神さまの御前に歩みだしましょう。

 

「人の子よ、この人々は偶像を心に抱き、彼らをつまずかせる罪を目の前に置いている。それなのに、わたしは彼らの求めに応じられようか」エゼキエル14章3節

 

10/16 「イスラエル」 説教者/川内活也牧師
創世記32章23~31節 

歩み出した先で

ヤコブは主なる神さまからの約束を信じ、伯父ラバンのもとを去る決心をしました。しかし、主の約束を信じる信仰の歩み出しであっても、ヤコブには恐れと不安が襲いかかります。先ず、背後から追って来るラバンにヤコブは怯えていました。しかし、神さまがラバンに対し夢の中で忠告を与えられたおかげで争いとならず、無事に一族を連れて旅立つことが出来ました。ヤコブはこの時も「わたしはあなたと共にいる」と約束された神さまの言葉に立ち返り、平安を得たことでしょう。しかしすぐに次なる恐れ、兄エサウとの再会に向かう不安に襲われてしまいます。

突然の格闘

ヤコブは独りヤボクの渡し場にとどまりました。この「独り残った」姿は、主なる神さまを信じ、御言葉の約束を受け取った信仰者ヤコブでありながら、しかし、尚も悩み・苦しみ・もがく姿に見えます。その時、突然、ヤコブと「何者」かとの格闘が始まりました。ヤコブはこの「何者」かについて「神さまだった」と31節で証言しています。この「神さまとの格闘」は夜明けまで続きました。

完敗に見える完勝

ついに決着の朝を迎えました。ヤコブは太ももの関節も外されたボロボロの状態です。どう考えても「敗者の姿」でしかありません。しかし、尚もすがりつき、自らの無力を訴え、祝福を求めるヤコブに向かい、神さまは「あなたは人と神とに勝った」と勝利宣言を与えられます。この「ヤボクの渡しでの格闘」は、時に「イエスさまの受難と復活」の予型であるとも言われます。十字架の苦難と死という、人の目には「敗北」としか映らない道こそが、復活という「永遠に覆る事の無い圧倒的な勝利」の道となったのです。

ヤコブが得た「勝利」

さて、ヤコブは「かかとを掴む者・押し退ける者」という名前の由来通り、祝福を「神から受ける者」ではなく祝福を「他人から奪う者」という性質をもっていました。しかし、この「敗北」によって彼は、ついに心の王座を神さまに明け渡す者となったのです。

イスラエル

神さまの祝福は、ヤコブに新しい名前として与えられました。「イスラエル」という名は「神の支配」という意味です。これまでは自らが心の王座に着いて支配していたヤコブが、この「格闘」での完全な敗北によって、心の王座に主なる神さまを迎え入れた姿です。打ち負かして支配する勝利ではなく、完全に明け渡す事によって神の支配に受入れられた勝利の姿です。

神の支配の中で

主なる神さまと1対1で向き合う「格闘」のような交わりにおいて、自らの弱さ・汚れ・不義・不足に気付かされます。完全な敗北の中で、恥と痛みと情けなさに消え入りたくもなるでしょう。しかし、その敗北をもって初めて、心の王座を主に明け渡し、主を迎え入れる圧倒的な勝利が与えられるのです。自己中心的な判断を下す支配者として座っている心の王座を降り、圧倒的勝利者である主なる神さまの完全な支配に明け渡し、私利私欲でなく神さまの御心を尋ね求めつつ、この一週へと歩み出しましょう。

 

主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを、真昼の光のように輝かせてくださる。(詩編37:5,6)

 

10/9 「わたしはあなたと共にいる」 説教者/川内活也牧師
創世記31章1~3節 

ハランの地で

兄エサウから命を狙われるほどの怒りを買ったヤコブは、何もかもを捨てて、その身ひとつで母リベカの故郷ハランへ逃亡しました。アブラハム以来与えられていた「目に見える形での財産としての神さまの祝福」は失いましたが、荒野で過ごす夜に「わたしはあなたと共にいる」との祝福の約束をヤコブはいただきます。その後、約20年間、ヤコブはハランの地で波乱の日々を過ごす事になります。

ラバンとの出会い

ベエル・シェバとハランは600キロ以上離れています。生まれて初めての地へ一人旅立ち、生まれて初めて母の兄ラバンに出会い、しかもこれから世話になろうと言うのですから、ヤコブの心情はどれほどの不安だったでしょう。しかし伯父のラバンは「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ(29:14)」と言って温かく迎え入れてくれました。

ヤコブの結婚

ひとつきほど過ごした後、希望する報酬をラバンから尋ねられたヤコブは、ラバンの下の娘ラケルとの結婚を求めます。しかしラバンは約束を破り、姉のレアとヤコブを結婚させます。結局ヤコブは一週間後にラケルとも結婚し、合計14年間、ラバンのもとで働くという契約を結びました。

姉妹の間で……

不本意にも、予期せぬ「一夫多妻」の身に置かれたヤコブは、姉レアと妹ラケル、そして、それぞれの召使ジルパとビルハを交えた「子宝競争」に翻弄される日々を過ごす事になりました。こうして、2人の妻とそれぞれの女召使を通し、ヤコブにはハランの地で11人の息子と1人の娘が与えられました。

ラバンとの確執

ヤコブは、本来願っていた結婚相手であるラケルとの間にようやく生まれた息子ヨセフを見ると、ついにベエル・シェバへの帰郷を決意します。そこでラバンに、自分が一人前の族長として生きるための「報酬」を願い出ましたが、ここでもラバンの計略によって約束を破られてしまいます。そこからヤコブとラバンの確執の6年間が始まります。しかし、神さまはヤコブを祝福し、財産となる羊や山羊を増やして下さいました。

脱出の時

ラバンと息子たちはヤコブに与えられた祝福を見て敵対心を抱きます。身の危険を感じたヤコブに対し神さまは「生まれ故郷へ帰りなさい」と招かれます。「わたしはあなたと共にいる」と(31:3)。ヤコブはハランからの脱出計画をレアとラケルに伝えました。我が身ひとつでハランにやって来たヤコブは、20年間の波乱の時を過ごし、多くの家族と従者、財産を神さまから与えられ、ついにアブラハムに約束された祝福の地カナンへ帰る日を迎えることになりました。

わたしはあなたと共にいる

ヤコブに与えられた「わたしがあなたと共にいる」という神さまの約束は、現在を生きる信仰者・クリスチャンにも継承されています。たとえ何もかもを失ったように感じる荒野にあっても、たとえ理不尽な敵意を向けられる状況におかれても、たとえ全てが闇に閉ざされた様な悩みに襲われたとしても、「わたしはあなたと共にいる」と、万物の創り主である主なる神さまが約束して下さっているのです。この主の約束を信じ受け取り信仰の目を上げるなら、私たちはインマヌエルの約束によって祝福の道へと歩み出す事が出来るのです。

 

死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。詩編23:4

 

10/2 「ヤコブの旅立ち」 説教者/川内活也牧師
創世記27章41~45節 

イサクとリベカの悩み

前回、25章27節以下の箇所から、神さまの祝福をエサウは軽んじ、ヤコブは切実に慕い求める姿を見ました。それから数年後の出来事として、今日の箇所へと繋がります。エサウは40歳の時に2人の妻をヘト(ヒッタイト)人の中から得ますが、彼女たちはイサクとリベカにとって「悩みの種」となったと26章の最後に紹介されています。どのような「悩み」であったのかの詳細は記されていませんが、アブラハム・イサクへと受け継がれた主なる神さまとの「祝福の交わり」が、エサウたちによってないがしろにされていたことが容易に想像できます。

跡目騒動

しかしその段階になっても、残念ながらイサクは「大好物の肉料理」をエサウに求め、それをもって祝福の継承を約束します。その計画を知ったリベカは策を練り、ヤコブにエサウの変装をさせ、イサクを騙し、約束の祝福をヤコブに与えさせました。狩りから戻って来たエサウは、その事を知ると激しく怒り、嘆き、ついにヤコブへの殺意を抱くようになります。 ここに至って初めて、母親のリベカは事の重大さを悟り、ヤコブを遠くハランの地へ逃がすことにしました。こうして、神さまからの祝福を受けたアブラハム、そして、その祝福を受け継いだイサクの一族の中に起こった「不穏な跡目争い」は、一定の決着を見ることになりました。

交わりを怠った先の悲しみ

「祝福の家族」であるはずのイサク一家に訪れた悲しい事件。その根底にあった問題は、共におられる主に尋ね求めず、各々が自分の思いのままに過ごしていた姿にあります。夫婦で、そして家族で、神の祝福の継承について語り合い、主に御心を尋ね求めるという「祈りの交わり」を持つことなく過ごし、それぞれがそれぞれの思いのままに事を進めようとし、あるいは思い通りになるだろうと緩慢な気持ちで神さまの祝福を見ていた結果、イサク一家は悲しい離散の時を迎える事となったのです。

全ての歩みは「祈り」から

 

信仰生活において、私たちは御言葉を通し、永遠に変わる事の無い神さまの祝福の約束を与えられています。しかし、その与えられた約束に満足し、主なる神さまとの「交わり」をないがしろにし、主に尋ね求める祈りをおこたり、人の欠けたる知恵や知識、経験・力を頼りに日々を歩んで行けば、神さまが備えて下さっている祝福と恵みを失うことになってしまいます。「主の業」をさしおいて、「人の業」で事を推し進めようとすれば、そこに歪みが生じ、道に迷い、願っていた祝福からかえって遠ざけられて行くのです。肉の知恵に頼り、自らの力におごり、日常の中で「祈り」を土台とせずに歩むなら、祝福の約束を得ている信仰の継承者であっても、悩みと悲しみの道に迷い出てしまいます。全てに先立ち、まず、主なる神さまの導きを尋ね求めて祈りつつ、委ねられた日々の業へと歩み出しましょう。

 

9/25 「励まされて」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録4章23~31節 

議員たち権力者たちは、ペトロとヨハネが「イエスの名によって話したり教えたりしないように」と脅迫して、彼らを釈放し、釈放された彼らは、仲間のところに行き、言われたことを全て話します。話を聞かされた仲間たちがまずおこなったことは、神に祈ることでした。

祈りは、神こそが創造主であることを宣言することから始まります。それは同調圧力や脅迫が横行する世の中で、何を起点に考え、行動するべきかを確認しているようにも読めます。ペトロとヨハネが神に従うことを指導者たちの前で宣言したことと同様です。世の中で何が起ころうと、自分たちがどんな立場に置かれようと、神ご自身に全ての秩序の源があることを人々は宣言しました。

 

次いで、この現状が聖書の預言通りであることを、詩編を引いて語ります。2526節は詩編の第2編の冒頭からの引用です。異邦人、諸国の民が空しいはかりごとをし、地上の権力者たちが神と油注がれた救い主に逆らう、と書かれている詩編の言葉を、イエスさまを人々が十字架につけたことと対比して語ります。まさに今、世は神に逆らい、主に従う者にとっては困難な状況にあると声をあげます。そしてそれは預言の通りであり、そのような困難な状況であっても、それは神ご自身の支配しておられる事柄なのだと祈ります。

 

「話すな、しゃべるな」という脅しの中に囲まれて、人々が求めたことは、「今こそ、大胆に、思い切ってみ言葉を語ることができますように」という祈りでした。イエスさまの名によって、神の業が行われるように、という祈りでした。「いいえ、黙らない」と人々は言い、神にそう願いました。

 

その祈りに、神は応えられました。ペンテコステの日のように、聖霊が働き、人々は大胆に語り出すのです。神は人々の「抗い」を励ましてくださいます。「黙れ」とおどされて釈放されたペトロとヨハネは、それに抗います。聞いた仲間たちも、その現状を神に叫び訴えながら、大胆に語ることが出来るように、と祈り求めます。神はその声を無視することなく、霊を注ぎ、人々に語らせてくださいました。踏まれても、踏まれても、なお起き上がる野の草のように、人々は立ち上がります。黙れ、という脅しに、「いいえ、黙らない」と語るべき神の言葉を神に求めます。

 

そうして私たちは神から語るべき言葉を頂き、励まされて、なすべき働きへと遣わされてゆくのです。

 

9/18 「傍らに立つ」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録4章5~22節 

<権力者たちは思いもよらず…>

ペトロとヨハネは最高法院で尋問されます。生まれつき足の不自由な男性を癒されたということは、尋常ではない力が働いたとみなさざるを得ませんでした。一体この癒しを、ペトロとヨハネが「なんの権威」で、「誰の名」によって行ったのか、ということが問題にされたのです。

この尋問から続く今日の場面には、多くの支配者たちが、たった二人に圧力をかけ、二人をあなどり、数に任せて小さな声を黙らせ、ひねりつぶそうと権力を振りかざす意図を感じます。被告をぐるりと囲んで二人が文字も知らない、無学な者とあなどります。「お前たちは」(7)という使い方には、「え?あんたたちみたいな者が?」というニュアンスも感じます。さらには彼らを罪に定めることが出来なくて釈放する時、イエスの名によって話したり教えたりすることを禁じ、脅しをかけます。世の権力者は、つとにそうやって地から湧き上がる小さな声をかき消し、踏みつけ、なかったことにして自分たちのやり方を押し通し、自分たちの支配を安泰に導こうとしてきました。

ところが、彼らはあてがはずれます。文字も知らない無教養な者とみなしたペトロとヨハネは、最高法院の場で大胆に堂々とイエスさまは救い主であることを証しし始めます。この病人が癒されて今立っているのは、イエス・キリストの名、イエス・キリストの力によるのであり、そのイエスはあなたがたが十字架につけて殺し、神が復活させられたのだ。この名以外に救いはない。このようにペトロたちは大胆にイエスさまを証しし、イエスさまの元に立ち帰って救われるようにと語ります。

 

<聖霊により>

このペトロたちの大胆なメッセージは、「ペトロは聖霊に満たされて」(8)とあるように、イエスさまはかつて弟子たちに聖霊の助けを約束したことに依ります(ルカ12:11~12)。ペトロたち自身の力ではなく、聖霊なる神が助けて下さることにより、ペトロたちは権力に負けず、堂々とイエスさまを宣べ伝え、議会の脅しに対しては、それをはねのけることが出来ました(19)。生きて働いておられる神さまが、守って下さり、二人を働き人へと召してくださるのです。

 

<傍らに立つ>

さて、ペトロとヨハネのそばには、足を癒された男性本人も糾弾され、押しつぶされる側として、傍らに立っていました。足が癒されたことに大喜びし、躍り上がって歩き回り、神を賛美し、二人に付きまとって離れようとしなかったこの男性は、今は黙って二人の傍らに立っています。

彼が「立っている」こと自体が、驚くべき癒しの業が働いた証拠でした。沈黙し、ただ二人のそばに立っているひとりの男性は、その姿により主を証ししていました。その無言の証しによって、最高法院の権力者たちは黙らざるを得ませんでした。無力化された権力者たちの姿が描かれます。

19節「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」というペトロとヨハネの言葉には、神さまの正しさに従う、という決意が現れています。その傍らには、イエス・キリストの名によって癒された40歳を超える男性が立っていました。物のように日々運ばれ、神殿の門のそばに置かれて物乞いをしていた男性が、これでもう一生を終えてしまうのかと思うようなときに至って癒され、社会生活を獲得し、人格的な人生を送ろうとしているのです。この癒しのできごとは、1人の人物の、人間性の回復の出来事でした。神から、一人の人間として扱われ、目を注がれ、その愛を受けたこの男性は、どんな権力にも屈さず、多勢に無勢に見えるペトロとヨハネの傍らに立ちました。

そして、逆に言えば、またペトロとヨハネも、神の力の働いたこの男性の傍らに立ち続けたのです。たとえ自分たちをかき消してしまうような力を前にしても、自分たちは「一人の命を大切にし、慈しみ、回復させてくださる神の側に立つ」という意思表示でした。

私は、あなたは、誰の傍らに立っているでしょうか。そして私やあなたの傍らに、誰が立ってくれているでしょうか。新たな一週、命の源である神の前に正しく歩むことが出来ますように。

 

 

 

9/11 「受けたから」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録3章17~4章4節 

<知ることは、変わるチャンス>

先週のペトロのメッセージの続きです。生まれつき足の不自由な男性が癒されたことに、人々が驚いて集まって来たので、ペトロは癒したのは自分ではなく、「神の子であるイエスさまの力」なのだと語ります。

そのイエスさまを、あなたがたは十字架につけてしまったが、それはあなたがたの「無知」のため、つまりイエス様がキリスト、救い主、神の子であることを知らなかったからだと言います。自分たち自身が待ち望んでいた救い主を自分たちが殺してしまったのだが、それはすでに預言されていたこと。

知らないでいたことで、神の子を十字架にかけてしまいました。しかし、そのことを「知った」今、「知った故の責任を負う」のです。では、どうすれば? ペトロは人々に「悔い改めて立ち帰れ」と呼び掛けます。「知ったなら、神の元に立ち帰り、変わろう!」と勧めるのです。「知る」ことは、「さあ、変わろう」というチャンスを頂くことです。

 

<受けたから>

ペトロは旧約聖書を引用しつつ、イスラエルの民が地上のすべての民族の祝福の基となると言われた民であることを思い起こさせます。だから神はイエスさまを世に遣わして下さったのだと語ります。あなたがたが立ち帰り、その福音を伝えることで、世のすべての人々がその祝福に与ることが出来るというのです。

4章に入ると、復活を信じないサドカイ派や祭司たち、神殿司らに二人は捕らえられ、その口を閉ざされ、牢に入れられてしまいます。しかし、このペトロのメッセージを聞いて信じた人は男性だけでも5千人になったと記されます。知ったからには、変わろう、悔い改めて立ち帰ろうというペトロの呼びかけに応答した人々がとてもたくさん起こされたということです。

わたしたちもまた、このメッセージを自分のこととして受け取ります。主イエスの死の責任が、自分にあると知った今、私たちは「知った故の責任」を負うことになります。それは命までかけて私たちを愛して下さった主のもとに悔い改めて立ち帰ることです。それによって私たちは主から「祝福を頂く」のだと聖書は語っています。私たちはその祝福を感謝を持って受けたからこそ、多くの人々に告げ知らせる働きを担っているのです。

 

 

9/4 「花が咲き驚く」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録3章11~16節 

<イエスの名によって>

1カ月ぶりの使徒言行録、今日は40年以上生まれつき足の不自由な男性がペトロとヨハネとの出会いを通してイエスさまから癒していただいたという出来事の続きからです。

歩けるようになった男性は、ペトロとヨハネから離れず、踊り歩いて神を賛美しながら一緒に神殿の境内に入ってきます。「付きまとっている」と訳されている言葉は、「しっかり捕まえる」という意味のギリシア語です。この出会いを手放したくないと男性は二人につながっています。それを見た人々は非常に驚き、彼らの元に殺到します。12節にペトロが言うように、ペトロとヨハネの力や信心によって、この男性が癒された、と思ったからでしょう。

それらの人々を前に、ペトロは自分たちの力や信心でこのことが起こったのではないんだと語ります。16節によれば、それは「イエスの名」、イエスの力なのです。6節でも「イエスの名によって」ペトロは男性手を取って立ち上がらせました。イエスの力が働いて、この男性は癒されたのです。

ペテロは1315節で、そのようなことが出来るのは、イエスさまこそ神が御自身の働きを委ね、与えられた神だからと言います。ペトロたち二人はそのことを伝える証人なのです。

 

<花が咲き驚く>

私たちはきれいな花が咲いて、その美しさに驚き、愛でます。しかし、その花は種があり、球根があり、それから根を伸ばして茎や葉が伸び、それから花が咲くのです。私たちは花が咲いてから気づくことが多いけれど、花が咲くのは、種があり、球根があってこそ。

人々は生まれた時から歩くことの出来ない男性が歩いている!という花が咲く結果を見て、その奇跡に注目し、驚きました。ペトロは人々に、その花咲く奇跡の底に働いている神のみこころを見ようと語ります。

人々が行ったことはイエスさまを拒み、捨て、殺すことでした。イエスさまよりも、殺人と暴動の罪でとらえられていたバラバの解放を望んだのです。

それが私たちの在り方です。命よりも、死、争いを選ぶ私たちは、ウクライナやミャンマーを見るまでもなく、平和を、と言いながら、他を制圧する暴力で、相手を抑え込み、自分の意思を通そうとしてしまいます。力にものを言わせ、相手を黙らせ、手っ取り早く征服しようとする私たちの平和のありかたは、イエスさまの生き方とは対極にあります。

そのように私たちが葬ったイエスさまを、神様が復活させました。

癒された男性は、「付きまとっている」と訳されたように、ペトロとヨハネをしっかりと捕まえていました。4:14では議員たちらが集まって二人を議会で取り調べる中、この男性は二人のそばに立って離れません。自分を人として尊重する人格的出会いが与えられ、神は私を愛して下さっている、と全身で理解し、証ししているのです。この二人を通して、神のまなざしを受けた、その関係が結ばれているから、離れようとしないのです。

私たちもこの男性のように、しっかりとイエスさまにつかまり、離れないでいましょう。私たちはもう、命を遠ざける道を行くのをやめましょう。イエスさまにしっかりとつながり、人々と人格的関係を結び、命を生かす道を歩みましょう。私も、あなたも生きる道を歩みましょう。

 

花が咲いて私たちは驚きます。しかし、その花は、命の源の種からつながっているのです。

8/28 「代替不可の主の恵み」 説教者/川内活也牧師
創世記25章27~34節 

ヤコブとエサウ

リベカの胎に与えられたのは双子でした。リベカが妊娠中に主の御心を尋ね求めると「弟が祝福を受け継ぐ」との約束が与えられます。こうしてアブラハムの子イサクに、双子の兄エサウと弟のヤコブが与えられました。エサウは巧みな狩人となり、ヤコブは「穏やかな人(無垢な人)」で天幕の周りで働く者となりました。

関心の違い

神さまはすでに多くの家畜を与えて下さっていたのに、エサウは与えられている以上の「獲物」を求めて野に出て行きました。一方ヤコブは、神さまから祝福として委ねられている一族を大事にし、天幕の周りで働く者となったのです。今日の箇所で、神さまの祝福に対するエサウとヤコブ両者の姿勢を知る事が出来ます。神さまの祝福を慕い求める無垢なヤコブと、地上に在るひと時の「祝福」「満たし」にしか関心を示さず生きるエサウの姿です。

野の獲物を求めず

地上の旅路において必要なものは確かにあるでしょう。経済社会における財政や、健康や知識などは、充実した日々を得させる力となるかも知れません。しかしそれらは「神さまからの祝福」に取って替わり得る恵みにはならないのです。地上の宝は地上で朽ち果てます。だから、宝は天に蓄えよと勧められているのです。(マタイ620

恵みの相続人

御子キリストによって現わされた神の祝福は「神の子となる特権」(ヨハネ1:12)です。パウロは「約束の子どもが子孫とされる」(ローマ9:8)と語り、ガラテヤ3章29ではクリスチャンを「約束の相続人である」と宣言します。

ヤコブの姿に倣う信仰

神さまの祝福と恵みを忘れず、十字架に示された神の愛・初めの信仰から離れない道は、ヤコブの信仰に倣うことです。すなわち、天幕の周りで働く無垢なる信仰、与えられている神さまの祝福を感謝し、正しく治め、管理し、用いる者として歩むことです。

代替不可の主の恵み

永遠の神様との和解に結ばれた恵み以上の恵みは、地上には無いのです。知識や名誉や財産、自分の努力や才能、若さや健康、それらの何をもってしても、十字架に現わされた神さまの愛と赦し、将来と希望の代替(だいたい)とはならないのです。

 

新たなこの一週、福音の真理であるこの信仰の土台の内に、与えられている地上の祝福も感謝しつつ、何よりも、はるかに与えられている将来と希望の約束をみすえて歩み続けましょう!

 

 『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』マタイ6章33節

8/21 「日々新たに」 説教者/西島啓喜 執事
    2コリント 4:16-18

16節から18節は同じことを強調して3つの異なる対比で述べられています。

 

1 艱難と栄光(17節)

パウロは「一時の軽い艱難」といいますが決して軽いものでなかったことを私たちは知っています。(11:23以降)。イエス・キリストが受けた栄光は、ご自身が受けた十字架上の苦しみを通して表された。どんなに大きな困難・苦しみが襲ってきても、それはすでにイエス・キリストが受けた、その苦しみを辿っているだけにすぎない、とパウロは謙虚に受け止めます。信仰者にとって大事なのは「目の前の艱難ではなく、約束されている、永遠の重い栄光だ」と17節は語ります。

 

2 見えるものと見えないもの(18節)

ミンダナオ子供図書館MCLの子どもたちと、オンラインで交流会を持ちました。日本の支援者たちが質問します。「みんなの宝物はなに?」子どもたちの答えは、「家族が宝物!」、「友達が宝物!」そして、ひときわ大きな声で「愛だ、ラブ、愛が宝だ」そういう声が飛び交いました。とても強い感動を覚えました。この子どもたちは、生活を通して「愛が宝」ということが身についています。それぞれ宗教や習慣の違いを尊重しながら生活しています。イスラムの子とクリスチャンの子が結婚することもあります。すると、式場は教会で、儀式はイスラムの伝統で行われ、みんながそれぞれの伝統の歌やダンスで祝います。難民が出ればキリスト教、イスラム教、関係なく一緒に支援に出かけます。毎日のニュースは、戦争、迫害、対立、分断のニュースばかりです。世界はそのようなもの一色のように感じます。しかし、世界にはMCLのように見えないところで愛し合う共同体がある。世界はもっと良いものだ、それを伝えていくことが平和を作り出すことではないか?平和を覚える8月にそう思わされました。

 

3 外なる人と内なる人(16節)

16節の言葉を読むと、S教会の牧師であったK先生に教えられたことを思い出します。牧師館にはご両親も一緒に住んでいました。お母様はだんだん、体が衰えてきました。しかしK牧師がこんなことを言いました。「きみ、信仰っていいね。母を見ていると体は衰えてくるけど、信仰はますます輝いてくるのがわかるんだ。」。

最近、息子のM牧師から同じような話を聞くことになりました。K牧師のお連れ合いが今年の2月、天に召されました。「K先生は気落ちしていない?」、心配して尋ねました。M牧師は、「父は判断がだいぶ怪しくなり、母の死もよくわからないみたい。でもそれは悲しみを和らげる神様のご配慮なのではないかと思う。それでも『祈ろうか』というとしっかりした祈りをするんだ。信仰は最後まで残るんですね」。 

 

K先生のお母さん、そしてK先生自身から信仰者の希望を教えられた気がします。「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」私達に「信仰」という目に見えない宝が与えられていることに感謝したいと思います。そしてこの宝が、日々新たにされ、成長させられていくことを信じ、期待しつつ歩んでいきたいと思います。

8/14 「満ち足りた死」 説教者/川内活也牧師
創世記25章1~11節 

1、ケトラ

アブラハムの「妻」として、正妻サラと女奴隷ハガルは有名ですが、アブラハムの葬儀記録直前で「3人目の妻」をめとった記録がある事には少なからず驚かされます。ルターなどは、このアブラハムの選択を「子孫繁栄に尽くした」と肯定的に捉え、それゆえに神さまの「祝福」に生涯満たされたと語ります。一方、カルヴァンなどは「ハガルの時と同じ過ちを繰り返した」ことにより、この後に争いとなっていったのだと否定的に捉えています。実際のところは本人に聞かないと分かりませんが、いずれにせよ、アブラハムはその生涯で3人の妻を通し、イサクとイシュマエルを含める8人の息子の父となりました。

 

2、満ち足りた死

7~8節を読むとアブラハムは「長寿を全うし・満ち足りて」生涯を終えたと記されています。3人の妻、8人の息子、莫大な財産……しかしそれらがアブラハムの心を「満ち足らせた」のではありません。アブラハムを「満ち足らせた」のは主なる神さまとの出会いと交わりに生きる日々、主への信仰による将来と希望の確信です。アブラハムの希望は「地上」にではなく「天」に在りました(ヘブル11章参照)。神さまから約束された祝福を、その目に見て、その手で掴むことが無くても、その祝福を約束された主なる神さまを仰ぎ見続けて歩んだのです。アブラハムは主への信仰に満ち足り、委ねられた日々・走るべき道のりを走り抜いたのです。

 

3、芽生えるいのち

たとえ「満ち足りた死」を本人が迎えたとしても、地上に残される身内にとって、やはり「死」は人間的に悲しみや痛みを覚えるものです。イサクとイシュマエルも、それぞれの立場や生活の領域は違いましたが、この悲しみと痛みを共有し、慰め合い、協力してアブラハムを葬る務めを果たしました。1人の信仰者アブラハムの信仰に満ち足りた死は、その子イサクとイシュマエルに「兄弟が共に生きるいのちの交わり」を教える時となったのです。

 

4、主を見上げる平和

さて、聖書に記録されている最大の「満ち足りた死」はイエス・キリストの十字架の死です。罪による隔ての壁によって生じる敵意・争いを取り除き、神と共に、そして、兄弟姉妹・全ての隣人と共に生きるいのちの道を与えられたのです。この十字架の主の「死」は、神との和解・隣人との和解・共に生きる喜びへの招きとして、主が完成された救いの約束、平和への招きです。イサクとイシュマエルは「信仰の父アブラハム」の死を前にして、共に平和を生きる者とされました。キリストの十字架の死を仰ぎ見る時、私たちはさらに豊かな神の平和によって共に結ばれる者とされるのです。

 

5、平和をつくる者として

明日は77年目の終戦記念日を迎えます。しかしこの間にも世界中で争いが続き、暴力に巻き込まれ、苦しめられている人々が数多に居ることを私たちは見聞きして知る者です。十字架の死において、隔ての壁を取り除く業を「完了」された主イエス・キリストの名により、「平和をつくる者」として用いられることを祈り求めつつ、新しい一週・それぞれに委ねられている道を歩んでまいりましょう。

 

『悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる』1ペテロ3:11~12

8/7 「主の山に備えあり」 説教者/川内活也牧師
創世記22章1~8節 

信仰の父アブラハム

先週はハガルとイシュマエルに目を注がれた神さまの姿を見る中で、アブラハムとサラの「不信仰」な部分にも触れました。しかし、やはりアブラハムは「信仰の父」と呼ばれる信仰者なのだという点に、今日は目を向けたいと思います。

無理難題

今日の箇所では、とてもショッキングなやり取りが記されています。「あなたの子イサクを犠牲にささげよ」と神さまがアブラハムに求められたのです。もちろん聖書を読めば分かる通り、神さまは「人柱」のように人命を求める方ではありません。1節を読むとその理由は「アブラハムを試すため」であったとあります。12章冒頭で最初に与えられた約束以降、アブラハムの中には「迷い・恐れ・不安」が繰り返し襲いました。約束の子イサクが与えられた今、神さまは「地上の全ての民を祝福に招く約束」を確かに信じ受け取る「信仰」を得させるため、この「無理難題」とも言える試練をアブラハムに与えられました。

信仰の称賛

アブラハムが称賛される信仰についてはヘブル書11章8~19節にパウロが詳しく記しています。神さまが約束された祝福を、見ずに信じる信仰の歩みの先に、約束の祝福が確かに与えられた姿です。パウロは触れていませんが、その信仰の歩みは何の迷いも悩みも無く、淡々と信じ従ったのではなく、紆余曲折、様々な迷いの道を歩んだ事を先に学びました。それでもなお「主の山に備えあり」と信じ歩んだ姿が「信仰の父」と呼ばれる姿なのです。

信仰者

私たちは、この神さまの祝福の約束を受け継ぐ者です。しかし世の旅路において「迷い・恐れ・不安」の中で、神さまの約束を見上げず肉の力を頼りとする弱さ・不信仰にも陥ります。その時、死の闇の支配の中で目が閉ざされてしまいます。だからこそ「信仰の父」であるアブラハムの歩みが励ましとして与えられます。この時アブラハムに与えられた約束は変わらないのです。「迷い・恐れ・不安」が迫る世の旅路の中、主の山に上り自らを明け渡す時、死の闇に閉ざされていた目が開かれ、復活の命の約束へと目が開かれるのです。その時、開かれた信仰者の目が見出すのは、贖いのための犠牲の雄羊なのです。

備えられた犠牲

モリヤの地とは、エルサレムが築かれた丘陵地と言われます。第二歴代誌31節を読むと、ソロモン王はダビデ王の意向に従い、この主の山に神殿を築いたと言われています。そして、全ての民の祝福のために、贖いの犠牲となって屠られた小羊イエス・キリストが掛かられた十字架も、このモリヤの地に立てられたのです。

主の山に備えあり

恐れ・悩み・不安への思い煩いに立ち向かうために、自らの肉の力で握り締め頼りとしているものを手放しましょう。主の御前に歩み出し、委ね求め祈るその時、主の山に備えられている神の恵みを見出す信仰の目が開かれるのです。イエス・キリストの十字架に現わされた神の祝福の約束、復活の希望の内に、信仰によるまことの平安が与えられるのです。神の真の平安に満たされた信仰の旅路として、新たなこの一週へと歩み出しましょう。

 

 

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。エフェソ4章67

7/31 「主の目は注がれ」 説教者/川内活也牧師
創世記21章14~21節 

信仰の父?

アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。しかし創世記をここまで読み進めて来ると、果たしてアブラハムが「信仰の父」と呼ばれるに値する歩みを全うして来たのか、疑念を抱かざるを得ません。

不信仰の画策

15章においてアブラハムは神に「自分の後継者はダマスコのエリエゼルになります」と告げました。しかし神は改めて「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と約束されます(15:4)。その約束を信じたアブラハムを、神は「義」と認められました(15:6)。にもかかわらず16章になると今度は妻サラと共謀し、サラの女奴隷ハガルを母胎とする「子作り」を計画します。もちろん「不信仰」というよりは「不安」から生じた勇み足とも言えますが、この行動の中に「神の不備を自分たちの知恵で補おう」とする傲慢な姿勢が見られます。主に尋ね求めて歩むという信仰生活から「尋ねる・求める」という祈りを忘れる時、不安や疑いが生じ、自らの手で事を成そうと動き出し、受けなくても良い苦悩に陥ってしまうのです。

巻添え

懐妊を機にサラとハガルの関係は悪くなり、ハガルは荒れ野へ逃亡することになります。その時出会った神の名をハガルは「エル(神)・ロイ(見る)」と呼び「あなたこそ私を顧みてくださる神」と告白しました。やがてアブラハムとサラの間についに約束の子イサクが与えられると、サラは今日の箇所にあるように、ハガルとその子を追放させます。アブラハムとサラの不信仰から生じた悩みの巻添えと言えるでしょう。

御覧になられる神

神はハガルの子が泣く声を聞かれ、二人に救いの手を伸べられました。その後も神はその子どもと共におられたので、その子は成長し弓を射るものとなっていきます。まさに「エル(神)・ロイ(見る)」なる神の栄光がここにも現わされたのです。

注がれながら注ぎ出さず

この時代、子孫を残せない女性は評価されませんでした。ですから、アブラハムへの神さまの約束は、時代背景的に不当な苦しみを受けていたサラへの慰めの約束でもあったのです。しかし彼らは注がれていた主の目では無く、自分たちの知恵・知識・経験に寄り頼み、ハガルを利用したのです。そして今度は、自分に子どもが与えられたことで、ハガルを切り捨ててしまいました。不当な社会構造の中で、神の祝福への招きに聞き従わずに歩んだ結果、苦しみの中にある互いに「目を注ぐ」ことも出来なくなっていたのです。

主の目は注がれる

神は、異邦人奴隷のハガルに「目を注がれ」、彼女の目を「開き」、彼女の嘆きの声に耳を傾けられます。また、時代背景的に不当な悲しみを負わされていたサラの胎を開き、慰めの子、約束の子をアブラハムに与えられました。旧約聖書の時代から、神は、イスラエルだけでなく、全ての民に、また、男子優先の社会で虐げられていた女性たちに目を注がれて来たことが分かります。

主に尋ね求める信仰

アブラハムやサラの姿を通して、私たちも自分自身の信仰を問われます。いつの間にか神に尋ね・求める祈りを忘れ、自分勝手な方法・勝手に定めた期間内で神の祝福を得ようとしてしまう弱さがあるのです。その時、神の祝福を忘れ、同じ苦しみに遭う隣人にさえ目が注げなくなってしまうのです。そんな私たちに、主の目は今日も注がれています。神は私たちと共におられ、今日も私たちが御自身に向かって正しい道を尋ね求める祈りを待っておられるのです。

 

『主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる』哀歌3章25節

7/24 「物ではなく、いまや」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録3章1~10節 

<通り過ぎる人々>

午後3時の祈りの時、神殿で行われる祭儀の時間に合わせて、敬虔なユダヤ人が神殿に祈りに上ってゆきます。人の最も多い時間に、生まれつき足の不自由な男性が「物」のように運ばれて置かれます。通り過ぎ、神殿に上ってゆく人々にとって、この男性は自分の信仰の敬虔さを表す施しの対象であり、門のそばに置かれ、神殿に上ってゆくことはできないこの男性にとっては、通り過ぎる人々は生活の糧を与えてくれる対象です。両者をつなぐものはまさに「金銀」で、神殿に上る人々にとっては、施しを与える対象が誰でも良く、門のそばに置かれた男性にとっても、施しをもらえるならだれでも良いという関係です。人々は通りすぎ、彼は置かれ続けます。

 

<見る、見る、見る…>

その男性の前に、「わたしには金や銀はないが…」とはっきり言うペトロたちが通りかかります。お金がなければ、関わりは生じないのでは。けれども、ここで、両者の関係が始まります。3~5節にはギリシャ語ではそれぞれ違う単語で「見る」という言葉が4回繰り返されます。

まず、門のそばに置かれている男性がペトロとヨハネに目を留め、施しを乞います。すると、ペトロとヨハネは彼を「じっと見」ます。凝視する、注視する、という単語が使われています。そして男性にも「わたしたちをみなさい」と声をかけます。この「見る」は、「注目してみること、本質を見極めようとすること」という意味です。何がもらえるのだろうと男性は二人を見つめます。ここの見るは「心を向け、注目する」という意味です。互いが互いに注目し合ったとき、両者の新しい関係が始まりました。私たちは関心のないものには目を向けません。目を向け、じっと見るということは、その人に心を向け、思いを向け、その人のことを考えるということです。ペトロたちはこの男性に対して、何を考えたのでしょうか。

この男性は40歳を過ぎていました(使徒4:22)。当時の寿命で考えると、この人は、生まれたときから、一生、死ぬまで足が不自由で、このまま人生が終わると自他ともに考えていたと言えます。彼は門のそばに置かれ、人々は金銭を渡して通り過ぎる。この記号のような関係がこの男性の一生続くことに、神殿に上り、神の前に出ようとしている人たちが誰も疑問をさしはさみませんでした。彼自身もまた、そうでした。

そうではないことを、ペトロたちは伝えます。

 

<物ではなく、いまや>

「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とペトロは男性の手を取って立ち上がらせます。「イエス・キリストの名によって」とは、「イエスさまの力によって」ということです。人々が、その男性の一生、考えもしなかった癒しが、イエスさまの力によって実現します。彼の足はしっかりと強くなり、立ち上がり、地面を踏みしめ、歩き、跳ね、踊ります。8節の表現から、信じられないほどの喜びと驚きに満ちた男性の様子が伺えます。彼は癒して下さったのは神だとわかり、神を賛美します。そして二人と一緒に境内に入っていきました。

今まで、門のそば、境内の入り口に物のように置かれ、一度も入ることを許されなかった神殿の中に、自分の足で、喜び賛美しながら入っていったのです。

この40年、あなたはずっと神に愛されている存在であったとペトロたちは伝えます。あなたは物ではなく、記号ではなく、互いに見つめ合い、尊重される存在であり、神に愛される人間であると手を差し出し、神の力を伝えます。もうこの男性は、物のように置かれる存在ではありません。今や、神の愛を知る一人の人として立ち上がりました。

通り過ぎず、一緒に神の元にいこうとペトロは伝えます。教会の一つひとつの働き、遣わされる私たちの働きが、相手を物や記号ではなく、神に愛される一人の人として、共に歩むものでありますように。一緒に神の元に行こうと手をつなぐものになりますように祈ります。

 

 

7/17 「手と手と手と」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録2章37~47節 

<どうしたらよいか、の問い>

ペンテコステの日、集まった人々にペトロが語ったことは、人々が十字架にかけて殺したイエスこそ、自分たちの救い主であり、自分たちのために神が遣わして下さった神の子だったということでした。イエスの死は、自分と大いに関係がある、ということを知らされた人々は、心を打たれ「わたしたちはどうしたらよいのか」という問いを使徒たちにぶつけます。

ペトロは「悔い改めなさい」と答えます。「悔い改める」とは、自分の立っているところをぐるっと転回させて立ち位置を変えることです。神の愛にふれた時、私たちは自分中心の生き方から、神を中心とした生き方に変えられていくのです。

ペトロはさらに人々に、イエスキリストの名によってバプテスマを受け、悔い改めを公にするよう勧めます。そして神から差し出されている罪の赦しを受け入れ、聖霊を受け、神の恵みを伝えるものに変えられるようにと勧めます。

イエスを迫害し、敵対していた人々が、イエスを救い主と信じ、神に従う働き人として変えられるのです。

 

<手と手と手と>

人々は変えられました。使徒の教え、相互の交わり、パンを割く事、祈ることに熱心だったと記されています。強調されているのは、人々が主にあって一つとされたということです。持っている物を共有し、互いに補い合う、心を合わせて神殿に集まり礼拝し、家では一緒に食事をする…。

 信者たちの生き方は民衆の心もひきつけ、日々救われ仲間になる人が加えられます。主を信じる人々の輪が広がり、さらに一つに広がっていくのです。イエスをキリスト、救い主と受け入れる生き方に変えられた人々が、互いに助け合って生きる様子が記されています。

 人々に降った聖霊は、隣りびとに神の恵みを伝えることへと用いられていくのです。

今日、帯広教会では神学校週間を覚え、神学校献金のアピールをして頂きました。先程ご覧いただいた動画で、西南学院大学神学部の神学生たちが、自分自身の学びについて語り、同時に世界の平和を求めて祈っていることを語りました。最後に三本指を掲げていたのは、現在ミャンマーで使われている民主化運動の象徴として、軍政への抵抗の意思を示し、民主化を求めるサインです。以前神学部で学んでいた時、「地球規模で考え、実践は足元から」と、講義室に掲げられていました。

私たちは誰と共に生きているのかと問いを受けます。

「手と手と手と」は、保育の場でよく使われるつながり遊び歌です。隣りの人と、手と手を合わせ、つながっていきます。

私の、あなたの、この手は、誰とつながっているでしょうか。誰と生活を共にし、分かち合い、祈りあっているでしょうか。

 

わたしたちはどうすればよいのか、という悔い改めの問いを頂いた私たちは、具体的に、自分のこの手を合わせ、隣り人と生きていきましょう。

7/10 「つながっている」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録2章22~36節 

<イエスこそが、救い主>

ペンテコステの日、聖霊が降った物音に驚いて集まって来た人々に、ペテロが語ります。今日の箇所では、イエスさまこそが、自分たちが待ち望んでいたキリスト、救い主だったのだ、と語ります。

「奇跡」「不思議な業」「しるし」…。ペトロはイエスさまが行われた数々のことを人々に思い起こさせます。病を癒し、人々に食べ物を与え、神の国の福音を語って来たこと。これらは神さまがイエスさまを通して行われたことであるとペテロは言います。神さまから遣わされたからこそ、イエスさまはこのような働きをなすことが出来たのだ、と神の派遣を語ります。

またペトロは「ダビデはこう語った」と、詩編を引用しながら、イエスさまこそが救い主であることを人々に証明します。イエスさまは死んだけれども、復活された、とイエスさまの復活について語ります。

 

<つながっている>

イエスさまの死を、ペトロは「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった」、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と語ります。「イエスさまの死」はあなたがたと大いに関係がある、関係があるどころか、イエスさまはあなたたちによって殺されたのだと言うのです。そしてそれは神の御計画だったと言うのです。(「神はお定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなたがたに引き渡された」。)

これは人々にとって衝撃的なことでした。イエスさまを十字架につけることに賛同した人々は、自分たちこそが、神に対して信仰深く、正しいことをしたと考えていたでしょう。しかし、神の御心が明らかにされる時に、その思いはひっくり返されます。自分たちの行いも神の御計画の内にあり、自分たちの罪のためにこそ、イエスさまは十字架にかかられたのだというのです。自分とは何の関わりもないとみなしていた「ナザレのイエス」が、実は待ち望んでいた救い主だったということを人々は知らされます。

イエス・キリストは、ご自身もろとも私たち一人ひとりの罪を十字架につけられ、葬られ、復活されました。私たちをご自身の元に引き戻し、立ち帰らせ、いのちの道を歩ませようと手を伸ばして下さる神さまの愛を、私たちはイエスさまを通して知らされます。

「あなたとわたしはつながっている」と神さまは私たちを呼んでくださいます。神の独り子、イエスさまが私たちと神さまをつないでくださいました。

 

人々に降った聖霊により、イエスさまが救い主であるということが明らかに示され、人々はそのことを証しします。私たちは、主が約束して下さった通り、助け主なる聖霊を遣わしていただき、「イエスは私の救い主である」と告白しつつ、日々を歩んで行きましょう。

7/3 「注がれる」 説教者/川内裕子牧師
使徒言行録2章14~21節 

<五旬祭の日に聖霊が降って…>

五旬祭の日、使徒たちをはじめ120人ほどの人々が集まって祈っていると、天から聖霊が降り、人々は世界中の言葉で神の業を語り出しました。大きな物音に驚いて集まって来た人々が、その証人となりました。信じがたい出来事に驚き怪しみ、「酒に酔っているのだ」と揶揄する人々もいました。

 

<すでに預言されていた通り>

そこで12人の使徒が立ち上がり、ペトロが代表して人々に語ります。今日はその初めの部分です。旧約聖書ヨエル書からの引用を語ります。

「終わりの時」に「神」が「御自身の霊を全ての人に注ぐ」とどうなるのか。まず、あなたたちの息子や娘、僕や女僕は預言すると言います。「預言」とは、神の言葉を預かって語ることです。旧約聖書には多くの預言者が登場します。エレミヤが「私は年若いから…」と神さまからの預言者の召命をしり込みします。しかし神は「若者に過ぎないと言ってはならない。」と彼を励ましました。ここで息子や娘、と言われている通り、年齢によらず、神の言葉は委ねられることが明らかになります。

さらに性別によらず神の霊は注がれます。旧約聖書の女預言者としては士師記「デボラ」を思い起こします。が、男性の預言者に比べて、残されている数は圧倒的に少ないのです。ここでは「娘」にも霊が注がれます。男性だけでなく、性別によらず、神の霊は注がれて預言すると語られます。

18節では「僕やはしためにも」と語られます。旧約聖書の時代、僕たちはイスラエルの民にとっての異邦人であることが多かったのです。ここでは、預言するのはイスラエルの民だけではなく、異邦人たちにもその働きは広がると言われています。イスラエルの神、私たちの神と考えていたのに、福音の広がりが異邦人に広げられ、更に彼ら自身が預言者の働きを担うとされています。またここには奴隷という身分にもよらずに神の霊は注がれることも意味されています。

僕・はしためということばにより、先ほどの性別によらず、ということも同じです。

神の言葉を取り次ぐ預言者は、年齢によらず、身分によらず、性別によらず、国籍によらず、等しく、平等に、ということがここで言われていることです。

そして若者は幻を見、老人は夢で幻を見ます。幻を「見る」と訳される言葉は、実際に目に見るというニュアンスのある言葉です。「夢」も「幻」も、神が人にみ旨を語る時に用いる方法でした。寝ても覚めても、私たちには神さまの御心が示されていくのです。

 

<神は注ぐ>

神の霊は、特定の人に注がれるのではなく、全ての人に、等しく平等に注がれます。神は御自身の意思で、私たちにあふれんばかりの霊を注ぎます。その霊を頂いて私たちは神の国実現の幻を見、夢を見るのです。

先週から今日は、日本バプテスト連盟では「神学校週間」として覚えて過ごしています。西南神学部で7名、東京バプテスト神学校で8名、九州バプテスト神学校で9名の神学生が学んでいます。年齢も、性別も国籍も様々な方々です。神から頂いた召命に従って献身し、学ばれている神学生の学びと生活、働きが充実するよう祈り、捧げ、支えましょう。

そして今日、神の霊は全ての人に注がれると宣言されました。神の言葉は私たちの予想をはるかに超えて実現します。若いから、年を取っているから、女だから、向いてないから…という私たちの側のしり込みは神さまには通じません。献身者だけでなく、全ての人々、今ここにおられる皆さんお一人ひとりに神の霊は注がれています。

神から頂く豊かなビジョンを目に見、夢に見、わたしたちもまた神の働きに連なっていくのです。

神の霊は注がれています。神は霊を注いでいます。

 

 

6/26 「父の家を離れ」 説教者/川内活也牧師
創世記12章1~4節 

父との別れ

6月11日に父が召天しました。家族との死別は初めての経験でしたし、入院から2ヶ月ほどの短い期間での召天でしたので、寂しさや喪失感で、突然、涙腺崩壊してしまう状態はまだ続いています。しかし、長年父が牧会していた教会での葬儀であり、家族も周囲の関係者もほとんどがクリスチャンという、同じ信仰による希望と慰めに満たされていることは感謝です。

アブラムへの招き

今日の分かち合う箇所は、アブラム(後に信仰の父と呼ばれるアブラハム)が、父テラと死別した直後の箇所です。テラはカルデヤのウルから、カナンを目指して移動していましたが、最終的にはユーフラテス川上流のハランという地にとどまっていたと記録されています。族長時代と呼ばれるこの時代、テラは多くの財産と一族を築いた裕福な族長だった姿を聖書の記録から読み取る事が出来ます。さて1節を読むと、そのテラがハランで亡くなった時、アブラムは神さまから「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と招かれました。

アブラムの決意

父テラが築いた豊かな一族をアブラムは受継ぎました。ハランの地において、安定と安住を得ていた様子が伝わります。そのままそこに留まり、地域の有力部族として生きることが、一般的には賢い選択だったかも知れません。しかしアブラムは、神さまからの招きに従い、安定と安住の地を離れる決意に立ち上がりました。当時の常識、安定と安住の「父の家」を離れ、主なる神さまの招きに従い、歩み出したのです。

知識の実

さて、創世記3章で、人類に「罪」がもたらされた記録があります。先々週のメッセージでも語られていましたが、この善悪を知る知識の木の実が「致死的な毒性植物」だったのではありません。神さまが語られた約束の言葉を捨てて、蛇の誘惑に従い、神さまを侮り、その実を採って食べることを選び取ったことが「罪=神さまとの断絶」であり、いのちである方との交わりを断ち切った事により、人は「死と滅び」に捕われてしまったのです。結果、人は確かに「神のようになる」という言葉通りに、神のように善悪を知りつつ、善では無く、欲望のままに悪を選ぶことさえ出来る知恵と知識を得たのです。神さまとの交わりの中で、いのちに結ばれ、将来と希望に満ちた「非常に良かった世界」が、この時から死と滅びにつながれてしまいました。

父の家を離れ、天の父へ向かい

「父の家」が示すのは、主なる神さまから離れた「知恵と知識」に満ちた世界です。そこには確かに慣れ親しんだ安定・安心があるかも知れません。しかし、そこには主なる神さまとの交わりが無いのです。アブラムは神さまの招きに従い立ち上がり、父の家を離れ、天の父なる神さまの約束に向かって歩み出しました。神さまから隠れて食べた「善悪の知識の木の実」を捨て、神さまの約束の御言葉を信じる信仰の実を選びとったのです。

箴言1:07 主を畏れることは知恵の初め。

神を畏れること、主の御言葉を信じる信仰こそが、まことの知恵と知識の実を結ばせ、約束の祝福へと私たちを導くのです。(箴言1:7)罪の世に在って慣れ親しんでいる知恵・知識・経験からでは無く、主の御言葉の約束を信じる信仰によって、私たちは自分自身の、そして、家族におよぶ死と滅びに対してさえ、キリスト・イエスによる圧倒的な勝利を得させられるのです。

新たなこの一週、私たちは慣れ親しんだ世の知識、死と滅びの罪を離れ、神さまの約束される祝福の家に向かい、信仰をもって歩み出しましょう!

 

 

『信仰は、望んでいることを保証し、見えないものを確信させるものです』ヘブル11章1節

6/19 「十戒における『我と汝』」 説教者/澤田二穂 兄
出エジプト記20章1~7節 

 <信仰と対話>

「我と汝」の対話の関係に立つならば、たとえスポーツ等のライバルにおいてさえも親交を通じて互いに影響し合い成長し合うことができます。

<十戒の前文の精神>

「十戒」の前文(20:2)では、神は、「私、ヤハウェはあなたの神である」と人間を「我と汝」の関係へと招きます。この関係は、エジプトからイスラエルを開放したという救済と恵みが先行する関係であります。十戒は、このような関係において私たちがどのように応答するのかが語られているのです。

<十戒の前文の精神で、十戒を読む>

十戒の中で、通常の禁止命令(創世記3:17)「取って食べてはならない」のように「~してはならない」と訳されている戒めは、実は、文法の上で、否定の推量すなわち「当然あり得ない。」と訳すべき文章で書かれています。(関根清三)。つまり、十戒の前文の精神である「汝と我」の関係にあるならば、一つ一つの戒めは、「行なってしまう」可能性はあっても「・・(行なわれない)のが当然だ」の意味で語られているのです。

<イエスの「アッバ」の祈り>

イエスさまは、祈りの中で神への呼びかの言葉に特化した「アッバ(アラム語、父よ(ギリシャ語による翻訳)」と呼びかけて神との「垂直関係」を強め、人々との「水平関係」を築き、苦難に対応しました。

<変化する時代のうねりの中で>

私たちも「アッバ、父よ」と呼びかけて神さまとの太いパイプで結ばれるイメージで「我と汝」の関係を深め、神の使命を受け止めながら、人生でお会いできる人々との対話の関係を築き、同時に時代の難局に向って参りたいと願っております。

6/12 「断絶」 説教者/川内裕子 牧師
創世記3章1~7節 

 

 <いざない>

活也牧師のメッセージの月には、先週から創世記を読んでいます。先週1章から神の創造の業によって世界が生み出され、私たちは神の同労者として、よい世界を守り管理する働きを委ねられていることを知らされました。

今日は3章から読んでいきます。先週「それはきわめてよかった」と神が言われた創造の世界に、不穏な影が差します。まず登場するのは蛇、女、男。神は登場しません。蛇は神がお造りになったもので「最も賢い」と紹介されます。その賢さは、人の心の底にある思いをあぶりだすような問いを発することに現れます。

神の言葉は「全ての木から取って食べよ。ただし善悪の知識の木から決して食べてはならない。必ず死ぬ。」(2:1617)でした。蛇は、「どの木からも食べてはいけないと神は言ったのか」と問います。女は答えます「食べても良いのだ。しかし園の中央は食べてはだめ、触れてもだめ、死んではいけないから」。「触れる」ことに神は言及しませんでしたが、女は自分で条件を加えます。「必ず死ぬ」が「死んではいけない」と曖昧になります。蛇は女の好奇心を掻き立てます。「死なない。神のようになるのだ。」女は蛇にいざなわれます。

「必ず死ぬ」、が「死ぬかもしれない」になり、とうとう「決して死なない」になってしまいます。

 

<挑戦>

女はとうとう実を取って食べます。男は女に渡されるまま食べます。女と蛇が会話している間、男は反論せず黙って聞いています。女は「わたしたちは」と二人を代表して蛇と会話しています。善悪の知識の木の実を取って食べることは、女も男も自分の意思として行ったのです。積極的であれ、消極的であれ。女も、男も神に不従順だったのです。

彼らは目が開け、裸であることが分かります。神の造られたそのままの存在をイチジクの葉で隠します。

 

<断絶と、断絶をつなぐもの>

彼らは神から隠れ、「どこにいるのか」と神に問われます。「罪」は禁じられた実を食べた事ではなく、神から隠れたことなのです。神から隠れ、不従順に生きる二人に、神はしわしわ縮み隠しているところも隠せなくなるイチジク(植物)ではなく、皮の衣を作って与えます。二人のために動物の命が流されたことを意味します。私はここにイエスさまの十字架の贖いの先取りを見ます。

私たちは神に不従順な生き方を選択しました。神から背を向け言い訳をして生きようとすることで、それは私たちから神への断絶を意味しました。

しかし神は、そんな私たちを呼び、贖い、生かして下さいます。

神の造られた世界に不従順を呼び込んだのは、私たち人間です。世界中で起こっている戦争や紛争、そして私たちの日常の中のいさかいも、私たちの不従順の結果なのです。そのために神の造られた大地がうめいています。

私たちはこの地を受け継ぎ、よく管理せよと神に委ねられました。私たちが神の手を断絶したのに、神はなおも私たちを読んでくださいます。神の手が伸ばされているのを受け取るべきではないでしょうか。

 

6/5 「支配」 説教者/川内活也 牧師
創世記1章27~31節 

 

 聖書

今日私たちの手に与えられている聖書は、イエス・キリスト誕生以前に書かれた旧約39巻と、誕生後に書かれた新約27巻の合計66巻から成る「唯一の霊的規範の書」です。先週は西島執事を通し、聖書の最後の書である「ヨハネの黙示録」からの説き明しをいただきましたが、今日は一気に戻って、聖書の始めに記されている書である創世記から共に御言葉に耳を傾けましょう。

はじめに

聖書はその冒頭で「初めに」ついて語ります。全ての理には「終わり」がありますが、「終わり」を迎える前には「始まり」があります。この天地万物の基礎の基礎、土台の土台についての記録が、創世記の1章です。

生み出された人間

さて1節の「初めに神は天地を創造された」という宣言から25節までの間に、天地万物の創造の業が記されています。そして、全てが整った後、今日お読みしました26節以下で、人間の創造についての記録が始まります。

創造の目的

神さまは何のために天地を創造されたのか?この真理についてはまず「出産」に例えられます。夫婦に子どもが与えられた時、その子の誕生に備えて両親は家を整えます。その準備のための整えの業一つ一つが喜びの時です。最善を尽くし、最良のモノをもって我が子の誕生の時を待ち望むのです。神さまは創造の6日間、どれほどの喜びをもって万物を創造されたことでしょう。整える1つ1つの業を確認し「神はこれを見て、良しとされた」と何度も語られています。そして、全てが整った後に、ついに人が創造されました。この時、神さまは「極めて良かった」と宣言されました。整えに整えた我が家に、ついに誕生した我が子を迎え入れた時に、喜びと感謝に満ちる姿を思い浮かべます。

創造の目的

神さまは何のために天地を創造されたのか?この真理については次に「建築」にも例えられます。何の目的も無く建物を建てる人はいません。「家」を建てる者は「家」を建てる事が目的なのでなく「家に住まう者の生活の場を整える」という目的を持ちます。神さまは天地万物を「人が住まうべき家」として整えて造られたのです。

支配者ではなく支配人

「愛する我が子が住まうべき家」として天地万物を神さまは創造されたのだという真理に立って初めて、28節を正しく理解することが出来ます。「全てを支配せよ」との宣言だけを聞くと、人間が天地万物の「支配者」であるかのように聞こえます。「支配」という単語の意味だけで考えるなら「自分の意志・命令によって相手の行為や在り方を規定し束縛する主権者」になってしまいます。しかし、神さまは人間に、被造物に対する生殺与奪権限を与えたのではありません。正しく統べ治める「支配人」となるようにと、この世界を委ねられたのです。

主権者と共に

主なる神さまから、私たちは世界を正しく治める使命・責任・義務を委ねられているのです。神さまとの愛の交わりに結ばれ生きる者として創造された人間であるからこそ、委ねられている世界を正しく治める管理者・支配人としての務めがあるのです。主権は神に在り。私たちは世界を正しく治める時に、支配人として、主権者なる創り主と共に「極めて良い世界」を築き上げ、喜ぶ同労者とされるのです。

 

  

主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。詩編127編1節

 

5/29 「苦難の中にある人へ」 説教者/西島啓喜 執事
ヨハネの黙示録20章1~6節 

1 前半の振り返り

  ヨハネの黙示録の時代、教会は大きな危機に襲われていました。一つはローマ帝国による迫害、もう一つは神より富に頼る傾向です。4章から16章でヨハネは天上の情景を見せられます。巻物の7つの封印が解かれるたびに、7つのラッパが鳴るたびに、7つの鉢から中身が注がれるたびに地上に災難が降りかかります。しかし国々は悔い改めません。恐怖や脅しで人の心を変えることはできません。12章では、天で竜(サタン)が破れ地上に投げ落とされます。この戦いに勝利をもたらしたのは「武器」ではなく、「小羊の血」と、殉教者たちの「証しの言葉」です。地上には竜に操られた2頭の獣(国家・支配者と富の力)が出現し、自分を礼拝するよう強制します。しかし2頭の獣は最後の決戦に敗北し地上から一掃されます。

 

2 竜の捕縛のイメージ(20:1-3

竜は悪魔、サタンとも呼ばれ、この世界に、争い、不幸、自然災害・・ありとあらゆる悲惨をもたらす根源的な闇の力と考えられます。しかし、凶暴な竜もあっけなく捕らえられてしまいます。神の前には全く無力な存在です。

 

3 千年の統治のイメージ(20:4-6

2つ目は「千年王国」と呼ばれているイメージです。ヨハネはこの1000にどういう意図を込めたのでしょうか。それは価値のある期間、恵みの豊かさを表す数字と考えられます。(詩編84:11あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。)「イエスの証しと神の言葉のために、」苦難を通ってきた者たちが忘れられることは決してない、キリストの復活の豊かな命に預かるよ、そういう約束と見ることができます。

しかし、不思議なことに竜が再び解放されます。これは人間の現実を描いたものではないか、と思わされます。この世界では「なんで、どうして・・」、とつぶやく以外、できないような悲劇が突然に襲う。まるで竜が突然、解放されて暴れまわるようです。しかし、ヨハネが幻を通して示されたのは、悪が勝利して終わることは決してない。必ず神が勝利する、だから絶望してはいけない、と語っているのだと思います。

 

4 慰めの書、ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録はよく葬儀でも読まれます。彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(21:4

 死は悲しい別れですが、一方で、長かった戦いの生活から解放された。今は神のみ元で平安を得ている、と信ずることができるのは幸いです。

 

生きている限り、小さな悪、大きな悪による悲惨から逃れることはできません。しかし、どんな困難な中にあっても「キリストはすでに勝利された、だからしっかりせよ、諦めるな、希望を失うな」ヨハネは、そんな励ましを与え続けているように思います。

 

 

 

5/22 「懐にとどく」 説教者/川内裕子 牧師
使徒言行録2章1~13節 

<約束されたもの>

五旬祭は、過ぎ越祭から50日後、小麦の刈入れの初物を捧げるお祭りです。キリスト教会では、イースターから数えて50日目、ギリシャ語の50番目の、という言葉からペンテコステと言います。日本語ではこの日を聖霊降臨日と言い、それが今日の聖書の箇所の出来事に由来します。今年のペンテコステは65日ですが、少し先取りしましょう。

この日、弟子たちが集まっていると、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえてきました。「風」は「神の霊」「息」と同じ言葉です。ここで大風の音が聞こえたことは、神の霊がこの場に激しく降ったことを示しています。さらに炎のような舌が一人ひとりの上にとどまります。「炎」もまた、神の臨在を表す言葉です。一人一人に聖霊が降ったことが強調されます。これはかつてイエスさまが弟子たちに約束されていたものでした。

 

<それぞれの言葉で>

約束された聖霊を受けた弟子たちが語り始めた言葉は様々な国の言葉でした。大きな物音に驚いて集まってきた人々がその言葉を聞きます。ガリラヤの片田舎の言葉しか知らないと思っていた人々が、当時における世界中の国々、地方の言葉を話しているのを聞いて、集まった人々は驚きます。

弟子たちの語っていたことは「神も偉大な業」について、すなわち、彼らは、集まった全ての人々がそれぞれ理解できる母語で、キリストの証人として証ししていたのです。

 

<懐にとどく>

 さて、聖霊が激しい風として降ったことについてもう少し考えてみます。台風や帯広の突風などを体験すると、激しい風はそこにあるものを根こそぎ吹き飛ばしてしまうものだと実感します。聖霊の風をそれぞれが受けた時、もともとの自分の考え方とかあり方とか、そのようなものを吹き飛ばして神さまの息を吹き入れて下さり、刷新して下さったということができます。弟子たちはそのように変えられ、聞く人々の言葉でイエスさまを証ししました。それは、自分の土俵で語り、行う、というのではなく、イエスさまをお伝えしたい方の土俵で語り、行い、証しするということです。

 私たちも同様に、聖霊を受け、私たちが自分で設けている限界や考えを吹き飛ばしていただき、刷新されましょう。ペンテコステは「教会の誕生日」と言われます。私たち一人一人だけではなく、教会の働きも聖霊を受け、刷新され、振り返る時を頂きましょう。

 私たちに出会って下さったイエスさまを、相手の懐にとどく言葉で、行いで、祈りをもって証しし、私たちも教会も歩んで行きましょう。

 

 

 

5/15 「集められる」 説教者/川内裕子 牧師
使徒言行録1章12~26節 

<心ひとつに祈る>

 先週、「神の国の実現は、今ですか?」と問うた弟子たちに、復活のイエスさまは、「その時は神さまだけがご存じなんだよ。神の国は、あなたたち自身が神さまから働きを委ねられ、それぞれが頂いたもので実現していくんだよ。」と答えられました。

 その後、11人の弟子たちはエルサレムの宿泊している場所に戻ってきました。そこには彼ら以外にも人々がいました。人数も名前も記されていませんが複数の女性たち、イエスさまの母マリア、イエスさまのきょうだいたちです。そしてさらにその後、その人数は120人ほどに増えていたと書かれています。

 彼らが行っていたのは、心ひとつにして熱心に祈る、ということでした。イエスさまが捕らえられたのち、イエスさまのそばから逃げ出し、イエスさまの処刑後、自分たちの身の危険を感じて部屋にカギをかけて閉じこもっていた弟子たちは、復活の主に出会い、変えられました。今、その場に集まった多くの人々は、恐れによって寄り集まっているのではなく、イエスさまから頂いた使命に従って生きるために祈りを通して神さまとの対話を行っているのでした。

 

<神さまの選び>

人びとが神の導きの中で示されたのは、イエスさまを裏切り離れていったイスカリオテのユダの代わりに12人目の使徒を任命しようとすることでした。彼らは二人の候補者を挙げ、いずれがその働きを担うべきかくじを引きます。「くじを引く」というということは、人の思いによって決めるのではなく、神さまの御心を尋ねる、ということです。人々は神さまの選びに委ねました。

 

<集められる>

 この12人目の使徒の選びが神さまの選びであったことは、ここにいた全ての人々にとって象徴的なことです。選ばれたマティアだけでなく、全ての人々は神さまが召しを与え、選んでくださったということです。

 人々はみな、それぞれイエスさまとの出会いがあって変えられて集められていた人々です。一度は逃げ出した人々も、復活の主に出会って呼び集められました。イエスさまの働きを辞めさせ、家に連れ戻そうとした家族たちも、イエスさまに従う者として呼び出されました。その他100人以上もの人々が、それぞれイエスさまとの出会いによってここに集められてきたのです。

それは、「主の復活の証人となる」という働きのために、一人一人神さまが呼び集めてくださったのでした。

私たちもそれぞれ「主の復活の証人となる」という召しを主から与えられています。自分から推薦したのでもなく、すでに主が選んでくださったその召しを身に受けて、主に委ねられた働きにどのようにお応えするかを祈り求めていきましょう。

 

5/8 「頂いたもので」 説教者/川内裕子 牧師
使徒言行録1章6~11節 

<天に昇る前に>

弟子たちは復活されたイエスさまに質問します。「イスラエルのために国を建て直して下さるのはこの時ですか?」。「国を建て直す」とは神さまが終末の時、正しい秩序を回復させてくださることを意味しているようです。今やきっと復活の主が、イスラエルが世界を支配する終末的な国家の復興を成し遂げて下さると弟子たちは期待したようです。

 

<私の証人になる>

それに対するイエスさまの答えは、弟子たちの予想とは違うものだったのではないでしょうか。イエスさまは、あなたたちが期待している終末の時がいつ訪れるかは父なる神の御計画であり、あなたたちには分からないといいます。

そして神が国を建て直して下さるのは?というイスラエルの終末論的回復についてイエスさまが答えられたのは、弟子たちに聖霊が降るということ、そしてそれによって弟子たちは力を受け、全世界でイエスさまの証人として働く、ということでした。

神様のお働きを尋ねる弟子たちに対し、イエスさまは弟子たちがなしてゆく働きを答えられました。この8節のイエスさまの答えこそが、使徒言行録を通して記されていることで、8節は使徒言行録の主題と言ってもよいでしょう。

「あなた方の上に聖霊が降る」とは、弟子たちに神の力が働くこと、終末の時の始まりを意味します。「力を受ける」とは神の働きを頂くことで、「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、地の果て」つまり世界中で「私の証人になる」イエスさまの福音が伝えられる、というように、終末の時の神さまの支配は、弟子たちに委託された働きにより広がっていくのだとイエスさまは語られました。イエスさまは弟子たちを神の国実現の働きに召して下さり、彼らの目の前で天に引き上げられていきました。

 

<頂いたもので>

「力を受ける」というイエスさまの言葉についてもう少し考えてみたいと思います。私達はすごいパワーをいただくのでしょうか。世界の果てまで、ぎゅんと走り抜けるような?

今回私はコロナに罹患し、軽症ですがそれなりの症状の中で、体力も落ちて、今の体調でどのくらいのことまでができるかなとか、体のささやかなメッセージに耳を澄ませる体験をしました。今まで、頂いていた健康を、無頓着に考えていたと思います。わたしたちの体が緻密に神様によってくみ上げられていることを、病気を頂くことで気づきました。神様は私たち一人一人に、日々生きていく力を与えて下さり、私たちの何気ない小さな働きも、神さまの委託を受けているのだと教えられました。

その私たちが、イエスさまの証人となると言われています。それはイエスさまはスーパーマンのような方だと語ることでしょうか。むしろイエスさまは、人々と一緒ご飯を食べて、やりきれない思いに涙をおとし、理不尽な圧力に怒り、人々と小さな歩みを共にしてくださいました。私たちが証人として歩み、担う働きは、そのような日常の小さな積み重ねです。そしてそれこそが私たちに委ねられた大切な福音宣教の働きなのではないでしょうか。

イエスさまが天に昇られた後、天を見上げていた弟子たちに、二人の白い服を着た人が「なぜ天を見上げてるの?」と声を掛けます。天使は、神さまと私たちをつなぐ「ここぞ」という時に現れます。なぜ天を見ているの?イエスさまはまたおいでになるよ、その時まであなたの神さまに委ねられた働きを担おうよ、と天使たちは弟子たちを促します。神さまから頂いたもので、私たちもこつこつとイエスさまを証ししていきましょう。

5/1 「一緒に食べよう」 説教者/川内裕子 牧師
使徒言行録1章1~5節 

<復活の主が一緒に>

これからしばらくご一緒に使徒言行録を読んでいきたいと考えています。同じ作者によって書かれたルカによる福音書の最後24章と使徒言行録の初めは、復活されたイエス様がその後弟子たちにどのように現れたか、その後天に上げられた様子など内容的に少し重なりがあります。使徒言行録はその後、人々によって、福音がどのように広がっていったかが記されている書といえるでしょう。

今日は復活のイエス様と弟子たちが共に過ごした様子を読んでいきます。「苦難を受けた」(3)、つまり十字架に至る受難と死を通られた後、イエスさまが示されたことは、ご自分が「生きている」ということ、すなわち「復活された」ということでした。

 

<約束されたものを待つ>

ルカによる福音書では復活のイエスさまとの出会いはエルサレムにて記されます。そして使徒言行録においても、イエスさまはエルサレムを離れないでいなさい、と今日の箇所で告げます。

弟子たちにとってエルサレムは、師と仰ぐイエスさまが捕らえられ暴行を受け、裁判を受けて処刑された場所です。イエスさまの弟子であるという理由で、つかまる可能性もあり、弟子たちにとっても危険な場所でした。ヨハネによる福音書には、ユダヤ人たちを恐れて、カギをしめて閉じこもって隠れていた弟子たちの姿が描かれます。

 

しかし同時にエルサレムは、イエス様の復活された場所でもありました。イエス様はエルサレムで弟子たちに出会ってくださいます。恐れと疑いの入り混じる中に、イエス様ご自身が復活の姿を現し、希望と信頼と再生の光を投げ込んでくださったのです。

イエス様はさらに弟子たちに父から約束されたもの、聖霊を待ちなさい。エルサレムを離れないでいなさいと語ります。苦しみと絶望、恐れのあるところに、聖霊ご自身が助けと弁護、とりなしを与えてくださるのだという約束です。弟子たちにとって危険なエルサレムを、イエスさまご自身が希望の地へと変えてくださったのです。

 

<一緒に食べよう>

その約束を、イエスさまは食事を共にしながら語られました。ルカによる福音書24章では、ご自身が復活された証しとして、弟子たちの前で魚をひと切れ食べる様子が記されています。「食べる」ことが「生きている・復活した」ことの証左となっているのです。

食べることは生きる記憶です。その時食べたものはすぐに当時に私たちを連れて行ってくれます。イエスさまと食べた事、その時話された神の国の福音は、弟子たちの記憶の中で固く結ばれたことでしょう。弟子たちは食べるたびイエスさまと過ごしたこと、イエスさまの約束された神の国の福音を思い起こしたことでしょう。

イエスさまの十字架の贖いを記念する主の晩餐に与ることは、私たちもまたその記憶に連なることを意味します。飲むたび、食べるたび、私たちも繰り返しイエスさまの福音を思い起こしましょう。一緒に食べようと語ってくださる主と共に。

 

4/24 「愛するゆえに」 説教者/川内活也 牧師
ヨハネによる福音書21章15~19節 

ペテロの召命

今日の箇所は「ペテロの召命」として有名な場面です。19節の終わりでイエスさまはペテロに「わたしに従いなさい」と召命を与えられました。この招きに至るやり取りの中心にあるのが「わたしを愛するか?」というイエスさまからの問い掛けです。

愛の種類

日本語で「愛」は1つの単語で表わされますが、古代ギリシャ語では、神の愛を表わす「アガペー」・性的な愛を表わす「エロス」・対人関係の絆や信頼といった人格的愛を表わす「フィレオー」・身内への愛を表わす「ストルゲー」という4つの概念に分けた単語が使われていました。日本語では全て「愛」と翻訳されていますが、今日の箇所のイエスさまとペテロの会話では「アガペー」と「フィレオー」の2つの「愛」の単語が使われています。

3度の確認

イエスさまはペテロに2度「わたしを愛するか?(アガパオー)」と尋ねます。その問いにペテロは2度とも「愛します(フィレオー)」と応じました。しかし3度目の問い掛けは「わたしを愛するか?(フィレオー)」にイエスさまは変えています。このやり取りには様々な解釈がなされて来ました。この「3度の確認」は、やはり、ペテロが3度イエスさまを否定した出来事を想起させます。このやり取りにおいて、ペテロの「背信の苦しみ」が癒されたのです。では「神の愛(アガペー)をもって愛するか?」という問いに、なぜペテロは「人格的愛(フィレオー)で愛します」と応じ、イエスさまは3度目に「人格的愛(フィレオー)で愛するか?」と問い直されたのでしょうか?

他者との比較でなく

イエスさまがペテロの離反を予告されたマルコ14章29節を見ると、ペテロは「たとえみんながつまづいても、私はつまづきません」と宣言しています。ペテロの内には他者との比較による傲慢が有ったのです。しかしその「傲慢な自信」はものの見事に打ち砕かれました。今日の箇所でイエスさまは「アガペーで愛するか?」とまず問われました。神的愛は人の努力や才能・頑張りで成し得るものではありません。それは「支える愛」です。復活の主に対し「神のように支える愛」を成し得られるはずもないという打ち砕かれた謙遜をもって、ペテロは「フィレオー」と応じたのです。イエスさまは人に対し「神の愛をもってわたしを愛せよ」と無理難題を求められるのではなく、神の愛(アガペー)に支えられて、あなたの最大の愛で応えることを願われているのです。他者との比較による「優れた愛」ではなく、人格的な神との交わりに支えられ、最大限の愛をもって応じるペテロの信仰告白です。

愛に応える愛

主との出会いとは、神の愛(アガペー)を注がれ、愛(フィレオー)をもって応えるという交わりです。この出会いによって人は「福音の使者」(エペソ6:20)として新しい命の日々へと歩み出すのです。主を愛するゆえに、主の愛に応える愛として、神の栄光を現わす証しの器とされることを願う人生へと変えられるのです。

栄光を現わす愛

主を愛する者であるがゆえに、主の栄光を現わしたいと応える人生は、主から委ねられている愛に満ちたものへと変えられます。主の愛に支えられ、主の愛に応え、主の栄光を現わす愛を選び取る信仰の目が開かれる時、古い肉の罪から解放された新しいいのちの日々へと歩む者とされるのです。

 

 

『だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい』1コリント10:31

 

4/17 「刻印」 説教者/川内活也 牧師
ヨハネによる福音書20章24~29節 

イースター

今日はイースター(主の復活記念日)です。イエスさまは、全ての罪の贖いの犠牲となられるために世に降り、神の国の福音を宣べ伝えられた後、犯罪者に対する極刑であった十字架で処刑され、死に明け渡されました。その十字架刑が行われたのが、今の暦で見るなら金曜日になります。その日、墓に葬られ、金・土・日と過ぎた三日目の朝、日曜日の朝早くに弟子たちが墓を見に行くと、そこにイエスさまの亡骸はありませんでした。約束されていた通りに、イエスさまは復活されていたのです。死をもって終えられたのではなく、全ての人が負わなければならなかった「罪の報いである死と滅び」を打ち破って復活された救い主。この救いの完成を記念するのが復活記念日(イースター)です。日曜毎に教会で礼拝がささげられているのも、この復活の朝を記念する信仰の告白となっています。

新しくされる

神さまはご自身の愛に結ばれる存在として人を創造されました。罪も傷も汚れも無い、完全に聖なる方に似せて人は創造されたのです。でも人は、神さまとの交わりから離れる歴史を歩み出しました。その断絶という「罪」によって、人は傷を負い、汚れに染まり、死と滅びへと向かう者となってしまいました。しかし神さまは愛する者が死と滅びに飲み込まれていくことを良しとせず、三位一体であるその身を引き裂き、罪からの回復の道、すなわち、御自身との交わりに再び結び合わされるいのちの道を備えて下さったのです。人が負うべき罪の報いである死と呪いを、罪無き方が代わりに十字架で負って下さいました。それによって私たちは本来在るべき創造の初めの姿、「罪も傷も汚れも無い、完全に聖なる方に似る者=神の子」として新しくされるいのちを与えられたのです。黙示録21章を見ると、この歴史が巻き去られた後、神さまの完全な御支配の中で、全てのものは罪も傷も汚れも無い、完全に聖なる姿へと新しくされることが約束されています。

「完全」なのに傷?

さて、神さまの御国において、全ての者は罪も傷も汚れも無い完全な聖なる姿に新しくされるのですが、その「神の国」において「傷」を持つ存在が一人だけいます。それが、イエスさまです。今日お読みした箇所で、復活されたイエスさまと弟子たちの会話が記されています。新しいいのちへの復活を世に示されるイエスさまの御身体なのに、その脇腹と手の平の傷、十字架刑で負われた傷跡がのこされたままだったのです。

この傷こそが完全な姿

イザヤ書49章14~16節を読むと、復活の主の御身体の傷の意味を知ります。神さまは旧約聖書の時代から、人を罪から贖われると約束されて来ました。そして、イエスさまの十字架の死と復活によって、その約束が果たされたのです。復活の主の御手に刻まれている釘打たれた傷跡は、罪からの救いと赦しが完成した刻印なのです。「見よ、わたしは手の平にあなたを刻んだ」と語られる通り、罪人の頭である私たち一人一人を、神さまは永遠に忘れる事無く愛されているという約束の印が、この御手に残された傷跡なのです。

約束を受け取る信仰

契約書にどれだけ素晴らしい内容が記されていても、そこに契約者の印が無ければ、それは何の価値もありません。死と滅びを打ち破り、罪から贖い出すという神さまの約束は、イエスさまの十字架の死と復活によってその約束の印が刻まれました。この救いの約束は完成したのです。あとはこの約束を私たちが信じ、受け取るか否かだけです。イエスさまがトマスに語られた言葉は、今日、私たち一人一人にも語られています。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

罪からの贖いの代価となられ十字架で死なれた主は、死と滅びを打ち破られ、その御手に私たち一人一人の名を刻み復活されました。その完成された約束を信じ受け取る者は、誰一人滅びる事無く、永遠のいのちの朝を迎えるのです。誰もが開く死の扉の先に、御手の傷をもって私の名を刻まれた主が、両手を広げて迎え入れて下さるのです。

 

「女が自分の乳飲み子を忘れようか?その胎の実を憐れまないだろうか?たとえ女たちが忘れても、わたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ」イザヤ書4915

4/10 「ピラト」 説教者/川内活也 牧師
ヨハネによる福音書19章1~4節 

受難週

今週は受難週です。イエスさまは受肉後、およそ30歳になられてから福音宣教を開始されました。それから約3年半の「公生涯」を歩まれ、ついに、降誕の目的である「十字架の死」を迎えられました。イエスさまが語られる「福音」は、主なる神との和解、すなわち、人が罪の悔い改めによって神との正しい関係に結ばれ、創造の目的である在るべき姿となって、まことのいのちを得ることです。しかし多くの人々はその「福音の真理」ではなく、自分の都合の良い「欲」を満たす・あるいは自分にとって都合の悪い存在としてイエスさまを見ていました。人々のそのような的外れな目を見つめながら、イエスさまは十字架への道を歩まれたのです。

弱みを握られた権力者

ローマ帝国支配のユダヤ州第五代総督として立てられたピラト。彼にはローマから属国を治めるための「正義と公正」が求められていました。また、それらを行うための権限が委ねられていました。しかし彼は自分の成すべき「正義と公正」から外れた悪政を行ったため、ユダヤ人からの反感を買ってしまっていました。そんな彼のもとに、ユダヤ人指導者たちはイエスさまを引き出します。その訴えが指導者たちの「ねたみ」によるとすぐに理解したピラトは、総督として自分の成すべき「正義と公正」に気付きます。イエスさまには何も「罪」が無いと知り、釈放に尽力しますが、ユダヤ人指導者たちは頑なに「死刑宣告」を求めました。ついにはピラトの悪政をローマに訴えると脅されます。過去の失政に覚えもあるピラトは、目の前の「正義と公正」から目を背け、保身のため、ついにイエスさまを十字架刑へと引き渡しました。

真理を拒む「人の欲」

ユダヤ人指導者たちは「民を導く者」としての権限と使命をもって立てられています。しかし、当時の彼らは「民を導く」という使命ではなく「自分たちの欲望」によって民を支配する者となっていました。民を救う事よりも自分たちの利権を守ることに思いが向いていたのです。イエスさまが民を救う方であることを知っていながら、利権のためにイエスさまを拒んだのです(ルカ23:35)。ピラトも、ユダヤ人指導者たちも、根源にあるのは「利権のための自己保身」という欲望です。成すべき正しい行いから目を背けさせる「罪」が、彼らの内に、そして、私たちの内に在るのです。

とりなしの主

しかし、だからこそ、そのような罪人の頭たちのために、イエスさまは十字架という「罪人の死」を代わりに負って下さったのです。「父よ彼らを赦したまえ。彼らは何をしているのか、分からずにいるのだから」と、十字架の上で執り成しの祈りをささげられたのは、罪を見過ごすためでなく、人が罪から悔い改めて立ち返り、いのちへの道へと歩むための扉を開かれるためだったのです。

贖いの確信から

「聖書を知っている・キリスト教を知っている」というのは信仰ではなく知識です。「私(たち)の罪を負って下さった方・いのちへの道を開かれるために、贖いの犠牲となって下さった方」を知り・信じ・従うことが信仰です。ピラトのように、ユダヤ人指導者のように、成すべき正しいことを知っていながら目を背け、自己保身を選ぶ者ではなく、成すべき正しいことを選び取り、いのちの道へと歩み出しましょう。主に贖われた者である信仰の確信によって、私たちは委ねられている日々を、正しく治める者として歩むことが出来るのです。

 

「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」 ヤコブ4章17節

 

4/3 「主にならい・成長する教会」 
エペソの信徒への手紙 4章12~16
             説教者/川内活也 牧師

新年度

2022年度最初の主日礼拝です。今日は新年度の教会主題聖句であるエフェソ書4章13節に注目し、年間テーマ「主にならい・成長する教会」というタイトルで御言葉を分かち合いましょう。

主にならう

「学ぶは真似る」と昔から言われます。教わる・教えるという形の「教育」もありますが、信仰生活においては「誰かが教師・誰かが生徒」という人間相互の師弟関係はありません(マタイ23:8)。「全てのクリスチャンは主を真似る・主に倣(なら)う者」として、キリストの御肢体なる教会を建て上げるようにと勧められているのです。

奉仕の業に適した者

パウロが11節で語っている、いわゆる「教師=教える者」というのは、イエスさまが禁じられている「先生」とは違います。学問としての知識で聖書を学ぶ「神学」での教育ではなく、御言葉を通して神から学ぶ「神学」、すなわち、キリストに真似る・キリストに倣う者としての信仰の歩みが「聖なる者たちの務め」です。そのような聖なる者たち、すなわち、奉仕の業に適した者たちがキリストに倣う姿を通して、新たにキリストに倣う者が興され、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで教会は成長するのです。

ならうべき土台

では、キリストに倣う者、そして何より、イエスさま御自身の「何」に私たちは倣うのでしょうか?イエスさまや「聖なる者」とされる先人クリスチャンが「何をしたのか」という点に目を向けると、多くの場合、的外れな方向へと信仰はズレて行きます。「何をしたのか」という「行動」は、時代や状況、それぞれの個性によって変わるものです。イエスさまのように40日間の断食をするとか、奇跡を行うとか、鞭打たれるとか、マザーテレサのように虐げられた人々に寄り添うとか、キング牧師のように神の公義を世に告げるとか、そうした行動を「真似る」のでは無いのです。倣うべき土台、それは「初めの愛」に結ばれ続けることです。神に愛された者であるがゆえに神を愛する者として歩む姿勢こそ、倣うべき土台なのです。「何を成すのか・成したのか」という行為・行動を真似るのではなく、その行為・行動の原理・土台である「神の愛に根差す」ことこそが、成長するための土台なのです。

土台を失った教会

黙示録2章4節を読むと、エフェソ教会が「初めの愛」から離れてしまった事を知ります。イエスさまが示された真似るべき・倣うべき「神との愛の交わり」から離れてしまった結果、神に祝福される成長を失ってしまった姿です。信仰者・教会が常に土台とすべき真理は、神が御子キリストを通してあらわされた「神との愛の交わりに結ばれること」以外には無いのです。

神の愛こそが成長の土台

今、私たちは受難節の歩みの中にあります。イエス様が十字架に歩まれた事を想起し、記念する期間です。それがなんのためであったのか、なぜ、そのような苦しみを受けられなければならなかったのかを思い出しましょう。初めの愛に立ち帰り、悔い改めと感謝をもって、主の十字架の御後を歩みましょう。私達一人一人が主の愛を土台・基礎として固め、日々、初めの愛に立ち帰って歩み出す時、私達に与えられている全ての交わりは、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、神の愛の内に建てられていくのです。

 

『イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません』1コリントの信徒への手紙3章11節