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<今週の説教要旨>

4/21 「胸躍る交わり」 説教者/川内活也 牧師

ルカによる福音書 24章28節~32節

エマオの途上

イエス様が復活された日曜日の午後、エルサレムの西にあるエマオという村に向かって歩む二人の弟子の姿がありました。一人の名はクレオパ、もう一人の名は聖書には記録されていません。慕い従っていたイエス様が十字架で「罪人」として殺され、その遺体を収めた墓はローマの封印を破って開かれていました。恐れを抱いた2人は、時を置かずにエルサレムを離れる決断をしたのでしょう。道中、彼らは「この出来事」について話し合い・論じあっていました。その時、復活されたイエス様が二人に並んで歩み、声をかけられたのです。

「ダメ出し」からの

クレオパ達は暗い顔で事のイエス様に次第を語ります。しかし彼らの目は閉ざされていて、それがイエス様であると認識出来ていませんでした。自分達の持つ知恵や知識や経験だけを基に聖書とイエス様の福音を理解しようとしていたクレオパ達です。そのために聖書とイエス様の福音の真理を受け入れられず、十字架と復活に困惑し、目的無き道へ彷徨い出てしまいました。そんな彼らにイエス様は突然の「ダメ出し」を告げ、呆気に取られる二人に聖書全体にわたり神の救いの御業・御自身について説明されながら共に歩まれました。

心は燃えていた

エマオに着いたクレオパ達は、離れて行こうとするイエス様を宿に招き入れます。その夕食の席でイエス様はパンを割かれました。食事の席で賛美を導きパンを割くのは、その席に居る主の役割です。クレオパ達は認識こそ出来ていませんでしたが、共に歩み、聖書を説明してくれた復活のイエス様を「自分たちの主」として迎えたのです。そのようにして割かれたパンを受け取った瞬間、イエス様の姿は彼らの目の前から見えなくなりました。しかしそれはイエス様がおられなくなったのではありません。割かれたパンを手にした時、むしろ二人の霊の目は開かれたのです。自分達の知恵や知識や経験という基準で「外から」イエス様を見ていた彼らが、ついにキリストを「内に」迎え入れた瞬間だったのです。その時二人は「わたしたちの心は燃えていた」と告白するに至りました

心の王座に招き入れる

聖書の言葉に感動しつつも「死んだ過去の偉人の一人」としてしかイエス様を知ろうとしない人がいます。聖書を自分の知恵・知識・経験の基準でしか知ろうとせず、そこから「良い知識」を得るためにだけ探求したとしても、そこに真理を見る霊の目は開かれません。心が燃えるような、胸躍る喜びに満ちた交わりに結ばれる道は、自らが座す心の王座を降り、イエス様を主として迎え入れる信仰が必要なのです。

共に在る喜び

信仰者が生活のよりどころとして最も大切にすべき福音は「十字架に現わされた神の愛」と「復活の希望」の約束です。この復活された「目に見えないイエス」は「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいます」(マタイ28:20)と宣言されています。絶望的な悩みの中で「ああでもない、こうでもない」と論じながらエマエへの道を歩んでいたクレオパ達と共に歩まれたように、私達がイエス様に気付かず歩む世の旅路にも共に歩んで下さっています。心の王座に自分自身が座したまま外から眺めて福音を評価する者としてでは無く、心の王座に主を迎え入れる時、聖書を通して約束されている主なる神様との胸躍る喜びの交わりの道を歩む者とされるのです。

 

主はわたしの力、わたしの盾。わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。詩編287

 


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