3/25 「導きの光」 ヨハネ 12章27~36節                  川内活也牧師

1、弱きキリスト

 イエスさまは「神」であるから痛みも悲しみも苦しみも感じないのでしょうか?違います。イザヤ53章で預言されていたように「人」が負うべき「苦難」を負われ、肉の支配が持つ「恐怖」とも向き合われました。私たちのもつ弱さ・恐れをも知る存在として御子は世に現わされたのです。

2、約束の証拠となるために

 人生の中で襲い来る「弱さ・恐れ」の瞬間は確かにあります。しかし、御言葉は「人はそれに負けて滅びるしかない存在」ではないと教えます。「弱き者」である人間が神の栄光の内に「信仰」によって圧倒的な勝利者とされる事を教えられるために、その証拠としての奇跡を表すためにイエスさまは十字架の道へと歩み続けられたのです。

3、死からいのちへ

 罪から来る報酬は死です。しかし、神さまとの断絶によって闇の中で死と滅びに向かう存在として歩む人類に「まことのいのち・まことの光」をもって導くために「光」であるイエスさまは世に来られました。この約束を信じる者に与えられる報酬は主キリスト・イエスにある永遠のいのちなのです(ローマ6:23)。

4、光をもつものは

 先が見えない闇は恐怖です。しかし導きの光に照らされる時、闇の中で恐怖に感じていた周囲のものさえ、むしろ喜びと楽しみとして目に映ります。信仰によって日々の歩みが「先の見えない闇」から「主と共に歩む豊かな旅路」と変えられた多くの信仰の先人たちの証しによっても、私たちは慰めと励ましを受けています(三浦綾子さん・星野富弘さん・ファニークロスビーさんetc)

5、導きの光の内に歩み出す

 イエスさまは御自身が「よみがえりでありいのちである」と約束されました。ヨハネの福音書冒頭では「全てを照らすまことの光」であるとも証言されています。罪の支配による闇の中で死と滅びへと向かって歩む人類に、神御自身が人の弱さを担い・罪の代価となって十字架へと歩まれたのは、その犠牲を払っても惜しくないほどに私たちを愛されているからです。この愛ゆえの約束が私たちの旅路を照らす「まことの光」として与えられたのです。この約束の光によって導かれつつ、新たなる一週、新しい年度へと歩み出しましょう!

 

 

3/18 「約束を信じて」 ローマ 3章21~26節                  川内活也牧師

1、三位一体なる神

父・御子・聖霊という三位にして完全な一体である主なる神さま。それは完全な交わり=すなわち「愛」である存在を表します(Ⅰヨハ4:)

2、御子キリストの降誕

完全な交わりに結ばれている三位一体なる神さまが文字通り「その身を裂いて」御子を世に降されました。それがクリスマスの出来事です。

3、キリストの降誕の理由

23~25節では聖書の福音の要約とも言える「キリストの降誕の理由」が語られています。それはすなわち「罪(=神との断絶)によって死と滅びへ歩む全ての人類を贖うため、世の罪を償う犠牲の供え物としてのいのちとなるために罪なき方が罪の罰を受けられるため、死に対していのちを支払うため」です。

4、神の愛により生まれた人間

なぜ神御自身がその身を裂いていのちの代価となる道を選ばれたのか?それは人を御自身の「愛する我が子」として生み出されたからに他なりません。創世記に見る創造の秩序から、イスラエルを「長子の型」として導く姿から、聖書全体を通して知らされている事実は「人は神の愛によって生み出された存在、神との交わりの内に永遠のいのちの喜びをもって歩む存在」として生きるために生まれたのです。

5、我が子であるからこそ全てを捨てて

 人は偶然に生まれて意味も無く生き、やがて死んで終わる存在ではなく、神さまのいのちを受けて生み出された「愛」の存在です。その「愛」に結ばれている存在、我が子であるからこそ神さまは交わりから断ち切られて死と滅びへと歩む人間を捨てることなく、交わりの回復のために、御自身の身をもって救いの道を与えられたのです。

6、約束を信じて

 信じる信仰こそが私たちを神さまとの交わりに結び合わせる力です。愛されている事を信じるか・信じないか、これは人の手によって与えることも奪う事も出来ないものです。キリストの十字架と死、復活によって約束されている神さまの愛の招きを信じるとき、不義は取り去られ義とされたいのちの道を歩み出すのです。

 

 

3/11 「まことの王」 マタイ 2章1~12節                  川内活也牧師

1、三人の博士?

クリスマスの降誕劇や讃美歌などでは『三人の博士』が登場します。実際には「東方からの複数の博士(占星術者)(1,2)です。「私たち」という複数形である事と持参したお祝いの品が「黄金・乳香・没薬」という3つの宝であったことからいつの間にか「三人」と語られるようになったようです。

2、3つの宝をささげ

黄金・乳香・没薬はそれぞれ当時の高価な宝ものです。しかし、その用途や性質を考えると、これはまさに「メシア」への献げもの、預言的信仰告白であると考えられます。

3、黄金・乳香・没薬

「黄金」は王位の象徴です。主の主、王の王への「国と力と栄えは限りなく汝のものなればなり」という信仰告白です。「乳香」は祈りや礼拝の象徴です。唯一のまことの神であるという信仰告白です。そして「没薬」。これは<死>の象徴です。しかし不吉なものではなく「防腐剤=死の汚れを清めて永遠の命を象徴」するものです。世の罪をその身に負われ十字架の死へと明け渡され、その死によって永遠のいのちへの道を備えられたイエスさまへ献げられる信仰告白です。

『主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです』 Ⅰテサロニケ5:10

4、主と共に生きる

やがて来る「死」という終末の事実と今「生きている」という現実の事実。その現実のただ中に生きる私たちは王の王・主の主・唯一の神・永遠のいのちである主と共に生き歩むため、イエスさまが十字架の死によって私たちを罪から贖い出して下さったのです。受難節の新しいこの一週、キリストのいのちに与る者として「明日のために草を抜き・百年後のために木を植える」いのちの日々を歩み出しましょう!

 

 

3/4 「改め新たに」 第二 コリント 7章5~13節                  川内活也牧師

 1、受難節(レント・四旬節)

クリスマス(降誕記念日)前4週間をアドベント(待降節)として過ごすように、イエスさまの十字架の苦難と死・復活というキリスト教信仰の基幹である出来事を覚え、今年は4月1日のイースター(復活記念日)を前に2月14日から「受難節」が始まりました。

2、灰の水曜日

イースター前の日曜日を除く40日間が受難節です。イースターは毎年日付が変わりますが曜日は変わりませんので受難節の開始も水曜日です(うるう年は直近の水曜日)。教会暦では「灰の水曜日」と呼ばれ、カトリック教会などでは特製の灰を頭部に付けたりもします。

3、象徴的な「灰」

受難節の始まりに「灰」を用いるのは、①人は地の塵から造られたゆえにやがて地の塵に帰る存在という「生と死の認識」、②罪の悔い改めや切実な祈り(マタイ11:21)、③死の汚れからのきよめ(民数19:17)などの象徴的な意味があります。

4、パフォーマンスで無く

この期間をそうした意味を考えつつ断食や粗食・非快楽期間・隣人愛の実践として過ごす人々もいます。しかしそれが習慣やパフォーマンス、「行事」であれば無意味どころか有害なものです。人や神に「見せる」ための犠牲を神さまは退けられるのです(アモス5:21)

5、悔いて改める

悔い改めの「演技」は以ての外ですが、後悔や反省だけに留まって自責の念に苦しむこともまた神の御旨に反するものです。神の招きは人の罪を示して責め立てるものではなく「悔い改めて生きよ」(エゼキエル18:32)です。コリントの教会のメンバーが「悲しんで悔い改めた(9)」ことをパウロは喜び、この手紙を送りました。

6、改め新たに

罪の示しに対して、私たちは言い訳や弁明・後悔や反省ではなく「悔い改めて生きよ」と招かれています。招いて下さっている方は十字架の購いの死によって罪の赦しを与えられた主なる神さまです。神さまはなぜ御子キリストの十字架による購いを世に与えられたのか、その意味を深く想起しましょう。パフォーマンスでなく、心から主の御前に悔い改めをもって歩み出す時、私たちは罪の死より解放された新たないのちの内に歩み出す者とされるのです。

 

2/25「 借りぐらしのわたしたち」 コリントの信徒への手紙二 6章1~10節                  川内裕子牧師

 年度末を前に、今年度の帯広教会のテーマ「応答・捧げる」について聖書から聴いていきます。今年度の主題聖句エフェソ41節は「主に結ばれて囚人となっているわたし…」と始まります。これは今日の聖書箇所61節の「神の協力者」と同じ意味ですし、その内実は直前の「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしている」(Ⅱコリ520)ということになるでしょう。パウロは人々に、神の協力者として、キリストの福音を伝える働きをするよう勧めています。そして物事を始めるのに、私たちはきりの良い時を求めがちですが、パウロは自身の経験したあらゆる時を列挙して、今が良い時だよ、と勧めます。自分にとって時宜が悪そうな時も、神さまにとっては良い時だと言うのです。

さて、今日の聖書の箇所の最後に「無一物のようで、すべてのものを所有しています」とあります。旅をしながらのパウロが「全てを所有する」ということはあり得そうもないことですが、これは何を示しているでしょうか。『借りぐらしのアリエッティ』という日本のアニメは(原作:メアリー・ノートン()『床下の小人たち』)、人間から生活に必要な物を「借りて」生活する小人たちの話です。振り返ってみると、私たちも「借りぐらし」といえます。イスラエルの民は、カナンに定着する際、自分たちが住む土地を、神さまの所有物を嗣業として頂きました。土地は神の所有。人はそれを貸して頂いているので、代々相続してゆきます。土地は神のもの、と考えれば、民自身は持っていないと言えますし、その土地を民が委ねられている、と考えれば、民は持っているということができます。「嗣業」は本来は「賜物」の意です。「嗣業」の考えを敷衍させると、私たちの体も人生も神からの賜物、嗣業と言えます。私たちは自らに委ねられているものを良く管理するようにと神から与えられています。全ては神のものですから、私たちは持っていないとも言えますし、神から委ねられているので、全てを持っているということもできます。私たちは神の物を借りて自分の生活を生きている「借りぐらし」なのです。

今日の午後は新しい年度について話し合う計画総会を予定しています。教会の働きも、わたしたちひとり一人の働きも、神の嗣業として委ねられているものです。「キリストの使者の務めを果たす」ために、「神の協力者」となるために、神の計画に耳を傾け、祈りつつ求めてゆきましょう。

2/18「 手ぐすねひいて」 マラキ書3章6~12節                  川内裕子牧師

 今年度も終わりに近づき、今日は今年度の年間テーマ「応答・捧げる」についてみことばから振り返ってみましょう。マラキ書は、バビロン捕囚からエルサレムに帰還し、神殿再建をするも、劇的に自分たちの生活が変わるわけではないという現状の中で、神殿での礼拝が求心力を失っていく。そんな中で主のもとに立ち帰るようにと語られた預言です。今日の聖書の箇所からも民の生活はイナゴの害や(11)干ばつ(10)により、大変苦しいものだったと想像されます。そのようなかつかつの生活の中で、心も体も信仰も主に向かっていかない民に対して、主は「帰っておいで!」と語ります。

 わたしたちは気の向かないことに対して、できない言い訳を山ほどするでしょう。立ち帰りを求める主に対して、民はどうすれば帰れるか、わたしたちがどうやって主を偽っているというのか、と言い訳のような問答を繰り返します。そんな民に対して、あなたたちの捧げものによって、あなたたちの偽りはわかるよと主は言われます。十分の一の捧げ物と献納物、つまり頂いたものを主からのものとして感謝して捧げているかということを問われます。土地からの収穫物の十分の一とは、他者がはかり見極めることはできません。神と自分との間において、主の恵みを心から感謝して聖別してささげているかと問われているのです。

 主はまず感謝を携え持ち、帰ってくることでわたしを試せ、と言われます。民が勝手に主を試みた、という箇所はいくつもありますが、ここでは主が「わたしを試してみよ」と民を誘うのです。この「試す」の語には「証明する」という意味があります。主は民に対して、「わたしにあなたたちを祝福する機会を与えよ、わたしに証明する機会を与えてみよ」と招いているのです。民が主のもとに向き直り、立ち帰らないことには祝福を注ぐことができない、主は民を祝福することを手ぐすねひいて待っておられるのです。

 一年を過ごしてきて、私たちが、帯広教会がどんなに主の祝福を受けてきたか、恵みの棚卸しをする時期ではないでしょうか。独り子イエス様さえ与えてくださった主の愛に応えて、感謝を携え主のもとに集いましょう。

2/11  確かに、必ず  詩編46編 川内裕子牧師

 マルティン・ルターの賛美歌『神はわがやぐら』(新生538)は、詩編46編をもとに作られ、長らく宗教改革記念日を象徴する賛美歌として、信仰の戦い、勝利の歌として歌われてきました。しかし現在は神の慰めの歌と捉えられ、受難節の賛美歌としての位置付けです。これは、第二次世界大戦中、ナチスドイツの進軍の旗印として用いられ、「神の国」ではなく「地上の自分たちの帝国」が実現するようにという求めをこの賛美歌に重ね合わせたことへの悔い改めからきています。

 

戦争をはじめとして、苦難や危機の時に助けてくれる力を求める私たちです。今日の詩編は危機の中で、主が守りとなると歌います。詩編の組み立てを見ると、2~4節は、神の天地創造以前を表すような混沌の中にあっても主が守られると、5~8節では、エルサレムがイスラエルのみならず、世界の救いとなると言い、9~12節では世界中の戦いにおいて、神が世の戦力を放棄させられると歌われます。詩編全体を通して、被造世界においても、地上の人の営みの歴史においても発揮される神の主権が歌われます。人は危機にあるときに力を求めます。それは人間の自然なあり方ですが、「何」に力を求めてゆくかが大切です。詩編の繰り返される応唱は、神こそ力のよりどころであると示しています。

 

今日はカレンダーには「建国記念の日」と書かれています。けれどそもそも「紀元節」として天皇制に起源をおくこの日を、キリスト教会では「信教の自由を守る日」とあえて言います。特にバプテスト教会は政治が個人の信仰に介入することを退ける「政教分離の原則」を大切にしています。私たちキリスト教会は政治権力により信仰の弾圧をうけたことも、逆に政治権力に与して戦争に加担した歴史もありました。このことを踏まえ、この日、自分の信仰を自覚的に捉えなおすことは大切なことです。ともすると地上の分かりやすい力に頼ることを求める私たち。けれども今日の箇所8、12節に繰り返される応唱のように、主が私たちと共におられ、主が私たちを守ってくださるという信頼に私たちは立ちます。

神がなぜ砦たり得るのかというと、神が力をふるって他を制圧するのではなく、その武力を無力化していくからです(10)。地上の力を頼りとする時、それに対立する力を産み出します。神はそうではなく、敵を敵とせず、手を結ぼうとするのです。11節は口語訳では「静まってわたしこそ神であることを知れ」と訳されます。この詩編が詠まれたのは、暗い、危機的な状況だと想像されます。だからこそ、主の前に静まることが求められていくのです。私たち自身はふるえ、揺らいでいても、神は揺るがない。それを砦とするのです。受難節を迎えようとするこのときに、神はイエスを通してどのように救ってくださったかと思いめぐらし、「確かに、必ず」ある主の救い、神への信頼の中で、主にある平和を歩みましょう。

 

2/4 わたしたちの住みか マタイ5:1-12 川内裕子牧師

 今日はしばらく読んできた「幸いリスト」の最後です。10節「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」から恵みを頂きます。

 

 「迫害を受けること」は「幸い」とは考えにくいのですが、イエスは「幸い」と言われます。「義」は6節で読んだように、神の正しさ、聖さ(きよさ)を表します。「義のために迫害される」とは、神の義しさ(ただしさ)を支持し、神の側に立つことで迫害を受けるということです。神の義に従うことは、えてして地上の権力に抗うこととなります。旧約聖書の預言者にしろ、イエスにしろ、パウロにしろ迫害を受けてきました。パウロに至っては初めは迫害する側であった者が、イエスの福音を伝えるために迫害をも喜ぶ者に変えられました。人の生き方が180度変わるほど、イエスの福音には力があるのです。

 

 イエスが生まれた時、ヘロデが自分の地位を揺るがされたと恐れたように、多くの世の力は、自分の権力を守るために神の義に立つものを迫害します。しかし、小さな命としてこの世に来て下さったイエスは、私たちを小さな命を大切にした神の義に立つようにと私たちを誘います。迫害を受けることには、痛みや恐れがあるかもしれません。しかし、イエスはその道に歩むことは幸いであるといいます。「天の国はその人たちのものである」というのです。これは「幸いリスト」の最初3節と同じです。「天の国はそのような人々の住みかだよ、神さまの支配、神さまの守りの中にあるよ」というのです。私たちが神さまの正しさにつながって歩むなら、迫害の中にあっても、神の守りの中に入れられている、と聖書は語ります。

 先週から「屋内広場」という取り組みを始めました。地域の方々が、この会堂でホッとする時をもって頂きたいと始めたプログラムです。おいでになった方が、温かい飲み物を飲んでくつろいで行かれました。私たちは、この教会は渇くことのない生命の水を証ししている場所だとお伝えしていきたいと思います。集うお一人おひとりが、心からここはわが家だと集うことが出来る場所に教会がなっていきたいと願っています。私たちが神の聖さを実践するならば、教会を天の国として実現してゆくことが出来ます。私たちの歩みの一つ一つが、教会の出来事として実現していくのです。

 

 今日は主の晩餐式に与ります。主の晩餐式の中で祈りの時間をもちます。祈りの中で私たちは自分の罪を悔い改めます。これは神の方に向き直る、すなわち「神の義」に生きることの決断です。また、イエスの再臨を待望します。これは天の国は私の住みかだと宣言することです。私たちは毎月そのことを祈り、心に刻んでいるのです。私たちは教会を天の国として体現する働きに召されています。

 

1/28 堅く立ち エペソコ 6:10-20 川内活也牧師

1、主に依り頼み

「強くなりなさい」というよりもここは「主に依り頼んで強められなさい」という勧めです。私たちは自分の肉の力によって真の意味で「強くなる」ことは出来ません。ただ主に依り頼むことによって主によって「強められる」のです。

2、霊的戦いに備えて

12節で私たちの戦いは「血肉に対してではなく霊的な戦い」であると語られています。血肉の戦いへの備えであれば肉体強化の筋トレや攻撃と防御のための武具を備える必要があります。パウロは軟禁状態の中で監視する兵士の姿を見ながら「霊的戦いへの備え」という勧めでエペソ書を結びました。

3、霊的武装…神の武具

「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音の履物」「信仰の盾」「救いの兜」という<防具>に「御言葉()の剣」という<武器>です。これらをもって「人」に対してではなく「霊的」な戦いへと立ち向かうのです。

4、装備は祈りによって

神の武具という装備は「祈り」の内に与えられるものです。その祈りは自分の願いのためだけでなく「聖なるものたちのために」祈られる<とりなしの祈り>です。祈りは霊的な呼吸であると表現されます。長時間呼吸を止めれば死んでしまうように、霊的呼吸が止まれば霊的な『死』の状態となるのです。祈りには「相手」がいます。私たちの祈りを聞いておられる主なる神さまとの交わりの証しが「祈り」です。主に依り頼む祈りの内に、私たちは主のよって「強められる」のです。

5、愛は完全な帯

 装備は紐で体に結び付けますが、神の武具も「完全な結びの帯」である愛によって身に付けるものです。神の武具は血肉の争いや兄弟姉妹を裁くための武具として用いる時、全てその力を失うのです。

6、堅く立つ群れとして

 

 主に呼び出された会衆である教会。新たに歩み出したこの一年、この一週を私たちは主に強められながら神の武具で身を包み、堅く立つ主の群れとして進み出しましょう!

 

1/21 時 コヘレト(伝道) 3:1-11 川内活也牧師

1、定まった「時」

1~10節で14の例を挙げて「何ごとにも定まった時期(ヘブライ語:ゼマーン)がある」と語られています。人の営みにおける「始め」には「終わり(結び)」があるというのは当たり前でありながら見落としてしまいがちです。

 

2、『運命論』では無い

さて、古今東西の「時」の認識には<運命論>を多く見かけます。「始め」には「終わり(結び)」があるという事実に対し、始まった時には既に終わりが定まっているという「運命論」。どんなにあがいても結局全ては成るようにしか成らない、いつか決まった終わりを迎えるという「運命論」。しかし、聖書が語る<時>はそのような運命論ではありません。

 

3、「時」を見る2つの視点

9節にあるように、私たちはある面で「運命論」的な真理を人生に見ます。しかし聖書はそうした「運命論」的な<時>とは違う視点を示します。たしかに『運命論』として人生を捉えることもできますが、そこにあるのは『あきらめ』です。達観した「悟り」のように、そのような「運命を受け入れる姿勢」を勧める人もいますが、それはあきらめという敗北です。聖書が示す「時」を見るもう一つの視点、それが主なる神との交わりに生きる目です。

 

4、神のなさることは全て時に適って美しい

11節は新改訳聖書で「神のなさることは全て時に適って美しい」と訳されます。天地創造の業において神は全てを「非常に良いもの」として造られました。私たちは「始まって終わる<だけ>の時」を生きるのではなく、非常に良いものとして育み・完成させて下さる「主の時」を歩むという信仰の目を開かれるのです。

 

5、主の結ばれる完成の日を見つめて

 世にある歩みにおいて私たちは日々、様々な営みを生きます。その手の業には「始め」があり「終わり」の時があります。御自身との永遠の交わりに結ぶ存在として神に生み出された者として、喜び・祈り・感謝の内に、主が<完成される日>を待ち望む信仰をもって歩みましょう。

 

1/14 復興の日 エゼキエル 37:1-14 川内活也牧師

1、エゼキエル書

古代イスラエルはソロモン王以降に南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂しました。やがて北イスラエル王国が他国に攻められ滅びた時、南ユダ王国の人々は「しかし自分達は大丈夫」という根拠のない安心の中に暮らし続けました。しかし「罪」を悔い改めることなく過ごした南ユダ王国もやがてバビロニア帝国により滅ぼされ、多くの人々が<捕囚>としてバビロニアへと連行されました。その捕らわれの地においてエゼキエルは預言者として立てられました。そしてイスラエルの滅びは「永遠の滅亡への裁き」ではなく「永遠の回復への裁き」であったことが知らされたのです。

2、枯れた骨が…

37章はエゼキエル書の中でも特に有名な預言です。圧倒的な死と滅びの象徴である谷間の中に散らばる無数の枯れた骨。命のかけらも感じられないその骨々が神さまの手によって組み合わされ・結び合わされ・血肉を生じさせ、最後に『息(霊・いのち)』を吹き入れられて復活する姿をエゼキエルは見せられました。それは人の手によっては回復は絶対に不可能と思えるものであっても「神にとって不可能は何一つない(ルカ1:37)」ことの証しです。

3、神の秩序の中で

この「回復の預言」から神の秩序を知らされます。私たちは様々な<死と滅びの状態>があっという間に解決する事を願うものです。一朝一夕に願う通りの結果を得たいと。しかし、中途半端な<復活>はかえって苦しみでしか無いのです。神の秩序の中で整えられ、時満ちて初めて「息」が吹き込まれ、ついに復興の日を迎えるのです。

マタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなた方を休ませて上げます」

真に立ち上がる力を与えてくださる「息」、それが復活のいのちであるイエスさまなのです。谷間の闇の中にある枯れた骨のような心も、キリストによって現された神の「愛」という命の息の中にある限り、必ず、完全なる復興の時を迎えるのです。

 

復興の日・復活の朝は必ず来ます。しかしそれがいつであるかを私たちは知りません。『主よあなたがご存じです』という信仰の内に私たちは主の秩序の中、やがてその復興の日が来るという約束を受け取って歩みましょう。その時、死と滅びの谷間にあって干からびた骨のような絶望の中にあっても、将来と希望のまことの光に照らされ、復興の日へと歩み続けるのです。

 

1/7 主の宮は建つ Ⅱ歴代誌 7:11-22 川内活也牧師

1、新しい年を迎え

2017年というページがめくられ新しい年を歩み始めました。この年に主なる神様がどのように導かれるのかを期待しつつ共に歩みましょう。

2、ダビデ王の願い

古代イスラエルの第二代王であるダビデは主なる神様を心から慕い求める信仰者でした。彼は自分とイスラエルを導かれる主への感謝を表すために「神の宮(神殿)を建て上げたい」と願い続けましたが、その働きは彼ではなく息子である第三代王ソロモンの時代まで実現しませんでした。

3、ソロモン王の神殿奉献

時満ちてついにソロモン王の時代にエルサレムに神殿が建て上げられました。この箇所はその「奉献の日」の夜、主なる神がソロモンに顕現して語られた約束の言葉です。

4、主の約束

神は「神殿」という建物自体ではなくその奉献の思いを祝福されました。それは様々な「悪」の中にイスラエルが苦しむ時、この奉献の日を思い出して主に立ち返り「悔い改め」るなら主はいやしと回復を与えるという約束です。それは同時に主から離れたままではいやしと回復を得る事は出来ないという真理を知らせるものでした。

5、主の宮なるクリスチャン

クリスチャンは「神の神殿」です(Ⅰコリント6:19)。エルサレム神殿は歴史の中で崩れましたが私たち一人一人が今日の『主の宮』として建てられています。神が『このところを選んだ』(Ⅱ歴7:12)と言われます。その器が素晴らしいかどうかではなく、主を慕い求める<奉献の信仰>によって祝福すると約束されているのです。

6、主の宮として建てられる

 

預言者ハバククは主なる神の力強い御業を「この年のうちに示して下さい(3:2)」と祈りました(新共同訳では「数年のうちに」と翻訳)。新たに開かれたこの年の私たちの歩みが「主の宮」として祝福を受けて建てられる約束を信じ、主の御前にへりくだり、感謝と悔い改めの内に主に結ばれ続ける一日一日となることを求めつつ歩み続けましょう!

 

12/31 福音を産み出す教会 ヨハネ黙示録12:1-13:1 西島啓喜執事

多くの恵みが与えられた一年ですが、とりわけ川内裕子牧師・川内活也牧師の就任が一番の出来事でした。一方で大変残念な悲しい出来事が起こりました。代表執事のSさんが天に召されたことです。教会の大きな柱を失った感じがします。もう一つ、今年は宗教改革500年の記念すべき年でした。15171031日張り出された「95の提言」が宗教改革の始まりとされています。宗教改革とは一言でいうと『聖書を読む運動だった』と言われます。ルターは聖書を丹念に読んで福音を再発見します。ルター訳のドイツ語新約聖書は飛ぶように売れました。皆が聖書に飢えていたのです。帯広教会も聖書(み言葉)を大切に歩んでいます。

今日の個所で、ヨハネは「一人の女と竜」の幻を見ます。女は全宇宙の光で身を覆われ、今まさに子供を生み出そうとしています。それに対して悪魔とかサタンとか呼ばれる竜は怒りに満ち10本の角で威嚇し生れる子供を殺そうとします。この女は「イエスの母マリア」とも「キリストの教会」ととることもできます。教会の祈りによって信仰の子供たち・福音が生み出され育てられていきます。しかし教会が福音を伝えようとすると大きな困難や迫害が起こります。

 天では天使ミカエルと竜が闘い、竜は破れ地上に投げ落とされ、勝利の賛美が響き渡ります。竜は海辺に立ち、海から上がってくる獣(かつてのローマ皇帝たちやヒットラーのような地上の権力者たち)によって信仰者と戦おうとします。今日、日本ではそのような形での迫害や弾圧はありません。しかし教会が子供(福音)を産みだそうとするときは巧妙な形で阻害されているように感じます。多くの教会が困難を抱え閉鎖を余儀なくされています。真綿で首を絞めるような形で教会を窒息させようとする力が働いているように感じます。教会は外部からの迫害に対しては強いが内部からの問題によっては崩れやすいと言われます。ルターは自説の撤回を迫られた時「我、ここ(聖書)に立つ!」と言って拒否しました。ボンフェッファーも「本当のプロテスタントは自らにプロテストし、自らを改革するのでなければならない」と言います。帯広教会も多くの恵みに安住することなく、いつも聖書に立ち淡々と「福音を産み出す」働きに仕えて行きたいと思います。

 

12/24 クリスマス礼拝 「平和を創る」マタイ5:1-12 川内裕子牧師

 クリスマスおめでとうございます。今日はずっと読んできているマタイ福音書5章から、クリスマスの恵みを頂きたいと思います。幸せリストの7番目、9節「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」に焦点をあてましょう。

平和を実現する者は、神の子と呼ばれる、とイエス様は言われましたが、イエス様こそ神の子としてこの世においで下さったのでした。その神の子であるイエス様が実現した平和はどんな平和だったのでしょう。

 

 イエス様は「平和の君」(イザヤ9:5)と預言されていました。権力や財力、力でもって弱いものを制してゆく歩みとは対極に生きてくださったのがイエス様です。きらびやかな王宮ではなく、何もかも不足する家畜の住むスペースにお生まれになり、まぐさを入れる飼い葉おけに寝かされました。人の手を100パーセント借りなければ生きていけない赤子の姿で、神さまは平和を現わされました。そして病むものや貧しいもの、痛めつけられている人達と共に歩んでくださり、慰め励まし、十字架の道に進んでゆかれ、私たちの罪の贖いとなってくださったのです。イエス様の体現された平和はそのように下から支える平和でした。

 

 その平和の君であるイエス様ご自身が、平和を実現する者は神の子と呼ばれる、と私たちに言ってくださいます。私たちはイエス様に倣い、神の平和の働きを担う時に、神の子ども、神の相続人とされるのです。神の子とされる招きは、全ての人に差し出されています。けれどもそれを自分に対しての神からのプレゼントだと思って受け取らないと、その招きを「自分が」受け取ったことにはなりません。今日は一人の姉妹が信仰告白をし、バプテスマを受けました。幼い時から知っていた神を、自分自身の救い主として受け入れ、ともに歩む決意をしたのです。なんと嬉しいことではないでしょうか。

 

 イエス様の創られた平和は、痛みがあり、困難な道を歩むものでした。平和を創ることは私たちにさまざまなチャレンジをもたらします。それでも私たちはイエス様が「幸い」と言ってくださった平和を創る道を歩み、神の子として神の働きを担う者とされてゆきましょう。

 

12/17第3アドベント  ≪神を見る≫  マタイ5:1-12 川内裕子牧師

 今日は「幸いリスト」の6番目、8節「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」を共に読んでいきます。

 

 「心が清い人」とは、どんな人だと思いますか?優しくて、思いやりがあって、信仰深くて、悪いことを何もしないような人?よく、教会に行ったことのない人から、自分は教会に行けるような立派な人ではないから…など言われることがあります。そのような方々と対話をしていると、クリスチャンや、教会に行っている人たちは「清らかな」人たちと思われているのだな、と感じます。

 

 今日の箇所でイエス様が言う「清さ」という言葉は、「聖別」などと読み替えることも出来る言葉です。「聖」である方は神であり、「清さ」は「主なる神に向かうこと」でした。そして、当時の「聖さ(きよさ)」は、神殿と分かちがたく結びついていました。律法を守り、神殿に行き決められた捧げものをして…という人たちが、神の聖さに近付いている人々とされていたのです。けれども、イエス様は「そのような聖さ」とは遠く離れて生きている群衆たち、弟子たちに向かって「心の清い人々は幸いだ」と言われました。マルコによる福音書7章には清めの決まりを守らない弟子たちを非難するファリサイ派の人々や律法学者たちに対して、イエスさまはあなたたちこそ口先で神を敬い、心は神から離れていると反論しています。私たちは、自分自身の心が神と向かい合っているかどうかを問われているのです。

 

 先日沖縄普天間基地近くの保育園と小学校に相次いで米軍ヘリからの落下物があったという事故の報道を見て、私は前任地のことを思い出しました。前任地では学童保育の責任者として100名ほどの小学生をお預かりしていましたが、川内原発から直線距離で12キロほどしか離れていません。もし重大事故が起こったら、子ども達の命を守ることについてなすすべがないことをいつも痛感していました。安全について適切な手段を取ることを国・県・市に求める事が難しく複雑な影響を与える土地にあって、でも、子ども達の命を守る側に身を置こう、それが神に向き合い、神に軸足を置くことだと考えました。

 

 イエス様は心が神に向かい合っているものは「神を見る」、と言われます。神を見るとは、神を体験すること、神を認識することです。心から神に向き合うとき、そこから紡ぎだされる言葉、行いは神の清さを体験するものとなります。

 アドベントの時、私たちの暗闇に光を差し込んでくださった主を待ち望み、真実の悔い改めをもって主なる神に向って歩みましょう。

 

12/10 第2アドベント 「あなたの隣」マタイ5:1-12  川内裕子牧師

 アドベントの第2週を迎えました。救い主の降誕の時を「どのように」待つのか、今日はマタイによる福音書5章7節「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」から恵みを頂きます。

「憐れみ深い人々」とは、何か必要のある人に対して、同情し、必要を与えていく人々のことです。私たち家族は今年の春九州から北海道に引っ越して来るにあたり、こちらの生活で必要なものをたくさんいただきました。憐れみを受けることは何ともありがたいことです。さて、人が最も必要としているものは、罪の赦しではないかと私は考えています。あなたの存在がそこにあることをゆるされ、愛されていることを実感することで、人はどんな時でも、どんな状況でも、平安のうちに生きていくことができるのではないでしょうか。しかし、「罪の赦し」を私たち人間が相手に与えることはできません。「罪」とはすなわち、「神から離れて生きていること」ですから、それを引き戻し、赦しを与えるのは神のなさることだからです。

私たちに出来ることは、その罪ある存在である隣人を受け入れることです。そのためには、私たち自身が、まず神によって罪ある者でありながら愛され、受け入れられ、神の憐れみが(それを要求する資格がないにも関わらず)与えられたのだということを知ることが大切です。今日の「憐れみ深い」という形容詞は、新約聖書ではこのほかにヘブライ人への手紙2:17に用いられています。そこで書かれていることは、イエス様が憐れみ深い大祭司として私たちの罪をあがなうためにおいで下さったということです。私たちはまず神から憐れんで頂きました。その憐れみを受け、赦されている者として生きる時、私たちは隣人の受け入れがたい側面をも受け入れてゆくことができるのではないでしょうか。自分自身が神から受けたと同じ憐れみが、自分の隣人にも注がれているのです。

ご自身を引き裂いてイエス様としてこの世に降ってくださった神の憐れみを受け、私たちは自分が赦され、愛されている存在であることをかみしめましょう。

 

あなたの隣には誰がいますか。歩み寄り、手をつなぐことができますように。

 

12/3 待降節1「満ち足りて」マタイ5:1-12 川内裕子牧師

 待降節(アドベント)に入り、今日は第1アドベントの礼拝です。「アドベント」とは、ラテン語の「到来」という言葉から派生している言葉です。日本語では「待降節」といい、これは「降(くだ)るのを待つ時」の意です。この期間、私たちは「救い主イエスさまが私たちのもとに訪れ、降って来られるのを待つ時」なのです。アドベントと同根の言葉にアドベンチャー(冒険)がありますが、このことを考え合わせると、主の訪れを待つことは、じっと一点にとどまりただただ待つことととは違い、一歩踏み出して冒険することとつながっていくと考えられます。

さて、神が人となってこの世に来られ、世を救われるということは、神さまにとっても大きな冒険だったのではないでしょうか。10月から読み始めている「幸せのリスト」からそのことを考えてゆきましょう。今日は6節、4つ目の幸い、「義に飢え渇く人々は幸いである その人たちは満たされる」とイエス様は語られたところからです。「義」と聞くと、「正義」とか「義(ただ)しさ」とかの言葉が頭に浮かびます。「義に飢え渇く」とは、正しさが行われていない世の中にあって、正しさが実現することを待ち望むことでしょう。では「義」とは、「正しさ」とは何でしょうか。私達にはそれぞれいろんな「正しさ」があります。その「正しさ」ゆえに争ったり、人を裁いたりすることもあります。ですからここで「義」と言う時、その中身を吟味することが大切です。

聖書の語る「義」は、「神の正しさ」です。神の正しさは、イエスさまが泊まる場所もないところに、ここが神の場所、と来てくださったことに象徴的にあらわれています。イザヤ書には主の僕の詩と言われる救い主の預言が記されています。救い主としておいでになったイエス様はまさにその詩に歌われるように私たちの罪のために苦しみを負われました。それによって私たちの罪は贖われたのです。神さまの正しさはそのように底から、じわじわとしみとおるように私たちを支えるものです。イエス様との出会いによって一人ひとりが救われ、変えられてゆく、そんな方法を神は取って神の義を実現したのです。主イエスに向き直り、神の正しさの実現を待つ。そのために半歩、一歩と歩みを進めること。私たちは主の正しさを味わい、満ち足りるでしょう。

 

11/26 いのちを得させるために ヨハネ6:41~51 川内活也牧師

 

1、待降節前週

教会歴では来週から「アドベント(待降節)」になります。日本では『クリスマス<商戦>シーズン』ですが、私たちはクリスマスの意味を知るクリスチャンとして、この時を大切に過ごしたいと思います。

2、メリークリスマス!は誰に?

クリスマスの有名な挨拶は「メリークリスマス!」ですが、これはイエスさまに「お誕生日おめでとう!」と言うお祝いの言葉ではありません。これは「あなたのために、私のために救い主がお生まれになって下さいました!一緒に喜びましょう!」という意味をもつ言葉です。

3、メシア預言

 イスラエルでは聖書(旧約)の約束である「メシア」を待ち望んでいました(エレ23:5,6・イザヤ11・詩編22他参)。それは自分達(イスラエル民族)を他国の圧政から解放し、世界の頂点に立つという「御利益信仰的救世主待望思想」になっていましたが、聖書が約束する「メシア」はそのような<現世御利益>ではなく、根源的な「罪」からの解放・神との交わりの回復を得させるものです。「メシア(ヘブライ語)・キリスト(ギリシャ語)」はどちらも「主に油注がれた者・救う者」という意味ですが、その<救い>は「現世御利益」ではなく「永遠の救い=神との交わりの回復」なのです。

4、福音の中心

 古今東西<現世御利益>を求めるのは人間の性です。しかし聖書はそうした<現世御利益=地と共に滅びるもの/ひと時の空腹を満たすパン>ではなく「永遠に変わらないもの」に目を向けさせる神の招きの『声』です(マルコ8:36・マタイ6:21・ルカ21:33他参)。神の創造の御業と人の誕生・神からの離反と罪による死と滅びの縄目。<現世御利益>という目の前のひと時の<救い>ではなく、永遠に変わる事のない神の救いを得させるために立てられた「主に油注がれたもの=キリスト・メシア」が世に与えられたのです。

5、主への感謝をもって

 クリスマスは神が私達()を愛する者として見ておられるという真実が歴史の中に現わされた奇跡の出来事です。完全なる交わりである三位一体の神がその身を引き裂いても惜しむことなく、十字架の贖いのためにいのちを世に与えられたこの記念の時を、今年もまた感謝の内に覚えて過ごし、また、その恵みを隣人へと伝えて歩みましょう。

 

11/19 主に遣わされて イザヤ6:1~8 川内活也牧師

 

1、世界バプテスト祈祷週間

1873年に32才で中国伝道の宣教使命を受けたロティー・ムーン(1840-1912)の中国伝道を支えるため米国南部バプテスト女性たちの起こした『ロティー・ムーン・クリスマス献金』の思いを受けつぎ、日本バプテスト連盟でも女性連合が主体となって世界宣教の働きを支える活動が行われています。

2、世界宣教

イエスさまの『大宣教命令』(マルコ16:15)に従って初代教会以降、約束の福音を<全世界>に告げ広めるという福音宣教の使命に、使徒達をはじめ多くの信仰者がその生涯をささげて歩んで来ました。

3、ドミネ クオ バディス

 昔の映画のタイトルにもなった『クオバディス』はラテン語で「何処へ?」という意味です。カトリック伝承ですが、激しい迫害が始まったローマからペテロが逃げ出そうと街道を下っていた時、自分とすれ違うようにローマに向かって歩むイエスさまと出会いました。ペテロが「ドミネ クオ バディス(主よ、どこへ行かれるのですか?)」と聞くと「あそこにはまだわたしの愛する子らが残っている。あなたが去るのであれば、わたしが行き、再び十字架を担おう」と答えました。ペテロは主からの使命を忘れて保身に生き延びようとしていた自分を恥じて向きを変え、ローマに戻って殉教の日まで福音を宣べ伝えました。

4、献身

 信仰の原体験は「神・罪・救い」です。唯一の主なる神・神との断絶による死と滅び・主御自身が犠牲となった贖罪による救い(いのちへの回復)。これ無くして信仰は成り立たず、真理の福音に生きる事はありません。この原体験によって真理の福音を知ったからこそ「われ活くるに非ず、キリストわが内に在りて活くる也(ガラテヤ2:20)」という告白が生まれ、その受けた恵みを知るからこそ献身の信仰生活の内に歩むのです。

5、遣わされる<世界>

 <世界>は地理的な意味に限定されるものではありません。私達の営む生活の全領域が「主に遣わされている世界」です。「神の愛する子ら」が神を知らずに歩んでいるその<世界>に私たちは遣わされているのです。家庭に職場に学校に地域に、その<全世界>に主は「誰を遣わそうか」と問いかけられているのです。

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」イザヤ 6: 8  

 

 

11/12 教会の使命 コロサイ1:24-29 川内活也牧師

 

1、連盟結成70年

今週、連盟結成70周年記念総会が行われます。戦前の国策として全てのプロテスタント教会は『日本基督教団』として1教団に合同されましたが、戦後の1947年4月に元バプテスト西部組合の教会を中心とする16教会が「全日本にキリストの光を」のスローガンを掲げて『日本バプテスト連盟』を結成しました。

2、帯広教会宣教開始54周年

「全日本にキリストの光を」との使命に立つ協力伝道の中、1963年には斎藤正人牧師が帯広に遣わされ、帯広バプテスト・キリスト教会が誕生し今年で54周年を迎えました。

3、教会の誕生以来の使命

「全日本にキリストの光を」。全ての「キリスト教会」の存在意義・宣教は<福音を宣べ伝える>という1点にあります。これこそが唯一<教会の使命・教会だけが成し得る働き>です。

4、手段であって目的ではない

 「神の御言葉を余すところなく伝える」という使命・目的を果たすために、パウロはどんなことでもすると宣言しました(Ⅰコリ9:23)。歴史における教会もまた、この使命・目的のためにあらゆる労を惜しまずに注ぎ出しました。しかし、中にはいつの間にか「目的を忘れた<手段への献身>」にズレてしまった教会もあります。

5、愛の実践は使命を果たすため

 教会の宣教が無かったら今日のような社会福祉や人権意識の向上・発展は無かっただろうと言われます。しかしそれが<事業>として成功したり世代交代で当初の使命から離れると<教会じゃなくても出来る働き>となり、福音を宣べ伝えるという『目的』ではなく宣教の『手段』であった事業の繁栄と持続が『目的』となる本末転倒な事態が起こってしまいます。

6、信仰生活の目的

 信仰者という「個人」にも同じ使命が与えられています。一挙手一投足、全ての生活、全ての言動は「目的」ではなく福音に生きる証しの「手段」です。教会形成も各人の生活も、世にあって歩む全ての営みがこの使命を成すために用いているかどうか、日々祈りと御言葉の内に主に尋ね求める時、「手段」の成否に左右される事無く主の恵みの証しという『目的』に生きる喜びの使命を歩み続けるのです。

 

11/5 僕が僕であるために Ⅰペテロ2:18-25 川内活也牧師

 

1、この世に生を受け

 11月3日に46歳の誕生日を迎えました。自分が何のために生きているのか、生きている事に何の価値・意味があるのかと疑問を抱き軽んじていた少年少女時代。生きる指針を失って死と滅びへと飲み込まれそうになっていた者が、神との交わりに結ばれ今日のこの日を与えられた恵みを主に感謝しています。

 2、人生という時間

 地上で与えられている<人生という時間>。私たちはその時間をどのように歩むのでしょうか?個人の状況にかかわらず「時」は止まる事無く進みます。「時は人を支配する主人である」と言われます。私たちが人生という時間の<主人>の下にどのように歩むべきかを聖書は教えています。

 3、主人ではなく僕(しもべ)

 「自分は何者にも支配されない、自由だ!権利だ!」という人権意識は時に人の本質を見失わせます。自分を<人生の主人>と考える結果、自分の願い通りにならないモノに苛立ち・他者を裁き・虐げ・憎み・嘆き・絶望してしまうのです。<自分は支配者でも主人でも無い。僕(しもべ)なのだ>と気付く事が何よりもまず大切なことなのです。

 4、僕(しもべ)として主人と歩む

  人生は「親が子に自分の果樹園を受け継がせるための協働作業訓練」のようなものです。親子であっても大切な協働の場では主従関係・主人と僕(しもべ)の関係で働きを伝授するように、私たちは「神の子とされる特権」の中に在って、人生という働きの場で<神の僕(しもべ)>として歩んでいるのです。

 5、委ねられている働きを成すために

 人生という働きを全うするためにどのように取り組むべきか?それは<キリストの模範に倣う>ことです。「主人・支配者・所有者」であるという思い違いの人生ではなく「しもべであり管理人である」という真理に立つ事で何が神の御心に適う業であるかという視野が開けるのです。イエスさま御自身があらわされた<しもべの姿>、十字架にあらわされた神の愛を見つめ続ける時、神の子とされた特権の喜びと感謝だけでなく、神の<僕(しもべ)>として人生を建て上げる神の協働者として喜びに満たされた日々を歩むのです。

 

10/22 柔和な相続人 マタイ5:1-12 川内裕子牧師

 今日は「幸い」リストの3つ目、5節の「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」から恵みを頂いていきましょう。「柔和」という言葉に対するわたしたちのイメージは「優しい」とか「穏やか」などでしょうか。ここの言葉はもともと「低くする」という言葉から来ています。自分の身をかがめて低くすることを態度に表すと「謙虚である、柔和である」という意味になります。「へりくだっている」とも訳せます。謙遜、へりくだり、柔和…、これらの言葉を並べると、力に対して穏やかに受け止めて対処する印象を受けます。

 

「柔和」という言葉をもう少し見てみると、イエス様とのつながりを見つけることが出来ます。「わたしは柔和で謙遜なものだから…」(マタイ11:29)とイエス様のもとに人々を招き、エルサレム入場で「柔和な方で、ロバに乗り…」(マタイ21:5)と預言の成就が語られたりします。イエス様のへりくだった姿は究極的に十字架上の死に表されたことから分かるように、イエス様は神に対して謙遜をあらわされました。それに倣う私たちは、同じように神に対して謙遜な者として生きることが求められているでしょう。

 

 柔和な人は「地を受け継ぐ」とイエス様は言われます。神さまが作られた世界、この地を相続する、というのです。神のみこころに従い、神の前に謙遜に生きる人が、神の作られた世界の相続人となるのです。相続をすると、その相続したものを管理しなければなりません。神様の支配が正しく行われるように、神の御旨に従順にこの世界を管理する責任が私たちにあるのです。今日は衆議院の投票日ですが、社会のことは信仰とは無関係、ではなく、選挙権のある方は、投票をして、神の御心がこの世に行われるように世に働いていく責任もあるのです。謙遜で、へりくだった、平和な方法で、わたしたちは世を相続し、おさめます。私たちのはかりの源を神に照らして、是は是、否は否だと示していくこと。

私たちが地を受け継ぐとはそのような働きではないでしょうか。

 

10/15 ≪涙と幸せ≫ マタイ5:1-12 川内裕子牧師

 今日はイエス様の山上の説教「幸いのリスト」の二つ目、4節「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」です。「悲しむ人々は幸い」とは常識的に理解しがたく思えます。「悲しい」は、「幸い」の対極にあるように思えます。ここで「悲しむ」とは、人間の死を筆頭にして、いやしがたく、激しい悲しみを表します。私たちは非常な悲しみに襲われた時、どうするでしょう。私は列王記下4章に記されたシュネムの女性の話を思い起こします。

 

 預言者エリシャの言葉を通して一人息子を与えられた女性は、あるときその息子が息を引き取った時、誰にも事情を説明せずまっすぐエリシャのもとに向かいます。エリシャに出会うや、彼女はすがりついて泣き出し、エリシャが自分と共に息子のもとに行くというまでエリシャを離しませんでした。彼女にとって一人息子の突然の死、その引き裂かれた嘆きを訴え出るのは、その命を与えてくださった神に対してでしかなかったのです。息子はエリシャの言葉を通して与えられたのですから、彼女にとってエリシャに訴えることは神に訴えることでした。とうとうエリシャは彼女に同行し、自身の霊を吹き込むようにして息子の命を取り戻しました。彼女は嘆きの持って行きどころをあやまたず神に持って行ったのです。

 

 人間の最たる悲しみは、近しい人々との死別の悲しみでしょう。結びつきが強ければ強いほど、大切な人が傍らからもぎ取られてしまったという喪失感は激しく、耐えがたいものです。その死の悲嘆に対して、イエス様は何と語ったでしょうか。「悲しむ人々は幸い」、「慰められる」からといいます。悲しみと、涙の後には慰めがくる、という将来の約束です。

 

 私は帯広教会から神学生として送り出され学んでいる時に、帯広教会の初代牧師であった齊藤正人先生の訃報を受け取りました。おりにふれて私の学びを励まし、支えてくださった齊藤先生のご召天はとてもショックでした。私は一人でその悲しみに対峙することができず、当時神学部で教鞭をとっておられた小林洋一先生のもとを訪れました。札幌で長く牧会をされていた小林先生は、齊藤正人先生との深いお交わりがあり、私たちは葬儀に思いを馳せつつ、小林先生の研究室で共に涙を流して先生とご遺族と私たちの互いの慰めのために祈り、先生の思い出を語り合いました。「慰める」とは「傍らに招く」という言葉です。悲しんでいる者を近くに招き寄る慰めは、神から来ます。私たちの涙の祈りの真ん中に、確かに主がおられました。神は私たちの傍らに座り、いやしがたい悲しみを包んでくださいました。

 

 「悲しむ人は必ず慰められる」と宣言されたイエス様は、十字架の上で死に、墓に葬られた後三日目によみがえられました。生きている私たちがまだ体験したことのない死を通られ、私たちの前に立たれました。生も死もその手の中に置かれ、司っておられる主のもとに私たちは悲しみを携え行きましょう。「その悲しみは必ず慰められる」とイエス様は断言されます。神の慰めを受ける者は「幸い」。その慰めを得た者は、また互いに慰め、励まし合う一人として遣わされていきます。

 

 神は嬉しい時だけの神ではないことは、なんと幸いなことでしょうか。神は私たちが悲しい時、つらい時も共にいて慰めを与えてくださいます。

 

10/8 「幸せの道」 マタイ5:1-12  川内裕子牧師

 先週は詩編の第1編から、主に従い、み言葉に根ざして歩む人への神の祝福の言葉を受けました。「いかに幸いなことか」で始まる詩編は「幸いあれ!」という祝福の祈りの言葉でした。その「幸いあれ!」という祝福の風に吹かれて、今日からしばらく、マタイによる福音書から恵みを頂きましょう。今日はイエス様が人々に「幸いあれ!」と祝福を述べた箇所を読んでいきます。

 

 マタイによる福音書5章から始まるいわゆる「山上の垂訓」といわれるイエス様のメッセージは7章の終りまでの長い説教で、言葉に残された初めてのメッセージです。イエス様はそれを「幸いだ!」から始めました。これを聞いていたのはまず弟子たち。けれども長い説教の最後には「群衆はその教えに非常に驚いた」とありますから、弟子たちから、さらにそれを取り巻いている群衆に対してもイエス様は語られました。

 

 イエスに従っていた群衆は、長い間周辺の国々から侵略を受け、搾取され、今はローマの属国となって重い税金を課されてあえいでいる人たちでした。病に苦しみ、日々の糧を得るのに苦労し、心と体の解放を切望している人たちでした。普通に考えると、とても「幸い」とは思えないような人たちです。けれどもイエス様のことばは「幸い!」という宣言から始まります。「心の貧しい人々」は幸い、というのです。「心が貧しい」とは、「霊において貧しい」と訳すことも出来ます。ルカによる福音書では「心の」はなく、単に「貧しい」とありますから、人々は現実の生活も、身も心も、すりきれてへとへとになっていたと言えるでしょう。生きていく術においても、貧しさに不足することばかり、そして心にもぽっかりと空虚感があり、満たされない思いがある…。イエス様はその人たちは幸いだ、「天の国はその人たちのもの」と宣言します。これは天の国、すなわち神の国の支配にあなた方は入れられているよ、という宣言です。不平等な支配者ではなく、一人ひとりに公平と正義を行ってくださる神が、あなたたちの貧しさを覆ってくださるよ、とイエス様は言います。

 

 自分自身の不足を身にしみて知っている人は、自分のその不足をふさわしい方に補ってもらうことを切望します。私の心も、手の中も、自分では満たすことができず、空っぽです、と自分ではどうしようもない貧しさ、乏しさを認め、神に近付き、神の支配に委ねることをイエス様は言われます。自分は自分自身で手に入れた満足で十分だ、もう豊かだ、と思う時に、それ以上神からの豊かさを入れる余地はありません。自分は自分で満たすことは出来ないと、神からの恵みを切望するとき、神は私たちの心に豊かな恵みをゆすりいれ、満たしてくださるでしょう。

 

10/1 「深くふかく、たかくひろく」詩編1:1-6 川内裕子牧師

 詩編の1編は、二つの生きかたについて歌われています。

一つは「神に逆らう者」、「罪ある者」、「傲慢な者」の生き方であり、その人は風に吹き飛ばされるもみ殻にたとえられます。穀物を脱穀したあと、もみ殻を風によって吹き飛ばし、実だけを残します。もみ殻は吹き飛ばされて捨てられてしまいます。そのように神に逆らう者は、神の公正をただす裁きに遭い、ついには滅びに至ってしまうというのです。

 

 それに対して、もう一つの生き方は、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」生き方です。この人は流れのほとりに植えられた木にたとえられます。水路のほとりに植えられた木は、青々と葉をしげらせ、干ばつでも実を結び続けるのです。この木は樹齢が100年ほどにもなり、保存性の高い豊かな実をつけるナツメヤシかもしれないといわれています。その木のように、この人のすることは繁栄をもたらし、この生き方が幸いだと歌われます。流れのほとりに植えられた木は根をはり、水と養分を吸収しながら長い年月をかけて実りを結びます。じっくりゆっくり養分を吸い上げて成長した木は、強くしなやかに高くのび、横に広がり、実をつけます。神に従う人の生き方はそのように祝福に満ちたものであると歌われます。

 

 では、この詩が神に従う人が繁栄し、逆らう者が滅んでゆく、そんな現実の中で歌われたかというとおそらくそうではないでしょう。150編収められた詩編を読んでいくと、窮状の中で神に助けてほしいと声を上げる詩が多くあります。不正な者に虐げられ、裁いて下さいと叫ぶ詩が多くあります。今日の子どもメッセージのヨブのように、神の前で正しく、無垢なものでありながら、家族や財産を奪われ、友にもあざけられ、これはあなたの罪の結果の罰だと言われる人々がいるのです。世の中において、正しいものが正当に扱われているとは言えない現実は昔も今もそうなのです。

にも関わらず、詩編の書の最初に置かれた詩、詩編全体を代表する詩ともいえるこの1編は「いかに幸いなことか」と始まります。これは「主に従う道は幸いだ!!」という神からの祝福の宣言です。どんな不正のはびこる世の中にあっても、「主に従うあなた方は幸いだ!」という祝福です。

 

 同時にこれは「私は幸いです!」という応答の宣言でもあります。私たちの力はどこから来ますか?神に信頼して歩む時、私自身は弱くとも、神から尽きることのない栄養を頂いて育つのではないですか。み言葉をかみしめ、心の中に転がし、味わいつくして自分のものにしましょう。いかに悪が繁栄し、勝利しているかのように見えても、神の水のほとりに生き、神のもとに根を張ることを決断するのです。深く根を張れば張るほど、木は高く広く育ちます。神に従い生きる、委ねて歩む行き方こそ幸いな道です。インスタントな繁栄に目を奪われない、100年、200年と神の義の実を結んでいく行き方に招かれていきましょう。

 

/24 「管理者として」  Ⅰペテロ  4:7~11節  川内 活也 牧

1、様々な働き

世の中には様々な働きがありますが、全ての仕事にはその務めを正しく全うする<責任>が伴うものです。

2、労働の対価

与えられている仕事に対し、責任をもってその働きを全することによって労働の対価としての報酬を得る、それは職種によらず共通する社会原理です。

3、神から委ねられた働き

ペテロはこの社会原理を例に挙げ、人が神から委ねられている働きについて語りました。私たちが歩んでいる人生は神から委ねられている<働き>であり、その働きを全うするために善き賜物・恵みを委ねられています。それは健康であったり知識であったり経済であったり時間であったり、とにかく全てのものは神が私たちに委ねておられる人生という<働き>を全うするために必要なものとして預けられているものです。その善き賜物を正しく用いて「互いに仕え」合う事が、私たちに神から委ねられた働きなのです。

4、正しい管理者の意識

「所有者」が信頼して「管理者」に委ねたものを、管理者がその責任を果たさずにむしろ横領したり無責任に浪費するなら、そんな管理者はその働きから外され、その報酬を得る事は出来ません。神から委ねられている働きにおいてもまた「自分の所有財産」ではなく「神からの委託と管理を委ねられている責任」という意識が必要なのです。

5、管理者としての務め

正しい管理者の務めは主人の喜びを共有する管理を行う事です。

『…何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい』ローマ12:2

6、報酬は天にあり

賜物は神が私たちを協働者として信頼して委ねられている恵みです。その賜物を正しく管理し用いて神の栄光を現わす働きとして全うし天の御国に帰り着く時に、私たちは約束の報いを神からいただくのです。

『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』黙示録14:13

 

/17 「いのちの泉あふれ」  ヨハネ  4:7~15節  川内 活也 牧

1、サマリアの女

ユダヤ人社会から「汚れた異邦人の地」と差別されていたサマリア地方。そのスカルという町に住む一人の女はその中でもさらに「汚れた罪深い女」という軽蔑を受けていました。そんな彼女にイエスさまは出会われ、彼女の渇ききった魂をご覧になってこう招かれました。

『わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る』ヨハネ4:14

3、いのちの泉

永遠のいのちであり光である創り主なる神。この方から離れた結果、全ての人は死と滅びにつながる存在となってしまいました。自分が持てる小さな器に常に水を汲み続けなければならない存在。それはいつ涸れるとも分からない一時しのぎの水です。しかし、主なる神との交わりに再び結びあわされる時、もはや涸れることのないいのちの泉がわき出るのです。

4、失われた泉

さて、ある町で公害問題が起こりました。町はずれにあるゴミ捨て場からの悪臭と汚水が酷かったのです。人々は大掛かりなゴミの撤去作業を行いました。多くの時間と費用がかかりましたが無事にゴミの撤去が完了しました。そして「汚水」の原因が溜まり水ではなく「湧き水」であった事が分かりました。町の古い資料を確認すると昔そこには美しい泉があり、人々の大事な水源であったのにいつからかそこがゴミの山になっていたのです。

5、泉を管理する

美しい泉が汚水と悪臭のゴミの山になったのは「一つのゴミ」がそのまま放置された結果です。神からいただいたいけるいのちの泉は尽きることなく湧き上がります。その上に罪()という「ゴミの山」を築いてはならないのです。

『主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ』イザヤ591,2

  あふれ流れるいのちの泉。その恵みにいつまでも日々与り続けるために、私たちは日々その泉を塞いでしまう「ゴミ()」を取り除いて下さる方の御前に立つ祈りを大切に歩みましょう。

 

/10 「きよめの確信」  詩篇  32:1~5節  川内 活也 牧

1、ダビデ王

古代イスラエルの第2代目の王ダビデ。建国期の多くの戦いにおいて優れた力を発揮し、また、強大な敵にも臆することなく「主が共におられる!」と立ち向かう姿から「信仰の勇者」とも評価される人物です。

2、ダビデの「罪」

そんなダビデの「罪」についても聖書は正直に記録しています。彼の「罪(悪事)」の中でもっとも人道的に酷いのは<バテシェバ事件(Ⅱサムエル記11章~)>です。優秀な部下ウリヤの妻バテシェバと不貞関係を結び、その事が明るみに出る事を恐れて隠蔽工作を画策し、ついにはウリヤを戦死させて彼の妻を自分の妻として迎え入れるという「姦淫と殺人」の罪を犯してしまったのです。

3、残される「罪」

ダビデは罪を隠して安心と平穏無事な日々を手にしたでしょうか?詩篇32:3,4を読むとそうではなかった事が分かります。ダビデの魂は「骨髄が夏の日照りに干からびるような苦痛」に耐えられないほどの不安と恐れと罪責の念に捕われていたのです。「悪事」を隠し続ける事は確かに可能かも知れません。しかし、人を騙し続けられても自分自身の犯した「悪」は永遠に消える事の無い事実として残り続けるのです。

4、万事を知りたもう神

『人はうわべを見るが主は心をごらんになる(Ⅰサムエル記16:7)のです。人の嘘や誤魔化しや言い訳の「言葉」ではなく、その心・思考・事実を<聞かれ>ているのです。ダビデ以上にダビデの思いを知っておられる神。それは全ての「悪」だけでなく、その「後悔と悲しみ・苦しみ」さえ<聞いておられる>という約束です。

5、悔い改めは<罪の告白>から

罪を言い表す事無く悔い改めに歩む事は出来ません。神のきよめに与るためには自己完結・自己義認での<悔い改め=改心>の前に、『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる(ローマ10:10)ことが神の赦し・きよめなのです。

6、主の赦しに与った者としての確信

確信が無いままの日々は常に不安が襲います。罪の告白によって<きよめの確信・赦しの確信>を受けた時、真に救いに与る神の子としての日々へと歩み出すのです。

 

 

/3 「価値ある日々」  Ⅱテモテ  2:16~21節  川内 活也 牧

1、頑張らないと評価してもらえないというプレッシャー

4人姉兄弟の3番目(次男坊)というポジションに生まれたせいか、僕は幼少期に「頑張らないと評価してもらえない!」というプレッシャーを抱えていました。

2、自分も他人も「世の基準」で判定する日々

世の中の価値基準から自己判定する「自分という価値」は低いものでした。実際、社会においては社会の役に立たない存在は無価値・有害とみなされるでしょうし、自分も他者をそのような目で判定していました。

3、神の愛を知った時

自分の存在・人生・生きる日々の働きの全てに価値や意味を見出せず、「頑張らないと評価されない・でも頑張ったってたかが知れてる」そんな自己憐憫と葛藤を抱える中で、神の約束の御言葉を受けました。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』イザヤ4:34

4、成すべき義の業が満ちている世界

神に「愛されている・価値ある存在と認められている」という真理に出会い満たされた時、それまで「評価されない・価値を認められない」と感じていた全ての世界に対する恐れは消え、むしろ、その世界のただ中に在って自分は価値のある存在として生きているという喜びに満たされました。「どうせ無理だ・自分には価値が無い・やるだけ無意味」というマイナス思考は消え、自分の人生には成すべき働きがいくらでもある事を知ったのです。神が与えられている人生は、あらゆる業種・あらゆる日常の中に神の栄光をあらわす義の業、働きに満ちているのです。

5、神の最良の器として

主なる神は人を「最良の器」として生み出されました。にもかかわらず神の愛から離れ自分勝手な「低評価」を下していれば成すべき義の業に用いられる事はありません。神のきよめによって整えられる時、私たちは神の最良の器としての価値ある日々の働きに用いられるのです。

6、主への応答の器として

世の基準・自己判断ではなく「十字架にあらわされた神の愛」によって私たちは正しく「自分自身という存在の価値」を認めましょう。世の評価を求める働きではなく、価値ある存在と評価して下さっている主への応答として全ての業に取り組む時に、主の栄光を現わす器として祝福に満たされるのです。

 

8/27 「産み出すものへと」イザヤ2:1-5 川内裕子牧師

 今日は8月4~8日に行われた「少年少女隣人に出会う旅 沖縄」に出かけた二人より報告と証しをしてもらいました。沖縄の辺野古や高江にもでかけ、米軍基地問題について見聞きしてきました。沖縄での圧倒的な国家権力に対して、座り込みやゴスペルを歌うなど、非暴力の訴えが続けられています。私たちは、力には相応の力で対抗しようとしがちですが、そうではない道を見せられます。

 

 聖書はどう語るでしょう。今日の聖書箇所はイザヤの預言です。アッシリアが台頭する中で、何の力もないように思われていたエルサレムが平和の基となる、とイザヤは語ります。4節には平和の情景として、「剣」や「槍」を打ち直して「鋤」や「鎌」とするとあります。剣や槍は言うまでもなく人を傷つけたり殺したりする武器ですが、その金属を鍛え直して別のものに作り変えるというのです。鍛え直して何にでも変えることができますが、中でも鋤や鎌という農具に作り変えることの意味を考えます。これらは地を耕し、作物を作るための道具で、これらからは、命が生まれ、命をはぐくむものが生み出されてゆくのです。殺し、傷つける物ではなく、産み出し増やす道具を手にしようと聖書は語ります。私たちは産み出すものとなるようにと招かれているのです。

 

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)」とイエスは言われます。平和は「守る」ものでもあるかもしれませんが、同時に「作りだす、実現する」ものでもあります。イザヤの預言の時代、人々の望むような平和はなく、エルサレムがその平和の中心とは思えないような状況にありました。けれどもそこでまだ成らない平和を信じ、期待して預言は語られました。私たちもまた神の子として、平和を作りだすものとして歩むことを促されています。粘り強く、あきらめないで、まだ成らぬ先から平和の実現することを信じ歩みましょう。互いの壁を取り除き、言葉と思いとをかわしつつ、傷つけ、殺す者ではなく、産み出すものとして歩みましょう。

 

8/20 ≪「平和」の覆いをとると≫ エレミヤ6:13-17 川内裕子牧師

  8月は「平和」をテーマにみ言葉から聴いています。冒頭にご紹介する『茶色の朝』という本は、ある国で「茶色」であること以外許されなくなっていく物語です。主人公は数々の違和感をそのままにやり過ごすうちに、とうとう自分の身に危機が降りかかってきます。大勢に身を任せず、自分で考えることをやめないことの大切さを教えられます。

 

 今日登場のエレミヤは、南ユダ王国で声を上げ続けた預言者です。彼を支持する人々は少数で、彼の預言の多くは人々に顧みられることがありませんでした。エレミヤは時の趨勢をしっかり見極め、台頭してきていたバビロンに抵抗することないよう王たちに語りましたが、彼らはエジプトの力により頼み、バビロンに抵抗する道を選びました。ヨシヤ王の宗教改革により、地方神殿が廃されエルサレムへと集中してゆきましたが、エレミヤは形骸化した信仰を批判し続けました。他の預言者や司祭が「大丈夫、問題ない。これで平和だ」と物事の本質を見ようとせず、民にも促しを与えないのは間違っているとエレミヤは言います。「平和がないのに『平和、平和』」と、見せかけの「平和」の薄衣をかけて物事の本質を見ようとしないのはやめようと語ります。私たちは、どうですか。本当は違和感を覚えつつも、踏み込んだら面倒なことになりそう、とか自分が黙っていれば収まることだから、とかカッコつきの「平和」の覆いをして日々をやり過ごすことはありませんか。それは本当の「平和」と言えるでしょうか。

 

  ではどうするべきでしょう。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ、どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ(16節)」。と聖書は語ります。私たちは日々選択の道に立たされます。その時にどんな道を選びますか?大局的な視点に立ち、過去を未来を読むしるべとして用い、さまざまな道をしっかり検討する。多くの人が歩む道は滑らかで歩みやすいかもしれません。人のあまり通っていない道は、ごろごろと歩みづらく傷を受け、血が出ることもあるでしょう。けれども主からの魂の平安を頂ける道はどれか、と祈りつつ熟考し、歩みましょう。

 

8/13 平和祈念主日礼拝「今ここが」マタイ:9-13  川内裕子牧師

 敗戦後72年を覚え、今日は平和祈念礼拝をお捧げしています。8月の賛美歌「ガリラヤの風」は、由木康さんが、主の祈りの中の「み国を来たらせたまえ」という言葉から示されて作詞したものです。彼の第1次世界大戦中の経験から、永遠の平和が実現する神の国を待望して作ったものと伝えられています。今日は主の祈りの原型となった聖書箇所から恵みを頂きましょう。

 

 この祈りは、イエスさまが人々に教えたものです。順に読んでいきますと、まず主なる神を聖なるものとし、しかもその神を自分の親として親しく呼び掛けています。そして神のご支配が、天にあるように地上にもあるようにと祈ります。11~13節には具体的な祈りが書かれています。今日一日の命をつなぐ食べ物をください、という祈りからは、今日生きていくことにぎりぎりの人々に向けてイエスさまが語られていたことがわかります。そのような生活の具体的なことを祈っていいよ、イエスさまは教えます。それから私たちの負債を許して下さい、と祈ります。それに加えて私たちも自分に対する負債を許しました、という宣言があります。そして私たちを神から引き離す誘惑から救ってくださいと祈ります。

 

 この具体的な祈りの前には、「御国が来ますように」という祈りがあります。御国が来た時、すなわち神の国が実現するとは、どんな状況をいうのでしょうか。イザヤ書11章を読みますと、メシアが来た時には、弱い人に正当な裁きが行われ、貧しい人々が公平に弁護されると書かれています。御国が来るとは、虐げられてものが公平を取り戻し、自分の命を狙われることもなく、平安で過ごすことができるという世界であるということができます。

 

 イエスは常に虐げられている人々と共にいてくださいました。私たちは主の祈りを祈るときに、自分と同じようにあなたも、私の顔を知らない他の人々にとっても日々の糧が与えられること、負い目をゆるされること、誘惑から守られることを祈るべきでしょう。私の祈りではなく、私たちの祈りとなるべきでしょう。

 

 この争いと断絶がある世界の中にあって、今神の国が実現するように祈る。いつか平和が実現するようにではなく、今、ここが平和が実現していく一歩となるという覚悟をもって祈る、そんな祈りをもって私たちは今日もまた平和への一歩を歩みだしましょう。

 

8/6 「私の隣」ルカ10:25-37 川内裕子牧師

 8月は「平和」をテーマに聖書から聴いていきます。今読んだ『ぼくがラーメンたべてるとき』という絵本は、私たちがこうして今それぞれのことをしている時、苦しんでいる人がいる、死んでゆく人がいるということを考えさせます。私たちは目の前にない事柄については、なかなか想像がつかないものです。神さまが創られた、同じ風が吹いている世界で何が起こっているのか、心と体のアンテナをいっぱいに伸ばして感じて、考えていきたいと思います。

 

 今日の聖書箇所は先週から少年少女を送り出している連盟の青少年プログラム「隣人に出会う旅」で必ず学んでいる箇所で、いわゆる「よきサマリヤ人のたとえ」です。ある律法の専門家がイエスを試そうとした問いから発生したたとえ話です。

 

 追いはぎに襲われたあるユダヤ人を、祭司とレビ人は横目に通り過ぎますが、あるサマリヤ人が近づいていきます。このサマリヤ人は苦しんでいる人を憐れに思ったとあります。これはその人の苦しみに自分の内臓をわしづかみにされるような思いになったという言葉です。他の人が通り過ぎるような状況の中で、わざわざ近寄り、旅の必需品であるオリーブ油と葡萄酒を使って介抱します。自分のロバに乗せて宿屋へ連れて行き、翌日自分が旅立つ時には自分の懐からお金を出して宿屋の主人に残りの世話を頼み、さらに驚くことは、もっと費用がかかったら帰りがけに払うと言います。この人の傷を負った顛末をまるごと引き受けるというのです。

 

 この追いはぎに遭った人は、見ず知らずのサマリヤ人の手厚い介護を受けたあと、どのように変わっただろうと考えます。自分が受けた愛をどう受け止めたでしょうか。自分が今まで関わろうとしなかった、見てこようとしなかった人々に関わっていくことに人生が拓かれていったのではないでしょうか。

 

 このサマリヤ人の姿は、隣人愛を実践するクリスチャンの姿として読まれることも多いのですが、私は何もかも与え尽くして私たちをあがなってくださったイエス様の姿を思い起こします。私たちが傷を受けて立ちあがれないとき、やむにやまれぬ思いに駆られて駆け寄り、必要を満たし、もう一度立ちあがることができるまで寄り添ってくださったのはイエス様です。わたしたちはおいはぎに遭った一人ひとりなのです。

 

 律法の専門家の発した「私の隣人はだれか」という問いは、イエス様により「私はだれの隣人となるのか」という問いに変えられます。イエス様に隣人になって頂いた私は、今度はだれの隣人になるのかという問いを受けるのです。私たちは誰の喜びと悲しみとを共にするのでしょうか。イエス様が隣に来てくださった私の隣、あなたの隣には、誰がいますか。

 

/30 「空(から)の器こそ」  コヘレト  1:1~11節  川内 活也 牧

世のはかなさよ

コヘレト(伝道者=著者)という人物が誰なのかは不明ですが、社会的地位と財産・名声をもつ『王』であったと読み取れます。いわゆる「勝ち組・成功者」の部類に入る人でしょう。にもかかわらず彼は「空しい」と連呼します。働く事の空しさ(3節)、時流に抗えない空しさ(4~9節)、発見の空しさ(10節)、歴史・記憶の空しさ(11節)。人が「喜び・快楽・感激」としているものが、よくよく考えてみれば全て空しい・はかないものだと嘆きます。

全てが「空しい」

コヘレトとは比べものにもなりませんが、私自身人生に空しさを覚えた日があります。知識も名誉も財産もあらゆる「力」あらゆる「成功」が、しかし「だから一体なんの価値があろうか」と空しくなりました。世の中に何一つ自分自身と言う存在を満たすものが無い事を知った時、自分という存在が全く無意味に思えたのです。空の空、人間・人生はまさにそういう空しい存在なのだと気づきました。

「空しい」ここから始まる「福音」

世の中にはそのような「空しさ」を「悟る」ことから「だから何も考えないことが解放」と教える宗教もありますが聖書はそうは語りません。「空である事を知る」「空となる」ここからが真の充足への歩みなのです。

最高の器を盛る最高のシェフ

神は人を「高価で尊い」最高の器として創造されました。しかしその「器」に誰が何を盛りつけているでしょうか?世の価値観・欲望・憎しみ・浅はかな知恵や知識…。せっかくの器にゴミを盛り付け、残食を山積みしたままではお腹も気分も満たされるはずがありません。最高のシェフにより最高の盛り付けをしていただくためには、一旦「空の器」となる必要があるのです。

「とても満足できないゴミ」でいっぱいになった器。それらを一旦「空」にした後の選択は「空しいまま」にしておくか「新しく盛り付ける」かです。無から有を生み出された創り主なる神は、最高の器であるあなたに最高の盛り付けをして下さる最高のシェフなのです。

主に満たされる人生へ

コヘレトは「主なる神を知る事」こそが空の器が最高に満たされる道であると最後にまとめています。「空の器」こそ主なる神様が最高の祝福で満たすことの出来る器なのです。今「空しい」と感じているならば大きなチャンスです。主なる神の御手に委ねる時に、自分では想像もしていなかった最高の盛り付けを成して下さる主の御業を知る日々がそこから始まるのです。

 

 

/23 「廃墟の上に」  エレミヤ 30:17~19節  川内 活也 牧

根拠の無い頑張りズム

歌謡曲の中にはメッセージ性の高い歌詞の歌があります。それらは人生の歩みにおける壁や戸惑いに対する打開のメッセージでもありますが、しかし残念なことに多くの場合は「根拠も保証も無いガンバリズムのすすめ」で終わってしまいます。

根拠のあるメッセージ

キリスト教会でも「人生の歩みにおける壁や戸惑いに対する打開のメッセージ」が語られています。私たちが生きている世界・人生においてどのように歩むことが出来るのか、何を選び取って歩むべきなのかを知ることは「人生という旅路」を豊かな喜びの時として歩むために必要な情報です。聖書は根拠の無いガンバリズムではなく、神の約束という保証を明確に示して「だから大丈夫だよ」と希望の道へと招く神の言葉です。

エレミヤへの預言

今日の箇所では預言者エレミヤを通してイスラエルへの約束の言葉が語られています。主なる神との正しい交わりを捨て、悪の道を歩んだイスラエル王国は滅亡の危機に陥りました。国が滅び、民は他国に捕え移されていく、そんな絶望的な時代に与えられた預言です。12節から16節までに記される完全な滅亡の状態。しかし、その傷を17節で「わたし()が癒す」と宣言されました。人があらゆる可能性を考えて「無理だ」と結論付けるしかない絶望的な状況であっても神は「癒す・回復させる」と約束されるのです。

廃墟の上に

「傷つき・倒れ・廃墟となった丘の上=過去」に神は「都を立てられる=将来と希望」と約束されます(18)。「廃墟を避けて」ではなく「廃墟の上に」です。書き変えたい・やり直したい過去、忘れてしまいたい記憶、それらは消える事はありません。しかし、主なる神様はその<過去という廃墟の上に>新しい将来と希望の都を建て上げて下さるのです。

神の約束という土台に立って

廃墟を茫然と見つめている限りいつまでも廃墟のままです。しかし廃墟を茫然と見つめて座り込んでいた私たちが、神の約束を信じて「今」を塗り替えようと立ち上がる時、傍らに主なる神様が共におられた事に気づくでしょう。そして過去という廃墟を「土台」という材料にした回復の都という将来と希望の人生へと神は導いて下さるのです。

わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。(イザヤ43:19)

主なる神は過去を赦し・いやし、現在を励まし、新しい明日への道、将来と希望の都を建て上げて下さる全能の創り主なのです。聖書が語る「人生の歩みにおける壁や戸惑いに対する打開のメッセージ」はこの神の真理の約束にたつ確かな道標なのです。

 

7/16 「神の友」小林洋一西南学院大学名誉教授

イザヤ41:8、ヨハネ15:11-17、ヤコブ2:23

 

 本日はお招きいただきありがとうございます。

 ヘブライ語聖書(旧約聖書)では、未来のことを「アハル」と言います。この意味は、「後ろ」です。即ち、未来は後ろにある、と言うことです。ですから、人は、未来に向かって後ろ向きで進んでいる、と言うことができると思います。私たちは、眼前に広がる過去を見つめながら、見えない未来に向かって後ろ向きで進んでいくことになります。そのときに、私たちの見えない未来にとって、見えている過去を、いかに正しく見定めうるかが重要となります。

 

 今日は「神の友」と呼ばれた紀元前2000-1800年頃の人物、アブラハムを見ていきたいと思います。アブラハムとは「多くの者の父」という意味です。彼はユダヤ教、イスラム教、キリスト教から「信仰の父」と呼ばれています。イザヤ41:8、ヤコブ2:23では「神の友」と呼ばれています。聖書に出てくる多くの人物の中で「神の友」と呼ばれているのは彼くらいなものでしょう。アブラハムの容姿は知られていなく、当時の社会に何の優れた業績も残していません。むしろ保身のために妻を「妹」と偽ったり、そばめから子(イシュマエル)を得て周囲に悲しみや苦しみを与えました。しかし神は彼を見捨てませんでした。彼は何も残さなかったけれど、見えない生き方や信仰を残しました。どんな状況にあっても、希望を捨てない、命を捨てない態度を残したのです。

 

 「真の友」とは何でも言い合える仲、決して裏切らない仲です。ソドムとゴモラを滅ぼすとき、彼は必死にとりなし神に訴えます。これを「敬虔なる不敬虔」といいます。彼と妻サラとの間には子供がいませんでした。子供がいないということは当時にあっては将来がないということです。奇跡的に子供が生まれますが、神はその一人子を捧げるように言います。この時、彼は決して神に訴えませんでした。最大の危機の中にあっても楽観主義を捨てませんでした。

 

 彼の子孫としてイエス様が誕生します。イエス様もまた友(パートナー)を必要としていました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」ヨハネ15:14)。私達は異邦人です。しかしイエス様に従うことにより「神の友」となることが出来ます。

 

 アメリカのユダヤ人の家庭に8歳の三つ子がいました。一人が木で作った弓矢で遊んでいたとき別の子の左目に弓矢が当たり失明しました。お母さんはその子に「神さまは良い物を見る良い目と、悪い物を見る悪い目を与えたのよ。神さまはあなたに良い物だけ見る特権を与えたのよ」と言いました。子供は「よかった。良い物を見る目だけ残って」と言いました。この母と子もまたアブラハムの子孫なのです。

 

/「霊的な礼拝」 ローマ 12:1~8節  川内 活也 牧師

「ロギコス」な礼拝

新共同訳聖書では「なすべき礼拝」とだけ訳されていますが、原文のギリシャ語本文にはこの礼拝は「ロゴスとしての礼拝」という単語が使われています。口語訳聖書や新改訳聖書では「なすべき<霊的>礼拝」と詳しく訳されています。

『神は霊なれば、神を拝する者も霊とまこととをもって拝すべきなり』ヨハネ4:24

「敬虔=霊的」ではない

 <霊的>は<敬虔>とは違います。敬虔な信仰者が霊的な礼拝者とイメージしがちですが多くの場合「敬虔」は「敬虔的行為」という外見上の姿勢を指します。勿論聖書では<敬虔>を求めよと勧めています(Ⅰテモテ6:11)のでそれ自体は良いものですが、しかし、敬虔=霊的という事ではありません。むしろ誤った「敬虔」は霊的には逆方向を向いてしまうものなのです(Ⅰテモテ6:,)

「霊的」診断~慎み深い自己評価~

 自分自身を過大評価する時、つまり、他者と比較することによる「敬虔な信仰生活」は自分の利得を求める生き方であり「自己義認」です。それはたとえ人の目には素晴らしい働きであっても「うわべでなく心をご覧になられる」神の目には罪と映るのです。

「霊的」な礼拝

 では「霊的」な礼拝とはなんでしょうか?それはキリストの愛、十字架に示された神の愛に完全に委ねて応答する生き方、信仰によって義とされたという自覚です。

「霊的な礼拝」は「信仰者の生活そのもの」

 <礼拝>というと日曜日の集会を思い浮かべますが霊的な礼拝は時間に制限されるひと時のプログラムではなく福音に生きる信仰者の日々の歩みそのものです。奉仕は教会形成の働きに限定されるものでなく、主なる神の御心に従う信仰者の全ての生活です。

心の一新によって

 日々の自分の生活を顧みる時、私たちは「霊的礼拝」を生きているでしょうか?何が神の御心であり、何が善い事で何が神に喜ばれるものであるのか。それを日々の生活、全ての業の判断基準とし、尋ね祈り求めつつ、心の一新によって示される罪を悔い改め、その御声に聞き従う時、私たちは「霊的礼拝者」として証しの日々へと歩みだすのです。

/「主に交われば…」箴言31:1~9節 川内 活也 牧師

1、3つの戒め

新共同訳聖書では注意すべきは2点(「王さえ抹殺する女」と「強い酒」)となっていますが口語訳・新改訳・文語訳など他の聖書では注意すべきは3点(「女たち」「王たちを消し去る者」「強い酒」)と訳されています。どちらも翻訳上正しいのですが今日は3点注意の翻訳で読んでみましょう。

2、恋は盲目・あばたもえくぼ

「恋愛感情=人を愛する思い」というのは神様からの素敵な贈り物です。しかし同時に<恋は盲目・あばたもえくぼ>と言うようにその思いは正しい判断を出来ない状態にしてしまうこともあります。それは罪の性質によって「愛」が「欲」となってしまうからです。「欲」はそれを得るために正しい判断を損なわせます。やがて欲望は破壊的な絶望に人を貶めます。『欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生』むのです(ヤコブ1:15)。一つ目の戒めは男女を問わず<欲>から離れることの勧めです。

3、裸の王様~友を選べ~

「王たちを消し去る者」とは何も<敵>だけでなく王の側近も指します。王の相談役は味方であり仲間であり友でしょう。もし王に助言を与えるべき相談役が誤った助言を行えば王位は瞬く間に揺らいでしまいます。自分に好意的で都合の良い<助言者>に身を委ねた先にあるのは滅亡です。信頼し、身を委ねるべきは「まことの助言者」だけなのです(イザヤ9:6)

4、酒で解決するものはない

第三の戒めは「酒」です。正しい判断を誤らせ、目の前の問題に対して一時「忘れさせる(解決とならない)」だけの酒に身を委ねる事への警鐘。アルコールを罪と言ってるのではなく、解決へと導かない一時の逃避を頼りとする生き方をやめよとレムエルの母は戒めます。

5、飲むべきぶどう酒

私たちが飲むべき「酒(ぶどう酒)」は十字架に流されたキリストの血潮です。欲を追い求め、偽りの助言者を頼りとし、ひと時の逃避と快楽の酒に溺れるのではなく、主との交わりに生きよと聖書は語ります。それこそが、人が人として与えられている命の日々を「非常に良いもの」として歩むまことの知恵なのです。

6、朱に交われば赤くなる。主に交われば…

 

主との交わりに染まる時、①自分勝手な肉の欲に生きる生き方から「神の国と神の義を第一に求める生き方」へ、②滅びへの助言に身を任せる無責任な生き方から「真の永遠のいのちの助言者に信頼し、委ねる」生き方へ、③解決とならない一時的快楽に逃避する生き方から「圧倒的な勝利者による解決」へと歩み続ける時に、まことの「王」として人生を正しく治めることが出来るのです

 

6/25「くるまれて」詩編146:1~10 川内裕子牧師

詩編146編は「ハレルヤ(主よ賛美せよ)」でサンドイッチされた一編です。その間には「主なる神とはどんなお方か」ということが歌われています。帯広教会創立月間最終週は、私たちが信じている神について分かち合いましょう。

「君候」(3)はどんなに権力を持っていたとしても、私たちと同じ人間であり神によって創られた被造物に過ぎない、より頼むべきは創造主である神だとまず宣言されます。帯広教会信仰宣言でも「教会の主であるキリストはこの世の諸権威に対して主であると信じます」と宣言する通り、私たちが生活している国のありようについても、最終的に主権を持っておられるのは主なのです。

それでは主はどのような方であるかについて、79節に記されます。虐げ、不当に痛めつけられている人にはその人の尊厳を取り戻し、公平を取り戻してくださいます。次に主は、飢えている人の腹を満たしてくださいます。もっと広げて考えると、私たちの心がからからに飢え渇いている時に、それを満たしてくださるとも考えられます。それから捕われ人を解き放つとも。私たちは目に見えない、さまざまな縛りを受けながら生きています。神はそれは本当に必要なものか?という問いを通して、私たちを解き放ち自由にしてくださいます。さらには見えない人の目を開く。広げて考えると、一つのことに固執して周りが見えなくなっている人の目を開いてくださることもあたるでしょう。そして元気を失い、力尽きている人に、必要な回復を与え、その人が自然に立ちあがっていく力を与えられます。最後に寄留者、みなしご、やもめを守ってくださる。後ろ盾がない、社会的に弱くされている人々の尊厳を取り戻し、守ってくださるのが神です。

人の世には聖書に語られている通りの生きにくさ、悩み苦しみがあることは現実です。しかしそんな現実の中で自分は取るに足りない、価値がないと思い、または周りからはじき出されている人々をこそ、あなた方は大切だ、と抱いてくださるのが神です。神の愛にはとりこぼしがないのです。教会はそのように神の助けを必要とする人々が集められる場所です。

さて私たちは神の助けなしには立ってゆくことのできない小さな存在ではありますが、一方で、神に従い、その働きを担ってゆくことができる存在でもあります。その一つの働きとして、さきほどアピールをしていただいた神学生を支える働きがあります。今日から一週間は神学校週間です。神学生を祈りに覚え、支えるのは教会の働きです。私も神学生の時に諸教会の祈りを頂き、捧げられた献金による奨学金で生活が支えられました。そうして学びを続けることができ、今があります。

教会は小さくされている人々を包み込む働きがあります。私たちは必要な励ましを求めて主に声を上げましょう。そして主から励ましと力づけを頂いて今度は主の働きを担って歩みだしていきましょう。主のとりこぼしのない愛にくるまれて集められ、押し出されてきた積み重ねが、帯広教会の54年間であり、これからさらに続く教会の営みなのです。そしてそれを担うのは私たち一人ひとりです。

6/18 「扉をひらいて」エフェソ2:14-22 川内裕子牧師

 

<「違い」が相手への隔てになりやすい私たち>

 昨日、津軽三味線の演奏を聴く機会がありました。熟練したその演奏家は、津軽三味線を用いながら、他の三味線の音楽など多様な音楽が演奏します。自分の楽器と、他の楽器の違うところ、同じところを熟知しているからこそできる技です。

 さて、「違う」と「同じ」、これはどんなところにも存在するものですが、このことをどうとらえ、用いるかが大切です。今日の聖書箇所からは、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に深刻な対立があったことが「敵意という隔ての壁」という表現に現れています。相手との違いが、自分の存在や生き方、信仰の根幹に関わることであればあるほど、私たちは「違い」を持つ相手を受け入れることができず、隔ての壁を高く築いてしまいます。

 

<キリストによって壁は壊され、一つに再建される>

 このような身動きとれない双方に投げ込まれたのはイエス・キリストです。イエス様は十字架の贖いを通して、私たちを和解させてくださいました。17節には「キリストはおいでになり」とあり、私たちが自分の立場を譲れず、敵意の壁を互いに築いていがみ合っているところにイエスさまが近づいて来てくださったことが分かります。そしてその場所で私たちを一つにしてくださったのです。私たちが互いに築いていた隔ての石壁を、キリストが近づいてきて崩してくださり、イエス様ご自身が、その基礎石となってその壊した石を用いて一つのものを作り上げてくださるのです。

6月は帯広教会創立記念月間で、今日はその3週目です。今月毎週唱和している帯広教会信仰宣言、今日は「教会」と「礼典」でした。「教会はキリストをかしらとするキリストの体」と、私たちは45年、宣言し続けています。教会は一にも二にも、キリストによってつながれ、立てられているのです。

 

<神の住まいとなる>

 さらに22節に「あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいになるのです」と記されている通り、教会のみならずわたしたちも「神の住まい」となります。教会の働きは、私たち一人一人に委ねられています。そして、私たちの働きが教会の働きとなっていきます。

 

<扉を開いて>

 良い気候にもなってきて、最近は教会の扉や窓を開け、「いますよ~」アピールをしていますと、不思議といろんな方々との出会いが与えられます。教会も私たちもドアを開き、窓を開き、扉を開いて聖霊の風を受け、キリストを香りを外に放つことが必要だと知らされます。イエス様により、神と隣人とに和解させていただいた私たち一人ひとり。その一人ひとりが組み合わされて成長し、主の神殿となって教会を建て上げていきましょう。

 

6/11 教会創立記念礼拝 「はるかを望み」コリント一 13:1-13 川内裕子牧師

 6月は「帯広教会創立記念月間」、そして今日は記念礼拝です。今年は写真を用いて1963年に齊藤正人牧師により伝道が開始されてからの54年の歴史を振り返るメッセージをしていただきました。また帯広教会の信仰宣言を1カ月かけて少しずつ礼拝の中で読んでいます。信仰宣言は帯広教会の信仰はこうだよ、と最大公約数的に信仰を言葉にしたもので、この信仰に私はアーメン、その通りですと証しする一人ひとりが集められているのが帯広教会です。この信仰宣言は教会組織を行った1972年のもので、それから45年。ここに今集っておられる方々もさまざま、伝道開始の時からの方もおられる、そうでない方もおられる。半世紀以上も前に、帯広の地に福音を、という祈りがあって今があることを知ります。

 

 私が今帯広教会のメンバーに加えられているのも、その祈りの一つによるのです。私が初めて帯広教会に伺ったのは20年以上前のことですが、その後思いもかけず1年ほどの教会生活が備えられ、帯広教会から神学校へと送り出しを頂きました。私を信頼して、ではなく、私を用いようとしている「神様」を信頼されたのだと思います。送り出された後も、いつも物心両面にわたって帯広教会からの支えを頂きながら過ごし、変わらぬ帯広教会のみなさんの愛を受け取ってきました。今日の聖書箇所、13節の通りです。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛」。

 

 さて、帯広教会の初めての週報には、会堂建築への祈りが書かれています。4月に礼拝を開始し、その2ヶ月後、まだ会堂もない、土地もない、そのような状況の中で「神は必ず最善をもって備えて」くださる、「信仰をもって祈り合」おう、と書かれています。まだ見ない神の計画を信じて、希望をもって祈ったのです。ここに帯広の地への、帯広に住んでおられる人々への愛がある。たゆみない伝道は愛に基づいてなされているのです。

 

 今日の聖書の個所は「愛」ついてです。1~3節に記された行動はいずれも「よい」ものでしょう。けれども聖書はそれらが愛によって出たものではないければ意味がない、と語ります。外に現れた結果ではない、あなたのその行いの根元には愛があるか、と私たちは問われているのです。

 

   ではその「愛」とは何でしょうか?4~7節を読みますと、「愛」は善意で、おおらかで寛容、格好悪いことをせず、相手によっていらいらさせられない。正しくないことをよろこばず、真実を一緒に喜ぶ。いろんな障壁を壁としないで乗り越え、全てを信じ、期待し、耐える、と書いてあります。愛とはこのようなものだと。さて、私たちはどんな時もこのように全部できるかなあ、と思うと、私自身はできないなあと思います。

 

  12節には、それは無理!って書いてあります。私たちは今はぼんやりと鏡に映ったおぼろを見ているのだと。愛はこうだよ、と聖書にはっきり書いてあるけど、不完全な私たちはそれを完全に実践することができない。けれどもできないからと私たちはあきらめません。なぜなら、愛を語る神ご自身が愛の存在であり、私たちはもともと神の似姿として神に創られた存在だからです。私たちは神の愛をこの身に映しています。できないときも、できそうなときも、できるときもあるでしょう。神の愛を信頼しながら、それを映す者として歩みましょう。私たちは、神の愛を信じてこれまで歩んできた帯広教会の川の流れの1滴です。働きはわずかですが、その一つ一つの滴がないと川は流れません。まだ見ぬ遥か先を夢見て、期待して歩みましょう。

 

6/4 『風はふく』使徒2:1-13 川内裕子牧師

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。ユダヤの三大祭り「過ぎ越しの祭」から数えて50日目(ペンテコステ)、イエスさまを信じている人々が集まっている場に聖霊(神の霊)が降り、一人ひとりに炎のような舌が分かれてとどまり、聖霊の語らせるままに各々が世界各地の言葉でイエスさまの証しをしたという出来事です。

 

 その日まず起こったことは、聖霊が天からの激しい風の吹いてくる音として降ったことです。その音に驚いた人々が、一体何の音だろうとやってきました。教会に人々が集まってくるのは、神の霊が働いているからです。教会に神の業が行われているから、人々は、これは何だろうと集まってくるのです。

 

 その日、集まった人々が見たのは、ガリラヤの田舎出身の信者たちが、彼ら自身知っているはずもない諸国のさまざまな言葉で福音を語る姿でした。大きな音に驚いて集まってきた、世界中のあらゆる国々からエルサレムに戻ってきたユダヤ人たちは、そこで思いがけず、聞きなれた母国の言葉で証しを聞いたのです。自分の体に染みついた懐かしい言葉で語られる福音は、聞く一人ひとりの魂に響く言葉となったでしょう。そうやって福音は伝えられていきました。

 

 今月、帯広教会は教会創立記念月間として礼拝をお捧げします。教会の信仰告白を4週に分けて読んでいきます。私たちの信仰はこのようだよと文章にしたものですが、このことを他の方に証しする時には、自分なりにその信仰告白を相手にわかる言葉に言い換えてお話しするでしょう。

 

 ペンテコステの出来事は、自分に与えられた神さまの恵みを、相手にわかる言葉で語り伝える出来事でした。そこにはまず聖霊の促しがありました。伝道や証し、教会の働きというのは、人間の「がんばり」によって成し遂げられるのではありません。そこに神の霊が働く時、人間の働きは「主の業を担う」ことになってゆくのです。聖霊が臨む時、人々に「わかる」言葉で私たちは語ることができるようになります。聖霊の風は吹きます。その風に吹かれて、私たちは相手にわかる言葉で自分自身に示されたイエスさまを証しし、語り続けていきましょう。

 

5/ 28 『福音~GOOD NEWS~』 使徒8:26-39  川内  活也 牧師

エチオピアからエルサレムへの旅

エチオピアからエルサレムまでは約3、200km、一日12時間、時速5㌔で進んで50日以上かかるこの距離をエチオピアの宦官は礼拝をささげるために旅してきました。高官であった彼は国で何一つ不自由なく暮らしてたでしょう。しかし、彼は聖書の神の御言葉に出会い、今の自分を見つめ直し、大きな犠牲を払ってでもこの「神」との出会い・礼拝を求めて歩み出しました。

エルサレム神殿にて

聖書の神への礼拝を目的に歩んできた彼の前に立ちはだかったのはエルサレム神殿の現実でした。異邦人であり「宦官」である彼はその礼拝・会衆に迎え入れてもらえなかったでしょう。大きな希望の下、多くの犠牲を払って歩んで来た旅は、人が作った神殿の前で打ち砕かれてしまったのです。

悲しみの帰路で

失望の内にエチオピアへと帰る途上、彼はイザヤ書を朗読していました。今日の箇所ではいわゆる「苦難のしもべ」の箇所である53章を読んでいた事が分かります。そんな彼の下に主は伝道者ピリポを遣わされました。異邦人であろうが宦官であろうが、主は御自身を求める者に御自身を現わして下さるのです。

53章からはじめて

ピリポの個人伝道メッセージがどんな内容だったかは知りえませんが「苦難のしもべ」の箇所がイエス様の十字架と復活、救いの預言であることは明らかです。そして読み進めればこの救いによって54章・55章に救いの御業の完成の約束、56章ではこの約束を全ての人が受けている事を知るのです。56章3節では彼にとって最大の福音が語られています。『主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される。」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ。」と

希望を断ち切った宦官

人は「罪=神との断絶」によって「希望」を断ち切った霊的な宦官です。しかし神は御自身を求める者が誰であろうと求める者に出会い、その交わりへと迎え入れて下さいます。

 

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』マタイ7:7

5/ 21 『しかし』 ローマ8:24-28  川内  活也 牧師

将来の栄光

今日の箇所は信仰生活において「どこに焦点を合わせて生きるか」について述べています。「信仰を持つことによって受ける世の苦しみ」の中に置かれているローマの兄弟姉妹に対してパウロは目前の困難ではなく「将来の栄光」に向かって焦点を合わせて歩むようにと勧めました。

苦しみ・疑いの中で

今日の日本社会において私たちはクリスチャンであるという事を理由とする生命の危険が伴うような迫害はあまり体験しないでしょう。しかし、信仰者としてだけでなく人はその人生の歩みの中で様々な苦しみや悩み、悲しみ、疑い、不安という闇に襲われる時があります。

神を愛する人々

神を愛する人々とは「決してつぶやかず、疑わず、いつも敬虔なクリスチャンらしく希望に輝き弱音を吐かない信仰熱心な人々」ではなく、オロオロと戸惑い・迷い・絶望的な闇の中で打ちひしがれながらも「主よ…」と御前に身を置く人々です。

信仰生活の中で思い描いていた計画が突然破綻する時があります。願う道が閉ざされ悲しみ・苦しみ・不安・悩み・疑いに襲われ絶望的な敗北感・虚無感の闇に包まれる日が、また、過去の過ちや苦しみの記憶に捕らわれる時があります。そのような「弱さ」を神は否定されず、拒否されず、排除されません。「なぜですか!どうしてですか!」と食ってかかるようなつぶやきの祈りでも、「もう終わりです、どうしようもありません!」とボロボロの嘆きの祈りであっても、いえ、もはや祈る事さえ忘れ倒れ伏してしまうような時でも、しかし、どんな時にも御霊御自身が深いうめきをもって執り成し祈って下さっているのです。

約束を忘れずに

地上の旅路を終え、天の御国において地上の日々を振り返る時、主がすべての事を働かせて益として下さってきたことを知るでしょう。しかし、その約束の内にあってもなお生じる現在の悩みと悲しみ。しかし、その苦しみの中にあってなお変わることのない主の約束と慰め。私たち自身は決して力ある者ではありません。しかし、力ある方を知る者です。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』ローマ8: 28

 

御霊御自身の深いうめきの祈りの内に支えられつつ、あらゆる思いを委ねるべき方を覚えて歩み出しましょう。

5/ 14 『我に返って』 ルカ15:11-24  川内  活也 牧師

<放蕩息子のたとえ>

 この箇所はイエスさまの「たとえ話」の中でも特に有名なもののひとつで「放蕩息子のたとえ話」として知られています。「放蕩」とは【酒や女に溺れること・後先考えずに一時の快楽に身を置くこと】ですから「放蕩息子」は文字通りに読めば「自堕落に生きる息子」です。

<ポイントは多方面から>

 このたとえ話から多くの方が様々な視点での福音の示唆をこれまで受けてきました。大きく「①父の立場から②放蕩息子の立場から③兄息子の立場から」としての視点に分かれますし、それぞれの視点を中心に御言葉から聴く説き明しが語られてきた豊かなたとえ話です。

<失われたものが見出される喜び>

 このたとえの直前にも2つのたとえ話が語られています。「迷子の羊が無事に保護された話」と「無くした銀貨が見つかった話」です。この「放蕩息子のたとえ」も含めた一連の3つのたとえ話は、よほど奇抜な読み方をしない限り聖書の福音の根幹である「神との交わりに結ばれて生きる真理の道への招き」、聖書が語る<救い>の姿をしめすものです。

<何もかも売り払って>

 放蕩息子は、本来、父の死後に受け継ぐはずの財産を「生前分与」してもらいます。もちろん彼自身が築き挙げた財産ではありません。得ることが当然の権利でもなかった父の財産です。彼は事もあろうかその受け継いだ財産を全て現金化して家を出て行ってしまいました。財産を分与した父の思いは一切考えることもなく、今までもった事もない大金、好き勝手な自己判断での生活を誰にも邪魔されない環境、まさに「自由への旅立ち」と彼は心躍らせたでしょう。

<全てを失って>

 当時のおもな財産は畑等の「生産のための資産」です。それを「消費のための資産」である現金として遠くへ旅立った放蕩息子。そしてタイトル通りの「放蕩」生活に身を落とします。ついに全てを失った彼は、豚の餌でさえ手に入れられないほどの貧しさの中、死を待つだけの状態へとなってしまいました。

<いのちを得る選択>

 彼の「支え」となっていたもの全てを失って初めて、彼は自分自身を見つめなおしました。そこには「何一つ持たない汚れきって死を待つだけの自分」がいました。彼には選択肢がありました。最初の選択肢は「所詮人の命なんてこんなもの」と悟りきったように諦めて死を待つか「生きたい」と願ってあがくかです。彼は「生きたい」と願いました。「ではどのようにすれば命を得られるか」が問題です。助けとなる存在は誰もいません。周りの全ての人が自分の命さえままならない飢饉の最中にいます。彼は「我」に返りました。自分には「父」がいることを思い出したのです。次の選択は「父を頼るか、それとも他に頼るか」です。良好な親子関係の中での出来事なら悩む必要も無いでしょうが、彼の旅立ちは親との決別、父への大きな反逆行為でした。故郷に錦を飾るどころか何一つ誇れるものもない状態でどの面さげて帰ることが出来るでしょうか。しかし「幸い」とでも言うべきでしょうか、放蕩息子はそんな「自分を着飾るプライド」さえ無くなっていました。ただ「命を得たい」という本質的な問題にだけ思いを向けられたのです。「命あっての物種」です。彼は命を得る道を選び取って立ち上がりました。

<そして「父」のもとへ>

 彼は自分の過ちにいやというほど気づいてました。だから父の家には「息子」としてではなく1労働者として雇ってもらう覚悟で、それさえも許可されないかも知れなくても、とにかく、「父」のところへいけば何らかの形で命を得られると信じて歩み出しました。

<帰ってきた息子>

 一方父親はどうだったでしょうか?親という漢字はまるで「少しでも遠くが見えるように木の切り株の上に立って我が子を見守る姿」を想起させます。放蕩息子の無事の帰りを祈り願って待つ父の姿を思わされます。父親は見る影も無いほどにボロボロに身を崩した息子が、まだ遠くにいる時に見つけ、急いで駆け寄って抱きしめました。謝罪をするでもなく、財産の損失を補てんするだけの成功をおさめるでもなく、ただ「生きて帰ってくる」こと、それだけが息子に裏切られた父親の願いだったのです。

<神の願い>

 聖書が語る唯一の主なる神の願いは先の2つのたとえやこの「放蕩息子のたとえ」に集約されています。全ての人はアダム以来、神との交わりを断ち切って歩む「罪(断絶)」の存在となりました。神の祝福の恵みである様々な「財産」を命を生み出す資産としてでなくひと時の自己満足のために消費する歴史を歩み出しました。その末路は死と滅びです。神と共に生きるいのちの存在である「我を忘れて」死と滅びに向かう人間を、神は放蕩息子を思う父のように「いのちへと立ち返っておいで」と願っておられるのです。

<我に返って>

 人は無意味・無価値な存在ではありません。自己責任を負って死と滅びに飲まれるしかない存在でもありません。人は全て主なる神様の愛の内に生み出された「神の子」であり、立ち帰るべき「父の家」があるのです。放蕩息子は「我に返って」父のもとへと立ち返る道を選びました。自分の弱さや愚かさ、父への裏切りの過ち全てを自覚し、尚、それでも父との交わりの内に命の道があると確信して悔い改めの思いを内に立ち上がりました。神は私たちが悔い改める前にすでに赦しておられます。ただ、私達が「我に返って」御自分のもとへと帰ってくるのを待っておられるのです。

『わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・神である主の御告げ。・・だから、悔い改めて、生きよ』エゼキエル18章32節

 

 様々な情報が溢れている現代社会の中に私たちは生活しています。時には「大丈夫、問題ない。もっと楽しもう」と誘う悪友の甘言の如くに死と滅びへの放蕩の歩みを続けさせようとする情報もあるでしょう。しかし、他の何ものに拠るでなく自分自身を見つめなおしてみましょう。いのちの道へと歩んでいるのか、死と滅びへと歩んでいるのか。我に返っていのちを求めて立ち上がる時、主なる神様は駆け寄って「我が子よ、お帰り!」とあなたを抱き寄せて下さるのです。

5/ 7 扉の向こうに ヨハネ4:7-26 川内活也牧師

≪サマリア地方≫

北イスラエル王国地域であったサマリア地方。ここでは王国時代にエルサレム神殿での祭儀を捨てて自分達の地域に建てた神殿での祭儀を行っていました。また、紀元前722年頃にアッシリア帝国により滅亡した後は植民地政策としての「混血化」が進められたため、イエスさまの時代には「偶像礼拝者達」「ユダヤ人としての純潔を失った者達」という差別意識から「ユダヤ人(旧南ユダ王国地域人)」達はサマリア地方の人々を蔑視し、関係を避けていました。「神の民から排除されてる人々」と言われ、自分達の中でもそれを確信をもって否定出来ない、そんな社会状況の地方でした。

 ≪サマリアの女≫

今日の箇所にはそのサマリア地方のスカルという町に住む一人の女性が登場します。彼女は16節以下で分かるように過去に5人の男性と結婚・離婚を繰り返し、今は6人目の男性と未婚の状態で同棲しています。現代でも驚くような境遇です。ましてやこの当時の道徳観では彼女に対する社会評価がどれほど過酷なものであったかは想像に易いでしょう。通常、この地域では水汲みは陽が昇る前の涼しい時間に女性達が行う家事作業です。しかし先の事情から「サマリアの女」はその交わりを避け、誰も来ない陽射し厳しい真昼に水汲みに行く毎日でした。薄暗い部屋の扉を開き、酷暑の日中に人目を避けるように井戸へと往復する毎日、それがユダヤ社会から蔑視された町の中でさらに蔑視されている彼女の人生でした。

 ≪イエスとの出会い≫

彼女は町の井戸でイエス様と出会いました。そのやり取りの中には「神の愛」も「赦し」も「さばき」も語られていません。では彼女が出会った<福音>は何だったのでしょう?民族からも社会からも自分自身でさえ自分の存在を否定する中で、しかし彼女が願っていたのは「わたしはここにいる!」という確かな自己存在の認知・肯定だったです。渇ききっていた彼女の人生に「生けるいのちの泉」が湧き出す出会い、「わたしを覚えて下さっている方」との出会いによって彼女の人生は大きく変えられました。

≪忘れない≫

『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ』(イザヤ49:15)

 たとえあなたが主なる神さまを忘れても、主なる神さまがあなたを忘れる事はありません。その確かな約束のもとに、安心して日々の扉の向こう側へと歩み出しましょう!

 

4/30 招きに応える エフェソ4:1-16 川内裕子牧師

 今日は今年度のテーマ聖句を含んだ聖書の個所から聴いていきましょう。

 

1)「イエス・キリストにすっかり参っている私」

この手紙は「主に結ばれて囚人となっているわたし(1節)」、つまり「主イエス・キリストにすっかりとりこになり、夢中になっている私」が、自分が夢中になっている神さまについてお伝えするよ、その神さまから招かれているのだから、その招きに従って一緒にふさわしく歩もうよと誘っているのです。

 

2)私たちはみんな違う

さて、そうして招かれている私たち一人一人はどんな存在でしょうか。今日の個所では一致することが多く出ています。でも、みんな同じことを考えて、同じことをして、ということではありません。みんな一緒、ということを気にしすぎてしまうと、相手に対してそれは違う!という裁きが生まれてくることもあります。「互いに忍耐し(2節)」とは「互いを受け入れる」という意味です。高ぶらず、柔和で、寛容と愛をもって「この人はこういう人なのだ」と受け入れていくことが勧められています。そして「互いに」とありますから、私たちは他者を受け入れると同時に、私たちも受け入れられている存在なのです。お互いを受け入れて歩もうよ、と今日のみことばは教えます。「私たち一人一人にキリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられている(7節)」と、神は「みんなが違う」ことをよしとしてくださっています。様々な教会の働き人が掲げられていますが(11節)、どれが尊いとか優れている、とかではなく、それぞれが教会を建て上げるのにふさわしい働きとして神が召してくださっているということです。そのように神は一人一人のユニークな存在を生かしてくださり、よしとしてくださっています。

 

3)みんな違う私たちが一つとなる

さて、みんな違う私たちが集まるとどうなるか、どんな歩みを勧められているのか、それが今日の聖書の個所の大切なところです。そうすると一つになる、と聖書は語ります(4~5節)。「体(4節)」とは、「キリストの体である教会」のことです。違いのある者たちが一つになるためには、扇の要のように一点全てを貫きとめるものが必要です。それがイエス・キリストなのです。一人一人違う私たちが、教会という神が招いてくださった人々の群れに加えられているのは、ただ一点、キリストの十字架の贖いによってなのです。私たちはそこでつなぎとめられています。そのきずなは大変強いので、私たちがそこから自由にそれぞれひろがってゆくことが可能です。

16節には「あらゆる節々が補い合う」とあります。私たちはお互いにそれぞれ接着剤、緩衝材、ちょうつがいとして働きます。そうすると教会はキリストをかしらとしてぐんぐんと成長してゆくのです。弱いところがあっても大丈夫、互いに支え合い、補い合っていきましょう。一つになるって、そんなことです。

 

4)教会のビジョンを語ろう

私は、近所の方々がこの教会を支えにして集うことができるような教会、サンダル履きで気軽に来ることができる教会がいいなあと思っています。そのようなビジョンがあって、では具体的にどうするか、という計画が出てきます。それぞれ携わることが出てくるでしょう。

 

新しい年度、「応答、捧げる」というテーマのもと、帯広教会のビジョンをぜひみんなで語り合いましょう。イエス・キリストをかしらとして、神様はどうこの教会を召しておられるかな、と祈りながら語り合いましょう。そこからどう私たちは成長するか、どう捧げるか、応答するか、ということが見えてくるでしょう。神様が召してくださるその招きに応え、期待して歩みましょう。

 

4/23 恵みはひろがる マタイ28:16-20 川内裕子牧師

 先週はご一緒にイエスさまの復活を記念するイースター礼拝を喜びをもってお捧げしました。イースターは毎年めぐってきます。けれども私たちは今日のイースター後、初めての主日礼拝を、特別な思いで迎えています。イースターの翌朝、敬愛する兄弟が病のため天に召され、ご家族はもちろん、私たちも深い悲しみと喪失感の中にあります。先週はマルコによる福音書から、女性たちがイエスさまが納められた墓へと急ぐ場面を分かち合いました。彼女たちがイエスさまを心込めて葬りたいと願ったことが、今の私たちには痛いほどわかります。

 

1)「すべて」が神様の慮りの中にある

4月の子ども賛美歌「きゅうこんのなかには」では、「その日、そのときをただ神が知る」と賛美します。その通り、「その日、そのとき」を私たちは知らないのです。私たちには、大切な兄弟が突然私たちの目の前から取り去られたように思えます。「その日、その時」は神様だけがご存じです。

今日の聖書の個所でイエスさまは弟子たちに語ります。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と。これは天上においても、地上においても、イエスさまが全ての権威をもっておられる、主イエスのゆるしのもとに全てのことが行われているということです。

 

2)わたしたちがすることはイエスさまの復活を語ること

イエスさまは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。」と語られました。「きゅうこんのなかには」の3番の歌詞は「いのちのおわりは いのちのはじめ おそれは信仰に、死は復活に ついに変えられる永遠の朝」です。死んで終わりではない、復活の命を私たちは語り続けます。

 

3)イエスさまはいつも私たちと一緒にいる

さらにイエスさまは弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と語りました。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と言われたイエスさまは、その名の通り、いつも一緒にいるよ、と私たちに語られます。

エルサレムからわざわざガリラヤに来たのに、イエスさまの復活を疑い迷う弟子もいました。けれどもイエスさまは私たちの疑いには関わりなく近づいてこられて一緒に歩んでくださいます。

一粒の種が死んで新しい命を芽吹かせます。永遠の命に生きる希望を頂き、痛みも、悲しみもそのままに携え、主と共に歩みましょう。

 

4/16  いないから、いる(イースター礼拝) マルコ16:1-8 川内裕子牧師

 イースターおめでとうございます。今日はイエス様の十字架上の死の場面から、墓への埋葬、そして復活までの聖書の個所を読んできました。これらの場面に引き続いて登場するのは女弟子たちです。彼女たちは安息日が終わると葬りのための香油を買い求め、すぐに連れだって出かけました。一刻も早く死んだイエス様の元に向かい、すべきことをしたい、という思いが表れています。しかし、彼女たちには、それをさまたげる懸念がありました。墓穴をふさいでいる石のことです。彼女たちの手に負えないほどの非常に大きな石だったのです。石をどけて、生の世界から死の世界に入っていくことを彼女たちは考えていました。イエス様は死の世界においでになると彼女たちは考えていました。けれども墓に着いてみると、隔ての石は転がされ、イエス様は出てこられていたのです。

 

 マルコによる福音書16章では、8節までが一区切りとされており、8節までには、復活されたイエス様は実際には登場しません。そして女性たちはイエス様の復活を聞いたのち、そのことを誰にも言わなかった、恐ろしかったから、と書かれています。

 

 墓に入ると、白い長い着物を着た若者がいました。そして十字架につけられたナザレのイエスはここにはいない、復活されたのだという宣言を受けます。見なさい!と若者が示すのは、空っぽの場所。イエス様はここにはいないのです。ガリラヤにいると若者は言います。確かにイエス様は最後の過ぎ越しの食事をしたときに弟子たちに言われたのでした。弟子たちはイエスにつまずき、イエスが打たれることにより弟子たちはちりぢりになる。しかしイエスは復活して弟子たちより先にガリラヤに行く、と(マルコ14:27~28)。イエスを離れ去る弟子たちも、もう一度集められることをイエス様は予告します。これは弱い弟子たちへの信頼の言葉です。

 

 ガリラヤはイエス様がお働きになった場所です。「そこでお目にかかれる」という若者が女性たちに語った言葉は、神からの招きの言葉です。あなたたちの働きの場所に、もう一度集められる、イエス様はすでに先だって働き場所に行ってくださっている。もう一度従って歩んでいこうと招かれています。

 

 人がよみがえるという想像もつかない出来事を女性たちは受け入れられず、恐ろしく、逃げ去ってしまいます。若者から弟子たちに伝えるように言われた言葉もその時は語ることができませんでした。けれども、その後、彼女たちが変えられたことがわかります。彼女たちが語ったからこそ、今私たちが復活の出来事を知るに至っているのです。

 

 この招きは私たちにも告げられています。私たちのガリラヤに、日々生きる場所にイエス様は招いてくださっています。私たちが歩む現実の中で自分の力ではどうしようもなく、目の前に立ちはだかる挫折の中にあっても、その困難を打ち破り、先だって歩んでくださる主イエスがおられます。イエス様は死の場所にはおられません。そこに「いない」ことによって、「復活の主」が「いる」ことが示されます。私たちはそれを信じて共に歩むことに招かれています。

 

4/9 隔ては破られて(受難週) マルコ15:25~41 川内裕子牧師

 

(序)3月30日に鹿児島から帯広へやってきて、10日ほど経ちました。帯広ではまさかの雪のお出迎え。今まで住んでいた場所とは違う、さまざまな気候や習慣、環境に日々出会いつつ、初めての道を歩んでいます。これから皆さんと共に教会を建て上げていくことを楽しみにしています。

 

(1)初めての道を歩むイエス

今日から受難週に入ります。今日の聖書の個所は、イエスが初めて歩まれた道行きです。十字架に至る苦しみの道です。縛られ、鞭打たれ、死刑の判決を受けた十字架にかかる前から、十字架につけられて6時間にも及ぶ壮絶な苦しみも、その先の絶命に至るまで、イエスは初めての道を一人で歩まれました。その孤独の中で、イエスは神に心からの叫びをあげました。「私の神よ、どうして私を見捨てたのですか…」。深い、深い嘆きの叫びです。

 

(2)イエスを十字架につけたのは

さて、聖書には「イエスは十字架につけられた」ではなく、「イエスを十字架につけた」と書かれています。「誰が」イエスを十字架につけたのでしょうか。もちろん直接的には兵士たちでしょうが、イエスを目の敵とした祭司長や律法学者たち、扇動された群衆…という人々もイエスを十字架につけたのです。そして聖書に記されている人々と私たちはなんら変わることはありません。「イエスを十字架につけた」のは「わたし」なのです。「わたし」の無関心が、独りよがりが、敵意が、ねたみが…、「イエスを十字架につけた」のです。そのことを実感するときに、イエスの十字架は私たちと密接に関わり合うことととして迫ってきます。

 

(3)隔ては破られた

イエスは私のために、あなたのために十字架にかかられました。気付かず神から遠く離れ、冷やかな罪の深みにある私たちを取り戻すために神は独り子イエスを私たちの元に遣わされました。私たちを愛して下さったイエスが、死に至るまで私たちの道を歩き通してくださり、そこから神に絶叫しました。見捨てず、救ってくださいという、血を吐くような、命を注ぎだした切望によって、神は私達へ歩み寄ってくださいます。イエスが大声で叫んで絶命した時、神殿の至聖所の垂れ幕は真っ二つに裂けました。神と人とを隔てていたその隔ては、上からすなわち神から、下へ(人)へと破られたのです。イエスの十字架の死によって、その執り成しによって、神の方から私達へと和解の道は示されたのでした。イエスの十字架を心に刻みつつ、受難週の時を過ごしましょう。

 

4/2 そして今―受け継がれる恵みの言葉 使徒言行録20:25-35 澤田二穂兄

2017年4月2日説教要約「そして今―受け継がれる恵みの言葉」使徒言行録20:25-35

序 本日は「委ねる」ということを考えて参りましょう。

1.「委ねること」の意味

 500年前に、宗教改革を始めたM.ルターは、祈りは「神に身を委ねる」ことが大切である、と述べています。この「委ねる」というドイツ語((verlassenフェアラッセン)」は「信頼に値すると確信する相手に、自分のものを自分から引き離すこと」の意味があります。パウロは、今、遺言として、エフェソの教会の責任者たちに「委ねる」と言ったのであります。わたしたちはこのような想いで「牧師の働き」を「委ねる」のであります。

2.恵みの言葉(福音)

パウロは、3年間共に歩んだエフェソの指導者を「恵みの言葉に」(20:32a)委ねると言います。「恵み」は、「安価な恵み」(D.ボンフェフアー)でも「罪の目こぼし」ではありません。それは、神との出会いにおいて、人間が、太陽のような大きな神の愛に包まれ、赦され、受け入れられた後に、遅れてやってくる経験として、自分の「良心」や「闇」を照らされ、「悔い改め」や新しい自分に再生されていく過程の中に味逢うことが許されるような「恵み」であります。「不信心な者が(逆説的)に義とされる」(青野)ことです。

3.(恵みの対極にある)律法主義との戦い

恵みの対極にあるのが「律法主義」です。イエスは「天の父は悪人の上にも善人の上にも彼の太陽を昇らせ、・・雨を降らせて下さる」(マタイ5:45)と言われました。ここで自分を「悪人・正しくない者」にあてはめて読む時、自分が神の愛に反して如何に人を審く「律法主義」に陥っていたかに気付かせられます。具体的に申しますと、始めは「こんな牧師であったらなー」、「役員さん、教会の皆さんはこんな風にしてくれたらなー」というお互い遠慮がちな期待が、次第に「牧師はこうあるべきだ」、「役員・教会員はこうすべきだ」、という義務や命令形にすり替わり、互いに審きあう「律法主義」に陥る危険をはらんでいるということです。

結語:帯広教会の「信仰告白・序文」は「何人の信仰も制限することなく、証と励ましとしてこれを宣言します。」とあり、歴史的にも大切な文章です。信仰は「良心」の問題です。「良心」の主は神であり他人はとやかくできないものであります。しかし、それだけに、み言葉や共に教会形成に励みつつ「良心」を謙虚に磨いていかなければ、暴走する危険があります。ですから礼拝や交わり、奉仕、協力伝道が大切なのです。帯広教会は10年計画の中で、「関係を大切にする」(伝道・牧会)、「協力伝道を惜しまない」姿勢の「芽」が出始めています。「そして、今」川内裕子姉、活也兄を牧師に迎えて、この「芽」をお二人の先生の語られる「神の恵みの言葉に委ね」たいと思います。